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3 重なる影

 初めてさきと出会い、りゅう恭平きょうへいと話をしてから、数日が経っていた。圭太けいたは彼らと、どこかぎこちない日々を送っている。

 そんなある夜だった。夕食を終え、自室へと向かおうとしていた圭太が、龍に声をかけられたのは。

「何?」

 どこか突き放したように声をかけるのはいつものことだ。だから龍自身も、あまり気にした節はなく言葉を続けてくる。

「明日、放課後何か予定あるか?」

 わずかに顎を引いて、圭太は龍を見上げた。恭平が見ているニュースのキャスターの声だけが、一時キッチンの音を一人占めする。

「何で」

 そう返しながらも、圭太は思っていた。龍は、分かっていて聞いている。一緒に暮らすようになって一週間足らずだが、圭太が家で友人の話をしたことはない。

 だから龍は、圭太の放課後がいつだって空白なのだと分かっていて、そんなことを聞いているのだ。素直に認めるのはどうしてもしゃくで、「何で」としか言葉を返せなかった。

「明日、咲ちゃんの学校へ行くんだ。放課後の様子を少し見ようと思ってな。お前も一緒に行かないか?」

 その言葉は、本当に圭太にとって「何で?」だった。先日は関わらせたくないなどと豪語していたくせに、何故。

 それは訊ねる前に、確信として圭太の頭に浮かんできた。

 咲が、圭太にだけまいねという女ことを語ったからだ。

 咲がこの三人ならば一番圭太に心を開いていると、この二人は知っている。だから、圭太を同行させたがるのか。

 ……なにが、お前にこれ以上不幸を負って欲しくない、だ。

 いつしか圭太の視線は、自分の履く迷彩柄のズボンに移っていた。自嘲する。バカバカしい。結局彼らは、自分のことに圭太を利用するのだ。

「圭太?」

 龍が名前を呼ぶ。それを合図に、圭太は彼の顔を睨み見た。

「俺、行かないよ」

 龍だけでなく、恭平も圭太をじっと見てくる。圭太も横目で、一度恭平の方を見た。そして再び、視線を龍に向ける。

 咲が気になるのは本当だ。昔の自分を見ているようで、今の彼女は圭太には不快だ。でも、これから自分と同じ未来を歩んでいくのかも知れないと思ったら、だったらどうか、その傷が治るうちに癒されて欲しいと思う。

 こんな思いは、圭太だけでも抱えきれないのだから。

 だけど、それを利用されるのはごめんだった。咲のために何かを行うのならともかく、龍や恭平のために動く気は、圭太にはさらさらないのだ。

 圭太が拒否することにそんな理由があると思わなかった二人は、ただその答えに目を丸める。

「……どうしてだよ。お前、咲ちゃんのこと気にしてただろ」

「咲ちゃんのことは気になってた、けど、俺に何ができるんだよ? 俺はカウンセラーじゃないし、何か余計な事を言われて、面倒になるのは龍くんたちでしょ」

 そう言えば、ふ、と恭平が苦笑した。何がおかしいのかと、圭太の視線がそちらに向く。

「そんなことを気にしていたのかい? 大丈夫だよ。咲さんは圭ちゃんに、僕にも龍くんにも話さなかったことを話したんだ。彼女は圭ちゃんに心を開いている。何も心配する事はないんだよ」

 圭太の心配を取り払うつもりで、恭平はそう言った。晩酌に開けた残り少ないビールを、喉に流し込む。

 そしてそれを聞いた圭太は、目を見開いてから俯いた。やっぱり――。と、握った拳が震える。ばれないように、それをサッと背中に隠した。

「来るだろ、圭太? 小学校は三時に終わるらしい。お前は?」

 恭平の言葉に、圭太が納得したと思ったのだろうか。すでに決定事項のように、龍はそう問い掛けてきた。

「……行かない。絶対行かないから!」

 どちらともなく二人を見て、圭太はそう言い切った。何かを返される前に、さっさとダイニングを出て行く。

 部屋を出る間際に、二人のため息が聞こえてきた。それが一層、圭太の神経を逆撫でする。

 嫌いだ。やっぱり他人なんて、大嫌いだ!

