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3-2

「圭太?」

 この声を聞いた時、圭太はこれまでの自分の苦労がすべて徒労であることを悟った。

 駅に戻った圭太は、雪華と共に電車に乗り、最寄りの小さな無人駅へと降り立った。そこで雪華の車に乗るかとも誘われたが、せっかくのいい天気だから歩きたい、と断ったのだ。本音を言えば、ただこれ以上彼女と話しているのが嫌だった。色んな意味で。

 あとは家へと向かい歩き出した圭太だったが、大通りに出る少し手前で、聞き慣れた声に呼び止められた。それから気がつく。そう言えばここは、雪華に教えられた住所と、近くの公立小学校を繋ぐ道だ。最後の最後に気を抜いてしまった。

 ゆっくりと振り返った圭太は、予想通りそこに立っている龍に溜息をつく。

 それに機嫌を悪くした節はなかったが、龍は不思議そうに首をかしげていた。

「けいたお兄ちゃんっ」

 と、明るく掛かった声に、圭太は龍の傍らに立っている咲を見た。無邪気に浮かべられる笑顔が、どうしてか圭太の心を痛めた。

「久しぶり、咲ちゃん……。元気?」

「……元気っ。久しぶりー」

 やっぱり、元気じゃないな、と思った。今も一瞬、圭太に元気だと告げていいか迷ったようだ。というか、精神病患者に「元気か」と聞く事自体、タブーだったろう。あとで龍に怒られるかもしない。

 もちろん、そんな差別はしたくないと反論するが。

 不意に、咲とは反対側に居る少女が目に付いた。真っ黒な長い髪を二つのお下げにし、真ん丸な目は人形のようにくりくりとしている、かわいらしい少女だ。

 圭太と目が合うと、少女は礼儀正しくお辞儀した。

絢崎あやさきまいねです。はじめまして、けいたお兄ちゃん」

「あ、初めまして。篠塚しのづか圭太です」

 反射的に圭太も頭を下げたが、まだランドセルを背負った少女に先手を打たれているこの光景は、傍から見たらさぞ滑稽だろう。

 それに、まいねという名前は、圭太も忘れる事のできないものだった。

 ――まいねちゃんにおまじないしてもらうから、大丈夫なんだよ。

 ――僕らが思っているより、不幸喰いは近くにいるのかもしれない。

 不幸……喰い。

 この少女が、咲の不幸を喰らって、より深い不幸を与えている?

 正直、圭太はまいねをもっと年上にイメージしていた。不幸喰い――しかも不当に不幸を喰らっている――というのなら、もっと知識の豊富な年齢であると憶測していたのだ。

だって、この少女が不幸喰いなんて、まさか信じられない。

「圭太、これから家に帰るのか?」

「え? うん」

「じゃあお兄ちゃん、一緒に行こう」

 その言葉を頭で理解する前に、咲は圭太の手をしっかりと握っていた。小さな、小さな手。雪華よりも幼くて弱い、少女の手。

 もし今、先ほどの選択肢が目の前にあったなら、圭太は迷わず咲を守るだろうと思うくらい、少女の手は小さく、柔らかく、温かかった。

「咲は、けいたお兄ちゃんが大好きなんだよ」

 唐突にまいねが話し掛けてくる。二人の少女は圭太を囲み、龍は後ろからついてくる形になっていた。

「そう……なの?」

「うんっ。咲、お兄ちゃん大好きだよ。お兄ちゃんは、咲のこと分かってくれるもんっ」

 思わず、圭太は咲の手を握る力を強めた。嬉しげに笑う少女。だけどその手に、足に、無数の傷がある。それは決して、古いものではなかった。

 今も、本当は泣き出したいほど辛いに決まっている。不幸を喰われているのなら、いつだって咲は、初めていじめを受けた日と同じ恐怖を味わっているのだ。

 それでもこうして少女を気丈に振舞わせるものは何なのか。圭太にはまったく予想がつかなかった。もちろん自分ではない。咲が言うほど、圭太は咲の気持ちを分かっていないのだろう。

