2-3
――優勝は、前阪亜門!
アナウンスの声に、自分は負けたのだと知った。
律子にピアノを学んでいる亜門。師を同じくする者に負けることは、圭太の実力のなさを物語っている。
思えば圭太への酷い中傷は、これから激化していった。
病院の裏には庭があり、そこにはブロックを三十センチほど積み重ねた花壇がある。元々は恭平が患者治療の一つとしてつくり、結婚してからは律子が自分の好きな花を植え、世話をしていた。今は看護婦が世話のほとんどを担っている。
しかし今日は、当の看護婦達が暇そうな圭太を見つけたのをいいことに、水遣りを押し付けてきた。だから今、シャワー状のホースで花に水をやっているのは、仏頂面の圭太だ。
花というものに圭太の興味は惹かれない。特別綺麗だとは思わないし、ただでさえ短い命をこんな狭い空間で無理に咲かせなくてもいいと思う。
枯れかけた撫子が目の端に映れば、ますますそう思わずにはいられなかった。季節が終われば枯れてしまう花。自分の人生もこうしてはかなく散ってしまうのだろうか。
少なくとも、花が開く最盛期、圭太のそれは、もうとっくに終わってしまったように感じられた。自分の人生は、このつまらないもののまま、残りの一生変わりはしないのだろう。
シャー……。
たったった……。
花壇はシングルベッド二つ分ほどの大きさだ。一見大きく感じられるが、いざ水をやってみれば、それは十分もかからず終わってしまった。
ホースの放水ボタンから手を離す。水の音が辺りから消えれば、そこは一気に静かになった。
たったった……。
だからだろう。その音は突然圭太の耳に届いた。足音だ。それも駆け足。そして、近い。
あまりにも軽やかなその足取りに、圭太は訝しげに振り返った。自分より年上である大人たちが、そんな軽やかな音を立てるだろうか。圭太自身も今はこれより重い足音を立てるはずだ。
振り返った先には少女がいた。顎のあたりと眉の上で切り揃えられた黒髪を揺らす少女が、圭太の後ろにいた。
「君……?」
ここは普通の一軒家の裏庭ではない。病院だ。だから、ここに圭太の家族以外の人間がいるのは、決して珍しいことではない。
でもそれも、裏庭で出会うことは珍しいことだった。看護婦と一緒なら、花を見にきたのだとも考えられるが、一人でここまで来るには、病院を半周しなくてはならない。
少女は、圭太を見てまずそうに顔をしかめた。それでも逃げれば余計に怪しいということは分かっているようで、そこから動こうとはしない。
「君は?」
できるだけ穏やかに、圭太は訊ねた。こんなところに来る子供は、大概が患者だ。
「……」
少女は何も言わなかった。と、いうよりは、圭太の質問が悪かったというべきだろうか。「君は?」と訊かれて、答えるべき内容が何か分からなかったのだろう。
「名前。俺は圭太。君の名前は?」
「……咲」
咲と名乗った少女は、顔に似合わない低い声を出した。いや、地声ではない。初めて見る人間に対して、戸惑っている声だ。
圭太は、咲の顔を覗き込むように膝に手をついて屈んだ。
「どうしてこんなところにいるの?」
「……お兄ちゃんは?」
「俺? 俺はここの息子だから。花に水やりしてたんだ」
「かんじゃじゃないの?」
「違うよ」
「咲は、かんじゃなの」
まるで言葉の意味など理解していないように、咲はそう言った。圭太をまっすぐ見つめる目に、一点の曇りもない。
「……そう、なんだ」
「咲は、心を元気にするために、先生とお話してるの。そう、ママが言ってた」
「そう」
「お兄ちゃんは?」
「え?」
唐突な質問に、圭太は目を丸くした。自分は患者ではないといっているのに、どうして少女は、自分を彼女と同じ対象のような目線で問い掛けてくるのだろう。
「俺? 俺……は、だから、患者じゃないから、何もないよ」
「何もないのに、ここにいたの?」
「? どういう意味?」
「咲は、きっとここにはだれもいないと思ったの」
「どうして」
「ここは、咲だったら来たくないから」
「……」
