1-2
「……」
「……」
お互いの間に、一切の会話もないまま既に三分は経過しただろうか。圭太はただ冷静に、
相手が誰なのかを分析していた。
耳にかかる程度の短い髪は茶髪で、身長は圭太より五センチ以上は高そうだ。ややつり目だが、目は大きく、少し子供っぽくも見える。でも、自分よりは断然年相応の顔つきだろう。詰襟の真白な上衣とその対なのだと見て取れる白いズボンは、ドラマなどでよく見る、《研修医》と呼ばれる者が着ている服に似ている。だとしたらつまり、この人が今朝恭平の言っていた人物だろう。
「あんた……助手さん?」
そう圭太が訊ねると、男は一度瞬いた。先ほどの視線が観察するようであれば、今度の視線は言葉に詰まっているようだった。
「……」
質問に答えてもらうことができなければ、他にかける言葉も見つからなくて、圭太も再び黙り込んでしまう。
いや、それにしても、先ほどからこの人の視線はなんだか不愉快だ。
一度も言葉を返さないまま、男はただ圭太に見入った。その視線は、圭太を見ているわけではなく、圭太の後ろに注がれている気がする。真後ろは流し台だし、何か珍しいものがあるわけではないだろう。訝しげに、圭太は一度振り返って自分の背後を確認した。もちろん、何もない。
「何見てんの?」
再び男に向き直り、嫌悪露に訊いてやる。男はハッとしたように肩を震わせてから、あからさまに圭太から視線を逸らした。
「いや……、何でも。……でかくなったな」
「は?」
でかくなった。それはつまり、小さい頃の圭太を知っているという事か? しかし圭太の記憶に彼のような男性は存在せず、恭平からもそんな話は聞いていない。
「俺の、知り合い?」
彼が自分より七つ上と言うことは恭平から聞いていたし、本当に圭太が覚えていないだけかもしれない。不思議そうに頭を掻いたり撫で付けたりしながら、まっすぐに視線を男に向けてみた。
しかしその問いに、彼はおもむろに「あ」と口走る。
「いや、覚えてないならいい」
その言葉に、圭太は眉間に皺を寄せて目を細めた。なにそれ。「あ」とか口走っといちゃって、まるで俺に聞かす気はなかったみたいな態度取りやがって。
腹が立った。だったらいい。圭太は体ごと男に背を向け、使ったコップを洗い始める。
「……診療所戻らなくていいの? それとも仕事もう終わったんなら、さっさと着替えてくれば?」
時刻はもうすぐ五時。たしかに診療は終わる時間だ。しかし背後から、男が去ったけはいはない。それでもこれ以上自分から声をかける気にはなれなくて、早くいなくなってくれることを願いながらただ片付けを続けた。
洗ったコップの水を切って、脇の台に逆さに置く。ペットボトルの蓋を閉めれば、それを冷蔵庫に戻した。例の湿気の冷えたような匂いが、より圭太の嫌悪感を煽る。部屋で着替えようと踵を返すと、一歩たりとも移動していない男が目に付いた。
いい加減我慢も限界で、睨むように男を見上げる。さっさと隣を通り過ぎてやろうと歩を進めながら。しかし本当に男の隣に来たところで、その足は遮られた。しっかりと男に二の腕を掴まれる。
「何なの、ほんとに?」
横目に睨むと、男も困ったように目を細めてから圭太を見返した。
「……何か、楽しい事とか、興味のあることはあるか?」
「は?」
突拍子な質問に、圭太は怪訝な声を返した。何だというのだ。これが彼なりのコミュニケーションのとり方なのか?
