1-3
――圭ちゃん、もうその曲覚えたの?
律子の声がした。ふとそちらに目を向ければ、母親の感嘆じみた瞳が見える。
だから圭太も、得意げに笑った。
曲を覚えるのが好きだった。自分の指がリズムを奏でることが、なんだかひどく誇らしいことのように思えた。
毎日当たり前のようにピアノが弾けるのが、圭太の至福だった。
小鳥がさえずっている。空と同じ色をしたカーテンから光が溢れ、部屋一面が水色に照らされているのを受けて、圭太は目を醒ました。
「……」
何だろう。何となく、体が軽い。目覚めがよく、いつもの億劫さが微塵も感じられない。
体を起こして時計を見たら、普段圭太が起床する時刻より一時間も前だった。だけど、決して眠りが浅いわけではなかったし、幸せな夢すら見た気がする。こんな朝は何年ぶりだろう。
ふと、龍のことを思い出した。
圭太は部屋を見回して、それから自分のいるベッドを見た。
そこに自分以外の人がいた面影はなく、扉も、眠る前同様に猫が一匹通れる分だけ開いている。
あれも、夢だったのだろうか。
「……どんな夢見てんだか」
前髪をかきあげるように額に手をやって、圭太は小さく溜息をついた。朝の風に、外の木々がさわさわと揺れている音がする。
「ピアノ……」
弾きたい、と突然に思った。いや、落ち着け、弾けるわけがないだろう。
感情がこもっていない。母親には負ける。大した才能はない。ただ見本どおりに弾いているだけだ。情けない。あれでピアニストの息子か。
――それが、何だ。
唐突にそう思えば、圭太はベッドから出た。かつて様々な人間からかけられた非難の言葉。だけど今、それは雀の雛が鳴いているのと同様に思える。どうして自分は、あんな大人たちの言葉に傷付いていたのだろう。
階段を駆け下りた。頬に当たる風が気持ちいい。長い間ノブに手を掛けることすらしなかった、真白な扉を開け放って、数年ぶりにあの黒い輝きを見た。
弾きたい、弾きたい、弾きたい。
最後にこのピアノと向き合ったのは、確か十一歳の時だ。あの頃、ピアノは圭太の知る何より大きくて、偉大だった。今は体も大きくなって、ピアノより大きなものがこの世に存在する事を知っている。それでも改めて近くへ寄って見てみれば、やっぱりこのグランドピアノが一番偉大だ。
ゆっくりとピアノに近付き、鍵盤の蓋を開いた。白黒白、黒白白、黒。懐かしい羅列が視界に飛び込んでくれば、圭太は泣きたいような衝動に駆られた。
ポーーン。
一つ鍵盤を押して音を聴けば、もう何も迷いはなかった。椅子に腰を降ろし、思いつくままに旋律を奏でる。初めてピアノ教室で習った曲。毎朝母がここで奏でていた曲。発表会で弾いた曲。コンサートで聴いた曲。思いつく曲がなくなれば、町を歩いている時に耳にした話題の歌手の曲まで奏でて見せた。
この世界は、音で溢れている。昨日まではそれが嫌でたまらなかったが、今日はそれが嬉しくてたまらなかった。圭太は音楽が大好きだ。それをいつでも奏でる事が許される、この世界は楽園だ。
「圭ちゃん!」
ビクッ、と圭太は身震いした。夢から醒めたように鍵盤から手を離し、扉へと目をやる。
「あ……、父さん。おはよう」
扉で佇む恭平は、切羽詰ったようにこちらを睨んでいた。まるでそうしなければ立っていられないかのように仁王立ちをして。
「おはようじゃないよ。……こっちへおいで」