圭太は、それ以上言葉をつむぐ事ができなかった。別に咲の言葉に信憑性があったからではない。でもたしかに、看護婦達はここに来る事をためらうものが多かった。日当たりが悪いわけではないのに、いつでもそこは薄ら寒いから、と。
しかし、圭太にはわからない。ここがなぜそう毛嫌いされるのか。別にここは寒くないし、花たちだって問題なく育っている。
でも、こんな幼い少女すらが、ここには来たくないのだと言う。これではまるで、違和感なくここにいる圭太のほうが異質なようだ。
「でも、だったら、咲……ちゃんはどうしてここに来たんだよ?」
「だれもいないと思ったから」
咲の視線は、心なし下を向いていた。一人になりたかったのか。
「治療……嫌なの?」
「先生は、咲にいろんな質問する。咲はそれに答えるだけでいいんだけど、なんかね、たまに先生はいやな顔をするの」
「嫌な顔?」
「そう。咲がまちがった答えを出したみたいに、まゆをキュって寄せるの」
患者の意見に私的感情を挟んではいけない。カウンセラーでない圭太すら、そんなことは常識として分かるのに、恭平がそれをやっているというのか。にわかには信じられない話だった。
「だから咲ちゃんは、診療所に戻りたくないの?」
「うん。それにね、咲は別に、先生とお話しなくても元気だもん」
はきはきとそう口にする。それはたしかに、彼女は病気などではないのでないかと、圭太に想像させてくれた。
でも、元気だとも言えない。
「元気って、言うならさ。どうしてここにいるんだよ。どうして病院に来る事になったの?」
こんなことを訊いたと恭平や龍に知られれば、間違いなく怒られるだろう。素人が、精神病患者の私情に口を挟むものではない。
まして圭太はカウンセラーの息子だ。そんなことを安易にやったとなると、いろいろな責任も降りかかってくる。それでも、この少女の内に隠されたものが、どうしても気になった。
「咲は……」
ふと、少女の瞳に影が落ちる。
「咲は……病気なんかじゃないもん」
圭太はハッとした。目の前に、自分がいる。病気なんかじゃない。どこもおかしくなどない。と、断固として言い張っていた自分が、それと同じことを言う少女が、目の前にいる。
「咲ちゃんは……、病気なんかじゃないよ。別にどっかにおかしいところがあるわけじゃない。普通だよ。ただちょっと、嫌な事が多いだけで」
咲が、ふと顔を上げる。その顔が、ほっとしたように緩んだ。
「うん。大丈夫だよ。それにね、いやなのは今日だけだから」
「え?」
「明日になれば忘れちゃうもん。やなこと言われても、咲は大丈夫なの」
気丈な少女なのだな、と一瞬思ったが、その考えはすぐに思い直された。
だったらどうして、病院に来るのだ。
「咲ちゃん、どうしてここに来る事になったの?」
「ママがね、行こうって言ったから」
圭太はゆっくりと首を傾げる。だったらその母親は、どうして咲を病院に連れてくる気になったのだろう。この少女は、一見どこにでもいる普通の小学生だ。
「……早く、帰りたいな」
徐に、咲がそう言った。視線が圭太から外れ、意味もなくだろうが遠くを見つめる。
「家、好き?」
「好き。ママがいるし、まいねちゃんもいる」
「まいねちゃんて?」
「いとこ。いっしょに住んでるの。あのね、やなことあっても忘れちゃうって言ったでしょ? それはまいねちゃんのおかげなの。まいねちゃんがおまじないしてくれるから、咲は毎日元気なんだよ」
「……そうなんだ」
圭太は曖昧に笑った。おまじないだの何だの、この年頃の少女ならば好きそうなものだ。しかし、生憎圭太はそういうものに興味がなく、話についてもいけない。
「咲ちゃん」
圭太とは違う声が、咲の名前を呼んだ。振り返らずとも、それが誰の声か圭太にはわかる。今一番聴きたくなく、ここ最近ずっと避け続けている声だ。
「こんなところにいたの? お母さんが待ってるよ。今日はもう帰るんだって」
「帰っていいの?」
「先生とのお話は終わったからね。行こう?」
