5-3
「けいたお兄ちゃん!」
退院の日。龍に迎えに来てもらって、圭太は自宅に戻った。ずいぶん懐かしい我が家にホッとしていると、また懐かしい声が聞こえてくる。
「咲ちゃん、まいねちゃん」
二人に会うのは、圭太が小柴家に訪れた日以来だ。雪華にも、そのくらいから会っていないはずだが、二人はいつもと変わらなかった。いや、心なしかあの頃より元気になっている。
「久しぶり。カウンセリング?」
「うん。しせつの先生と」
「まいねちゃんもいつも、一緒にきてるの?」
「違うよ。今日は特別。お兄ちゃんが帰ってくるから、二人でおいでって先生が言ったの」
そう言ったのはまいねだった。圭太の印象よりも、ずいぶん年相応になったような気がする。まいねが変わったのか、圭太が変わったのかはわからないが。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
そう聞いてくる咲の視線は、圭太の右足。重症ではないが、普通に歩くには痛いので、しばらくは松葉杖だ。
これが雪華の仕業だと、二人は知らない。
「俺はちょっとドジっただけ。そういう二人は? 施設に入ってまだ数日だろ? さみしくなったりしない?」
遠まわしに問うてみる。どんな形であれ、二人と雪華を引き離したのは圭太だ。本当は、きちんとすべてを話して詫びるべきなのかもしれない。
だけど、それがすべてでないと思うのは、二人が圭太に、屈託のない笑みを向けてくれるから。
「大丈夫だよ! しせつのみんなはいい人だもん。それに、咲にはまいねちゃんがいる」
「あたしも。三人でいるのも楽しかったけど、今もすごく楽しい! 咲がいるもん」
二人の言葉は、圭太までもを笑顔にした。
本来、雪華がいなくなった時点でまいねも協会に保護されるはずだったらしい。だけど恭平が掛け合い、不幸喰いが勤務している施設に入ることで話はついた。ある意味監視されることになるが、大丈夫だろう。まいねは、悪意を持って咲の不幸を喰らっていたわけではない。
それに、と咲が続けた。
「ママも、病気が治ったら帰ってくるって言ってた。手紙、もらったんだよ」
「手紙?」
今の雪華に、そんなことが許されるのだろうか。まして、まいねでなく咲に手紙を託すというのが不思議だった。
車を止めた龍が、こちらへ来る。咲たちは、そちらにも景気の良い挨拶をした。
やがて二人は病院内へと戻って行き、圭太たちはその背中を見送った。
隣の龍に視線はやらず、ただつぶやく。
「手紙が来たんだって。雪華さんから」
「協会が、それっぽく書いたのを送ったんだろう。不幸喰いの存在を明かすことは違反じゃないけど、大っぴらにしたくはないみたいだからな」
そんな気は、なんとなくしていた。あの二人も、それをいつか知る日がくるだろう。特にまいねは、これから不幸喰いの存在を、それが異端であることを、その身をもって知ることになる。
大丈夫だろうか。大丈夫かもしれない。
まいねには、咲がいる。圭太に恭平が、香苗が、亜門が、そして龍がいるように、まいねには咲がいる。
きっと、これからもっとたくさんの人間が、彼女らの支えとなるだろう。
「……強いよね」
「お前もな」
何の脈絡もなく圭太がつぶやいた言葉に、龍はそう答えてくれた。何がだ、と、圭太は龍を見返す。
「小柴さんに、いろいろ巧みに誘われたんだろう? お前は不幸を喰われればどうなるか知ってる。それが一時とはいえ幸福なことだとも。それでも喰わせなかった、お前は偉いし、強いよ」
「……そんなんじゃないよ」
そんなんじゃない。本当は何度も惑わされた。彼女の言うとおり、雪華が独身だったら、惚れこんでいたかもしれない。
女に免疫のない圭太にとって、雪華はやはり妖艶で、惹かれた。
だけど、そこから救ってくれたのは、律子の存在で。咲の存在で。
ふたりがいたから、それは必ず誰かを不幸にし、いけないことだと思えたのだ。一度そう思えたら、雪華の視線が色恋の意を含んでいないのだと気がつけた。
そして、雪華に不幸を喰わそうとしなかったのは、今そばにいてくれるみんながいたからだ。
もし圭太が強いと、誰もがそう思うのだとしたら、それは確実に、龍たちがいたから。
「俺、龍くんに会えてよかった」
「何それ」
「龍くんがそばにいてくれて、俺を癒したいって言ってくれて、本当によかった。コンサートに無理やり連れてかれたのも、家でピアノの音聴かされたのも、全部よかった」
そう言って微笑んだら、龍が意外そうに瞬く。そんな言葉は全く予想外だと、そう言いたげに。
だから、言葉を続けてやった。言いたいことはまだまだある。
「それがなかったら、俺は今でも自分は不幸だと思ってた。咲ちゃんのことも、口ばっかで何もできてなかったと思う。何より、みんなが俺のそばで、俺を心配してくれているんだって、気が付けなかった」
「へえ? 気が付けたんだ?」
どことなく、意地悪に龍が尋ねる。同じ言葉をついこの間、龍に教えられていたのだと思いだした。
「夏休みになったら、もっといろんなところ遊びに行こうよ」
「俺と二人で?」
「――みんなで!」
圭太にとって、龍は大切な存在だ。名前をつけることはできないけれど、一生そばにいてほしいと思える存在。
思えば最初から、龍は、圭太の心を掴んでいた。
――……病気だと、言われた事があるのか?
