5-2
圭太が後ずさる速度より、雪華が寄ってくるスピードのほうが確実に早かった。特に、後ろ歩きになってしまう圭太は時折足がもつれて、油断したら転びそうになる。
そうなったら、終わりだ。
この人に、何ができる。自分の方が力でも体格でも勝っているというのに。そう思うのに、体が逃げた。
「あの、俺、本当に大丈夫ですから」
「そうね、あなたはこの頃、とても元気そう。でも困るのよ。もっと不幸でいてくれなくちゃ」
ゾク。鳥肌が立った。
何なんだ、何なんだよ。
この人は、俺に何を望んでいるんだ。
「圭太くん。わたし、あなたが好きよ。あなたはあの人によく似てる。あなたなら、必ずわたしを幸せにしてくれる。そして、あなたを幸せにできるのも、わたしだけだわ」
雪華が足を速めた。ビクッと背筋を震わせて、圭太も速度を上げようとする。だけどそれが無理な動きだったのか、足がもつれた。
がくんっと、いつもより重い重力を感じたが、転ばなかった。両腕を、雪華が掴んでくれたのだ。
しかしそれは嬉しい事態ではない。掴んだ腕を、雪華は自分の方に引いた。体が今度は前のめりになって、急に雪華の顔が近くなる。
「――っ、やめろっ!」
火事場の馬鹿力というやつか、ここにきて圭太は、ようやく彼女の体を引き離すことができた。しかしそれは加減を知らず、勢いよく振り払われた雪華は、地面に尻もちをつく。
「あ、ごめんなさ――」
うつむいた雪華の表情は分からない。だけどそれよりも、圭太は見てはいけないものを見てしまった。
否、見たくなかったもの、だ。
今日の雪華はスカートだった。それが転んだ拍子にめくれあがり、白い太ももが目に入る。だから、一際目立った。
赤茶色い痣。花火のような、シロツメクサのような形。龍の肩と、恭平の背中にあるものと、確かに同じそれは――……
「不幸……喰い」
「知っていたの?」
唐突に雪華の声が混じってきて、びくりとした。その顔に視線を移せば、転んだ拍子にそうなったのだろう、いつもはきれいな髪を乱してこちらを見ている。見ているのに、焦点が合っていない。
「だったら話が早いわ。あなたの不幸を食べたいの。ねえ、圭太くん、そうすればあなたも、今より幸せになれるのよ」
立ち上がった雪華が、またこちらへと歩みを進めてくる。
――不幸喰いだって、いい人間ばかりじゃない。
自分の欲のためだけに、人の不幸を喰らう人間もいると、そういうことか。
なら……
「咲ちゃんの不幸を喰っていたのは、あなたなんですか?」
「そう、初めはね。でも今は違うわ。まいね……あの子にも不幸喰いの力があったの。とても異例なことらしいけど、ありえないことじゃないんですって」
まるで何でもないことのように言いのけるから、本当に何でもないのだと思えてくる。でも、それは重大な間違いだと、さすがに圭太にも分かった。
ありえないことでなくとも、あの少女に、不幸喰いの在り方を一人で理解できるものか。
「あなたが近くいたのは、そういうことのためじゃないんじゃないですか? まいねちゃんが不幸喰いなら、彼女にその力がどういうものか、ちゃんと教えるべきだ!」
「教えたわ。不幸喰いは、不幸を喰うことで相手を幸せにすると。心から不幸を失えば、幸せに決まっているでしょう?」
「違う!」
違う、違う。そうではない。
たしかに不幸なんてない方がいい。しかし、《持たない》のと《失う》のは違う。それは、決して相手を幸せにはしない。
「あなたは、それに気が付いていたはずだ。咲ちゃんが不幸を喰われて、一度でも幸せそうでしたか? 毎日同じ地獄を繰り返して、それは初めていじめにあった日を何度も繰り返すのと同じだと、本当は気が付いていたんじゃないんですかっ!」
龍のおかげで、圭太の心は日々癒された。だけど、それでもピアノの音に心が拒否反応を起こしたのだ。痛みを乗り越えるのは、簡単じゃない。そして咲は、いつまでもその段階へは踏み込めないのだ。
雪華の足が止まった。もう圭太も、逃げようとはしない。なんとしてでも、分かってもらわなくては。
「ええ、そうね」
ふと雪華が目を伏せる。
