表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第一部:知代編
10/70

十話

 その朝、知代はいつもと変わらぬ時間に目を覚ました。

 鳥の声も、釜の湯気も、日々の風景としてそこにあるのに、今日はそれらがどこかよそよそしく、輪郭もぼやけて見えた。

 何もかもが、現実でありながら現実でないような、霞の向こうにあるようだった。


 花が慣れた手つきで肌襦袢を整え、着物を着付ける。結い上げた髪には古くさびれたかんざしが差された。


「……私、知代様がいなくなるなんて、まだ信じられません」


 その声は小さく、かすかに震えていた。


「でも、幸せになってください。どうか、少しでも、いい場所に行かれますように」


 知代は花に向き直り、小さく頭を下げた。

 言葉にはならなかった。ただ、ずっと見守ってくれた女中の目を、しっかりと見て、口元を引き結ぶ。

 それが、知代なりの感謝だった。


 祝言は村井家の座敷で行われた。障子を取り払い、白木の膳が並べられ、床の間には簡素な花と熨斗が飾られている。赤飯と尾頭付きの鯛、酒樽が小さくひとつ。


 参列者はごく限られていた。村井家からは徳之助、お静、美世子、そして番頭と数名の使用人。島田家からは中佐とその夫人、そして孝太郎のみ。

 媒酌人は立てられず、家同士の取り決めに基づいた略式の婚礼だった。


 知代は下を向いたまま、定められた手順に従った。

 

 座敷中央、白布の上に座し、孝太郎と向かい合う。

 三々九度の盃が静かに進められた。

 最初の盃に手を添えるとき、知代の手がかすかに震えた。盃を口に運ぶその所作だけが、異様に現実味を帯びていた。


 孝太郎は変わらぬ静かな表情で、盃を受け、同じように口をつけた。

 それだけの動作で、ふたりの関係が変わるのだということが、重く胸にのしかかった。


 その間、徳之助とお静は終始にこやかに、しかしどこか芝居がかったような口ぶりで、場を取り繕っていた。美世子だけは黙り込み、着物の裾を弄びながら俯いていた。

 祝言が滞りなく終わり、酒が交わされ、場が一息ついたときだった。


「……本当に、この子でよかったのかね」


 唐突に、中佐が口を開いた。その言葉に、空気が一瞬凍った。


「私は、あの器量のよい子が相手とばかり。少々残念に思うよ、はっはっは」


 その笑い声は悪気のないものであったが、聞いた知代の胸に小さく、鋭い針のような痛みが走った。

 孝太郎は何も言わなかった横に座る美世子はわずかに顔をこわばらせ、お静は慌てて口を挟んだ。


「まあ、中佐様、お戯れを。知代には知代の良さがございますわ」


 徳之助も続けて、にこやかに笑いながら付け加えた。


「何せ、うちでは彼女がいなくなっては商いもままならんほどの働き者でして。自慢の娘でございます」


 村井家の誰もが、そして孝太郎も、あまりに見え透いた嘘だと思ったが、知代のことなどよく知らない中佐は納得したように頷いた。


「それならよい。いや、まことによい。……よし、祝いだ祝いだ」


 夫人も穏やかに微笑み、ふたりで小さな祝儀袋を差し出した。金額を見て、お静の目がきらりと光ったのを知代は見逃さなかった。


 この家から出ていくのは自分であるはずなのに。去っていくのは、自分ではない誰かのように思えた。

 けれど、それでも。自分の立っている場所が、確かに変わってしまったことだけは、知代の肌にひりひりと残っていた。




 出立の時を前に、知代は廊下におかれた風呂敷に目をやった。


「お前が持っていけるのは衣類だけ。他のものは置いていきなさい」


 お静の言いつけは明確だった。


 知代はその言葉に従い、僅かな衣類を包んで、そこに茉莉花から贈られた洋書を1冊滑り込ませた。知代は静かに息を吐いた。


 ――所有物など、殆どないに等しいのに、あれも、これも、持っていけない。


 花が高くない給金で買ってくれた文机。大切に読んできた和漢洋の書物たち。すべてを、村井の家に置いていかなければならない。

 それは単なる物ではなかった。耐え忍んできた年月、心の拠り所、声にできなかった夢――知代の静かな人生そのものが詰まっていた。


 その時だった。


 表の門に、重々しい音が響いた。

 しんとした屋敷に、まるで異質な存在が入り込んだかのような音。やがて、黒塗りの自動車が玄関先に滑り込む。運転手付きの立派な車が家の前に止まったのだった。


 あっけに取られる徳之助らに構わず、孝太郎は知代の傍に立ち、その風呂敷包みに目を落とした。


「荷物はそれだけですか?」


 知代は、目を伏せたまま小さくうなずいた。


「――いけません。それでは」


 きっぱりとした声だった。彼はすぐさまお静の方を一瞥し、言葉を挟ませる隙を与えぬまま、すっと廊下を歩き出す。


「机も書物も、必要です。そのために車を借りました」


 知代は目を見張った。お静が何か言いかけたが、孝太郎は一切取り合わず、運転手に「こちらです」と告げて、迷いなく知代の部屋へと足を進めた。


 部屋に入り、彼は手早く文机の引き出しを確認し、本を革の鞄に詰め、運転手とともに黙々と荷を車へと積み始めた。

 知代は、ただ見つめるしかなかった。


(……どうして、ここまで)


 冷静で、穏やかで、でもあまりに距離のあるその態度は、彼の意図を知代に伝えるには足りなかった。

 配慮なのか、習慣なのか、それとも単なる義務なのか——彼女にはわからなかった。


 ようやく荷がまとまると、徳之助とお静、美世子が玄関先に並んで出てきた。


「どうぞ、末永くお幸せに」


「いつでも遊びにいらしてください」


「ごきげんよう」


 三人とも、孝太郎にだけ視線を向け、気持ちのこもっていない挨拶を述べた。

 知代には、誰も、ひと言もかけなかった。


 ただ一人、奥の柱陰に立ったままの花が、そっと目頭を拭い、深く頭を下げた。

 知代がふとその姿に気づき、小さく手を振る。

 花は、今にも泣き出しそうな顔のまま、もう一度深く礼をした。


「……では、いきましょう」


 孝太郎は短くそう言って、知代に目を向けた。


「はい」


 知代は風呂敷を抱え、無言で車に向かって歩き出した。


 車のドアを開けてくれた運転手に軽く会釈し、乗り込むと、車内の空気が静かに閉じ込められる。

 重たい静寂の中、エンジンが始動し、車はゆっくりと門を出た。

 

 二十年過ごした家と街並みが、すべて後ろへと流れていく。

 知代は、振り返らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