 圭太は苦笑した。分かっているなら、雪華と咲を量りにかけて、迷ったりはしない。結局自分は、不幸ぶっているだけで、不幸ではないのだ。

 ピアノを見て吐き気を起こすのも、所詮は心が弱いからだ。この少女のように、物質的な傷があるわけではないのに。

「そんなこと……ないよ」

 咲とまいねが、きょとんと圭太を見上げていた。ただ自嘲するような笑みだけを、少年は浮かべ続ける。

 龍が後ろからじっと見つめている事も、今の圭太には気付けなかった。


***


 咲とまいねを自宅に送り届け、雪華と顔を合わせる前に、圭太は小柴家に背を向けた。三人はそれを不思議そうに見ていたが、後を繕うように龍が、「じゃあ、お母さんによろしくね」と残して圭太を追ってきたので、少女達は深く気に止めてはいないだろう。

 あとは足早に帰宅した。玄関を抜ければ、そのまま正面に見える階段を上ろうとする。そこで、龍に声をかけられた。

「何?」

「何かあったか?」

 いきなり核心をつかれれば、圭太は瞬く事しかできなかった。何か――、何かなら、たくさんあった。だけど、何を話せばいいのか、何を話さなくちゃならないのか、何を話す必要があるのか、圭太には分からない。

「何もないよ」

 だからそう答えることしかできなかった。

 すると、そちら向いていた顔を戻すいとまも与えずに、龍は続けて口を開く。

「だったら、あの態度はなんなんだ」

「え?」

 玄関を上がった龍は、階段を横切ってリビングへの道を進む。ほんの一瞬合った視線が、ついて来いといっていた。逆らう事も忘れて、圭太は龍に続いてダイニングに入り、そこからリビングへと進む。

「咲ちゃんたちに、どうしてあんな不安定な笑顔を向けるんだ。どうして曖昧な返事をするんだ。あのこが常に不安を抱えている事を、お前は分かっているんだろう? お前は彼女に頼られているんだから、何も言わずにあんな不安定なことをしてやるな」

 叱られているのだと、すぐに分かった。もしかしたらと覚悟もしていたが、この言い方は理不尽ではないか。

 圭太は、カウンセラーではない。

 龍が曲を描いた四人掛けのソファに座ったのを見ると、圭太はダイニングとリビングを繋ぐ壁に手をついて、言った。

「そんなことに気を使えないよ。俺はカウンセラーじゃない」

「だけど、咲ちゃんのことに関わろうとしただろう。関わりたいなら、責任もちゃんと持て」

「……だからって、わざとらしくヘラヘラ笑えないよ。俺にだっていろいろあるんだ」

「だからそのいろいろを訊いたんじゃないか。さっき」

 尤もな意見ばかりを返されて、圭太は言葉を無くした。一番無責任なのは自分だ。えらそうに父親に言った先日の言葉を思い出し、圭太は激しく嫌悪した。

 ――咲ちゃんは、父さんの戸惑いを敏感に感じ取ってる。あんな小さい子に、怪訝な顔しちゃダメだよ。

 よく言う。それを自分は行って、しかも言い訳までしようとしていたのだ。情けない。かっこ悪すぎる。

 自嘲を浮かべれば、圭太は視線を龍に移した。彼は眉一つ動かさずに、まっすぐ圭太をみてくれている。

「話せよ。聞いてやるから」

 きゅうっと、胸が締め付けられるような心地がして、圭太は慌てて目を逸らした。壁についていた手に力がこもる。

 話せば、楽になれるだろうか。雪華に言われた事、された事。それについて、圭太が思ったこと。

 言葉にできないわけではなかった。別に混乱しているわけでもなく、言うべきことは分かる。だけど言葉になってくれない。息が喉につまって、圭太は苦しさに唇を噛み締めた。

「圭太」

 穏やかな声音が自分を呼ぶ。でも、どうしていいかわからない。雪華とのことが、なんだか激しくいけなかったことだったような気がして、隠せるならどこまででも隠しとおしたいと思った。