届いたのだ、と思った。一気に肩の力が抜ける。たとえ不幸喰いでも、雪華は咲の母親だ。娘の幸せを、願わないはずはない。
ぐらり、と雪華の体がゆらめく。倒れるのかと思った。慌てて支えようとするが、それは失敗する。
太ももに激痛が走った。
「う……、ああっ!」
立っていられず崩れ落ちる。そこに、カッターがザックリと刺さっていた。
「いっ……くっ」
一気に体温が上がって、涙がこみ上げた。こんな痛み、知らない。いったいどこまでカッターが刺さっているのかわからない。荒い息を繰り返していたら、雪華が笑った。
「痛い? 痛いのね。ふふ、あははっ! 今のあなた、すごい不幸よ。――ねえ、それ、わたしに食べてほしくない? そうしたら、その痛みからも解放されるわ」
正直、その言葉には惹かれた。この痛みから解放されるなら、いっそ不幸を喰ってもらった方が楽だろう。押さえた足から、血が溢れてきた。
「ほら、圭太くん。言ってみなさいな。僕の不幸を食べてくださいって」
この女は、異常だ。
自分の娘の幸せなど、かけらも見えてはいない。雪華の世界に存在するのは、限りない不幸をまとった圭太だけだ。
足の痛みに意識が朦朧とした。でも少し動かすだけで激痛が走って、また現実へと引き戻される。
不幸を、喰ってください。
たったそれだけで解放される。痛くなくなる。だったら言ってしまえばいい。こんな短い言葉、きっと数秒で紡げる。
でも。
脳裏に浮かんだのは龍だった。恭平だった、香苗だった。そして……律子だった。
自分を不幸にした者たち。だけど、何より圭太が愛している者たち。どんなに邪険でも、うるさくても、喧嘩しても、嫌いになどなれない。
ごめんね母さん。五年前のあの日、大嫌いなんて言って。
不幸を喰われることは、麻薬を服用するも同じこと。だったらそれを圭太から望んでしまうのは、みんなを裏切るに等しい。
そんなことできない。したくない。この痛みに耐えれば、きっともっと、俺は強くなれる。
でも、いつまで耐えればいいのだろう? このままでいても、やがて不幸を喰われてしまう。誰かが助けてくれるわけではない。
「なかなか意地っ張りね、あなた。でも、そうね。待とうかしら? そうやって耐えてくれた方が、たくさんの不幸を抱えてくれるし。もっと素直に靡いてくれたら、こんなに痛い思いしなくて済んだのにね」
「あんた……一応、人妻じゃん」
「あら、それが理由? じゃあ独身だったら靡いてくれたのかしら?」
圭太は答えなかった。あながち間違いじゃない。危険なときもあったのだ。
「そうね……、でもあの人も、あなたに負けてなかったから」
「は……?」
「あの人も、すごく不幸を溜めやすい体質だったわ。毎日会社で不幸を背負って帰ってきてくれて。それを食べるのがわたしの一番の楽しみだった。まさかあんなに早く、死んでしまうとは思わなかったけど」
「待って……。あんた、旦那の不幸も、喰って……たのか?」
うっとりと話す雪華。痛みとショックで、圭太は頭痛まで覚え始める。それと同時にピンときた。
――あなたはわたしの夫によく似てる――。
《不幸》が。
そうか、そういうことだったんだ。すべての疑問が、一つの筋となって繋がった。
この人は、俺だけじゃない。不幸を抱えやすい人間、大きな不幸を抱えている人間をこうやって喰らってきたのだ。きっと、今までも。
この公園に人一人通らないのもそのためだ。いつか龍が、圭太に言った。
病院の裏庭。ここにいると嫌な気分にならないか、と。ここに充満しているのはお前の不幸だもんな、と。
この公園に充満しているのは、雪華がここへ連れ、喰った人間の不幸だ。
そして
――咲は、もう少し大きくなったら連れてくるわ。
なんてことだ。夫の不幸だけでなく、この女は
「咲ちゃんをもっと不幸にして、それも喰うつもりなのか? あんたは?」
「賢い子。好きじゃないけど、まあいいわ。もっといろんなこと考えて。そして、もっと不幸でいっぱいになって」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑うから、吐き気がした。どうして……、どうして、どうして!