「待って。俺ね、ピアノが弾けるんだ。父さんにだって聴こえたでしょ? なんでか分かんないけど、起きたらピアノが弾きたくて。ねえ俺、もう大丈夫なんだよ。誰に何言われても、きっともう何とも思わない。俺、またピアノ弾けるよね?」
嬉しかった。ピアノをやめたのは、決して嫌いになったわけではなく、弾く事ができなくなったのは、圭太の意思ではなかった。
こんな風にピアノを再び奏でられる日を、ずっと待っていたのだ。
恭平なら、それを手放しに喜んでくれると思った。恭平はそういう人だった。しかし、
「いいから、おいで。話はそこでする。これ以上ピアノは弾かない方がいい」
「何で? 父さんだって、俺がもう一度ピアノ弾けばいいって、思ってたでしょ?」
「君がもう一度ピアノ弾く事は、今はできない。早くおいで。龍くんも待ってる」
そう言うなり、恭平は踵を返してリビングへと向かったようだった。恭平が圭太にカウンセリングを勧めていたのは、もう一度ピアノを弾いて欲しいからだと思っていた。しかし、そうではなかったのだろうか。
このまま反抗的にピアノを引き続けるのは、なんだかいけないことのような気がした。鍵盤の蓋を閉めてから廊下に出て、扉をきっちりと閉める。どのみちこれから学校だ。帰ってきてから続きを弾けばいい、と頷いてから、圭太はリビングへ向かった。
リビングには大きな窓がある。そこに朝日が差し込み、春色のリビングは眩しさを感じるほどに照らされていた。
しかしその雰囲気とは裏腹に、恭平は龍の向かいの一人掛けソファに座り、まっすぐ彼を睨んでいる。龍は弧を描くソファの端――位置で言う恭平の正面――に座っていたので、圭太は丁度二人の間だろう、龍から人一人分ほどの距離を空けて隣に座る。
横目でちらりと、龍を盗み見た。恭平は何故、こんなにも怒っているのだろう。正直彼の怒ったところなど見たことはなかったし、昨日はあんなに仲のよかった二人が、こんな状況になっている理由も分からなかった。
唐突に、龍が恭平に向かって頭を下げる。
「すみませんでした!」
圭太はビックリして龍に顔を向けた。一体、二人の間に何があったというのだ。
「謝るのは僕じゃないだろ」
と、恭平が冷たい声で言うと、龍は視線を圭太に向けなおした。二人の視線が、かっちりと合う。
「ごめん」
「ちょ、待って。何で俺に謝るの? 龍くん別に、俺になにもしてないじゃん。昨日俺の話聞いてくれたのは感謝してるし……そうだよ、多分龍くんのおかげなんだ。俺ね、どんなに頑張っても弾けなかったピアノ、弾けるようになったんだよ」
まるで言い訳のように、圭太は当て推量じみた台詞を吐いていた。言葉は声にすることで、それが事実かのように神秘的に響く。
実際、圭太はピアノを弾けた理由と龍を繋げて考えた事は、今この瞬間までなかった。だけど、今の状況がなんだか嫌で、嫌な予感ばかりを運んできて、圭太は反射的にそう口走っていた。それでも言ってしまえば、それが一番あり得る理由だと思える。
「たしかに、龍くんのおかげだよ」
ぽつりと、恭平が口を開いた。圭太の視線がそちらに向いた事を確認して、言葉を続ける。
「そして、龍くんのせい(・・)だ」
「何が……?」
「圭ちゃんの不幸が、綺麗さっぱりなくなっている。あんなに重そうなくらい抱えていた不幸が、今は微塵も見当たらない」
頭の中が「?」で埋め尽くされる。俺の不幸? 俺はそんなに見て取れるくらい、不幸を公にしていたのか?
