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4-2

 別に香苗についてこられて困る事など何もない。しかし、咲と仲良く遊んでいる自分を見られると思えば、恥ずかしいと言うか情けないと言うか……とにかく複雑な感情が渦を巻くものだから、できるならついてきて欲しくはなかったのだ。

 そう思って、終礼が終わるなりすぐに下足ロッカーへと向かえば案の定香苗はまだいなかった。チャンスとばかりにさっさと靴を履きかえ、圭太は玄関を出る。

 そのまま校門も出ようとしたとき、

「四条圭太」

 聞き覚えのある声が届いた。

「――……亜門」

 校門に背を靠れた亜門は、ポケットに手を突っ込んでこちらを見ている。一重まぶたの細い眼が、狐のように細められた。

 はじめから視線をぶつけてしまった今回は、圭太は逸らすことができない。

 圭太の中の亜門は、小学生で止まっていた。しかし目の前の男は、面立ちも背格好も、あのころとはまるで違う。大人の男になっていた。

「久し振り。また俺のこと忘れたりしてないよね?」

「……何か用?」

 素気なく、圭太は訊ねた。香苗に対してもそうだが、圭太は自分の過去を知っている人間に優しくできない。

「つめたっ! 昔は一緒に練習してた仲じゃん? なあ、またピアノやらないの?」

「……やらない」

 もしかしたら、また弾けるようになるかもしれないという予感はあった。だけど、それを亜門にほのめかすことをしなかったのは、確信していたからだ。

 たとえやっても、もうこいつには近づけない。

 事実今も、ちらほらと通り過ぎる生徒の中に亜門の存在に気が付いているものはいるようだった。高校生ピアニストとして、音楽科の人間ならば誰しもが知っている存在だからだ。

 圭太の返答に、亜門はつまらなそうに肩を竦めた。

「へえ。腰ぬけはいつまで経っても腰ぬけか」

「……」

「言い返すこともできないわけ?」

 舌打ちが耳に届く。顔を逸らしていたから、亜門がどんな様子かは確かめられなかった。

 早く、ここから去りたい。

 亜門を見ると、思い知るのだ。律子がどれだけ素晴らしいピアニストだったか。教え子を有名にできるなら、その力は本物だ。

 コンクールで亜門に負けた時、圭太はもう、律子に追いつけないのだと知った。律子が死んだとき、もう誰も、彼女を越えられないのだと悟った。

 折れた心は、もう元にはもどらない。

「圭太!」

 とっさに、圭太は声の方に向き直った。相手が誰でも、今の圭太には救いだ。

 そこには、不機嫌そうな香苗が立っていた。

「圭太、あたしのこと置いていく気だったんでしょ? うちの教室から、圭太がさっさと帰ってくの見えたんだか――……あれ、亜門」

「香苗ちゃん、久し振り」

「こんなところで何してるの?」

「圭ちゃんをいじめてたの」

 自分をそう呼んだ亜門を、圭太は激しく睨んでやった。バカにしている、とそう思う。

「行こう、伎倉」

 亜門の顔を見ないままに、圭太は歩き出した。香苗が慌ててあとを追ってくる。背中に、亜門の声が届いた。

「圭太! またピアノやるときは、ちゃんと言えよ!」

 何で、そんなことを報告しなくてはならないのだと、思った圭太は振り返ることなく歩き続けた。

 一度、後ろを振り返った香苗が、遠慮がちに口を開く。

「亜門、また圭太にピアノ、やってほしいんだろうね」

「……大きなお世話なんだよ」

 どんな理由だろうと、彼の存在が圭太の傷を増やす。あの後ろに、律子の姿が見えてたまらない。

 嫌いなわけでない。亜門は圭太にとって、本当に良きライバルだった。だけどそれは、圭太の中ではもう過去のことだ。きっと、亜門の中ででも。

 自分をからかうことで亜門がストレスを発散しているのだとしか、圭太には思えなかった。


 学校から小柴家までは、歩けば三十分ほどの道のりだ。近くまで行くバスもあるが、せっかくのいい天気なので、圭太は歩いていく事にした。場所を分かっていない香苗は、もちろん異を唱えない。