「……何も、ない。話すようなことなんか。勉強するから、もう行くね」

 龍の目は一切見ないで、圭太は踵を返した。あの()はダメだ。射られてしまう。

 どうしてこうまで、龍に心乱されるのか、それは圭太自身にも分からなかった。律子への情はかけがえのないものだし、恭平にも、四年以上生活を共にした分の情がある。しかし龍は、まだ出会って幾日も経ってはいないのに。

 はじめ、圭太は龍が、自分のことを分かってくれているのだと思った。しかしそれは、ただ圭太の不幸が見えていただけだ。あのあと無理やり香苗のコンサートに連れて行った彼を、初めほど純粋に信頼はできていない。

 それなのに、背後で溜息をつかれただけで、圭太の足はピタリと止まってしまう。

 幻滅されたか――と拳を握った圭太に向かって、龍の声が響いた。

「どうしてお前はそうなんだ」

「そう……って、何?」

「なんで、何も話そうとしないんだよ。なんで隠すんだ。そうやって溜め込んで、発散もしないから、不幸ストレスがどんどん蓄積していくんだ。そんなに自分を知られるのが怖いのか?」

 意味もなく、圭太の右手が左腕をさする。何でかなんて、圭太にも分からない。――いや、違う。彼の言葉は当たっていた。

圭太は怖いのだ。自分を知られる事がでなく、誰にも分かってもらえないのが。

 傷付いた自分の心を曝して、否定されるのが怖いのだ。だって、圭太の言葉がすべて正論なわけではない。だけど間違ったことを違うといわれるのは、怖い。自分を否定されたようで、怖いのだ。

「昔からそうだよな、お前は。隠すか、裏腹な事を言うか。そうしてしか自分の心を守れないのは分かるけど、それは余計にお前を傷つけている事も、本当は分かっているんだろ?」

 そう言われて、圭太はゆっくりと振り返った。そうだ。圭太はそうやって自分を守ってきた。もっと巧い方法があることも、恭平に任せれば間違いないことも分かっているのに、それしかできなかった。だって圭太にとって、恭平は律子の味方で、律子は圭太からピアノを奪った。直接でなくても、律子のせいでないとは言い切れない。そんな恭平のカウンセリングを、圭太は信用しきれなかったのだ。

例え何人の患者の回復を見てきても。

 しかし、今一番圭太の心に引っかかったのは、そのことではなかった。

「昔って、俺たち、どっかで会ったことあるの? 初めて家に来た時も、龍くんそう言ったよね。でかくなったな、って。龍くんは、昔の俺を知ってるの?」

 あの時のように、龍はごまかす言葉を述べようとはしなかった。ただゆっくり腰を上げ、今まで座っていた四人掛けのソファの前にある、一人掛けのソファを横切る。そしてその背もたれに腰掛けるように体を落ち着かせた。

「会ったこと、あるよ。随分前」

 体ごと龍に向ければ、圭太は彼をまっすぐに見た。いつ、どこで、自分は彼に会ったのか。そのときどんな話をしたのか。圭太の記憶にいない龍が、どうして自分をその記憶に鮮明に残しているのか。

 知りたい事は山ほどあって、それを言葉にすることも思いつかず、ただ龍を見る。圭太の感情は、その瞳がすべて語っていた。

 小さく息をついて、龍は視線を逸らした。その先に、脳裏を過ぎる思い出を見るかのように、すっと目を細める。

 話が長くなるのかは分からなかったが、圭太は一番近い椅子に腰掛けた。

「俺が、十八の時だ。俺は大学受験を控えていて。……俺の親は、まあ、スパルタっつうの? とにかく俺にはいい小学校、中学校、高校を受験させてきた親だった。でもさ、さすがに大学までとなると、俺も疲れてきてて、ストレスばかりが溜まっていったんだ。元々勉強なんか好きじゃない仇がきたんだな。壊れるのは、案外あっさりだったよ」


***


 当時の龍は、身のこなしも生きる場所も、今とは全く違っていた。彼の役目は親の期待に応えて、いい学校、いい会社へと上り詰めていく事。本人も、それを疑った事はなかった。