「あんたのせいだ!」
叫んだ。香苗に怒鳴りつけたときと同じように。比べようにならない怒りと、悔しさと、歯痒さを込めて。
「全部、全部あんたのせいだ! 咲ちゃんが不幸なのも、まいねちゃんが間違った方に進んでしまうのも。あんたの夫が死んだのも――……」
そこまで言ってから、ハッとした。これは言葉のあやだ。言いすぎた。
しかし見上げた雪華は、どんよりとした瞳の色でこちらを見下ろしていた。ショックとか、そういう表情ではない。むしろ、「うるさい」と言いたげだった。だから、思う。
「本当に……?」
「ひとりで死ねない、弱い人間よ。わたしの弟たちを道連れにしたの」
「あんたのせいだと、気づいていたんだ」
「そうね。事実彼は、わたしのことを魔女だと言ったわ。だけど、わたしを殺すのが怖いからって、弟を道連れにしたのは許せない。たった二人の姉弟だったのに。だから、まいねが不幸喰いなのは運命だと思うの。弟がわたしに残してくれた、ね」
娘より、姪が可愛いということか。たしかにそうでなくては、わざわざまいねに不幸を譲りはしないだろう。
「圭太くん、わたしはずっとあなたを見ていたのよ。偶然道で見かけただけだったけれど、とてもあなたに惹かれたの。咲がいじめられているのは、言うなればあなたのせいね」
そう言いながら、雪華は圭太の傍らにしゃがみこんだ。足に刺さっているカッターを、容赦なく引き抜く。
「うわあああああっ!」
刺された時よりも、激しい痛みだった。カッターが止めていた血が溢れ出す。
ドクドク、ドクドク。脈動に合わせて、血が溢れる量も上下した。
「あなたが現れなければ、わざわざわたしが咲をいじめられるよう仕向けなくてもよかったのに。小学生ってね、残酷よ。少しみすぼらしい格好をしていたり、変な言動をしたりするだけでいじめの対象になるの。だから咲をそうするのも、簡単だったわ」
途切れ途切れに雪華の声が届く。それは大変腹立たしいものなのに、出血をおさえて意識を失わないよう努めるだけで、圭太は精一杯だった。
「さあ、圭太くん。わたしのものになって」
体をわずかに動かして、圭太の顎を固定する。わざと、刺した足を掴んだ。
「あああっ! あ……はあっ!」
「痛いの? 苦しいのね。今楽にしてあげるわ。本当は、あなたから言って欲しかったんだけど」
「……っ、りゅう、くん」
助けを求めた声は、どうしようもなく掠れた。涙があふれてくる。これは痛みと、恐怖に。
「りゅうくん、りゅう……」
「あの男なのね」
突然、低さを増した雪華の声。ドスが利いている、というのだろうか。だけどそれは凄むというより、冷めた声音だ。
荒い息を抑えられぬまま、顔をあげた。血走った雪華の目が、射るように圭太を見る。
目で人を殺せる。そう思った。
「あの男が、あなたの救いなのね。だったら今度はそのカッター、あの男の胸に突き立ててくるわ」
「……っ!」
固定された顔を必死に動かして、首を横に振った。小刻みな動作にしかならなかったが、とりあえず伝わったようで、雪華が目を細める。
「あなたの不幸、日に日に減っていっていた。誰かに喰わせているのかと思っていたけど、そう。あの男なの」
「ち…がう」
「あの男が好きなの? あなたも男の子なのに?」
「ちがう……っ」
「違うのに不幸を喰わせるの? カウンセラーには不幸喰いが多いって言うから、あの中にも一人くらいいるとは思っていたのよ」
「くわれて、なんか……ない」
雪華の視線が、その言葉を訝った。圭太の不幸を前にして、喰わない人間などいないと思っているのだろう。
一方、圭太自身はもう意識を失いそうなくらい衰弱してきていた。そうなっては面白くないと小さく呟いて、圭太の顔に自分の顔を近づける。もう、抵抗する力はなかった。
一瞬、唇が触れる。
「圭太っ!」
その声にハッとしたのは、圭太ではなかった。雪華が、顔を離して声の方を見る。そこには、息を切らせた龍がいた。
「何で、あなた……」
「っ、どけ!」
雪華の声になど構うことなく、龍はその体を押しのけて、圭太の正面に立つ。
圭太のぼんやりとした表情は、涙でぐちゃぐちゃだった。それでも無事だったことにホッとし、今度は足もとにぬめりを感じて、龍は怪我に気がついたようだ。
「大丈夫、圭太、大丈夫だ。傷は深くないから。血が多いだけ。大丈夫だ」
