4-3
真っ暗な部屋で、圭太は時計を見ることもなくただ茫然と横たわっていた。目が覚めたのがいつかは覚えていないし、時計を確認したわけでないから、はっきりした時間も分らない。だが、もう随分長い間こうしている気がする。
誰かを呼び寄せる気にはなれなかった。ここが自室であることは雰囲気で分かっているし、一歩廊下に出れば龍も恭平もいるだろう。電気のない部屋がこうも真っ暗なのだから、香苗はおそらく帰ったのだろうが。
どれくらい眠っていたのだろう。帰ってくるなりピアノの音を聴いて倒れたことは覚えている。それが龍の奏でていた音であるということも、何となくだが理解している。
圭太は、自分が情けなかった。龍が自分を癒したいのだと言ってくれた時、正直圭太は、傷を克服した気でいた。ピアノはまだ弾けないが、あとは気持ち次第でなんとかなるだろうと、安易にそう思っていた。
とんだ思い込みだ。自嘲える。
本当の自分はまだ非常に弱くて、あの音色を聴いてだけで、情けなくも倒れてしまうというのに。
掛け蒲団を引っ張り上げて、その中へと潜り込んだ。真っ暗な世界は不安で、怖くて、息苦しくて、嫌いだ。でも、光のある世界も嫌いだ。笑っている人が羨ましい。愛する人と共にいられる人が羨ましい。羨望で、そんな世界は圭太には歪んで見えた。
どこにも、居場所が見つけられない。
――龍くん。
圭太が心の底で呼んだのは、その名前だった。龍くん、龍くん、龍くん!
どうしてだろう。圭太を地獄の底に突き落とすのは龍なのに、救いあげてくれるのも龍なのは。圭太の心をズタズタに傷つけるのは龍なのに、こういうときに、彼が助けを求めるのも龍なのは。
たとえ贔屓だと言われても、勝手だと言われても、圭太の心は、こんなにも龍を求めている。誰よりも、自分の心を癒せるのは龍なのだと、本能が知っている。
そんな風に考えている時、不意に部屋の扉が開かれた。相変わらず蒲団に潜り込んでいた圭太は、扉がわずかにきしむ音でそれを悟る。
ゆっくりとした足音は、圭太のベッドの前で止まる。息苦しいまでに潜り込んでいる圭太の蒲団を、首の下までずりおろし、整えてくれた。
――龍くんだ。
起きていることを知られたくなくて目を閉じていたが、圭太にはそれが分かった。この香りは、龍の匂いだと。香水ではない。多分、龍が使っているシャンプーの匂い。
蒲団を整え終えれば、龍は圭太の髪を梳くように一撫でする。
「……ごめん、な」
起こさないようにだろう。か細い声でそれだけ言って、龍は踵を返したようだった。
違う。龍くんが悪いんじゃない。俺は、あんたに謝ってほしいわけじゃない。
「龍くん」
そう思うのと、圭太が龍を呼び止めるのはほぼ同時だった。このまま、彼が罪悪感に苛まれ続けるのは嫌だった。それは龍のためであると同時に、自分のためだ。
「起きてたのか?」
「……や、今」
「そうか。……電気、つける?」
「ん、お願い」
こんな嘘を黙って許してくれるのが、龍の優しさだ。パチン、という音を合図に、圭太の視界が明るくなる。起こした上半身から、わずかに距離の離れた龍と目が合った。
お互いに何も話さない時間が、数分。
普段なら、圭太は龍と話さずとも何時間でも一緒にいられる。しかし今は、うつむく龍からその罪悪感がひしひしと伝わってきて、圭太は一度目を閉じた。
「……龍くん、こっち。ここ、座ってよ」
ベッドの端を叩くと、龍はそれにしたがってくれた。こういう状況になってから、ふと龍に、不幸を喰われたときのことを思い出した。
でも今は、そんな思い出話をしているときではない。
「あのさ、ありがとう。ここまで運んでくれたの、龍くんだよね?」
圭太の第一声がそれだったことに、龍は驚いたように瞬いた。香苗のコンサートに無理やり連れて行ったあの時のように、頭ごなしに責められることを覚悟していたのかもしれない。
「ああ、うん」
気の抜けたような龍の返事に、圭太はこみ上げたように笑った。しかしその笑みは、すぐに重い表情に変わる。