 しかし人より遅く芽生えた自我は、親の期待に反していた。龍自身の心は、決して自分の将来に期待をしてはいなかった。

 ただ自分が一番にやりたい事を見つけて、それに対して一生懸命になりたい。

 まだ今の圭太より幼かった少年が思ったのは、たったそれだけのことだった。

 しかし幼かった少年に、両親に逆らう術はなく、いくつ年を重ねても、ただ親の操り人形のように生きることしかできなかった。

 そしてはじめての反抗は、高校三年生のときに起きた。イライラが収まらず、親の顔を見るのがとにかく嫌で、部屋に引きこもった。

「どうしたの!? 」と声を荒げる母親の声が聞きたくなくて、ベッドと同じくらいの大きさの本棚に、びっしりと詰まった参考書を破り捨てた。

 何度母に咎められても、父に殴られても、壊れた少年の心は、一切の声を聞きうけはしなかったのだ。

 そんな両親のとった最後の手段が、カウンセリングだった。初めは嫌がる龍を無理やりに、恭平の元を訪れたのだ。

 正直、龍もはじめは、恭平に一切心を開かなかった。見ず知らずの人間に、自分の心を明かすのは嫌だった。それでも、さすがはカウンセラーだ。何をどうされたのか、明確なことがあるわけではなく、ただ段々と、恭平は龍の心を癒していってくれた。

 そんな龍が圭太と出会ったのは、もう数回で診療も終わるという、ある日。


 その日龍は、恭平が母と話をしたいと言ったのを受けて、一人受付で終わるのを待っていた。しかし、思いのほか話は長く、五分、十分と経っても母は出てこない。さすがに嫌気がさした龍は、病院を抜け出した。

 この病院は、院長である恭平の家と繋がっているらしく、隣には立派な一軒家が建っていた。

 どこからか、ピアノの音が漏れてくる。音楽に興味のない龍には、生憎何の曲かは分からなかったが、上手だとは思った。もっとも、素人の龍に言わせれば、よっぽど下手でない限り、ピアノが弾ける人はみんな巧いのだが。

 きっと、音楽の好きな人間ならばこのままこの音に聴き入ったのだろう。しかし龍がそれ以上その演奏に心惹かれる事はなく、すぐに体を横に向けた。

 病院と家があるが、この敷地はそう広いわけではない。ぐるりと一周しても、そんなに時間は経たないだろう。そういえば、病院の裏に花壇があるからあまりに暇なら行ってくればいいと、いつか看護婦に声を掛けられた。

 ピアノと同じく花にも興味はないが、耳で感じるものよりも、目で見るものの方がいくらか楽しいかと思えば、龍は裏庭へと向かった。

 病院を横切ると、案外そこは早く着いた。思ったより花壇は大きく、裏庭にしておくにはもったいないほどに輝いている。

 咲き乱れた花は様々な色で、でもしつこくないのは、植えた人間のセンスがいいからだ。たいした期待はしていなかったが、思いのほか、龍はここへ来て良かったと思った。

 花に見入っていた龍の耳に、不意に足音が聞こえた。

 音のする方に顔を向けると、自分よりも随分幼い少年が駆けてくる。

 少年の遊び相手は小さな石だった。それを蹴って、転がして、追いかけて、また蹴る。不意に石が花壇に道を阻まれると、少年は嫌そうな顔をしながらも、すぐに他の石を蹴り始めた。しかし今度、それを阻んだのは龍の足だ。