そんなに自分は被害妄想が強かったとは、全く思わなかった。
「あの、よく分かんないんだけどさ。俺が不幸じゃなくなっているんなら、それでいいんじゃないの?」
「そうだね。でも圭ちゃんは、自分でその不幸を乗り越えたわけじゃない。不幸は喰われればその人の心からは消えるが、決してその人自身が強くなるわけじゃない」
眉間に皺が寄る。ちらりと見た龍は、申し訳なさそうに俯いていた。しかし圭太には、二人の言葉と態度の意味が、まだ全く理解出来ない。
「父さん、喰われるって、何?」
思い切って、一番気になったことを訊ねると、恭平はふと目を逸らした。しばらく考えるように黙り込んでいたが、やがて思い切ったように恭平はまっすぐ圭太を見つめる。
「吸血鬼って、わかるよね」
「人の血を吸う魔物でしょ? ニンニクと十字架に弱い」
「そう。吸血鬼の存在は、今は世界中に知れ渡っている。そして、これはそんなに知れ渡ってはいないんだけど……それに似たもので、世界には人の不幸を喰う、不幸喰いが存在するんだ」
「不幸……喰い?」
初めて聞く言葉に、圭太はただただ顔をしかめた。不幸喰い。不幸を喰うもの。不幸を喰われたのは……俺?
ふと、昨夜のことを思い出す。あの時、圭太は確かに龍にキスされた。夢だと思ったあれが、もし現実だったなら……。
ばっと、視線が顔ごと龍に向く。瞼に力が入るのが分かった。何度も瞬きを繰り返す。
「龍くんが……、不幸喰い?」
「……ああ」
苦しげに、龍が相槌を打つ。
「龍くんは、人間じゃないの?」
「龍くんは人間だよ。吸血鬼を例に出したのは、その方が分かりやすいと思ったからだ。この力はね、言わば霊感なんかと同じなんだよ。霊能者が除霊なんかをできるように、不幸喰いは人の不幸が見えて、それを喰うことができる。喰った不幸は体に蓄積されて、一週間程かけて消化されるから、それまでの間になら人に不幸を与える事もできる。――つまり、今ならまだ、圭ちゃんに不幸を返すことができるんだ」
龍に問い掛けた疑問だったが、そう答えてくれたのは恭平だった。つまり、これは一種の特殊能力というやつか。
「父さんは、どうして不幸喰いについてそんなに詳しいの?」
別に大した答えは期待していなかった。カウンセラー学校で聞いたことがあるとか、参考文献にそんな逸話が載っていたとか、せいぜいそんな程度だと思っていた。しかし、恭平は再び俯いてしまう。
「……不幸喰いには、一つだけ共通点がある。それは、彼らには皆、同じ形の痣があるんだ」
「痣?」
と問うと、龍がおもむろに、羽織っていた半袖のパーカを脱いだ。圭太に見せるように、右肩にある痣を寄せる。
小さな角がいくつも見受けられる、花火のような、シロツメクサのような痣。その形に、圭太は見覚えがあった。
昨晩、意識を飛ばす直前に見た、なんてものじゃない。もっと昔から、圭太はその形を知っていた。
恭平の――背中に。
「父さんも、不幸喰いなの?」
小さく、恭平は頷いた。眩暈がした。
不幸を喰う者。特殊能力者。……違う。そんな綺麗な言葉で片付けられるものか。
偏見するつもりはない。それでも、人の不幸を喰うなんて――
異端だ。
「そういうことだから。……とにかく、龍くんは圭ちゃんに、不幸を返してやってくれ」
「……はい」
恭平と龍の会話が、まるで一枚のフィルターを隔てたように遠くに聞こえた。右から左へ流れた声が、ふと圭太の心に引っかかる。
――不幸ヲ返シテヤッテクレ。
「っ、だ……、嫌だ!」
「圭ちゃん?」
おもむろに圭太は立ち上がり、龍の前を通って此処から逃げようとした。しかし逃げ遅れた右腕を、龍にガッチリと掴まれる。
「離して、やだっ。返さなくていい、俺は今のままがいい!」
「圭太っ……」
「ピアノ、弾きたいっ! 今なら弾けるんだ。弾きたいんだ! お願い、龍くん。返さなくていい。不幸なんていらない! ねえ龍くん、お願いだから!」
