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1 こころの守り方

 ――お母さんのこと、好きなんだな。

 ――ううん。

 それはたぶん、俺がこの人生で紡いできたうちで一番、残酷な言葉。

 ――――大嫌い。



 アイロンで真新しく見える夏服のシャツに袖を通すと、篠塚圭太しのづかけいたは自室を出た。六月下旬のこの季節は、朝が一番過ごしやすい。階段を下りて、廊下を左折。突き当たりを右に曲がる前に、真白な扉が圭太の視線を奪った。

 圭太の母は、ピアニストだった。息子である圭太も当たり前のようにピアノを弾いた。だからこの部屋は、朝も昼も夜も、美しい音色を奏でていたのだ、四年前までは。

室内は扉と同じ白塗りで、真っ黒なグランドピアノが一台、部屋との釣り合いをとっている。だけどその頃圭太はピアノをやめ、ピアニストだった母は交通事故で死んだ。以来父が時々掃除に入る以外では、この部屋は開かずの間も同然だ。

 歯を食いしばれば、振り切るように扉から目を逸らし、体を右に向けてリビングへと向かった。

 圭太がリビングに入ると、そこは既に香ばしい朝食の匂いに包まれていた。ちょうどよく焦げ目のついた目玉焼きと、熱々に焼かれた魚にかけられた醤油の、甘いけどつんとした匂いが鼻を掠める。

 朝食を一通り眺めてから、圭太は視線をキッチンの男性に移した。大きな背中がこちらを向いている。でも隣に並んだら、本当は圭太の方が身長は高いのだ。

「あ、圭ちゃん。おはよう」

 ご飯を盛った茶碗を両手に、男性は振り返った。テーブルまで来ていた圭太に気付き、挨拶する。

「おはよう、父さん」

 母が亡くなり、元は他人だった彼との父子おやこ生活にも、随分慣れたと思う。彼、篠塚恭平しのづかきょうへいは母、律子りつこの再婚相手。そんな彼を父さんと呼ぶのに違和感がなくなったのは、いつからだったろう。

「今、味噌汁よそうから。箸だしてくれる?」

「うん」

 言われるなり、圭太はテーブルの端にある箸立てから、二組のそれを手に取った。そこには一組、ピンクの箸が残る。律子のものだ。何も言わなくても、この家から母の私物は一つとして動かされてはいない。今も、四年前も、まるでここに母は存在するかのように。

 恭平の茶碗と自分の茶碗の前に、綺麗に箸を置いて圭太は席に着いた。遅れて、味噌汁を持った恭平が席に着く。

「いただきます」

 二人一緒に手を合わせて食事を開始した。血縁のある親子ではないけれど、口数が少ないところは、二人はよく似ている。人一倍よく喋る人だった律子がいなくなってからは、食卓は静かな空間になった。

「ああ、そうだ。今日は早く帰ってきてね。助手の人が来るから」

「今日だっけ?」

 おもむろに開かれた恭平の口から出た言葉に、圭太は魚をほぐしていた手を止めた。

 数日前に、精神科医である恭平が助手を雇ったのは聞いていたが、事実来るのが今日だと言われると、この数日を一気にあっという間に感じた。

 雇うだけなら圭太にはさして関係のないことだが、その助手とやらは住み込みらしいから、初対面の人が苦手な圭太には一大事だ。

「うん。せっかくだから、早めに仲良くなりたいだろう? 圭ちゃんとは七つしか違わないし、僕より君の方が、彼も親しみやすいと思うから」

「……どうだろうね」

 冷めた返事をするなり、圭太は再び魚をほぐすのに没頭した。



 他人との交友関係を築くのに大切なのは、年の差よりも性格だと思う。

 学校への坂道をひたすらに登りながら、圭太はそう思った。この理論が正しいなら、自分と交友を持ちたいと思う人間などいないだろう。

 空はどんより灰色の綿を掛け、地面との距離はいつもより狭い。天と地を、そのまま一体にするために押しつぶそうとしているようだ。自分の性格は、この空に似ているかもしれない。

