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2-2

 ――圭ちゃん、少し休んだら?

 母の声が背中に聞こえた。だけど、手を止める気は更々ない。

 もっと、もっとだ。

 もっと練習して、勝たなくちゃ。

 奪われる前に、あいつに。

 あいつに勝たなくちゃ。



「……」

「何放心してんだよ。行くぞ」

「わっ! 引っ張んないでよ」

 翌日、圭太は龍に、半強制的にコンサート会場まで連れて来られていた。

 大きなホールのあるこの会場は、律子がよくコンサートを開いていた場所でもあった。

 そして一度だけ、圭太も演奏をした事のある会場。

 吐き気がした。でも腕は龍にしっかり掴まれているから、逃げる事は叶わない。

 会場に入れば、そこは昔と変わらない世界が広がっていた。オレンジのライトに照らされた廊下は、綺麗に清掃されて塵一つない。行き交う人々も、みな幸せそうに笑っていた。

 受付でチケットを切って貰えば、会場に入る。三百人は入るだろう大きな会場で、圭太は龍の背中だけを頼りに歩いた。

 自分も参加するなら十枚売って来い。そう言われた割には、圭太達の席は真ん中の二列目というベストポジションだ。だけどそれをわざわざ香苗が用意したということを、圭太が感じ取る事は微塵もない。せいぜい、嫌がらせか、と思うくらいだ。

「凄いな。こんなでかいところだとは思わなかった。お前の知り合いって高校生なんだろ?」

 指定席に座って、龍は感慨深げに呟いた。他の客のざわめきや、音響調節のテストの音で、集中しなければ声を聞き逃しそうだ。

「そいつ……伎倉きくらはただの友情出演で、主役じゃないもん。それでもあいつは大分有名だけどさ」

「お前の母親と同じくらい?」

「なわけないだろ。母さんは世界的にだって有名だった。伎倉だってこれからどうなるか分からないけど、高校卒業と同時に母さんは留学したから、それができなきゃ追いつけないだろうな」

「ふーん」

 返事はしても、それがどういうことかはよく分かっていない様子だった。

「龍くんてさ……、音楽に興味ある?」

「いや、ないな。学生時代は勉強ばっかりだったし、クラシックどころか、流行りのJ‐POPとかもよくわからなかった」

 それでよく今日来る気になったな、と圭太は目を丸くした。音楽に興味のない人間がクラシックを聴いても、眠くなるだけだと思う。

 ふと、舞台裏からのバイオリンの音が聴こえた。周りの人間には聴こえていないようだが、何分圭太は耳がいい。

 ベートーヴェンのロマンス第二番だ。誰にでも耳馴染みがあるだろうこの曲は、香苗が圭太によく聴かせてくれたものでもあった。弾いているのは香苗ではなさそうだが、あの頃、それに倣って圭太もよくベートーヴェンを弾いていた。

 ピアノ・ソナタの第一番から第三十二番まで弾きこなしていた頃もあったことを、今になって思い出す。

「圭太?」

 突然何も話さなくなった圭太を、さすがに怪訝に思った龍は、顔を覗き込むように身を屈めた。

 それに気付く余裕のなかった圭太は、ただ一心にフラッシュバックに耐える。

 そんな風にたくさんの曲が弾けた圭太は、当然苦労してピアノを弾いている人間たちに疎まれた。「天才の息子はやはり天才だった」などと書いた記事が出回ったときは、本当に散々な方法でいびられた。

 決して天才ではなかった圭太にとって、それは素直に傷になったのだ。

 ――何が天才だ。あんなものは実力じゃない。ただの人間レコーダーだ。もとある曲を、レコードのままに奏でているだけじゃないか。

 そう言ったピアニストの言葉が、そのまま記事になったこともあった。そしてそれに賛同する人は、圭太の知る限り、ピアノを愛する人のほとんどだった。

 自分には、ピアノを弾く権利がない。大好きなピアノを弾く、資格がない。

 急に、圭太の心は不安に襲われた。嫌だ。ここは嫌だ。このままここにいたら、もっと多くの音楽を耳にする事になる。それは圭太の心を癒しても、潤してもくれない。ただ痛みとなって全身に広がるだけだ。