 母親すら分かってくれなかった圭太の思いを分かってくれる人など、所詮はいないのだ。


***


 翌日、圭太は駅前にいた。夏休みを目前に控えた学校は午前で放課となり、駅前には午後を思い思いに友人達と満喫しようとする学生で溢れていた。もちろん、圭太はここで友人と遊ぶわけではない。ただまっすぐに家へ帰って、また龍達にごちゃごちゃと言われるのが嫌だったのだ。昼食は、学生の少なそうなところを選ぶつもりだったが、果たしてどこなら学生が少ないのか分からず、結局バス停前のコンビニで買ったおにぎりを、バスの中で食した。

 これからどうしようかと、圭太はぼんやり考える。こういうとき、自分は他の高校生とは違うのだなと実感した。友人と呼べる人間がいないわけではない。学校での休み時間を共に過ごすものは多からずいる。だけど、彼らとの付き合いはその場凌ぎであるのも事実で。当然だ。だって圭太ですら、自分をつまらない人間だな、と思うのだから。

 だから、圭太を学校外での遊びに誘うのは、せいぜい香苗かなえくらいだった。彼女は幼なじみのよしみだと思っているのか、姉ぶりたいのか、しょっちゅう圭太を誘ってくる。

 しかしそれすらも断ってばかりの圭太には、こうして駅前に赴いても、一体どこへ行けばいいのか全く分からなかった。学校にいれば、カラオケや映画という言葉も聞こえてくるが、カラオケへ一人で行くのも気まずいし、何より音で溢れる場所へ、圭太が自分から行けるわけがない。だったら映画かとも考えるが、一体現在どんな映画が上映されているのか、流行っているのかなど、情報に疎い圭太には全く分からない。

 券売機の隣の、僅かな壁に背をついた。目の前を行き交う人は大概が制服を着ている。この時期はどこの学校も午前放課で、みんな考える事は同じだということだろう。

 溜息が出た。何でよりによって、自分はここを選んだのか。人で溢れる場所はさまざまな音が響いてくる。耳障りだ。携帯の音も、電車のアナウンスも、幸せそうな人々の笑い声も。

 携帯電話で時間を確認する。一時十四分。今から帰宅しても、二時前に家へ着いてしまう。ここの騒音も嫌だが、家で龍や恭平の声を聞くのはもっと嫌で、圭太は再び、盛大に溜息をついた。

「あら?」

 さすがにここにいるのも限度があるかな、と思ったときだった。少し低めの、女の声。圭太は俯いていたが、その響きは間違いなく自分に向けられていた。ふと顔を上げて相手を確認する。

 だけどその女性をみて、圭太はすぐに眉を潜めた。光の加減によって青く見えるパンツスーツは、太陽の下では薄紫になるだろう。一筋の乱れもなく一つに纏められた髪は、うなじのところで丸く括られている。真っ赤な口紅が、軽い釣り目の彼女の印象を、よりきつくしていた。

 どこかで会った。真っ先にそう思ったのに、それがどこだったのか思い出せない。まだそう年はとっていない女性。見た目だけなら、圭太が最後に見た律子りつことそう変わらないはずだ。

「久しぶりね。おぼえてる?」

「あの……」

 誰ですか、と尋ねるまでもなかった。訝る圭太を察したらしく、彼との距離が一メートル足らずになる距離まで近付いた女性が、にこりと笑う。

「咲と仲良くしてくれたのよね」

「……咲ちゃんの、お母さん?」

小柴雪華こしばゆきかです」

 そうだ、と圭太の記憶が蘇ってきた。あの日、初めて咲が問診に来た日、圭太は病院の駐車場で彼女に会ったのだ。あの時も、今日と同じような感想を雪華に抱いた事を、圭太は漸く思い出した。

「このあたりで働いてらっしゃるんですか?」

「いいえ。今日は休みなの。久しぶりの休みだったから、大学時代の友達と連絡とって、ちょっとはしゃいじゃった」

「へえ……」

 まるで少女のように雪華は笑う。それをつい、圭太は冷めた視線で見てしまった。

 圭太には咲の不幸は見えない。だけど――自分が人一倍の不幸を背負っているからか――彼女が人より幸せを感じていないのは分かった。雪華は咲の母親だ。それに、恭平の元に連れてきたのなら、彼女は娘の心に、闇という名の病気があることを気付いている事になる。