 薄暗く、重く、どんよりと。嫌になる。

「けーいたっ!」

 ぼうっと歩いていた背中を、後ろからどつかれた。相手が誰かは、確認しなくても分かっている。だからこそ、圭太はうんざりと振り返った。

 思ったとおり。そこには自分と同じ、ワイシャツに白のベストと、少しよれ始めたリボン、夏用に薄地に変えた、緑のチェックのスカートをはいた、長い髪の少女がいた。斜めに分けられた前髪と、溌剌とした顔つきはいつの間にか大人びたと思う。しかし笑った顔は、昔と変わらず幼いことも、もちろんちゃんと知っている。

 圭太の幼なじみ、伎倉香苗きくらかなえだ。

「……おーい。圭太? 何ボーっとしてんのよ? 圭ちゃーん?」

「っ、その呼び方やめろよ」

「昔はそう呼んでたじゃない。おじさんは今も圭ちゃんって呼んでるんでしょ? 何でおじさんはよくてあたしはダメなの?」

 香苗がむうっと膨れてみせる。それは将来有望とされたバイオリニストの顔ではないと思った。

香苗は、圭太がまだピアノをしていたころに、律子が講師も務めていた音楽スクールで知り合った。以来バイオリンで成功した彼女は、音楽界ではそこそこ名の通る人間へと成長している。高校に入って再会するまで、そんなことはまるで知らなかったが。

「父さんは、今更変えにくいんだろ。きっと呼び捨てにもしにくいんだろうし」

「だったら圭太から言ってあげなさいよ。呼び捨てでいいよって。まあ、おばさんの事も律子さんって呼んでたし、言ったところで変えそうにないけどね、おじさんは」

 見え始めた白い校舎を目指して、香苗が歩き出した。道はずっと坂だから、あまり距離を取りすぎると、その短いスカートの中身まで見えてしまいそうで、圭太は一歩後ろを着いていくように歩き出す。

 ちらほらと、他の生徒の後ろ姿も目に入って来た。

「でも、圭太がおじさんと上手くいっててよかった。最初全然おじさんに懐いてなかったからさ、おばさん心配してたよ?」

「大きなお世話だよ。つーか、母さん、そんなことまで伎倉に言ってたの?」

「あー! 今伎倉って言った! 昔みたいに香苗って呼んでって言ってるじゃん」

「なんで」

 圭太が怪訝そうにそう訊ねるから、香苗は一気に顔をしかめて、振り返っていた体ごと前に向き直った。そんな態度をとられても、思春期を過ぎた男と女なのだから、自然と呼び方や態度なんて変わっていくはずだ。圭太には、今の自分が自然だと思えた。

 だけど女は、そうでないのだろうか。香苗は昔も今も、圭太に対する態度は変わっていない。しっかり者で、姉御肌で、内気な圭太をどこまでも引っ張っていこうとする。しかし、もう自分の力で何処へだって行ける圭太には、時々そんな香苗の態度がわずらわしかった。


***


 圭太の通う高校は、普通科と音楽科に分かれている。無論、とうの昔にピアノをやめた圭太は普通科で、バイオリニストの香苗は音楽科だ。ロの字型の校舎は、上の横棒と下の横棒で学科が分かれているのだが、今、なぜか香苗は圭太のクラスにいる。

「今度の土曜――明後日ね、知り合いのバイオリンのコンサートなんだけど、あたし、そこで友情出演することになったんだ。圭太、コンサートなんておばさんのしか行ったことないから、もう四年は行ってないでしょ?」

 圭太が座る机の端に手をついて、香苗は一人陽気に話し続けた。世界的に有名でなくても、香苗は校内では十分な有名人だ。そんな少女が、一般ピーポーの圭太と話しているのは、いやでも目立つ光景である。

「ねえ圭太、話聞いてる?」

「……伎倉さ、もう教室帰れば?」

 明らかに嫌そうに言ったのが伝わったのか、香苗はむうっと膨れた。……だからその顔やめろって。

「圭太、ピアノやめたって音楽は好きでしょ? おばさんのピアノ、毎日聴いてたんだし」

「……」

 嫌いだと、言ってやりたい。だけどその三文字は、何度心で繰り返しても、声となり、言葉となって紡がれることはなかった。

 それでも、もう音楽なんかに関わりたくはないのだ。ピアノをやめてから毎日聴いていた母の旋律は、圭太の心を蝕み、荒ませるだけだった。音楽は、音は、今の圭太に吐き気しか催さない。