 この場にいることに息苦しさを感じた圭太は、グッと唇を噛み締めた。不意に腕に圧力を感じて、とっさにそちらを見る。

 龍が、しっかりと圭太の腕を掴んでいた。

「逃げるな」

 言われてから漸く気がつく。いつしか圭太の腰は椅子から浮いていて、体は入り口の方に向かっていた。無意識に、とっさに、圭太はここから逃げようとしていたのだ。

 これは正当防衛だ。逃げじゃない。心でそう思うのは簡単なのに、今度は龍の言葉に反抗する意志も生まれない。だって圭太が、“この会場から逃げようとした事”は事実なのだ。

「……っ」

「座れ。大丈夫だから。お前が思っているほど、音楽はお前の敵じゃない」

 悔しかった。そんなこと、音楽を知らない龍に言われても何の励みにもなりはしないのに、どこか嬉しさを感じた事が圭太は悔しかった。

 大人しく再び席に腰を降ろす。同時に会場の証明が落ちた。

 コンサートが始まってからの移動は失礼に当たる。出て行くなら今がチャンスだというのに、抜かりない龍は圭太の腕を掴んで離さない。

 鬱陶しく思いながら、そこには確実に龍がいるのだという事実が、どこか圭太を安心させた。

 開演のブザーが鳴る。進行係の簡単な諸注意と、演奏者の紹介の後に、当人が入場してきた。盛大な拍手の後に、バイオリンを肩と顎に挟んで演奏を始める。

 奏でられる曲は、どれも圭太の知っているものばかりだった。知らない曲でも、聴けば手が震える。弾きたくなる。弾けないのに、鍵盤を目にすれば、逃げ出す事は間違いないのに、弾きたくなる。

 ――お前が思っているほど、音楽はお前の敵じゃない。

 そうかもしれない。音楽は、圭太を決して裏切りはしないのかもしれない。

でも、守ってもくれない。音楽は圭太を必要とはしていない。

 耳を塞ぐ。目を閉じる。何も見たくなかった、聴きたくなかった。無になりたい。一人は怖いけれど、人のいる世界も怖い。

 一曲の演奏が終われば、拍手が沸き起こる。それが五回、六回と続けば、再び進行係の声が聞こえた。

「皆様、ここで今日はゲストとして、今音楽界を賑わせている高校生バイオリニスト、伎倉香苗の登場でございます!」

 拍手と共に、香苗が会場に入った。真っ赤なロングワンピースに身を包んだ彼女は、とても圭太と同じ高校生とは思えない。

 ふと、香苗と目が合った気がした。

 だけどこのとき、もう圭太は疲れきっていた。これ以上音楽を聴き耐える気力は残っていない。まして香苗は、ピアノを愛し弾き続けていた頃の、圭太の記憶を共有している。彼女の奏でる音は、圭太の思い出をより鮮明に思い起こさせるのだ。

 バイオリンを構えた。弓が弦に触れる。そこから先は、文字通り地獄のような時間だった。


  ***


 全ての演奏が終われば、退場する観客の中に、誰より早く扉を抜けるものがいた。

 どこまで走ればいいのか分からない。何処まで行けば、この心は静まってくれるだろう。

 苦しい。弾きたい。逃げたい。戻りたい。悲しい。愛しい。もう一度。

 弾きたい弾きたい弾きたい。

 先に壁が見えた。その先に進むには、角を左折しなくてはならない。だけど圭太の足は、行き先を阻む壁に手をついて、止まる。

 弾きたいけれど、弾けない事は分かっていた。だって今も、こんなに手が震えている。

 これは、ピアノが弾きたくて弾きたくてたまらなくて、震えているわけではないのだ。圭太の心は、ただ恐れている。幼い頃に受けたあの傷を思い出すことを、再び味わう事を恐れている。

 ピアノは圭太の味方じゃない。

 胸が苦しかった。喉が焼けそうになる。このままでは、圭太の体はどろどろに溶けて消えてなくなりそうだ。

 一体、何がいけなかったのだろう。あの頃、圭太はどうして大好きなピアノをやめなくてはならなくなったのだろう。どうして今、音楽を聴いただけでこんなに恐い思いをしなくてはならないのだろう。

 ――圭ちゃん。

 唐突に、脳裏に浮かんだのは律子だった。天才ピアニストと呼ばれた律子は、死してもなお人々の心にその存在を残している。

 律子が圭太の母親じゃなかったら、圭太は今も、ピアノが弾けていただろうか?