――お母さんに言われたのが、ショックだった?
――もしお前を癒したいと思っても、それはカウンセラーとしてじゃない。柳沢龍として、お前の話を聞くし、アドバイスもする。
――お前は別に病気じゃねえよ。
初めて会ったあの日から、龍の言葉は、圭太が心の奥に閉じ込めた本音だった。誰かにかけてほしかった言葉だった。
出会えて、よかった。
圭太が幼かったあの頃、まだ心を痛めていた龍に、会えてよかった。話せてよかった。龍がカウンセラーになってくれて、不幸喰いの力に目覚めてくれて、圭太を癒したいと思ってくれて、本当によかった。
恭平が律子と結婚したことも、香苗が幼馴染だったことも、亜門がライバルで、あの日コンクールで負けたことも、――そして、律子がピアニストだったことも。
そのすべてが今の圭太を作り上げているのなら、そのすべてが、かげがえなくて、愛しくて、よかったと、思えた。
「――え?」
珍しく、圭太は病院にいた。学校から帰ってすぐに、恭平に話したいと呼び出され、資料室に入れられたのだ。
院内に足を踏み入れるのは、実に久しいことだった。それは初めてに近いほどだ。だけど、あったのはわずかな抵抗だけで、拒否感なく来ることができたのが、圭太は少し嬉しかった。
そしてそこで、意外な言葉を耳にする。
「こんなこと、いつもは誰にも言わないんだけど、君と龍くんにはきちんと話しておくべきだと思って。ああ、龍くんには朝一に話したよ」
「え、え? 待って、もう一回言って」
「こんなこと、いつもは誰にも」
「その前!」
「……今日の診療で、咲さんの不幸を食べようと思うんだ」
食べる? 今更どうして。と、圭太の頭に疑問符だけが浮かび上がる。あまりにも狼狽しているから、恭平にも思いが通じたようだった。
「言ってなかったっけ? 不幸喰いは、傷ついた相手を癒し、その傷が軽くなったころに、残り少ない不幸を喰うんだって」
言われても、そんな話は聞いたことがない、と思った。それに聞いたところで、そのタイミングが圭太にわかるわけがない。
「咲ちゃんは……、今不幸を喰われて大丈夫なの?」
不幸喰いの事件が解決してから、まだ一週間を過ぎたばかりだ。それまでの間に何度咲の診療をしたのかは知れないが、早すぎはしないのだろうか。
「咲さんは、事実とても強い子だよ。よくよく調べれば発狂した事実もなかったし、いじめも、ひどいものでないから先生に相談したらすぐになくなった。小学校の環境は、まだいいものではないだろうが、施設の友達がとても彼女らによくしてくれているみたいだね。いじめの傷は、完全に癒えても問題ないと思うよ」
恭平がそういうのなら、そうなのか、と思えなくもない。咲が強いということは、圭太もはじめから思っていた。
それに、圭太が退院してきたあの日、あの日の咲の笑顔は、本物だったと、そんな気がするのだ。
「うん。わかった。じゃあもう、咲ちゃんの診療も終わりなんだね」
「また会いに行ってあげたらいいよ。友達は、どこにいたって友達だ」
「うん……」
友達は、どこにいても友達。そうだ。どこにいたって、気持ちが通じ合っていれば、それは本物だ。
「会えて、よかったね」
「そうだね」
「父さんにも」
「え?」
恭平が、きょとんと圭太をみる。椅子に座っている父親を見下ろして、圭太はにっこりと笑った。恭平が目を見開く。
「父さんは、母さんのことが好き?」
「……好きだよ。僕は、一生律子さんを愛したいって思ってる」
「でも、母さんと同じくらい好きな人ができたら、ちゃんと再婚してね」
意外そうに、恭平が瞬いた。
本音を言えば、圭太だって、また親が変わるなんて嫌だ。だけど、それはきっと律子の願いで。そして
「父さんが選んだ人なら、俺はきっと、その人を母さんと呼べるから」
血のつながりなんて、関係ないのだ。圭太には、恭平への情がある。肉親への気持ちとは、また少し違うかもしれないが、《親への情》だ。
そして、新しい親が出来たって関係ない。圭太は、実父と律子に変わることのない情を抱いている。離れていても、それは本物だ。
まだ慣れない松葉杖を操って、圭太が資料室を出て行こうとすれば、不意に恭平に呼び止められた。
「君は、律子さんのことを――」
問われる言葉の先が読めたので、くるりと振り返る。恭平は言葉をとめた。
目を細めて、圭太が無邪気な笑顔を見せたから。
「俺も好きだよ」
同じくらいに無邪気な声が、無邪気で、素直な声が、響いた。