 だったらどうして、休みの日にのんきに友達と遊んでいられるのだろうと、圭太には甚だ不思議だった。龍や恭平は、咲のために尽力しようとしている。この人だって、咲のために学校に掛け合ったり、恭平と話をしたり、できることはたくさんあるはずだ。

「圭太くん?」

声をかけられて、圭太はハッとした。「あ」とか「お」とか、言葉にならない声が苦し紛れに出てくる。

「どうしたの? わたし、何かおかしいかしら?」

「――っ、全然!」

 ……何を力いっぱい言っているんだ。俺は。

 雪華が眉尻を下げて笑うから、余計に気まずくて、圭太は顔を逸らして唇を飲んだ。

「誰かと待ち合わせ?」

「え? あ……いや。ちょっとブラブラしてただけです。……小柴さんは」

「雪華でいいわ」

「……雪華……さんは、これから帰るんですか?」

「ええ。みんなはもう少し遊ぶって言っていたけど、三時を過ぎれば咲たちが帰ってくるから。それまでには家に帰っていたくて、先に抜けてきちゃった。夜にも仕事をしているから、一緒にいられる時間は少ないんだけどね」

 そう言って苦笑する雪華を見て、圭太は先ほどの自分の考えを反省した。そうだよな。この人だって、息抜きくらいしたくなるよな。友達と遊んでいたって、ちゃんと娘の事は心配しているんだ。母親……だもんな。

 不意に圭太の頭に浮かんだのは律子だった。彼女も彼女なりに圭太を気にかけてくれていた――のだと思う。しかしそれは圭太にとってお節介でしかなく、ただ疎ましく思っているうちに、律子はこの世を去ってしまった。

 早すぎだよ。と今なら思う。きっと生きていたら、未だに疎ましかっただろうし、思い出してもその感想は変わらないが、それでも生きていてくれれば。

「ねえ、……圭太くん?」

「はい」

 つい考え事をしてしまう圭太の思考は、雪華の声に遮られる。交わった視線で、雪華の瞳は仄かに色気を含んでいた。

「何……ですか?」

「予定がないなら、少し話さない? わたしもこのまままっすぐ帰っても、まだ子供が帰ってくるまでしばらくあるし」


 どうしようかと迷ったが、龍は咲を迎えに行くと言っていた。そして雪華が、咲の帰ってくるまでの時間を潰したいと言うのなら、それは圭太にとって好都合だと思った。彼女といれば、圭太が帰宅するのも三時近くになる。龍はその前に家を出ているはずだ。

 そう思って了承したのに、雪華に連れられた店の入り口で、圭太は激しく後悔した。ここは、高校生の来るべき場所ではない。

 駐車場から外観を見上げただけで、明らかに《高い》と確信できた。金額だけではない。“なにもかもが”、だ。まるで協会のような建物の壁はガラス張りで、中は大人の雰囲気と言うにふさわしいくらいにトーンを落とした証明が取り付けられているようだった。そこから見える客人も、大人の、それもきちんとした社会人のカップルばかりだ。

「緊張する?」

「あ……、あの、別の店にしませんか?」

「それは構わないけれど、安い店だと学生も多いわよ? こんなおばさんと入店するところ、お友達にでも見られたりしたら嫌じゃない?」

 生憎見られて困る《おともだち》はいなかったが、クラスメイトに見られれば、確実に明日、何かを追及されるだろう。圭太くらいの年頃の少年は、自分の欲求に従順だ。

 渋りながらも頷いて、圭太は雪華のあとに続いて店内に入った。「お二人様ですか?」と問う店員すら、異色な二人組みに目を細めている。二十一歳で圭太を生んだ律子も若かったが、雪華はさすがに、高校生の息子がいると言って納得させるには辛い。