駄々をこねる子供のように、圭太は龍の胸に縋った。涙が溢れそうになる。もしかしたら、もう溢れているのかもしれない。
不幸を返されたら元の生活に逆戻りだ。ピアノを弾けない事を、音楽が嫌いだからと言い聞かせて、溜まり溜まったストレスを否定して、自分は病気じゃないと意地を張る。
だけど、今の圭太に同じことができるとは思えなかった。一度ピアノを弾く歓びを思い出してしまった自分が、それを否定することなどもうできないと思った。
この世界は、音で溢れている。流行りのJ‐POP、物静かなクラシック、激しいジャズ、小鳥のさえずり、波のざわめき、川のせせらぎ、木々の擦れる音に、風の吹きぬける音。人の足音も。
この世界で生きている限り、圭太は、“圭太は”、音楽から抜け出す事が出来ないのだ。
「お願い、お願い……!」
何度も、圭太は懇願した。五年前のあの日、どうしてピアノをやめたのだろう。やめられたのだろう。
こんなに大好きな音楽を、どうして自分から手放したのだろう。
「圭ちゃん」
ただ一言、「分かった」と言われるのを待っていた圭太は、期待の眼差しで恭平に目を移した。
「圭ちゃん、圭ちゃんの体は、圭ちゃんのものだろう?」
ゆっくり、首を縦に振る。
「圭ちゃんの心も、圭ちゃんものだ。圭ちゃんが今まで溜め続けた不幸――ストレスも、圭ちゃんのものだ」
「……」
「圭ちゃん、今の君に、ピアノが弾けるのはほんの一時だ。もし、また心のない人間に《実力が足りない》とでも言われたら、君の心は初めてそれを言われた時と同じほどに傷付く。思い出して。初めてピアノを否定されたときと、二度目に否定されたとき、どっちが辛かった?」
そんなの、一度目に決まっている。二度目以降は、心のどこかに言われるだろうという覚悟があった。だけど一度目は、無防備な、それこそ裸で茨の海に入れられたようなものだ。自分を守るために服を着ていた二度目以降とは到底傷の具合が違う。
今の俺は、裸同然のあの頃と同じ?
確かに今の圭太に、あの頃の痛みなど思い出せない。どちらの方が傷付いたかと聞かれれば、それは「情報」として思い出すことができるが、まるで他人の体験談を語っているような感じだ。
「分かるだろう、圭ちゃん。君は決して乗り越えたわけじゃあない。きっとまたピアノが弾けなくなる、どころか、あの頃以上に、大きな傷が残る事になるかもしれないんだ」
分からない。だって圭太は、昨日までの自分がどうして、どんな風に傷付いていたのか、全く覚えていないのだ。
それでも、ピアノを弾けない自分は確かに存在した。その「情報」は、今も圭太を支配してくる。それ以上、圭太は反抗の声を上げる事ができなかった。
恭平がもう一度、龍に「返してやってくれ」と言う。掴んでいた腕をぐいと引かれて、圭太の体が龍の方を向いた。
反抗する事を忘れていた体は動かず、ただ視線が龍を捉える。
「……また、チューすんの?」
案外あっさりと、圭太はそう訊ねた。思い出しても嫌悪しないのは、それがただただ夢のように思えるからだ。バツが悪そうに、龍は視線を泳がす。
「あれは……、あの方法が、一番手っ取り早いんだ。他にも不幸を行き来させる方法はある」
そう言って、空いていたほうの手が圭太の目を覆う。視界が龍の指の間から漏れる光だけになれば、それは決まった行為のように、圭太はゆっくり目を閉じた。
「口、開けろ」
言われて、薄く唇を開いた。
外界で、一体何が起こっているのだろう。それは分からないが、ただ圭太の脳裏には、今朝起きてからの自分が走馬灯のように駆け巡る。
楽しかった。あんなに楽しくピアノを弾いたのは、きっと十年ぶり……多分それ以上だ。それが、もうできなくなる。傷は乗り越えられても消える事はない。あんな風に純粋無垢にピアノを弾く事は、もう一生できないのだ。
真っ暗な世界で、圭太の心はただ絶望だけを思い浮かべていた。