「龍くんはさ、悪くないよ。謝るのは俺のほうだ。ごめん、弱くて」
知らぬ間に俯いた圭太は、蒲団を握りしめていた。自分が弱いなんて、本当は口にしたくない。だけど、このままじゃ何も変わらないことも、ちゃんと分かっている。
誰も何も発しない部屋はとにかく静かだった。まだ、蝉が鳴くにも早すぎる時期だ。耳鳴りだけが、静寂を破る。
ふと、耳鳴りじゃない音が混じった。人が、息を吐く音。
「――圭太、お前は決して弱くないよ。自分が弱いなんて過小評価、しちゃだめだ。そう思ってしまうことは誰にでもあるけど、それはお前をより辛い状況にするだけだろう?」
「でも、俺……」
「お前は強い。俺は、そう思うよ。少なくとも、今までのストレスを、お前はため込むだけで耐えてこられたんだ。俺みたいに発狂することもなかった。偉いよ、それは」
どうして龍は、こうまで圭太の欲しい言葉をくれるのだろう。ぎゅうっと締め付けらる胸が痛くて、だけどそれが心地いい痛みだから、圭太はごまかすようにベッドへ倒れた。
「いつかピアノ……弾けるかな」
「弾きたいか?」
「弾きたい。弾きたいんだ、もう一度。大好きだったから。弾いてる時が、一番幸せだったから。だから、やめることが一番辛かった」
それ以上、龍は何も言わない。「弾けるよ」なんて気休めが、今の圭太に必要ないことも分かっているのだ。腕で顔を覆って、圭太はただ思いに馳せた。
「……そういえば、どうして今日はあんなに早く帰ってきたんだ? 咲ちゃんの家へ行っていたんじゃないのか?」
その言葉にハッとする。そうだ、自分はそれを確認するために、急いでここへ帰ってきたのだ。
体を横向きにすれば、肘をついて僅かに起こした。圭太の慌てた様子に、龍はきょとんとしている。
「咲ちゃんち行ったとき、誰もいなくてさ。伎倉が勝手にドア開けちゃったんだ。……そしたら、中、びっくりするくらい荒れてて……。で、俺、思ったんだけど……、やっぱりまいねちゃんが、不幸喰いなんじゃないの?」
それしか考えられなくて、圭太は必死に訴えた。その様子に龍もはじめは目を丸くしていたが、やがてゆっくり首を横に振る。
「何で!? 咲ちゃんは、俺に言ったんだ。まいねちゃんがおまじないしてくれるから、大丈夫なんだ、って。 それで、咲ちゃんは自分を不幸だと思ってなかったんだろ? あの子が不幸を喰ってるとしか思えないじゃん!」
「違うんだよ、圭太」
「何で!」
これで咲が救えると、圭太は心のどこかで思っていた。あの部屋を荒らしたのが本当に咲なのなら、こんなに悲しいことはないと思ったのだ。辛さを隠して自分に笑いかけてくれるあの少女が、暴れたくなるほど傷を抱える、こんな状況は。
ショックを隠しきれない圭太に、龍はベッドから腰を上げた。圭太の胸の前あたりで、今度は床に腰を下ろす。すると、ほんの少しだけだが、龍の視線が低くなった。
「圭太がそう言ったとき、俺も先生も、その可能性を考えた。でもこの間、――ほら、俺と咲ちゃんとまいねちゃんが、一緒に帰ってきたとき――初めてまいねちゃんに会って、それはないと思った」
「まいねちゃんが、いい子そうだから?」
「そんなことで判断しねえよ。ま、確かにいい子そうだったけどな。でも違う。――あのな圭太。誰もかれもが不幸喰いになれるわけじゃないんだ」
とくん、とくん。あんなに興奮していた体が、心が、龍の放つ一声一声におさまっていった。今は、彼の話す言葉にただ聞き入っていく。
「不幸喰いは、満二十歳を超えた者だけに目覚める力だと言われている。あの時点で、俺たちはまいねちゃんの年齢を知らなかった。でも、彼女は咲ちゃんと同じ十二歳だ。不幸喰いじゃない」
「……」
そうだ。圭太だって、あの時点でまいねは咲より年上だと思っていた。龍も恭平も、ちゃんと圭太の疑問を調べてくれていたのだ。そしてそれは、思い違いに終わった。
「でも、だったら、誰なの?」
誰が、咲の不幸を喰っているのか。あの少女になんの恨みがあって、抱える不幸をよりひどいもの変えているのか。