 しかし良すぎるほどの天気は、十分も歩けば暑さをもたらす。

「ねえ、圭太? その患者さんの家って近いの? もう体中焼けそうだよ」

 そう言って持ち上げた腕を、香苗はゆっくりと撫でた。べたつく感触に顔をしかめている。

「あそこにコンビニ、見えるだろ」

 顎で前方を指してやると、隣の少女は顔を上げた。うん、と頷く。

「ここからあそこまでを、往復半するくらい」

「ええっ? それって結構遠いじゃん。もう〜、焼けたら先生に怒られる〜」

 嘆く香苗に、だったら帰れと言ってやりたかった。後に続く言葉が予想できたので言わなかったが。

「ねーえ。じゃあコンビニ寄って行かない? おなか空くでしょ、もうお昼なんだし」

「別に」

「別にって何?」

「金ないし。行きたかったら一人で行けば?」

「じゃあ圭太お昼どうすんの?」

「食わなくても死なないじゃん」

 あっさりそう吐き捨てると、香苗が持ち前のお節介を発揮した。せっかく余計な事を言いそうなのを回避したばかりなのに、早速選択を誤ったらしい。

「死なないけど体に悪いよ! 病気になったらどうするの? まだまだ育ち盛りなんだからね!」

 勘弁してくれ。圭太達の歩く右側を走る旧国道。そこに行き交う自動車の排気ガスにより熱気を感じながら、圭太は頭を抱えた。

「いいから、行こう! お金ないならあたしが奢ってあげる。今日は特別だよ」

 言うなり圭太の腕を掴んで、香苗はコンビニへと急いだ。

 昔も、こんな事があった。まだ律子が再婚する前、母子家庭だった頃だ。律子が風邪をこじらせて入院してしまったため、圭太は自炊する事になった。

 しかしそれまで料理なんてしたことのなかった圭太だ。まだ小学生で、コンビニに一人で入るのも慣れていなかった。家にあるお菓子でしのごう。そう思っていることを香苗に話したら、確か無理やり家にお邪魔させられたのだ。まだ香苗を「香苗ちゃん」と慕っていた頃の話である。

 本当に、香苗はあの頃から何も変わっていないのだな、と思うと、圭太は自分に溜息をついた。色んなものを抱えてしまうのが体質だとしても、圭太はそれに卑屈になりすぎていた。誰も理解などしてくれないのだと、勝手に思い込んでいたのだ。

 多分香苗は、そんな圭太も受け入れてくれたのに。


 コンビニで必要以上だろうと思うほどのおにぎりとサンドウィッチ、そしてお菓子を買い込んだ香苗と、それをただただ呆然と眺めていた圭太は、暑さにめげそうになりながらも何とか小柴家に着いた。

 古ぼけたアパートの入り口前に曝すように設置された駐車場には、先日目にした雪華の車はない。分かっていたが何となくホッとすれば、ギシギシとなるアルミ製の階段を上った。部屋は一階と二階で合計十室ほどある。