 案内されたのは、入り口に近い壁側の席だった。丁度圭太が座った場所からショーケースが見え、焼きたてのケーキが所狭しと並んでいる。

「圭太くん、何飲む?」

 ケーキに視線が集中していたため、反応が遅れる。咄嗟のことに脳が働かないでいると、雪華がサッとメニューを差し出してくれた。

「あ、じゃあ……カプチーノ」

「ケーキはいいの?」

「え」

「ケース、気にしていたでしょう」

 顎でショーケースを指して、からかうように雪華が言う。やっぱり誰だろうと女は目敏いな、と圭太の視線は机に向かってしまった。

 それによって目に入ったメニュー表に愕然としてしまう。ここは喫茶店だから、飲み物がメインとなってしまうのはわかるが、それでも表記された金額は、圭太の知っているコーヒーやケーキの値段の三倍以上だ。

「い、いいです。飲み物だけで」

「遠慮しなくていいのよ? ここはわたしが出すから」

「そんなっ。もっといいです! 父さんの患者さんのお母さんに奢ってもらうなんて」

「そんな、難しく考えないでよ。わたしは大人であなたは子供。ここに誘ったのもわたし。それじゃダメかしら?」

「いや……」

 ここで甘えてしまってはダメだと思い、何かいい言い訳はないかと考えているうちに、雪華が片手を上げて店員を呼ぶ。圭太に有無を言わせずに、コーヒーとカプチーノを注文した。

「圭太くん、何にするの?」

「え?」

 やはり頼ませる気なのか。それに、この状況は卑怯だ。圭太が頼むまで、おそらく雪華は店員を帰さないだろう。ここに店員を留めるのは、あまりに失礼と言うものだ。

「じゃあ、チーズケーキ……」

「かしこまりました」と言い残して、店員は去っていった。圭太はつい目の前の女性を、目を細めて見てしまう。

「そんな顔しないでよ」

「俺、お金出します」

 雪華は苦笑した。

「圭太くんは律儀ね。いいわ。じゃあここは奢るかわりに条件を出させて」

 答えによっては再び断ろうと思いつつ、圭太は黙っていた。言ってしまったものの、やはりケーキの代金を負担するのは懐に痛い。

「……咲が、あなたのことをとても楽しそうに話すの。とても気に入ったみたい。これからも診療のときとかに、咲と仲良くしてくれないかしら?」

 フッと、肩の力が抜けた気がした。背もたれに背中を着いて、漸く自分の体が強張っていたのだと気付く。それと同時に、頼られた事への嬉しさが、ドッと胸にこみ上げた。

「俺でいいなら」

 少年は、無意識にふわりと笑う。それを見た雪華が目を見開き、途端に顔を下げてしまった。

「雪華さん?」

 いきなり俯いた彼女の顔は見えない。だけど肩が小刻みに震えているから、圭太は焦ってしまう。

 自分はなにか、いけないことを言ってしまったのか? 咲と仲良くして欲しいと請われて、分かったと答えただけだ。それとも雪華は、何か他の答えが欲しかったのか。

 圭太がおろおろとしている間に、店員が飲み物とケーキを運んできた。客の私情に口を挟んでは来ないが、気まずそうに圭太の顔を見てから、そそくさと去っていく。圭太が泣かせたと思われただろう。いや、実際原因は圭太なのかもしれないが。

 せっかくコーヒーとカプチーノの香りが空気を彩るのに、圭太はまったくそちらに集中できない。こういう時どう声をかけたらいいのか、女性経験など皆無に等しい圭太には分からない。

 雪華は両手で顔を隠して、ただしくしくと泣いていた。大人の女らしく嗚咽は上げないが、時折鼻を啜る音が聞こえる。

「あ、あの……」

 漸く言葉を紡げても、圭太にはそんなことしかいえなかった。なんなんだ。わけが分からない。何も悪い事なんて言ったつもりはないのに、どうして泣かれなくてはならないのだ。と、理不尽な状況にイライラもしてきた。