 少年は顔を上げて、見知らぬ少年――彼から見れば青年に値する――に首を傾げた。

「お前、誰?」

 龍は先に口を開いてそう訊ねた。少年は答えない。

「ここで何してんの?」

 質問を変える。まだ答えない。

「……お前も患者?」

「違う」

 そこで、漸く少年は声を発した。内心で、やっと喋った、と思いつつ、龍は言った。

「じゃあ何?」

「ここは、おれのうち

「ああ、息子?」

 少年は頷いた。

 龍は納得しつつも、僅かに疑問も感じる。恭平の若さで、この年齢の息子というのは不似合いだ。

「俺は、患者」

 ゆっくりと言葉を紡ぐ。診療を始めたばかりの彼ならば、おそらく言えなかった台詞だ。

少年はもう一度頷く。

「今まで先生と話してたんだけどさ、母さんに順番が回ったから、ちょっと出てきちゃったんだ」

 少年は表情を変えずに瞬いた。そのとき彼が何を思っていたのか、龍には分からない。

 ただ、どこか悲しげな子供だとは、会った時から思っていた。少しでもきつい言葉をかけたら、二度と立ち上がれなくなりそうだ。

「お前、今暇なの?」

「……うん」

 少し考えるように視線を下げながらも、少年が頷いたので、龍も同じように頷いた。だけどこのとき、どうしてこの少年と関わろうと思ってしまったのか、龍はこの先数年経っても、答えを見つけることはできなかった。

「じゃあさ、ちょっと俺の暇つぶしに付き合ってくんない?」

 そう提案した龍を、少年は再び見上げながらも、断りはしなかった。真っ先に少年が花壇の縁に座り、龍に隣を勧める。促されるままに腰掛けた。

「いい天気だな」

 膝の間で手を組んだ龍は、丸めた背中から首だけを伸ばして空を仰いだ。少年が真似をしたのが、視界の端に映る。

「……俺さあ、物心ついたときからずっと、勉強ばっかしてきた。小さい時はそれが当たり前で、親の期待に応えるのが当たり前で、それを苦痛だとは思わなかったのに、さ」

 ポツリ、と自分のことを語り始めた。別に聞いて欲しかったわけでない。ただ沈黙を破るのと、眩しいくらいの青空に、少し自分のことでも話してみようと思っただけだ。

 正直、この見知らぬ少年に話したところで、きっとすぐに忘れてしまう話だろうと思ったこともあった。

「いつからだろう。苦痛に思い始めたのは。何時に起きなさい、何時に寝なさい。この問題が解けないとご飯は食べさせない。トイレはこの時間に行きなさい。……窮屈だったんだと思う。嫌いな勉強を強要されるのも、自由な時間を一切奪われるのも」

 恭平にすら言っていない事を、龍は戸惑うことなく口にしていた。それは少年に話しているというよりは、独り言に近かったような気がする。龍の視界には、真っ青な空しか映っていなかったから。

「壊れたんだな……俺の心は」

 誰にも言えず、誰も口にしなかったことを吐き捨てれば、龍の心は不思議と晴れた。恭平のカウンセリングも少なからず影響しているはずだが。

 ふと少年を見た。名前も知らない少年は、驚く事に龍の話をまじめに聞いていたようだった。

 その事実に、龍はなんだか無性に恥ずかしくなって、一度視線を逸らす。

 ゴホンッ、とわざとらしいくらいの咳払いをしてから再び少年に目をやった。

「……ま、先生のおかげで、もう全然元気なんだけどさ」

「おれは……」

 取り繕うような龍の声を聞いたのか聞かなかったのか、少年が口を開いた。大人しいと思っていた少年が自分のことを話そうとしている光景は、龍に不思議な気分を感じさせる。

「ピアノ……やめて。今、いつもならレッスンの時間なんだけど、だから暇で。ここで遊んでたんだ」

 ピアノ……。そう聞いて真っ先に浮かんだのは、病院を出た際に聞こえたあの音色だ。しかし弾いていたのは、この少年ではないだろう。

「……へえ。どのくらいやっていたんだ?」

「母さんがピアニストでね。おれもちっちゃい頃からやってから、十年位かな」

「そうか」

 多分、この少年はピアノが好きだったのだ。どういう理由でやめたのか龍には分かりかねるが、今まで目の前にあった好きなものがなくなり、心にポッカリ穴が開いてしまったのだろう。だから龍に、そんな話を始めたのだ。

 勉強を強要されて心を壊した龍に、共感して。

 しかし、だからどうしたらいいのか、龍には分からなかった。少年が自分の話を聞いてくれたときのように、黙っていればいいのだろうか。でも。

 自分と少年は違う。と、思った。

 もう傷を治しかけている龍とは裏腹に、少年はまだ、辛いのだろうと思った。だってここには、ピアノの音色が聴こえない。ピアノの音色を聴きたくなくて、少年は逃げてきたのだと、妙に確信めいて思えた。

