エピローグ
目の前に、大きなホールのケーキが置かれている。圭太の好きなチーズケーキだ。今日はレアチーズで、生クリームとブルーベリーソース、そして十七本の蝋燭が、その円を彩っていた。
恭平が作ってくれたケーキ。毎年それは行われていたが、素直にお礼も言えなかった圭太にとって、今年の誕生日は新鮮だった。
「圭ちゃん、誕生日おめでとう」
「おめでとう圭太」
「おめでとう」
ハッピーバースデーの歌と、蝋燭の吹き消しが終われば、みんなが祝いの言葉をくれる。
恭平と香苗と龍。そして律子の写真に囲まれていた。
「ありがとう。なんか、十七とか言われてもピンとこないけど」
今まで十六歳だったという意識もない圭太にとっては、それをひとつ重ねるからと祝われてもしっくりこない。なのに、この儀式をこんなに嬉しく思うのは、圭太が一つ大人になり、同時に子供らしさを取り戻した証なのだろうか。
「それでも今日は、圭ちゃんがこの世に生まれた、かけがえのない日だ」
「そうだよ。今日がなかったら、――おばさんと、圭太の生みのお父さんがいなかったら、圭太は生まれてなかったんだから」
「……そうだね」
十七年前の今日。一つの命がこの世に産み落とされた。その命は確かに愛され、確かにその愛情を受けて育っていった。
なのに、どこで道を間違えたのだろう。どこで、大切なものを見失ったのだろう。
かけがえのないものは、こんなに近くにあったのに。
「生まれてこられて、よかったな」
ふと眼を閉じて、そうつぶやいた。
篠塚圭太。この境遇を、何度恨んだかわからない。律子が母親じゃなかったら。母の生徒に亜門がいなかったら。恭平が現れなければ。香苗だけがプロのバイオリニストになってしまう。
そして龍の、「癒す」という言葉にも。
ふざけるなと。不可能だと、何度も思った。
でも、圭太は今ここにいる。みんなに囲まれて、自分の誕生日を祝っている。それを、どうしようもなく嬉しく思いながら。
「そうだ圭ちゃん、これ、プレゼント」
ふと口を開いた恭平から、そう言って一枚の封筒を渡された。受け取りながら、ありがとう、と言う。
「何?」
「あけてごらん」
きょとんと開いた封筒の中には、四枚のチケットが入っていた。新幹線の行き先は、律子の故郷。
「これ……」
「律子さんのお墓参り、行きたいって言っていたから。夏休みに入ったら、みんなで行こう」
「でも、仕事は?」
「うん。そんなには空けられないけれど、一日二日なら、大丈夫。約束だろう」
「……ありがとう」
何よりもうれしいプレゼントだった。家族旅行の記憶はない。圭太が幼いころは、律子がコンサートなどで忙しかったし、そうしているうちに父が亡くなった。恭平と再婚してからは、圭太が行きたがらなくなった。
血のつながりは、一つもない。だけど、三人が圭太の家族。
何度お礼を言っても足りないくらいだ。
「ありがとう」
笑みがこぼれた。いつからか、圭太は当たり前のように笑みを浮かべるようになった。しかし彼自身が、それを意識したことはない。
そのあと、香苗から携帯ストラップをもらった。何をあげればいいか分からなくて、と彼女は言っていたが、シルバーの十字架と羽根のついた黒革のストラップは、圭太の趣味に沿っていた。
「柳沢さんは? なにか用意したんですか?」
「俺?」
香苗の問いに、龍がきょとんと聞き返した。何かを用意していたわけではないと、見てとれる。
「いいよ。プレゼント貰わなきゃ、誕生日を祝ったことにならないわけじゃない。むしろ、龍くんにはそれ以上のものをもらっているから」
そして、圭太はみんなを見回した。感謝の気持ちは、伝えても伝えきれない。そして、どういう形で伝えるのが最適か、圭太はもう分かっている。
「……俺、ピアノ弾いてみるよ」
「え?」
三人の声が重なった。予想外の言葉に驚いている様子に、圭太は表情を緩める。
「いや、圭太、待てよ。また無理して、倒れたりしたらどうするんだ」
「そうよ。いくらなんでも、急ぎ過ぎでしょ?」
「僕もそう思うな。もっとじっくり心を癒してからでも、別に遅くはないよ」
「そんなこと分かってる」
無茶な言葉だとは自負していた。それでも、圭太の意思は変わらない。
三人は家族だ。そして圭太には、加えて自分を待ってくれているライバルがいる。
勝ち負けを競うライバルじゃない。どこかでお互いがピアノを弾いているということが、その心を支えてくれる。そんなライバルだ。
「また倒れるかもしれない。辛いだけかもしれない。だけどそんなことは、やってみなくちゃ分からないだろ? 俺は……俺の可能性を信じてみたい。それに倒れても、俺のそばには優秀な精神科医が二人もいる」
そう言えば、龍たちは言葉を失っていた。呆れたとか、そんなんじゃない。圭太が希望を見出してくれたことに、わずかに放心したように。
だから、最初に喜んでくれたのは香苗だった。
「そこまで言うなら、がんばりなよ。倒れたら、あたしが看病してあげるよ」
「そこまでは頼んでないけど」
「何?」
途端に不機嫌な香苗の表情が目に入って、圭太は思わず笑った。姉のような存在。無神経で、図太く見えるけれど、本当は誰より圭太のことに敏感な、律子にも似たひと。
「また、あのピアノの音が響く日が来るのかな」
恭平がつぶやいた。「くるよ」と圭太は心の中で返す。遠い未来かもしれない。だけど、傷はいつか治るものだ。
「圭太」
呼ばれて、圭太は龍に向きなおる。
「お前は、母さんに憧れてるんだよな」
「……うん。俺の夢は、母さんみたいなピアニストになることだから」
はっきりと告げられた声は、希望に満ちていた。あの日、もう五年も前の裏庭で、若き龍と交わした会話。
だけど違うのは、それはもう過去じゃない。圭太の道は、確実に未来へとその経路を向けだした。
篠塚圭太。誰よりもやさしい心を持った、不幸を抱えやすい体質の少年。それ故に、その心は何度も蝕まれ、小さな体は震えあがっていた。
でも、今は違う。一回り成長した少年は、自分の運命を受け入れ、乗り越える勇気を手に入れた。
大切な人がいるから。
大好きな人がいるから。
かけがえのない絆があるから。
篠塚圭太で、よかった。
何よりも、どんな運命よりも、自分が自分として生まれてこられたことが、圭太の幸福だ。