 そのうちの一つ。雪華からは二〇二号室だと聞いていたが、部屋番号など分からないほど汚れた壁から、「小柴」とプレートの掛けられた部屋を見つけた。

「ここ?」

 あまりに寂れたそのアパートに言葉を失っていた香苗は、掠れた声でそれだけ問うた。

 圭太は頷くと、使えるのかも分からないチャイムを鳴らす。しかし誰も扉を開けないから、やはり壊れているのかと思った。

「こんにちはー」

 声をかけながらノックをしても、やはり誰も出ては来なかった。と、香苗が一歩前へ出る。

「すいませーん! 篠塚しのづかですけど! ……誰も出ないじゃない。誘っておいて、失礼なの。圭太が大人しいからって、なめてんじゃないの?」

 失礼なのはお前だ。大人しいは確かかもしれないが、それを本人の前で言うなよ。

 思ったが、口にはしなかった。言葉にならなかったのだ。香苗が、家のドアをガラリと開けてしまったから。

「やだ、鍵、掛かってないじゃん」

「古いから、壊れてんじゃない? いいから閉めとけよ」

「でも……圭太――」

 まるでいけないものでも見てしまったかのように、香苗の声が震える。怪訝に思った圭太が家の中に目をやった時、思わず唾を飲み込んだ。

 小さなアパートは、扉を引けばすぐにリビングとして使われているのだろう部屋が目に入る。しかしそこは、瞬きを忘れるほどにひどく荒れていた。

「泥棒でも、入ったんじゃないの? ねえ、警察に」

「待って、落ち着けよ。まだ分からないから。慌てるな」

 それは、まるで自分自身に言い聞かせているように単調な言葉だった。香苗にしてみれば、必要以上に圭太が落ち着いて見えたかもしれない。

「でも……」

「精神病患者がいたんだ。誰かが暴れたって可能性もある」

 精神科医の息子である圭太がそう言えば、幾ばくかの説得力があるのだろう。香苗はそれを境に口を出さなくなった。

 それを受けて、圭太は考え込む。今の言葉は事実だ。精神病患者に、心が不安定になりすぎて暴れる者は少なくない。龍だってそうだった。

 でも、咲が……? あの少女が、そこまで心を乱すのだろうか。

 咲は、一度会っただけで圭太を好きだと言ったのだ。咲のいじめの程度がどれほどか、圭太には知る由もない。それでも、人間不信にもなっていないあの少女に、それほどの傷があるとはどうしても思えなかった。

 だけど本当は、もっと大きなものを抱えていたのだろうか? 圭太が気付かなかっただけで、本当の咲は、彼が思う以上に傷付いていたのだろうか。

 まだ、十二歳なのに?

 納得がいかなくて、気がつけば圭太は勝手に家の中へと上がりこんでいた。香苗が名前を呼んでくるが、それに耳を貸す余裕はない。

 廃れたアパートに廊下はなく、部屋はすべて襖で区切られていた。服も本も、好き放題に散らかっている。足元を見ながら歩いていたが、突如痛みが走った。

「……っ」

「圭太?」

 香苗の心配そうな声に、漸く彼女が着いてきていたのだと悟る。振り返ってから舌打ちした。

「そこから動くな。多分、皿とかも割れてたんだ。大きいのは片付けたんだろうけど、まだ破片が散ってる」

「踏んだの? 大丈夫?」

「俺は大丈夫だよ。とにかく、そこから動くなよ」

 踏んだ破片は小さなものだった。歩くたび内出血でもしたような痛みが走るが、それもじきにおさまるだろう。そのまま奥の襖を開けて、圭太は硬直した。

 その荒れようは、先ほどの部屋と比にならない。びりびりに破られて散っているのはおそらく教科書だ。敷きっぱなしの蒲団のシーツは、はさみか何かで裂くように切られていた。

 カーテンは取れ、机は横になっている。本もそこらにばら撒かれ、服も散々になっていた。

 入り口際に、くたびれた赤いランドセルが二つ、放り投げられたようにおいてある。ここは、咲とまいねの部屋なのか。それにしても、この荒れ方は尋常じゃない。

「ねえ、圭太、もう帰ろう? 警察呼ばないなら、せめておじさんに言おうよ」

 どうして。咲が本当にこれをやったのだろうか。だが咲でないなら誰が? まいねがやったのなら、雪華は恭平にそちらも相談するだろう。雪華がやったなら、昨日家へ来た咲は、もっと彼女を恐れるはずだ。

 いや、昨日の咲は……変ではなかったか?

 雪華が迎えにきたとき、彼女は帰りたくなさそうだった。だけど、圭太が今日訪れる約束をしたから、明るく帰って行ったのだ。そのときはもう、雪華に対しておかしな態度ではなかった。

 圭太と別れ難かったのかと思ったが、もし違ったら? 家へ、帰りたくなかったのだとしたら?