 そして先ほどピアノを弾いていたのは、少年の母親だったのだろう。

「どうしてピアノ、やめたんだ?」

 問い掛けてしまってから、内心で余計な事をしたとは思っていた。しかしあとにはひけないし、何となく見よう見まねで、恭平のように質問を重ねてみる。

「じゃあ、今は何をしているのが一番楽しい?」

「……今は、つまらない」

 人生が。

 少年の言葉がそう続くのだと思うと、龍はどこかいたたまれない気持ちになった。こんな幼いうちから人生をつまらないと思って、少年の未来に何があるのか。

 純粋無垢に人生を楽しいと思えるのは、精々中学生が限度だ。

「だったら、見つけろよ。友達と遊ぶとか、いろんなことに挑戦するとかして、楽しい事見つけないとお前、いつか絶対後悔したって思うぞ」

「もう、してる。ピアノなんか……始めなきゃ良かった」

 ……ああ。

 そこで龍にはピンと来た。この子は、本当はピアノが好きなのだ。今も弾きたくてたまらないのだ。きっとこの少年が感じているのは、喪失感なんてものじゃない。

 そしてそれの原因は、ピアニストである母親。

 龍にも経験がある。成績が伸び悩み、どうしても勝てない生徒がいた。いくらテストでいい点をとれても、学年一位、下手をすれば、県内一位でないと両親は認めてくれない。

 何度、自分より成績のいい生徒を疎んだ事だろう。それでも龍は、勝つ為にがむしゃらに勉強すれば、それでよかったのだ。

 だけどきっと、この少年は違う。だってライバルは、赤の他人でなく母親だ。自分より何十年も前からピアノを始めているだろう相手、自分がピアノを始めるきっかけになった相手に、そう簡単には勝てるはずもない。

 それでも少年は勝とうとして、そして、挫折したのだろう。

「……お母さん、有名なのか?」

「有名だよ。ピアノを好きな人に、知らない人はいないくらい。母さんは、すっごいんだ。十六歳でコンクールで優勝したの。これって、すっごくすっごく、すごい事なんだよ!」

 もしかしたら嫌がるかとも思ったが、案外あっさり、少年はそう言ってくれた。それどころか、本当に母が自慢なのだというように、目を輝かせている。自分をまっすぐに見つめてくる無垢な瞳を、龍は目を細めて見返した。

「憧れてるのか?」

 ここで初めて、少年はにっこりと笑った。

「うん! おれの夢は、母さんみたいなピアニストになることだったから」

 ――。

 瞬間、龍の表情が凍りつく。小学生か、もしくは中学生になったばかりの声変わりもまだの少年が、自分の夢を語ってくれるのは、微笑ましいことのはずだ。

 しかし、少年の夢は既に「過去」だった。

 人生はこれから、むしろ、まだ始まって間もないというのに、この少年は自分の夢を過去として語るのだ。こんなことがあっていいのだろうか。

 胸が痛んだ。視線が下がる。無意識に、体も前のめりになっていた。

 堕ちていく。

「どうしたの? どこか痛いの?」

 と、少年が心配そうに声をかけてきた。痛い。でも、違うだろう? 痛いのは、本当に痛いのは、お前だろう?

 龍は自分が歯がゆかった。病気になってしまった自分が、心を壊してしまった自分が。自分の傷を、初めて恥ずかしいと思った。

 この子が必死に耐えている痛みを、どうして自分は耐えられなかったのだろう。

 そして思うと同時に、恭平と少年に腹が立ってくる。

 ――先生は、何をやっているんだ。どうして自分の息子の傷に気付いてやらないんだ。何で癒してやらないんだ。俺なんかより、他の患者なんかより、よっぽど大切な事だろう! こいつだって――。

 龍はかぶりを振った。そんなことを考えていても、結局自分には何もできないのだと思い直す。

「いいや。……母さんの事、好きなんだな」

「……。ううん」

 瞬間、少年はそれまで浮かべていた笑顔を完全に消し、地面へと視線を落とした。

「――大嫌い」


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