「ねえ、じゃあ、チケットだけでも買って? おじさんのと、二枚。ね? 出演するんだからあたしも十枚売って来いって言われてんの! お願い! 昔のよしみなんだからさ」

 にっこりと、香苗が笑う。圭太は頬杖をついてそれを見上げた。……本当だろうか? 彼女はこうやって、人を手玉にとるのが上手い。

「ねっ、圭ちゃん」

「……分かったよ。いくら?」

 パッと、香苗の表情が華やいだ。なにがそんなに嬉しいのか、不思議で圭太はつい彼女に見入ってしまう。笑みを浮かべたまま、香苗は鞄からチケットを取り出した。

「一枚八百円。だから二枚で千六百円ね」

「細かいのないよ。……まあいいや。釣りいらないから」

 尻のポケットから財布を出して、香苗に二千円差し出した。見上げた彼女は、先ほどと打って変わって不機嫌そうだ。

「何」

「お釣りいらないなんて、そんな勿体無いこと言わないの! これは圭太のお金じゃないのよ。おじさんが働いて稼いだお金! あと、財布をそんなところにしまうのもやめなさい。盗られたらどうするの?」

 また始まった。圭太はそう思った。おそらく彼女を中年女性の輪へ放っても、気後れすることなく馴染んでしまうだろう。

「聞いてるの? 返事は?」

「……わかりました」

 無駄に口答えすると、余計にぐちぐちと言い返されてしまう。口で女に勝てるはずもなく、圭太は大人しく頷いた。香苗は満足そうに笑みを浮かべている。

 一通りの話は終わったのか、彼女は時計を見てから慌てたように鞄を持ち直した。

「いっけない! もうすぐチャイム鳴るじゃない。教室帰らないと」

 ……やっとか。

 そう思ったことは口にはしない。いつからか、圭太は自分が一番無難に生きられる方法を覚えていた。

「あ、圭太!」

 扉に向かおうとしていた体をわざわざ反転させて、香苗は圭太を呼んだ。

「コンサート、絶対来てね!」

 念をおすための言葉だったのかもしれないが、その笑顔があまりにも屈託のないものだったから、圭太は返事を忘れてしまう。

 と、つかみどころのない様子で瞬いていた圭太に、鈍感なクラスメイトが群がってくる。

「なあなあなあなあっ! 篠塚って伎倉香苗と仲いいの?」

「は?」

「いいよなあ、伎倉さん。可愛いし、つーか美人だし。バイオリニストとかかっこいいし、あー、俺も音楽科に編入してーっ!」

「バッカ、お前みたいな、顔も成績もフツーの奴なんか無理だって。大体お前、楽器できねーべ」

 いつも騒いで授業をかき乱す二人組が、今圭太の机の前にいた。これだけ近いのに声がでかくて、すでになり始めているチャイムの音も聞こえない。

「で、篠塚はどういう関係なの?」

「……道聞かれただけ」

「みーちぃ!? あのな、篠っち〜、いくら俺らバカでも、学校で道聞く人間にないことくらい分かるって」

 ひらひらと手を振りながら、音楽科に編入したいだのと言った、陽気な男がそう言う。確かに苦しい言い訳だ。

「……バイオリン同好会に、誘われた……?」

「おいおい篠塚、お前言い訳するなら、もっとマシなの考えろよ」

「でも篠っちってなかなか面白いねえ。俺っちに突っ込ませるなんて大したもんよ?」

 陽気な男の顔が、一層圭太に近づいた。やめろ、来るな。

「……篠塚に絡むな。席に着け」

 天の助けだったのか、いつの間にか来ていた担任が、そう言って二人の首根っこを掴んでいた。陽気な方が抵抗しているが、「お前らと関わったら篠塚が汚れる!」という、担任のよくわからない一言に一蹴されていた。