圭太、圭太、圭太。何度も名前を呼んでくれる。圭太が、自分を見失わないように。
ここにいる。篠塚圭太は、龍の前にもちゃんと存在する。そして、圭太の前にも。
「りゅう、くん……、どうして」
ここが分かったのかと。言葉にならなかった問いは、察した龍がひとりでに答えてくれる。おもむろに脱いだシャツを、圭太の足の根元にきつく巻きつけながら。
「まいねちゃんが教えてくれた。一度、ここにも連れてきてもらったことがあるって。だけど場所まで正確じゃなかったし、道せまいから、結構走った」
ポタリと、新しい涙が流れた。誰も助けなんて来ないと思っていたから、嬉しくてたまらない。
「まいねが、話したの? わたしのことを、裏切ったの? まいねが……」
雪華が口を挟んできた。驚愕で、今までにないくらい乱れた口調。
龍は振り返って、押された拍子に尻もちをついた雪華を一瞥する。
「裏切るとか、そういうことじゃない。あの子はあなたに騙されていただけだ。事実を知れば自分の行いをきちんと正せるくらいは、ちゃんと大人です」
「騙すって何よ。わたしはあの子を、今日まで大切に育ててきたのに……」
ぼそぼそと、呟くような声だった。唇はほとんど動いていない。
その声に、また龍が答えた。
「育て方を間違えたんです。そして、咲ちゃんに対しても。――あなたはあの子が、自分の娘だと分かっていますか?」
ゆっくり、雪華は顔を上げた。虚ろな瞳が、それでもしっかり龍を捉えている。
「分かってるわ。わたしと、わたしを裏切ったあの男の娘。あの男の血が流れた娘。……わたしを愛していると言ったのに!」
ギン、と雪華の目が見開かれる。圭太自身も正常かといえばそうでなかったが、彼女はもう、《異常》なのだと思った。
その様子に龍も、もう何を言っても無駄だと思ったのだろう。
「……小柴さん。あなたのことは協会に連絡しておきました。じきに役人がここへ来ます」
「役人? は……どうしてよ。わたしは彼を助けようとしただけじゃない。何がいけないっていうの? 不幸を喰われれば、この子はもっと元気になれるのよ?」
「それは違う。あなただって、本当はちゃんと知っているはずだ。それに、圭太の足を刺したのは、もう不幸喰いとかじゃ済まされない。犯罪だ」
痛みは、麻痺したように感じなくなりつつあった。でも、あの時の恐怖心だけは、まだ拭い去ることができない。
圭太の心の傷も併せ持てば、確かに雪華の行為は犯罪だろう。
だったらと、彼女は立ちあがった。無造作に放られていたカッターをすかさず拾って。
「っ、龍くん!」
「あんたがいなきゃうまくいってたのに! 死ね! そしてそいつにもっと不幸を植えつければいいんだ!」
両手で握ったカッターを、カッと振り上げる。威勢良く叫んで、迷いもなしに振りおろした。
雪華と龍の距離が近すぎる。よけても、きっと無傷ではいられない。そう思って、圭太は眼を見開いた。だけど龍は、むしろよけることなく雪華を見上げている。
一瞬。たった一瞬の出来事だ。反射的に圭太は目をとじ、やがてゆっくりと開いた。
時が――止まっていた。
そう見えた。雪華の振り下ろしたカッターは、龍の喉元わずか数センチ前。そこから、ぴくりとも動かない。
やがて、龍がそこから体を離した。よく見たら、雪華の手が小刻みに震えている。何が起きたのか、起きているのか、圭太には理解できない。
先に龍の視線が、公園の入り口を見た。
真似して見たら、そこに二人の男が立っていた。スーツ姿の厳格そうな二人だが、それだけだ。あやしいところも何もない。
二人の男は、まっすぐ雪華の元へと歩んでいった。彼女が握ったまま離さないカッターを、やんわりと奪い、刃をしまい、ポケットへ収める。
一人が口を開いた。
「小柴雪華。規約第三十五条違反で連行する。意義はないな」
「……」
何も答えない雪華を肯定ととって、男たちは言葉通り連行していった。狭い道に無理やり停めた車に、雪華を乗せている。
終わったんだ。そう思えばどうしようもなくホッとして、圭太はそのまま意識を失った。
***
気がついたときは病院だった。出血が多かったため、貧血を起こしやすくなっているという圭太は、輸血を受けて、足を数針縫った。大事をとって、一週間ほど入院することになる。龍と恭平が病室にいたので、圭太は雪華のことをいろいろと話し、訊いた。