 否、弾けていた。

 律子のせいだ。彼女が母親でなければ、圭太はただ思うままにピアノを弾く事ができていたのだ。有名になりたかったわけじゃない。ただひっそりと、好きな曲を好きなように弾いていたかっただけだ。それを、律子が壊した。

 ――母さんのせいで――!

「圭太!」

 骨が軋むような痛みが走った。振り返れば、龍がひどく焦ったように圭太の腕を掴んで見下ろしている。それに対して、圭太は訝しげに目を細めた。

「何?」

「何考えてるんだ、お前」

 そう言った龍は、何かを恐れているようだった。それが何なのかは、もちろん圭太には分からない。だけど、一瞬龍が圭太の肩越しに後ろを見るから、ピンと来た。

 ――俺の不幸を、見てる。

 律子のことを一瞬でも恨んだ圭太は、その不幸の念を強くしたに違いない。龍は、圭太の不幸の大きさを恐れたのだ。それだけ圭太は、人にない不幸を背負っている。

 一度俯いた圭太は、龍の腕を振り払って体を背けた。壁に肩をもたれさせる。

「何って……、分かんないの? 俺が今感じる事なんて一つしかない。俺、嫌がったよね? 音楽なんか聴きたくないって言ったよね? あの会場から出ようとしたよね?」

「圭――」

「音楽が敵じゃないことは知ってるよ。俺がピアノ弾けなくなったのは、俺のピアノを批判する大人達のせいだ。でも、俺だって努力したんだよ? 誰にも文句なんか言われないくらい巧くなろうって、何回も何回も練習したんだよ? でも大して巧くなんかならなかった。いくら敵じゃなくたって、味方じゃないなら意味がない。意味ないんだよ! 何が俺を癒すだよ? これがあんたの癒し方なのかよ? 母さん恨ませる事が俺を癒す事になんのかよ!?」

 体を壁から離せば、龍に向き合って一気に怒鳴りつけた。一息に言ったので息が上がる。ゆっくり肩で息をして、圭太は龍を睨みつけた。彼は何も言わない。やり方を間違えたと自負しているのかもしれない。

 でもその態度も、今はただ圭太を苛立たせた。

「何とか言えよ? 俺を癒すんだろ? またピアノ弾けるようにしてくれんだろ? なあっ!」

 一度たりとも、圭太は龍から目を逸らさなかった。逸らしたら負けだ。俺は間違ってない。嫌だった、苦しかった。龍くんはそんな俺の気持ちを、全く理解してくれていなかったんだ。

「圭太!」

 不意に、この雰囲気にそぐわない明るい声が、圭太の名前を呼んだ。そういえば、ロビーで会おうと言われていたことを思い出す。まったく、彼女も彼女で、簡単に人前に出てもいい存在ではないというのに。

 深い溜息をついてから、圭太はゆっくりと振り返った。真っ赤なドレスを目立たせないためにか、黒いロングコートを羽織った香苗が、こちらに向かって駆けてくる。

 それでもオーラなのか、そこを行き交う人々は皆、そこに伎倉香苗がいることに気がついていた。彼女は芸能人でないから、馴れ馴れしく声をかける者もいなかったが。

 圭太の元にたどり着いた香苗は、一度二度短く息をしてから、晴れ晴れと顔を上げる。

「良かった、ちゃんと来てくれたのね。ステージからも見えてたんだよ。思わず手を振りそうになっちゃったもん」

「そう……」

「どうだった、久しぶりの音楽は? またピアノ弾きたくなったんじゃないの?」

「……」

「あのね、あたしのバイオリンの先生、有名なピアノの講師とも知り合いなのよ。最近可愛がってた生徒さんが留学しちゃったから、新しい生徒を欲しがっているらしいの。習ってみない?」