足音が背後から近付いてくる。きゅっと結んだ唇を、圭太は耐えるように噛み締めた。龍の顔を見ると、やっぱり無意味に責めたくなる。決して、龍が恨めしいわけではない。
ただ、自分が楽になりたいがために。
ふと、圭太は安心したように肩を落とした。咲が、圭太の隣を横切ったからだ。龍と咲が、圭太の後ろで会話をする。これでとりあえず、龍と顔をあわせる必要はなくなった。
「うん、早く帰りたい」
心底嬉しそうにそう言った咲は、またあの軽快な足音をたてながら駆け出したようだった。この足音が聞こえなくなったら、自分も家に戻ろう、と思って圭太は目を伏せる。
「圭太」
なのに、龍はこうして圭太の名前を呼んでくるのだ。
できたらまだ、目も合わせたくないのに、そこで圭太が振り返るのを待っているのが分かるから、仕方なく振り返ってしまう。
一日ぶりに合わせた龍の目は、いつもと変わらず力強かった。
「……何」
「早く中入れよ。ここにいたら、嫌な気持ちにならないか?」
「……みんな言うけど、俺はそれほど」
「そうか。――ここに充満してるのは、お前の不幸だもんな」
「は?」
意味深な言葉を残して、龍は咲の行った方へと足を向けてしまう。一人残った圭太は、ただそこで呆然とするほかなかった。
***
「やっぱり今日も、咲さんにした質問の答えは変わらなかったよ」
「昨日の自分を、不幸だとは思っていないって……?」
「うん。昨日も今日も嫌な事は言われているけれど、辛いのは今日だって。昨日なんて、今日に比べれば全然思い出らしい」
「昨日が思い出なんて……俺でもいえませんよ」
ソファに腰かけた龍と恭平は、夕食が終われば仕事の話に没頭した。
傍に自分がいるのに、平然とそんな話をして本当にいいのだろうか。そう思いつつも、圭太は興味から二人の話に聞き入っていた。
大きな窓を開け放ち、庭に片足を投げ出す恰好で横座りしている。
「正直、こういう例は稀だよ。もし本当に不幸喰いが近くにいるのなら、それは僕らが思っているより全然近くなのかもしれない」
「不幸喰い?」
思わず、圭太はそう聞き返してしまった。
龍と恭平の視線が圭太に集中する。そこに圭太がいることを、まるで忘れていたようだった。
「ああ、圭ちゃん……。これはあまり公にできない話だから、よかったら上に行っていてくれるかな?」
恭平が、申し訳なさそうにそう申し出てくる。その言葉を、圭太は聞こえなかったふりをした。
「不幸喰いは、人を不幸にするためにいるんじゃないんでしょ? なんで咲ちゃんが病院に来なきゃいけないような事態になってんの?」
「それは……」
「不幸喰いだって、いい人間ばかりじゃない。いいから圭太、お前は先生の言う事聞いて上に行ってろ」
言葉に詰まりかかった恭平に変わって、龍が厳しくそう口にする。自分が首を突っ込んだところで、どうにかなる問題でないことは分かっている。それでも、圭太は素直に立ち上がることができなかった。
一度関わってしまった咲に対して、圭太は情がわいてしまったのだ。
「俺、咲ちゃんの気持ち分かるよ」
「俺や先生だってそれなりに理解している」
「不幸喰いに不幸喰われた気持ちだって分かる!」
「だけど、そのあと再び同じ不幸を背負う苦しみは分からないだろ」
「……っ」
一度たりとも躊躇わない龍に、圭太も返す言葉がなくなってくる。カウンセラーでない圭太に関わる問題ではないと言う事が、全身から伝えられるようだった。それでも圭太は、なんとか口を開いた。
「咲ちゃんは……、父さんと話すのが嫌だって言ってた」
ひゅっと、恭平が息を飲む音が響いた。言いたくはなかったが、どうしてもこの問題に対して、圭太は引き下がりたくない。
「父さん、咲ちゃんは父さんの戸惑いを敏感に感じ取ってるよ。父さんが咲ちゃんに対して困惑してるの、ちゃんと気付いてるよ。あんな小さな子供に怪訝な顔なんか見せちゃダメだよ」
「……そうだね」
恭平の視線が机におちた。さすがに龍も、困惑して二人を見回す。
「二人は、咲ちゃんを元気だと思わなかった?」