「圭太! もう、いい加減にしなよ。そんなところで考えてたって何もないって。その患者の子が暴れたのか、泥棒が入ったのか、どっちかなんでしょ? それともポルターガイストでも起きたって言うの?」

 ! 香苗の怒鳴り声が届いたのは、彼女が半分ほど喋った時点でだった。それでも、その言葉が、圭太の疑問と合致する。

「それだ!」

「は……?」

 思わぬところで圭太が食いついてきたのだろう。香苗の目が点になる。しかしそれに構うことを知らない圭太は、もう靴を履いて小柴家を飛び出していた。

「ちょっと、待ってよ!」

 香苗が追ってくる。こればかりは彼女の言葉のおかげだったから、圭太は他意なしに香苗の手を掴む。繋がった二つの手に、香苗が釘付けになっている事も、気付きはしなかった。

 もちろんあの部屋は、ポルターガイスト現象なんかで荒れたわけではない。圭太は大切な事を忘れていた。

 ――不幸喰いだ。

 咲は、また不幸喰いに不幸を喰われたのだ。そしてその直後に、きっとひどく中傷的なことがあったのだろう。それは咲の心にこれ以上ない傷をつけ、彼女は自分の心を守りきれなくなったのだ。

 そして、不幸喰いは咲の近くにいる。

 ――絢崎あやさきまいね。

 彼女が不幸喰いなのではないかと、圭太には予感があった。それなのに、色んなことがありすぎて、彼の思考からそれはすっかり飛んでいた。いやむしろ、二人と一緒に帰ってきたあの日、龍が何も言わないから忘れきっていたのだ。

「けいたお兄ちゃん」

 アパートから離れ、旧国道に出る一つ前の角を曲がった時、咄嗟に掛かった声には聞き覚えがあった。振り返った先の二人の少女に、圭太は一瞬息を飲む。

「……咲ちゃん、――……まいね、ちゃん」

「どうしたの? 今日は来れなくなったんじゃなかったの?」

「いや……。俺はそんなこと言ってないよ。ちゃんと今、二人の家に行ったところ」

「え、でも、まいねちゃんが……」

「お兄ちゃん、何かあった?」

 咲の言葉を遮ったまいねは、単調にそう訊ねてきた。

「何かって……?」

「何かを見たの?」

「家、荒れてたんだけど」

 それを答えたのは香苗だ。まいねが視線をそちらに移し、香苗を見上げた。

「けいたお兄ちゃんの彼女?」

「違うよ」

 即答したのは圭太だ。香苗の視線を急に感じて振り返れば、恨めしそうにこちらを睨んでいる。なんだよ? 違う事違うって言って悪いのか?

「でも手、繋いでる」

 そう言われて、圭太は初めて自分が香苗の手を握っている事に気がついた。そう、握っているのは圭太だ。

 さすがに自覚してしまえばこそばゆくて、すぐに手は離した。今更、変な汗が掌を湿らせる。

「……こいつは幼なじみ。で、さ。その、あの荒れてたのって……」

「咲がやったの」

 唐突に咲はそう言った。視線は一心に地面を見つめ、まるでどうでもいいといいたげに投げやりな言葉を吐く。

「どうして」

「分からない」

「分からないって……」

「覚えてないの」

 覚えていない?

 圭太は訝るように目を細めた。発狂した事を、覚えていないと言うのか。確かに心が壊れて我を失う人間はいる。圭太も何度か見たことがあった。でも、今の咲はまるで普通なのに?