「何でもいい。勉強とか、運動とか、漫画や芸能人でもいい。何か、見たり聞いたりして、楽しいものはないのか?」
「ねえそれって、俺の趣味が知りたいの? だったらないよ。俺は今、何をしてても楽しくない。興味もない。だって楽しいのなんて一時だけじゃん。飽きたり、奪われたり、否定されたり。いつかどういう形でか失うんだから、最初から興味なんか持たない方がいい」
男は、表情も変えずに圭太をじっと見ていた。そういえば、この人もなりたてとはいえカウンセラーか。言われる前に、圭太は彼が紡ぐだろう言葉を言ってやった。
「……こんな俺は病気だと、あんたも言うんだろ」
否定的な考え方も、反抗的な姿勢も、無関心な態度も。全ては圭太が幼い頃から蓄積させたストレスのせいだと、それには心を癒す為の治療が必要だと。
律子が亡くなって、圭太が高校に入学する頃まで、恭平は何度かそんな言葉をかけてきた。病気だとはっきり言われた事はないが、つまり言いたかったのはその一言に尽きていたはずだ。
「あれ、二人ともどうかした?」
男の口から答えが紡がれる前に、渡り廊下の方から男性の声がした。今度はよく見知った人物のものだ。
「……診療終わったの?」
言葉でごまかしながら、圭太は男の手から自分の腕を引き戻した。恭平は白衣を脱ぎながらにっこりと笑う。
「うん。圭ちゃんは龍くんと話してたんだね。もう仲良くなれた?」
圭太は何も答えなかった。その様子に事情をのみこめば、恭平はすぐに人のいい笑みを浮かべて龍を掌で指す。
「圭ちゃん、彼は朝話した住み込みアシスタントの柳沢龍くん。今年で二十四歳だから、圭ちゃんとは七つ差だよ」
瞬間、こちらを見た龍と視線がぶつかった。それが気まずくて、圭太はふいっと顔を逸らす。
「そして龍くん、この子が僕の息子の圭太。仲良くしてあげてね」
そんな言葉はいらないと、圭太は恭平と、それにうなずく龍をばれないように睨んだ。
恭平は、言葉を続ける。
「さて、じゃあ僕は夕飯の買物に行ってくるね。龍くんは何が好き? せっかく新しい家族になるんだから、今日は歓迎パーティだ。なんでも好きなもの作るよ」
「え? ああ……じゃあ、カレーで」
「カレー? 分かった。じゃあ買物してくるから、二人で仲良くね」
龍の平凡な注文に、恭平は笑いながら財布と車の鍵を掴んでダイニングを出て行った。
数秒して、玄関が閉まる音がする。続いて車のエンジン音と発進音がした。
「圭太」
それを見計らったかのように、龍が声を掛けてきた。呼び捨てかよ。
母親すら、比較的圭太をちゃん付けにしていた中で、呼び捨てにしたのは香苗と二人目だ。
「何?」
「悪かったな、変なこと聞いて」
「……俺は謝って欲しいんじゃないよ」
そう言いながら、扉を開け放ってダイニングと続いているリビングに入る。クリーム色の上質なソファに腰かけて、テレビをつけた。まっすぐ部屋に戻らなかったのは、龍がこの後どう行動してくるのか、気になっていたからかもしれない。
「……病気だと、言われた事があるのか?」
「ないよ、父さんにはね。でも治療を受けろとは何度も言われた。俺は人一倍ストレスをためやすいんだって。今は症状ないけど、自律神経失調症? なんかそんなような病気になりやすいらしいから、せめて今あるストレスは解消して欲しいみたいだね」
「随分軽く言うんだな」
パチン、パチンと面白い番組がないかチャンネルを回す。数メートル離れた龍の声は、一向にその位置を変えなかった。まだ一歩も、場所を移動していないのだ。
「父さんも、母さんも……大袈裟だったんだ。俺は病気じゃないし、別に言うほどストレスだって溜まってない。みんなが気にしすぎなんだよ」
パチン、パチン、パチン。まるで気を紛らわせるように、圭太の指はリモコンのボタンを押し続けた。自分が何を見たいのか、どんな番組が《面白い》のか、圭太自身もう分からない。
「篠塚先生は立派な医師だ。お前が言うほど、彼の言葉に根拠がなくはないぞ」
「じゃあ柳沢くんは、俺のどこにストレスが溜まってるって言うんだよ?」
そう訊ねる圭太の声は冷静だった。だけど視線はテレビから逸らされることなく、手は忙しくリモコンを弄っている。