「あの人、これからどうなるの?」
「協会で査定にかけられて、それからだ。でも圭ちゃんの言うとおり、たくさんの人の不幸を喰らってきたのなら、確実に能力剥奪だろうね」
「能力……剥奪?」
「不幸喰いの力を封じられるんだ。だけど、根こそぎ取り上げる方法はまだなくて……。視覚と脳に催眠術をかけて、記憶を左右し不幸を見えなくする。そうするとどうしても精神が不安定になるから、あとあと辛いだろうな」
と、龍が教えてくれる。どのみち、雪華は当分、協会管下のもと軟禁状態となり、咲やまいねと会うこともかなわないという。
不幸喰い協会とは、不幸喰いの一切を管轄する絶対組織だと、恭平たちが教えてくれた。基本的に不幸喰いの活動は自由だが、雪華のように不当に不幸を喰らうものが現れないよう、規約を定めて支配するのだ。恭平も龍も、そして雪華やまいねも、そこに名を登録されているらしい。
不幸喰いに不幸喰いは見分けられないらしいが、組織にはそういうことも可能な人間がいるとのことだった。
そして不幸喰いにとって、協会ほど恐ろしい場所はないらしい。圭太にとっては普通の大人たちでも、彼らにとっては自分たちの運命を左右する閻魔も同然だ。
「咲ちゃんと、まいねちゃんは?」
圭太が心配することは分かっていたのか、恭平が素早く答えてくれた。
「今、施設に入れる手続きをしている。突然母親に会えなくなって、さみしいだろうけど……あの二人は強いよ」
「うん」
そうだと思う。まいねも、咲も、小さい割に、小さいからか、この上なく強い。それはたぶん、一人じゃないからだとも、なんとなくわかる。
いてくれるだけでいい人が、圭太にもいるから分かるのだ。
「伎倉に伝えて。俺がここに入院していること。あと、会いたがってるって」
「連絡しておくよ」
恭平が言った。圭太は彼に笑いかける。そうして、言葉をつづけた。
「あと、退院したら、母さんの墓参りに行きたい」
「え?」
「伝えたいこと、いっぱいあるんだ。いいことばかりじゃないけど、それでも伝えたいことが、いっぱいある」
「俺も行きたいな。お前の母さんには、まだ一度も挨拶してないし」
龍が同意すると、恭平も笑顔でうなずいた。
律子の墓は、彼女の実家の近くにある。恭平は、律子を自分の家の墓には入れなかった。圭太の実父である元夫を差し置いて、そんなことはできないと。
それでも、そちらの墓に入れる気もなかったらしく、律子はたった一人で眠っている。圭太が大人になったら、恭平が骨になったら、新しい墓を造って、二人を一緒にしてやろうと思った。
そして自分も、かなうならその墓に入りたいと。
圭太が亜門に連絡したのは、絶対安静だと言われた三日間が終わってからだった。
「連絡がくるとは思わなかったよ」
相変わらず、人を馬鹿にしたような話し方だ。電話越しだと特にそう思う。
「今、入院してる。足怪我してさ。今はまだ、ちゃんとペダル踏めないだろうな」
ふと、亜門の声が歓喜に染まった。
「……ピアノ、やる気になったのか?」
「そんなこと言ってないだろ。ものの例えだよ。――なあ亜門。もし、もしも俺がピアノを弾いたら、またあんたのライバルになれるかな」
二人の空白の時間は、もう五年を超した。今更亜門に追いつけないことくらい分かっている。それでも、ライバルは周りが決めるものじゃないから。
しばらくの間を空けて、いつもより幾分穏やかな亜門の声がした。
「コンクールで競うだけが、ライバルじゃないっしょ。俺は、早くお前に帰ってきてほしいよ」
「……母さんは、お前が教え子で喜んでるだろうな」
「まあね。俺みたいに優秀な生徒、きっとなかなかいないよ。俺ね、高校出たら留学するんだ」
その言葉に、圭太は驚きはしなかった。そんな気が、なんとなくしていたのだ。亜門はきっと律子と同じ道を行く。
「挫けそうになったとき、自分と同じ信念を持つ誰かが、今もどっかでピアノを弾いてるんだって思ったら、嬉しくなんない? また頑張ろうって、思えるよね」
独り言のような口調で亜門が言った。それは圭太だと、そう言いたいのだろうか。
何も答えない圭太に声をかけるわけでもなく、亜門がさらに言葉を続ける。
「先生は、お前が息子で喜んでるよ」