唐突に話を切り出してやった。自分のペースに持っていくことで、強制的にでも認めさせようと思う。
もう圭太も、無関係ではないのだと。
「不幸喰いとか関係なしに、学校で嫌な事、言われてるんだよね? それにしては、いつ来ても咲ちゃんが元気だとは思わなかった?」
二人は答えない。それは肯定を意味しているのだと、圭太は受け取る。これでとどめだ。
「でも」
「でも、元気じゃない」
第一声が重なったと思ったら、紡ぐはずだった言葉が龍の口から吐かれた。
困った圭太は、真意をはかるように龍を見上げる。
「見た目はどんなに元気でも、咲ちゃん自身は決して元気じゃない、そうだろう? 分かってるよ。俺や先生には、彼女の抱える不幸が見えているんだから」
ふと立ち上がった龍は、圭太の傍らに腰を降ろした。僅かに首を傾げて、説得するように肩に手を置いてくる。
「圭太。俺たちは、お前に関係ないからとか、首をつっこまれるのは迷惑だからとか、そういう意味で話に入ってくるなと言っているわけじゃないんだ。人を癒す事は、簡単な事じゃない。時には嫌がる人間の不幸を暴かなきゃいけないこともある。俺たちは、それにお前を巻き込みたくないんだ。お前は自分だけで十分すぎるくらいの不幸を背負っているから。それ以上、不幸を目の当たりのする必要はない」
視線がおちる。そうだ。圭太にとって他人は自分を傷つける存在で、そこに関わる事を最初に避けたのは、圭太自身だった。
今回の事だって同じこと。
関われば、余計な傷を負う事になるのかもしれない。
だけど、
「でも、あの子は俺と同じものを背負ってる」
そう、咲の瞳が語っていた気がした。理不尽な言葉に傷付いて、心無い視線に胸を痛める。それは圭太がその心に抱える傷に、とてもよく似ていた。
「圭太」
「俺も、咲ちゃんくらいの頃にピアノをやめたんだ。周りの人間にいろんなこと言われて、何もかもが嫌になってた。だから咲ちゃんの気持ちも、なんとなくだけど分かるんだ。元気そうなのは龍くんたちの言うとおり、不幸喰いのせいなのかもしれない。咲ちゃん自身は、きっとめちゃくちゃ傷付いてる。だから……」
だから?
そこで圭太はハッとした。そうだ。咲は不幸喰いに不幸を喰われている。だから元気そうなのだ。毎日毎日不幸を積み重ねていっていた圭太と咲の違うところは、そこだけ。
下げていた顔を上げてまっすぐに龍を見た。圭太は、大事な事を見落としていた。咲は圭太に、とても重要な事を教えてくれていたのに。
「ま、い……、まい、ね? そう、まいね! まいねって子におまじないしてもらってるから、大丈夫なんだって咲ちゃんが言ってた。それってもしかして、不幸喰い……?」
龍と恭平も、とっさに顔を見合わせる。
「先生」
「そのまいねさんとは誰か、圭ちゃん聞いてる?」
「いとこって、言ってた気がする」
圭太がそう言えば、恭平は一度頷いた。その後に龍を見る。
「従姉が一緒に住んでいる事は、僕も雪華さんから聞いているよ。ただどんな人なのかまでは把握していない。龍くん、申し訳ないけれど、調べてみてくれるかい?」
「はい」
即答で龍が頷いた。仕事関係の事となると、二人の態度は一変する。
まいねとはどんな人間なのか、圭太には想像もつかないが、本当に咲の不幸を喰っているのなら、それはただただ恨めしいことだった。
***
二階建ての古びたアパートにはエレベータもなく、雨季は雨漏りも当然だった。部屋に入っても襖で仕切られた部屋が三つあるだけ。
トイレと風呂はついているものの、蛇口を捻れば赤黒いお湯が出るのがほとんどだった。
ほんの三ヶ月前までは、もう少し広いマンションに住んでいた。一年前までは、一軒家に住んでいた。それでも少女は幸せだ。雪華と咲と一緒にいられるのが、少女――まいねの一番の幸せだった。
お風呂から上がれば、キッチンのある部屋を横切って一つの襖を開ける。六畳の小さな空間が、咲とまいねの部屋だった。まいねの蒲団はお金に困った雪華に売られてしまい、今は咲と同じ蒲団で一緒に眠っている。