「あんただって、立派じゃなくてもカウンセラーだろ? だったら言えよ。俺のどこに、ストレスって言葉を見出すの? なんで俺を、病気だなんて言えんの?」
パチン、パチ……
「もういいだろ」
龍の声が唐突に近くなったと思ったら、制止するように、彼の手はリモコンを持った圭太の右手の上にあった。自分が無意味にチャンネルを回し続けていた事に、圭太は愕然とする。全身の力がドッと抜けて、リモコンは手ごと、カチャンと机に落ちた。
「お前が病気だとは言わない。だけど圭太。お前は確かにどこか、情緒不安定なところがある。病気じゃないと思うなら、その言葉にそんなに過敏にはならないんじゃないか?」
ソファに合わせて彩られた真白なカーペットの上で、龍は膝立ちして圭太を見上げた。視線が自分より下にあるのは、どこか素直な気持ちにさせてくれる。
龍の真っ黒な瞳は、吸い込まれそうなくらい綺麗で、圭太は何となく彼に心を許したくなった。
「……一回、母さんに、俺は病気だと言われた。俺昔、ピアノやってたんだ。でもそれやめたら、母さんは――ピアニストだった母さんは――俺がピアノをやめたのはストレスのせいだって。父さんに治療してもらって、もう一回ピアノやろうって……」
「お母さんに言われたのが、ショックだった?」
穏やかに、龍が訊ねてくる。圭太は小さく首を横に振った。
「ショックだったんじゃない。むかついたんだ。俺がピアノをやめたのは、母さんが原因だった。その母さんに、ストレスだの治療だの、ましてまたピアノやろうだの、言われたくなかったんだ」
努力なんて、そんな言葉に何の意味があるのだろう。音楽や芸能や、作家なんてもの、所詮は一握りの人間しか上へは上れない。そしてそれは、努力よりも才能だ。
圭太には、才能がなかった。彼が持つ力は、何の役にも立たないものでしかなかった。
だから圭太はピアノをやめた。律子を妬んだ。自分がピアノの音に吐き気すら催すのを知っていて、毎朝美しい旋律を奏でる律子が、恨めしくて仕方なかった。
「母さんなんか……」
嫌いだ。一度、それを口に出して言ったことがある気がする。いつだったかは覚えていないが。
でも、今口にできなかったのは、律子がもうこの世にいないからかもしれない。嫌いだけど、圭太は律子を愛している。父親を早くに亡くした圭太にとって、律子はたった一人の肉親だった。そして律子も、忙しい毎日を感じさせないくらい圭太を愛してくれた。あの腕に抱きしめられたことが、一体何回あるだろう。愛しくて、憎い。でもそれは、きっと一般的な親子の在り方だ。
「……うん、それだけ。口にしたら、ちょっとだけスッキリしたよ。柳沢くんもやっぱ、一応カウンセラーではあるね」
半分以上は厭味としてそう言いながら、圭太は微笑を浮かべた。龍は無表情のままだ。医者として圭太に接していたから、何を言われても動じないんだろう。そんな龍の表情が一回の瞬きを境に、少し穏やかなものに変わった。
「龍でいい。長いだろ、柳沢って」
圭太はきょとんとした。その言葉が、自分の龍に対する呼び方のことだと理解するのに、数秒掛かった。小学生の頃は、友達なんて自然にできていたし、中学高校は呼び方をどうこうなんて話すほどの友達は作らなかった。だからこんな掛け合いは、おそらく生まれて初めてだ。
「龍……くん?」
気恥ずかしいような、くすぐったいような感情を隠しきれずに、圭太は小さく龍の名を呼んだ。しかし、龍は不満げに眉を寄せる。
その龍を思案するより先に、初めて表情を変えた龍が、圭太には新鮮だった。
「《くん》とかいらねえよ。呼び捨てでいい」
「えっ? でも……」
反射的に、圭太は反論の声を上げる。自分より身長も高く面持ちも大人な相手を、そう簡単に呼び捨てにはできないだろう。
「呼んでみろ、ほら」
そう言って、龍は立ち上がった。先ほどまで自分を見上げていた視線に、今度は見下ろされていると思っただけで、どことなく不快で、嫌な気持ちになった。
「龍、くん」
「……」
「龍くん」
一度目は、まだどこか遠慮していたが、二度目に龍を呼ぶときは、はっきりとくん付けにしてやる。これはささやかな反抗と、意思の主張だ。
「……頑固だな、お前も」
はああ、と盛大に溜息をついてくれる。ムッと、圭太は顔をしかめた。