まいねが不幸喰いであるほうが、まだよかった。まいねならば、勘違いしているだけだったかもしれない。それが咲の幸せだと、本気で信じていただけだったかもしれない。
だけど、それが判断力を培った大人の仕業なら、確実に悪意を持っての行動だ。まだ幼いあの少女を、不幸にすることだけが目的なのだといっても過言でない。
「それが分らないから、俺たちも困ってるんだ。咲ちゃんは、本来とても強い子だ。いじめに立ち向かう勇気も、きっと持ってる。だからこそ一刻も早く不幸喰いを見つけて、やめさせなくちゃいけないんだけどな」
「……本当に、まいねちゃんじゃないのかな」
「圭太、だからそれは……」
「だって、二十歳以上って、そう言われてるだけなんでしょ? 誰かがそれを証明したわけじゃないんでしょ? 諦め悪いかもしれないけど、俺はかすかでもその可能性にかけたいよ! まいねちゃんなら、きっとわかってくれる」
咲が大好きだと言ったまいね。だったら、確実に不幸喰いが存在するのなら、どうかまいねであってほしい。咲を恨む誰かなど、存在しないでほしい。
「もう一回、もう一回だけ調べてみてよ。お願い。あの子を、咲ちゃんを助けてあげたいんだ。龍くんにならわかるでしょ? 溜まり溜まったストレスは、あの子の人生を壊してしまう」
圭太には、咲の背後に幼き自分が見える。亜門に負けたことだけが理由じゃない。たくさんの人間に蔑まれ、貶され、罵られ、圭太はピアノを続ける気力を失った。圭太にはピアノという対象物があったけれど、いじめなんて抽象的な行為を受けている咲の行き着く先は、果たしていったい何なのだろう。
――咲は、けいたお兄ちゃんが大好きなんだよ。
あの言葉、本当は嬉しかったのだ。何もできていないだろう自分を、大好きだと言ってくれる咲。あの子は、此処に篠塚圭太が存在するのだと知ってくれている。
自分がいてもいなくても、何も変わらない世界。ましていなくなっても誰も気がついてくれない世界を、圭太は嫌というほど知っていた。そしてそれが、どんなにつらいかも。
龍だって、知っているはずだ。自分の望まないものばかりが存在する世界が、どんなに窮屈か。
ふわりと、額に何かが触れた。温かくて骨ばったそれは、圭太の額から頭にかけてを何度か往復し、やがて彼の体をベッドへと倒した。されるがままに横たわってからも、龍は圭太の頭を撫でるのをやめない。
「龍くん……」
「そうやってお前が一生懸命になるのは、いいことだよな。何でもため込む性格のくせに、話してくれるんだから大進歩だ。分ったよ。圭太、お前がそこまでして咲ちゃんを助けたいのなら、俺も精一杯力になる」
「うん」
どこか不安さをぬぐえない声音ながらも、圭太ははっきりと頷いた。龍ならわかってくれると、信じた通りだ。
彼が頭を撫でる手が心地よくて、圭太の視界はだんだんとまどろんだ。
「龍くん……、ありがとね。俺、龍くんに会えてよかったよ」
「俺だけかよ? だったらまだまだお前はガキだな。親のありがたさが分かるようになってから、そういうこと言え」
「褒めてんだから、まずは礼くらい言えよ」
苦笑じみた笑いを零してから、圭太はゆっくり目を閉じる。不幸を喰われた時のあの感覚と、似ていて違う。だけど今のほうが確実に、圭太の心は安堵感に満ちていた。
真っ暗な世界は不安で、怖くて、息苦しくて、嫌いだ。でも、光のある世界も嫌いだ。笑っている人が羨ましい。愛する人と共にいられる人が羨ましい。羨望で、そんな世界は圭太には歪んで見えた。
でも今、圭太には龍がいる。龍は、圭太を暗闇から救い出してくれる存在だ。ほんの一瞬で、圭太の世界に光をともしてくれる。
そして彼と一緒なら、圭太は笑うことができる。大好きな人と、一緒にいることができる。
――お前は強い。俺は、そう思うよ。
幸せって、こういうことなのかな。
不幸を喰われたあの日以来だと言えるほど安心した心地で、圭太はそのまま眠りに落ちた。