そこに、一足先に風呂を済ませた咲が横になっていた。
「咲、寝たの?」
「んん……」
眠ってはいなくとも、うとうとくらいはしていたのだろう。小さく首を振って咲が目を開いた。
「おふろ、上がった?」
「上がった。咲はすぐに眠くなっちゃうね」
「ちがうもん。だれもいないから休んでただけだもん」
「おばさんは? ……仕事か」
誰もいないと言う咲に、つい雪華の部屋に視線を向けてからそう言った。この時間は、いつも雪華は仕事で家を空けている。
雪華の夫と、まいねの両親は一緒に亡くなった。それを知る人間は、雪華が巨万の富を手に入れたなどと思っている者もいるようだが、本当は彼らの保険金が、咲たちが高校までを卒業できるギリギリの額だった事を、まいねは既に知っている。
それは生活費の足しにすれば、案外簡単になくなってしまう額だった。だから今、雪華は二人を養っていく為に必死で働いているのだ。
そうやって必死に自分たちのことを考えてくれる雪華が、まいねは大好きだった。両親がいなくても、二人がいてくれるのなら寂しくはない。
「咲、今日は病院行ってたの?」
「うん」
「どうだった?」
「あのね。けいた……っていうお兄ちゃんに会った」
「けいた?」
咲の言葉にまいねはきょとんとした。普段病院にいくことを嫌そうにしていた咲が、初めて瞳を輝かせる。いつもは夜を憂鬱そうに過ごしているのに、今日はまったく違った。
「けいたお兄ちゃんは、すごくいい人なんだよ。咲は病気なんかじゃないって言ってくれたの。まいねちゃん以外では、お兄ちゃんが初めて」
晴れ晴れとした表情で、咲が笑う。それはまいねをも自然に笑顔にした。
「いい人に会えてよかったね。病院、少しは行くの嫌じゃなくなった?」
「……でも、咲にはまいねちゃんがいるから、やっぱり病院には行かなくてもいいと思うの」
「うん。でもおばさんが連れて行ってくれるんだから、まちがいじゃないよ。おばさんがまちがったこと言った事ないもんね」
至って当然の事だとでも言うように、まいねはにっこりと笑った。咲が笑顔を返してはくれなかったが、それには気がつかなかったように言葉を続ける。
「じゃあ、今日はおまじないいらないかな」
「いや、して! おまじない、して」
それまで元気だった咲が、打って変わったようにまいねの腕に縋ってきた。その様子にはさすがにまいねも驚いたようにまたたく。
「だって、咲今日元気そうだよ」
「でも……でもお願い。まいねちゃんのおまじないがあれば、咲は嫌な事全部忘れられるもん。先生とお話ししても、けいたお兄ちゃんとお話ししてもダメなの。まいねちゃんのおまじないだけが、咲を助けてくれるんだもん」
まいねは目を細めた。ゆっくりと頷く。
たしかにこのおまじないは、咲にだけ利点があるわけではない。まいねにとっても、あるかないかならば“ある”方がいいものだ。
「……分かった。今日もおまじない、してあげるね」
敷かれた蒲団に膝立ちになったまいねは、そこに座っていた咲の、涙で潤んだ瞳を右手で覆う。
そっと左手を背中に運び、本能的に知っているつぼを二、三度、側面で的確に突いた。すると、咲のからだからフッと力が抜ける。薄く開かれた唇から、紫色の光がゆっくりと踊り出てきた。
それは外気に触れて本来の形を露にする。小さな花びらをたくさんつけた花の姿となれば、中心に向かって薄い紫のグラデーションに変わっていった。まいねのよく知る花で、シロツメクサにも似ているその花は、スカビオサと言う名前らしい。不幸を表す花だ。
咲から吐き出された不幸は、まいねが息を吸えば空気と一緒に口腔へと入ってくる。
こくん、と音を立てて飲み込む頃には、咲は完全に意識を失っていた。自分より体の重い咲を支えきる事が出来ず、まいねは一緒に蒲団へと倒れこむ。
それはいつもの事で、その後に咲の顔色を確認するのも、まいねのいつもの行動だった。
顔色はいい。規則的に寝息もたてている。
ホッと息をつけば、なんだかまいねもどっと疲れて、そのまま一緒に眠りに落ちた。