「俺、間違ってないだろ? 年上呼び捨てになんかできないし、きっとそうしてたら、父さんにも直せって言われるよ」
「そういうところは、《父さん》の言う事を聞くのか?」
間髪入れない龍の指摘に、圭太は息をのんだ。自分は、父を言い訳に使った。なんと子供じみた行動だろう。恥ずかしさから、頬がカッと熱くなった。
「あっ、揚げ足取るなんて、最低だ。あんたそれでもカウンセラーかよ」
「勤務時間はもう終わってる」
「仕事中しかカウンセラーとしてはいないって? バカじゃねえの。そんなの言い訳だろ。あんたは朝も昼も夜もただのカウンセラーだよ!」
龍の言い分が気に入らなければ、圭太は一気にそう捲くし立てて息をついた。なんで俺、赤の他人で今日まで存在も知らなかったこの人に、こんなに腹を立てているんだろう。
ソファのカバーをぎゅっと掴む。薄手のそれは、掌に爪が食い込むのを遮ってはくれなかった。
「圭太」
「……何?」
「お前は俺にカウンセリングして欲しいわけじゃないんだろ」
逸らしていた視線を、ゆっくり龍へと上げた。この人は、いままで俺が出会ってきた人たちと、何かが違う。俺の欲しい言葉をくれるわけでは決してないけれど、気持ちだけは、他の人間より察してくれているところがある気がする。
だから圭太は、龍の言葉にゆっくり頷いた。
「だったら俺は、お前に対してカウンセラーとして接する気はねえよ。だから、もしお前を癒したいと思っても、それはカウンセラーとしてじゃない。柳沢龍として、お前の話を聞くし、アドバイスもする。そこまで嫌とはいわねえだろ?」
「……じゃあやっぱり、龍くんも俺を、病気だと思うの?」
「お前は別に病気じゃねえよ。でも、これからどうなるか分からないし、ストレスを溜め込んでるのは確かみたいだから、それは気になるかな」
恭平も、龍も、どうして大した話をしたわけでないのに、圭太がストレスを溜め込んでいると分かるのだろう。カウンセラー学校では、そんな人間の見分け方まで習うのだろうか。
圭太はまっすぐに龍を見上げた。最初に感じた嫌悪感は、今はそれほどにはない。
きっと、圭太が龍に言えなかったことを話せたのは、彼が他人であることと同時に、それが龍の才能だからだ。龍は、圭太の、人の傷に敏感なのだと思った。
不意に、車のエンジン音が聞こえた。聞き慣れたこの音は、恭平の車だ。
「父さん、帰ってきた」
視線を玄関の方へと向ける。晩御飯はもうすぐか、と思ったところで、自分がまだ制服である事を思い出した。
「龍くんもまだ着替えてないじゃん。行こう。父さんすぐご飯作り出すから、一時間くらいで晩飯だよ」
早口にそう声を掛けて、圭太は龍の隣を通り過ぎた。リビングから廊下へは出られないため、一度ダイニングに出てから、廊下へと抜ける。そこを左、右、右、と曲がれば、右手に階段が見えた。
折り返しの階段を半分ほど上ったところで、圭太はハッとする。いつもは嫌というほど気になるあのピアノの部屋を、今はすっかり素通りしていた。龍に話したから? いや、しかし、あんな事は圭太の傷のほんの一部でしかない。
それでも確かに、龍の存在は圭太に影響しているということなのだろうか。
「……何ほだされてんだか、俺」
こそばゆさを隠すようにそう言って、圭太は残りの階段を駆け上がった。
父さんのカレーは、いつも通りおいしかった。大人二人はビールまで出してすっかり盛り上がってしまったため、圭太は早々に退場したが、二人が二階に上がってきたのは九時を過ぎた頃だった。
何をそんなに話すことがあるのかは知れないが、同じ職業を選択するものとしては、それなりに共有できる悩みや話題があるのだろう。
テレビを見るのが嫌いな圭太は、予習復習を適当に済ませて、十一時前には床に着いた。
*
律子と恭平が結婚したばかりの頃、圭太は早く恭平と仲良くなって欲しいという律子の厚意から、風呂は一緒に入っていた。まだ思春期には差し掛かっていなかったし、この人が父親だということに些細な嫌悪感は抱いていても、恭平自身は嫌いではなかったため、特に抵抗もなく一緒に入浴した。
湯船は二人が入れる広さではないため、恭平が体を洗っている間、圭太が浴槽に浸かる。