 解放されて、圭太は一度溜息をつく。ふと、「絶対来てね」と言った香苗の笑顔が思い出された。

 あんな風に嬉しそうにされたって、正直圭太に行く気はなかった。チケットを買ってあげたのは、あくまで彼女のノルマに荷担してやっただけだ。音楽も、旋律も、何も聴きたくない。もう何も、考えたくない。


***


 授業が終われば、圭太はさっさと家路に着いた。部活には入っていないし、放課後遊ぶほど仲のいい友達もいない。自分が他人から見て陰気なことは自負しているが、だからといって明るく振舞おうとも思えない。日常生活に支障がないなら、クラスメイトとの付き合いは、つかず離れずがちょうどいいと思う。

 帰りは坂道を延々と下る。この時だけは、自転車があればいいのに、と圭太は日常的に思っている。十度ほどの傾斜は、案外上りより下りが億劫だ。

 それでも体を少し後ろにそらして、十五分ほどの道のりを歩ききった。「篠塚精神病院」と、青地に白で書かれた看板が目立つ。

 看板の十歩手前を左に曲がろうとしたとき、バンッと、力強い音がした。ふと顔を上げると、シルバーの軽四カーから人が降りてくるところだった。もう一度音がして、もう一人降りてくる。

 最初に降りたのは、長身の女性だった。長い髪を後ろで一つに纏めて、そこには一筋の乱れもない。綺麗な面立ちをしていたが、年齢は、母が時を止めたときに近そうだ。ぺこりと、圭太に向かって頭を下げてくる。だから反射的に、圭太も頭を下げた。

 言葉を交わすこともなく、女性は後から降りた少女――娘だろう――の手をとって、病院の自動ドアを越えていった。

 ――患者か……。

 別に珍しい光景ではない。精神病院はそれほど数が多くはないし、この病院にも、月に二、三人の新患が来る上に、毎日一人以上は診察を受けに来る。さっきの親子は、おそらく新患だろう。

 精神に病気があるのなら、おそらく娘を連れてきたりはしない。まだ生まれて間もなく、離れるわけにいかないのならともかく、あの少女はもう小学校高学年か、中学生ほどだった。つまり病気を抱えているのはあの少女だったのだろう。

 ふと胸元に手をあてて、圭太は診療所の隣にある自宅に入っていった。


  *


 家と診療所は、一本の渡り廊下で繋がっている。その廊下はダイニングにあるのだが、圭太は渡ったことがない。精神病とは、コンプレックスも関わってくるのだろう。圭太がピアノを弾けないのは、コンプレックスからくる心の病気だと、一度律子に言われた事がある。それを真っ向から否定した圭太は、以来何となく、精神と名の付くその建物へは足を踏み込めなくなった。

 無意識に眺めていた廊下から視線を振り切れば、その足でキッチンへ向かった。すっかり日は傾いていたが、今の季節はじわじわと暑さが体を蝕む。喉の渇きを覚えて、冷蔵庫を開けた。湿気を冷やしたような匂いは嫌いだが、この際構ってはいられない。ペットボトルのお茶を取り出して、冷蔵庫はさっさと閉めた。

 そのまま奥へ進んで、流し台の上に並べられたコップを手に取る。黄金色の液体を勢いよく注いで、口元へと運んだ。

 程よく冷やされたお茶が、食道を通って胃に染み渡るのが分かる。お腹の中心だけが、ひんやりと冷えた。

 カツカツカツカツカツ……

 お茶を一気に体内に流し込み、ふうと贅沢に息をついたところで、背後に近付く足音に気がついた。それは唐突に止まり、次の瞬間、圭太は背中に視線が集中するのを感じた。

 父ならば、黙って後ろから見つめるなんて、そんな不躾なことはしないし、看護婦ならば圭太が見えた時点で馴れ馴れしく声を掛けてくるだろう。一体誰だと、圭太は思い切り顔を不服色に染めて振り返った。

「……」

 思わず圭太も、黙って相手を見つめてしまう。そこにいたのは、見た事もない一人の青年だった。


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