「咲ちゃん。君は、自分をいじめた人間を恨んでいるの?」

 ふと、少女が顔を上げた。圭太の言葉を理解できなかったように揺れる瞳は、やがてその首を横に振る。

「咲は……咲をいじめるみんなが嫌い。でも、咲にはまいねちゃんがいるから、大丈夫なの」

 その言葉を聞くのは、実に二回目だ。初めては、最初に咲に会ったとき。

「“まいねちゃんがおまじないしてくれるから”?」

「それもあるけど、咲はまいねちゃんが大好きだから」

「……分かった」

 頷いて、圭太は香苗についてくるよう促した。「用事があるから」と、二人には適当に理由を繕う。

 咲は、まいねを信じている。でも、まいねが不幸喰いなのは、恐らく間違いないと思う。おまじないとは、不幸を喰うあの行為。あの日帰りたがらなかったのは、恐らく発狂した事を覚えていない自分が恐かったから。その原因がまいねだと、あの少女はまだ気付いていない。

 龍に相談しよう。龍なら何とかしてくれる。それだけを思って、圭太は残りの帰路を急いだ。



 家に向かう途中に、香苗には楽譜を渡して帰るよう言った。しかし彼女は一緒に圭太の家へ行くのだと言い張り、結局玄関先に来るまでに説得する事はできなかった。

 早く龍に話してしまいたかったのに、恭平と会えば、下手したら夕食まで同席するかもしれない。恨めしげな溜息を盛大に吐いて、圭太は玄関を開けた。

 〜〜♪

 ドキリとした。音、ピアノの音。それが玄関に響いてきている。ペダルを踏んでいないようで、反響はしていないため外には聴こえなかったが、少なくとも家屋には大きく響き渡る。

 素人の音だ。習いたての子供。いや、そちらのほうがまだ上手く弾けるかもしれない。

 でもこれは、ピアノの音で、そして――……。


 ソ・ミ ソ・ミ レドレド〜


「圭太!」

 香苗の叫び声が聴こえた時、もう圭太の視界は色を無くしていた。


 レレミ ファーレ ミミファ ソーミ


 無情に響くこの音は、圭太の始まりの音だ。

 初めてのピアノの発表会で演奏した曲。初めて律子に、ピアノで弾いてもらった曲。初めて世間に、有名ピアニストの息子である圭太の名前がさらされることとなった曲だ。

 だからこそ、痛い。

 あの日、あの時、この曲を奏でた過去がなかったら、圭太の未来は変わっていたのかも知れないと思えるから、だから余計に、この音を聴くのが痛いんだ。

 何も、何も越えられてはいないんだと思った。

例えば龍の存在が、圭太の救いになっていても。

例えば恭平との朝食に、安息感を覚えても。

例えば香苗が、自分対して変わりなく親身になってくれている事に気付けても。

圭太の傷は、まだ傷のままだった。

 ――またピアノやらないの?

 ――やらない。

それとも、亜門にあんなことを言ったから、言葉が現実になってしまったのだろうか。

ふわりと、体が軽くなる。自分を包む心地よい温かみに、圭太はゆっくり息を吐いた。この感覚は三度目だ。温かい体温、優しい香り。

龍くん。だけど俺が、痛みを伴っても何かを拒絶しようと思わないのは、きっと龍くんのおかげなんだ。あんたは俺の欲しいものをくれるわけじゃない。でも、俺が望む温かさを与えてくれる。それが、嬉しかった。

恭平(父さん)よりも、父さんみたいで。

律子(母さん)よりも、母さんみたいで。

香苗(幼なじみ)よりも、友達みたいで。

だって、俺と同じ痛みを伴って、俺の知らない強さを持っていたのは、龍くんだけだったから。


***


「圭太、大丈夫ですか?」

 ベッドに寝かせた圭太に蒲団をかけたところで、龍は今にも泣き出しそうな少女の声に振り返った。

「大丈夫だよ。ごめん、俺のせいだな。今日は帰りが遅いって聞いていて、油断した」

 香苗の声を聞きつけて、ピアノのある部屋から出た龍が見たのは、顔面蒼白に蹲っている圭太だった。自分が安易に弾いていたピアノ。その音が、彼の抱えるストレスを刺激して、意識障害を起こさせたのだ。