あの頃、恭平とどんな話をしていたかなんてもう覚えてはいないけれど、一つだけ、今でも鮮明に覚えているものがある。父の背中には、花火のような、いや、大きさ的に言えば、シロツメクサのような痣があった。
ギシ……。
それは、圭太が寝入ってからちょうど二時間ほど経った時だった。心身ともに漸く深い眠りへと沈んでいた圭太の体、脳は、人のけはいを敏感に察知する。
もともと、熟睡はできない体質だった。夢は頻繁に見るし、夜中と朝方に、必ず一度は目がさめる。そんな睡眠時で、今が一番の安眠時間だったが、それでもやはり人のけはいに反応して目がさめた。
初夏の夜は、クーラーまではいらないものの、締め切って眠るには息がつまる。だから圭太は、この時期は扉を猫が一匹通れる位の分開けて眠っていた。それでももう夜中だから、カーテンを締め切った部屋に明かりはほとんどない。
「誰……?」
暗闇に慣れない目を凝らして、圭太はゆっくり起き上がりながら、近距離にいるであろう相手を探ろうとした。
こんな時間に、人の部屋に入ってきて自分を起こす素振りも見せないとは、どういうことだろう。一刻も早く、目に慣れて欲しい。
と、圭太自身の脳もはっきりしてくれば、使う事は皆無だったものの、ベッドにスタンドライトがついていたことを思い出す。軽く身を後ろに反らせて、タッチ式のライトをつけた。
パッと明かりが灯れば、その眩しさにまた目を細める。だけどぼやけたシルエットから、相手を推定する事はできた。
「龍……くん?」
茶色い短髪は、肩より少し長い黒髪の父とは反している。少しずつ目がなれてくれば、顔まではっきり確認できた。
それは間違いなく龍で、しかし重く細められた彼の眼は、寝ぼけているようでも、はたまた酔っているようでもあった。
「ど……、したの? 龍くん」
今日初めて会ったばかりの彼に、こんな事を思うのはおかしいだろう。それでも、圭太は彼を、《龍じゃない》と思った。変だ。夕方言葉を交わした龍とは、明らかに何かが違う。
「辛いのか?」
「へ……」
タンクトップから伸びる手を、圭太を挟むように両脇に置いて、ずいっと龍の顔が近付いた。近付いた分だけ、圭太の体はのけぞる。
研修医服では分からなかったが、圭太より色黒の龍の腕は、引き締まってガッチリとしている。多分喧嘩なんてしようものなら、圭太はあっさり捻り潰されてしまうだろう。
悠長にそんなことを考えていたら、また龍の顔が近くなった。
「りゅ、龍くん、寝ぼけてんの? それとも酔ってんの? あの、彼女かなんかと間違えてんじゃ……」
「怖がらなくていいから。ひどいことはしない」
圭太の言葉は届いていないのか、いつの間にかしっかりと腕を拘束されて、それ以上逃げられなくなっていた。
龍の声は優しい。恐らく嘘は言っていないのだろうと、思うことは出来ても、何か本能的に、圭太の体は龍に対して警戒信号を発している。
ダメだ。今の龍くんは龍くんじゃない。正気じゃない。でも、何で?
どうして突然、龍が自分に迫ってくるのか。いくら寝ぼけていても酔っていても、男を襲うほど節操がなくなったりはしないだろう。
「待ってっ、俺、圭太だよ? 落ち着いて。龍くんてば」
「知ってる、分かってるよ。いいから黙れ。ひどいことはしないって言っただろ。ただ――」
ふと、龍の顔に焦点が合わなくなる。それは一瞬で、圭太は抵抗する隙も見つけられなかった。
「お前の不幸を、“喰ってやる”だけだ」
龍の息を感じたら、それは口腔に飲み込まれる。圭太の息も、声も、龍の唇に阻まれた。
どうしていいか分からなくて、圭太は目を閉じればグッと事が済むのを待った。それ以上先を侵されることはなかったが、長い間ただ龍の熱を感じているだけで、いつしか圭太の体はのぼせたようにくらくらとしてきた。
だけどそれは不快ではなく、眠りに誘われる一歩手前のような心地よいまどろみ。この熱に浮かされたまま眠れたら、なにより幸せだろう。
腹の奥底にある、蓄積された靄が晴れていく。今はただ、産声を上げたばかりの赤ん坊のように、無防備に眠りたいと思った。
意識が薄れていく。龍の熱がいつしか唇から離れれば、圭太は彼の肩に頭を預けて瞼を閉じた。その一瞬、龍の二の腕に、いつかどこかで目にした、あのシロツメクサの形に似た痣を見た気がした。