 雪華を置いて帰れるわけがなかったが、いっそそうしてやろうかとも思い始めたとき、やっと彼女が顔を上げてくれる。

「ごめ……ごめんなさい。驚いたわよね」

「……大丈夫、ですか?」

 いっそ帰っていいからと言ってくれ。内心そう思いながら、圭太は訊ねた。

「うん、平気よ。ごめんなさい」

 謝られる事は、正直解決にはならない。圭太が知りたいのは、どうして泣いたのか。自分のせいなのか。自分のせいならば、圭太こそ彼女に謝らなければいけない。

「俺、何か言いました?」

「違うの。あなたのせいじゃないわ。ほら、ケーキ、食べて」

 そう言われて、圭太の視線はケーキを見た。

 一見はよく見るチーズケーキだ。黄色いスポンジに、天辺には生クリームが渦巻かれている。しかしそこから無造作に垂らされているブルーベリーソースに、圭太は思わず唾を飲んだ。さすが、一般的なチーズケーキの三倍の値段を取るだけはある。きっと、味も三倍……いや、それ以上だろう。

 だがここで、「じゃあ、ケーキいただきます」とどうして言えようか。目の前の女性が憂鬱そうに俯いているのに、そんな無神経な事、いくら圭太でも行えない。

「俺が悪いのなら、謝らせてください」

「もう、本当律儀ね。違うって言っているのに」

「でも、俺と話していて泣いたんだし……」

「そうね」

 瞬いたあとの瞳を悲しく揺らして、雪華は呟いた。同時に、無造作に置かれていた圭太の手に自分の手を重ねる。

「……え?」

 なんて、まぬけな声しか圭太には出せなかった。な、なんで、手……握んの?

 ごくりと唾を飲んだ。圭太が異性と手を繋いだのは、小学校低学年以来だ。なれない行為に、ドキリと心臓が跳ねてしまう。

 相手は、父の患者の母親。おそらく圭太と十以上は年も離れている。でも雪華は、確かに美人だ。……って、何考えてる俺!

「あの、雪華さん……?」

「あなたのせいだと言うなら、そうかもしれない。しっかりした手、してるのね」

 そう言われて、圭太は余計に意識を手に集中させる。言われた通り、雪華の手は、圭太には小さかった。今は一方的に握られているだけだが、もしもこの手を握り返したら、きっとすっぽり包み込めてしまうのだろう。

「わたしの話を、聞いてくれる?」

「いや、あの……」

 見つめられた瞳の艶っぽさに、圭太はたじろいだ。逸らしたいのに、どうしてか目を逸らせない。

 そうしている間に、雪華の顔は圭太へと近付いてくる。

「圭太くん」

「――っ、無理ですっ!」

「――え?」

 ふと、雪華の手が離された。すると枷が外れたように、圭太の肩から力が抜ける。息が上がった。

「あの、泣かせたのが俺なら、謝ります。でも俺、カウンセラーじゃないし……あなたの相談になんてのれません。家に行けば父さんがいるから、相談ならそっちに……」

 雪華に握られていた感触が、まだ手に残っている。それは気持ち悪いわけではないが、何かモヤモヤとした感じを残して、それを早く消したい圭太は、ぎゅっと掌を握った。

 本当は、「無理」というのは「相談にのれない」ということではなかった。女性に免疫がないのももちろんだが、あれ以上近くにこられていたら、何か人として間違ったことを犯してしまいそうだった。

 もしも雪華が、圭太を恭平の息子や、咲の友達として扱ってくれたなら、きっとこんな気は起きなかっただろう。つまりこれは、雪華が圭太の前で「女」であったことを示している。