「……いいよ、俺は」

 どうしてか圭太は、香苗には自分の感情を露に怒鳴りつける気にはなれなかった。香苗は女の子だし、古い自分を知っているから、傷つけたくないし、弱いところを見せたくない。

「そんなこと言わないでよ。おばさんの息子だってことは言ってないの。だから気兼ねする事なんてないんだよ? ……あ、こんにちは」

 そこで漸く、香苗は龍の存在に気付いたらしかった。どこか声音を高くして、小さく頭を下げる。不意にこちらを見た香苗と合った目が、「誰?」と訊ねていた。

 圭太はぎこちなく龍を見て、香苗に向きなおる。

「……この人は、柳沢やなぎさわ龍くん。父さんの助手のカウンセラーだよ」

「はじめまして。圭太の友達って君だったんだね。バイオリン聴かせてもらったよ。音楽は詳しくないんだけど、でも上手だった」

「ありがとうございます。あ、あたし、圭太の幼なじみの伎倉香苗です。柳沢さんって若そうですね。おいくつなんですか?」

「二十四だよ」

「え? じゃあ……七歳差? 大学は出てらっしゃるんですよね?」

「うん。今二年目。ちょうど研修が終わるころに、篠塚先生が助手を探しているって言うから、まだまだ未熟なんだけど雇ってもらったんだ」

「へえ〜」

 先ほどから、自分を無視して話を進める二人に、圭太はどこか嫌悪し始めていた。大体、香苗は明らかに声音が違うし、龍も自分と話すときとは雰囲気がちがう、と思う。

 別に圭太は、二人を惹き合わせるためにここに連れてきたわけではない。

 それが二人ともに対するやきもちなのだと気づく事はなく、圭太はただ早く帰りたいと顔をしかめ続けていた。

「――四条しじょう圭太?」

 だから、その声は唐突だった。

 四条、それは圭太の旧姓で、そう名乗っていたのは十二歳になる前までだった。だから、かかった声に聴き覚えはなくてもこれだけは分かる。

 ピアノを弾いていたころの俺を知っている。

 圭太は振り返ることができなかった。そしたら、変わりに香苗が口を開く。

亜門あもんじゃない。いたの?」

 ――ドクン。

「香苗ちゃんも久し振り。今日のコンサートの主催者、知り合いなんだ。香苗ちゃん、またうまくなったんじゃない? しかも綺麗になったね」

「香苗ちゃんて呼ぶのやめて。あと、あんたに綺麗って言われても嬉しくない。このフェミニスト」

「酷いなあ。……四条圭太だよね。俺のこと覚えてる?」

 亜門と呼ばれた男が、再び圭太に声をかけた。

 覚えているなんてものじゃない。忘れるわけない。圭太は、彼との決戦に敗れてピアノをやめたのだ。

 前阪さきさか亜門。かつて同じ音楽スクールで、律子にピアノを習っていた圭太のライバル。振り返ることができなくて、圭太はただ大きく肩で息をした。

 ふと、龍が圭太の肩を支える。

「――ごめん。俺達この後用があるんだ。悪いんだけど、話したかったらまた連絡してくれ」

 その手のぬくもりが、圭太の意識をなんとか留めてくれた。悔しい。こんな風に助けられるから、圭太は龍が嫌いになれない。


 二人が去った後、亜門はふう、とため息をついて、長い前髪をかきあげた。

「嫌われたもんだね、俺も」

「亜門、ここに圭太が来るの分かってたの?」

「分かるわけないじゃん? 偶然だよ。でも、一回会いたかった。あいつがピアノしてないと、俺張り合いなくて困るんだよね」

 隣の香苗に、にっこりと笑いかける。いつの間にか、亜門の名前は世界中に広まっていたが、それでも彼が興味を持つピアニストは、篠塚圭太以外にいない。

「だったら素直にそう言えばいいのに。わざと四条なんて呼ぶから、嫌がられるのよ」

 的確な香苗の指摘に、亜門はしてやられたように笑った。


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