 いくらこの頃の圭太の状態がよかったにしても、彼のピアノへのトラウマはそんなに簡単なものではない。あの音を、彼の体が受け付けようとしないのだ。

柳沢やなぎさわさんのせいなんかじゃありません。圭太……圭ちゃん、ピアノ好きなのに、やれないから。あの、圭ちゃんは、病気なんですか?」

「どうして?」

「ピアノをやめる前から、圭ちゃん変だった。最初はレッスンに来なくなって。来ても絶対ピアノと向かい合わなくて。楽譜とか、貰っても目を通さないし。――高校入って再会した圭ちゃんは、まったく笑わなくなってた」

 龍は、視線を圭太に向けた。今は意識の混濁は収まり、まだあどけない子供のような表情で眠っている。その前髪を、さらりと一撫でした。

「こいつは、元々ストレスを溜めやすいんだ。なのに、自分を守るのが下手な性格だから、どんどんその心に負荷をかけていってて……」

「辛かったんですね」

 何も言わないでも、多分香苗は理解してくれると思った。彼女は、圭太のことが好きなのだ。律子や恭平とは違う、《好き》。

 それは、これからの圭太に必要なものだ。

「あの、これ。頼まれてた楽譜です」

 ふと背後に寄って来た香苗は、龍に一枚の紙切れを差し出した。受け取りながら、「ありがとう」と声をかける。

「条件出してもいいですか?」

「え?」

「圭太を、癒してあげてください。そしたら、あたしがバイオリンでその曲を弾いてもかまいません」

 それは確かに、願ってもない申し出だ。龍が必死に練習するよりは、香苗が弾くほうが何倍も早いし、上手い。

「うん。俺に出来る事は、最初から全部するつもりだよ」

「柳沢さん……」

 まだ何かを言いたそうな香苗に、龍はゆっくりと立ち上がった。そのまま一緒に部屋を出て、扉を閉める。

「――圭太には、特別な力があります」

「特別な力?」

「絶対音感です」

 ああ、そうなのか。と龍は思った。だから圭太は、あんなにも不幸を抱えているんだ。

 絶対音感。つまりは、圭太は楽譜がなくてもピアノを奏でる事が出来る。一度耳にした音は、すべて脳内で音符化されるのだから。

 だから圭太のストレスは、必要以上に溜まっていくのだ。世界から音が消えることはない。例えそれが車の走る音でも、小鳥のさえずりでも、音楽家の演奏でも、だ。

「圭太はその力を隠していませんでした。むしろおばさんは誇ってたし……。でも、羨む人はみんな、圭太を批判した」

「優しいあいつに、それは耐えられなかったんだな」

 人にはない力を持つこと。その異端さは龍にも分かる。ただ龍の場合は、本来人に曝け出すものではなかったし、恭平と言う同士もいた。圭太は驚きつつも拒絶は見せなかったから、恵まれていたのだが。

「圭太、柳沢さんのこと信頼してるみたいだから。彼が誰かの頼みごと聞くなんて、今までなかったんですよ」

「あいつはみんなのこと信頼してるよ。ただ、近すぎて素直に言えないだけで」

「わかってるんですね」

「……俺がそうだったから」

 龍がそう言うと、香苗はふ、と笑った。

「来週、圭太の誕生日なんですよ」

「え?」

 唐突な情報に、龍は瞬いた。来週は七月も中旬だ。そういえば、圭太の誕生日など聞いたことがなかったな、と今更になって思いだす。

「七月十八日。おじさんは毎年ケーキ作ってましたよ。今は知らないけど、おじさんのことだから作ってるんじゃないかな。あたしも今年は参加させてもらおうと思うんです。柳沢さんも、圭太のこと祝ってあげますよね?」

「うん。もちろん」

 龍の返事を満足げに受け取れば、香苗はにっこりと笑った。「あたしはこれで失礼します」と言い置いて、篠塚家を後にする。その後ろ姿を見送りながら、いつか彼女と圭太がもっと親しくなる日が来るのだろうか、などと考えて、龍はつい笑みをこぼしていた。


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