 そんなの有り得ない。絶対に無理だ。

 深呼吸をして心を落ち着かせると、圭太はゆっくりと雪華を見た。彼女も気を入れなおすようにコーヒーを飲んでいる。それでカプチーノの存在を思い出し、慌てて真似てみた。

「……圭太くん。わたしが悩んでいる事は、咲のことだけじゃないの」

 カチャ、とカップを置く音がする。冷め始めたカプチーノの湯気の間から、圭太は雪華をちらりと見た。

「あなたのこと」

「……俺、ですか」

 正直、圭太は嫌気がさしていた。思えば、初めから雪華は圭太に対して女の視線だった。彼女に誘われたあの時、どうして断っておかなかったのか。

 その理由は簡単だ。一児の母である雪華が、まさか高校生の自分などに、本気で何かを仕掛けてくるはずがない、と思ったからだ。

 なのに、目の前の女性が圭太に何を望んでいるのか、それが分かってしまうから圭太は嫌気がさしていた。

「ごめんね。わたしのこと、嫌よね」

 そんな感情を敏感に感じ取ったらしい雪華が、整えられた髪を撫でながら視線を下げる。

 圭太が何も答えなければ、雪華は言葉を続けた。

「でも、違うのよ。あなたに何かして欲しいとか、そう言うわけじゃないの。ただ、少し聞いて欲しい。笑って欲しいの。あなたは、わたしが亡くした夫によく似ているから」

 瞬間、圭太の呼吸が止まった。きゅっと、唇をかむ。

「彼は、交通事故で亡くなったの。咲と主人とわたし。別に特別裕福でも、何か突飛なものがあったわけでもないわ。でも、幸せだった」

「……俺が、あなたの夫に似ているなら、どうだっていうんですか」

「どうでもないわ。ただ、わたしが少し幸せな気分になるだけ。――あなたは不服?」

「少し」

 誰かと比べられるのは、誰しも不服だ。そう思ったのか、雪華は困ったように少しだけ笑った。

 きっと、律子もそうだったのだろう。恭平が亡き夫に似ていたのかは知れないが、彼といることが幸せだったのだ。そして恭平は圭太と違って、律子のその気持ちに応えた。

 そこに、圭太の存在などなかったのだ。

 二人が恋に落ち、結婚する事に、圭太は関係なかった。家族なのに、家族になるのに。

 まるで仲間はずれにでもされているみたいで、圭太はどうしても恭平を好きになれなかった。律子を憎らしく思った。

 だから咲のことを思えば、圭太は何を言われても、雪華の願いを聞くことはできない。そう思うのに、やっぱりここでも律子の影がちらつく。

 恭平と再婚なんて、本当はしてほしくなかった。だけど、恭平といるときの律子が幸せそうで、どこか「よかった」とも思っていた。あんなに憎らしく思っていた母親なのに、圭太はやはり、心のどこかで彼女を好いていた。幸せを願っていた。きっとこれが、腹を痛めて自分を生んでくれた律子への情だ。

 自分の傷と、母親の幸せ。当時の圭太にはどちらも優劣つけられないものだった。だから今も、彼には優劣がつけられない。

 雪華の幸せと咲の傷、どちらを取るか。

「ねえ、圭太くん」

 唐突に、雪華が艶っぽく圭太の名を呼んでくる。

「何ですか?」

「明後日、わたしの家に来ない?」

「は――?」

「やだ、変な風に考えないでよ? 明日は診療だから無理だけど、明後日は何の用事もないわ。暇なら是非、咲と遊んであげて欲しいの。きっと喜ぶわ」

 咲と会う事は、圭太は全く構わない。しかしそれを頼むには、雪華の声は色味を帯びている。本当にただ、自分と咲が遊ぶ事を望んでいるのか、圭太には分りかねた。

「やっぱり嫌かしら?」

「いや……」

「明日から咲も半ドンだし、わたしは仕事でどうしても遅くなってしまうから、せめて午後だけでも、一緒にいてあげて欲しいの。お願い」

 苦そうに笑う雪華に、圭太は瞬いた。今の言葉を要約すれば、その日雪華は仕事で家にはいない、ということだろうか。それを悟った圭太は何となくホッとして、小さくだが頷いた。

「分かりました。じゃあ俺、咲ちゃんち行きます」

 コーヒーカップの取っ手に向かっていた雪華の手がふと止まり、圭太を見上げる。同意されると思っていなかったらしく、その目が安心したように細められた。真っ赤な唇がゆっくりと開く。

「ありがとう。咲、喜ぶわ」

 その表情に、ドキリとした。パッと顔をそむけて繕うように苦笑する。

 そんな圭太に気付かなかったのか、雪華もふふ、と笑った。

「さ、ケーキ食べて。ここのケーキはおいしいと評判よ」

 そう言われて、漸く圭太は安心してケーキに手を伸ばした。一口食べたそれは確かにおいしかったが、圭太の気持ちのせいか、普通の三倍以上の味を感じる事はなかった。


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