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4 越えられないもの

 翌日、西日がまぶしく輝くようになったころに、雪華ゆきかさきをつれて問診にきた。りゅう恭平きょうへいの斜め後ろについて、咲への問答に耳を傾けていたが、その内容はやはりいつもと変わらず、咲が今もどこかにいる不幸喰いに不幸を喰われ続けているのは間違いないようだった。

 さすがにこう何度も会話を続けていると、咲自身も大人に気を許せるようになって来たらしく、ここ最近は随分と込み入った話までも聞けるようになった。

 たとえば、まいねのこと。雪華からの情報もあるが、まいねは咲のいとこで、雪華の弟夫婦の娘らしい。彼女の両親と咲の父親は、同じ車に乗っていた際の事故で亡くなり、夫に親族のいなかった雪華は、彼の遺産と、まいねを引き取る事での弟夫婦の遺産のいくらかを手に入れることになった。

 龍は、昨日まいねと一緒に帰宅したことを考えていた。

 咲とまいねはとにかく仲がよく、しょっちゅう二人で話をしていた。無邪気な咲とは正反対に、まいねはしっかりしていて機転もきき、二人は友達というより本当の姉妹のようだった。

 不幸喰いに、不幸喰いを見分けることはできない。相手の不幸の負い加減から、もしや……、と推測する事はできても、結局は体のどこかにある痣――不幸を表す花であるスカビオサ型――を見つけるしか、断定する方法などない。

 むしろ力に目醒めて四年程しか経っていない龍には、不幸の負い加減すら、判断しにくいのだ。

 咲の問診が終われば、診療室には雪華が呼ばれた。咲の様子は相変わらずか、といつも通りの質問から始まる。

 しかし、雪華の反応はいつもと違うものだった。

「実は……、昨日、夜の仕事を終えて帰宅したら、部屋が荒れていて、まいねが泣いていました。咲はぐっすり眠っていて……嫌な予感がしたんです。まいねに聞いたら、咲がまた発狂したのだと言いました」

「咲さんにそんな様子はありませんでしたが?」

 恭平が、あくまで冷静に問い掛けた。いまにも泣き出しそうな表情で、雪華が頭を振る。

「朝、目覚めた咲に問いました。どうして暴れたの? そんなに学校で嫌な事があったの? と」

「そうしたら?」

「――知らない、と言いました」

「知らない?」

「覚えていないんです。暴れてなんていない。どうして部屋が荒れているのか分からない。

わたしは何もしていない、とそれしか言わないんです」

「そうですか」と頷く恭平を横目で見ながら、龍は頭を抱えた。覚えていない……。咲のような症例で、そんなことは起こりうるのだろうか? 彼女は不幸を喰われる事で、必要以上の傷を負っている。しかし、咲自身はとても強いのだと、龍は最近思い始めていた。あの子は他人を怖がらない。不幸を喰われていない状態でいじめに遭っても、きっと発狂するほどの傷は負わなかったのではないだろうか。

 そんな彼女が、自分の行いを忘れるなんて、龍には理解できなかった。しかし恭平が何も言わないから、わざわざ口を出すことが出来ない。彼の経験には、そういうこともあるのかもしれない。

 雪華との話が終われば、圭太けいたへ預けていた咲を迎えに、龍は雪華と共に病院を出る。二人は、自宅の玄関先の段差に腰かけて話をしていた。

「ママ……」

 少女は母親の存在に気がつくと、か細い声で呼んだ。まだ圭太と別れがたいのか、腰かけた段差から立ち上がろうとしない。

「先生との話は終わったわ。帰りましょう」

 穏やかな声音で雪華が誘いかけた。それすらにも焦れるように、咲は視線を彷徨わせる。圭太が不思議そうに少女を見ていた。

「……本当に圭太くんが好きなのね」

 といった瞬間、圭太の表情に困惑が浮かんだ気がして、龍はきょとんと瞬いた。咲に必要とされることを、圭太は内心で喜んでいたはずだ。

 なのに、どうしたのだろう。

 気まずそうな圭太が咲へと声をかけた。

「咲ちゃん……、帰るって」

「……まだ、お兄ちゃんとお話ししてたい」

「でも、俺ももう入らなくちゃ。明日、遊びに行くから」

「本当?」

 パッと、少女の表情が華やいだ。それを合図としたように、立ち上がって母親の元へと駆け寄る。

 その様子に、やはり圭太と別れがたかったのかと判断すれば、龍は安堵の溜息をついた。

「じゃあ、ありがとうございました」

「いえ。お疲れ様でした。咲ちゃん、またね」

「バイバイ」

 雪華の言葉に業務用の挨拶を返せば、龍は膝に手をついた。すこし屈んで、咲に別れの言葉を告げる。その返事を聞けば、圭太の元へ行こうかと数歩歩いた。圭太も二人を見送るつもりなのかこちらへと歩んでいたので、丁度距離があったところで立ち止まり、二人で車を仰いだ。

 先に乗り込んだ咲を確認して、雪華がもう一度こちらに頭を下げる。龍が同じ動作を返すと、雪華の視線が急になまめかしくなった。

 その表情で圭太を見る。

「またね、圭太くん」

「……さようなら」

 そう返す圭太の目は雪華を見てはいなかった。まるで助けを求めるように、そっと後ろから龍の白衣の裾を握る。横目で見た圭太は、困ったように唇を噛み締めていた。

 雪華といえば、その様子に溜息をつきながら微笑を浮かべ、車へと乗り込んでいった。

 エンジン音が響き、六台入る駐車場を独占していた車は、悠々と道路へと向かう。龍達のほうには運転席が向いていた。その奥から咲が手を振るのが見えれば、動作を返しながら、圭太の脇をつついて注意を引く。

 漸く顔を上げた圭太も手を振るが、一度雪華がこちらを向けば、ピタリと固まってしまう。

 結局圭太は、車が見えなくなるまでそのぎこちなさを崩さなかった。

「どうしたんだよ? お前」

「え?」

 龍は病院、圭太は自宅と、近くとも別の場所へと戻るつもりの二人。龍は圭太が踵を返す前に、素早く問い掛けた。

 明らかに狼狽した圭太が、ぱちくりと、その大きな双眸を瞬かす。

小柴こしばさんに、何かあるのか」

「何、それ。咲ちゃんのお母さんでしょ。俺が関わりあるわけ、ないじゃん」

 怪しいんだよ。その言い方が。

 龍は溜息をついた。何かを隠しているのが、ありありと伺える。圭太は図星をつかれるのが嫌いだから、いつだって裏腹な台詞で有耶無耶にしようとする。

 本当に何でもないなら、まず興味すら示さないという圭太の性格を、龍は把握しているつもりだ。

 それに、龍が確信を露にする理由は、ほかにもあった。

「知ってるか? お前は俺に隠し事できないんだ」

「……?」

「お前は隠そうとすると、不幸の念を大きくする。ほんの少しだけどな。隠し事するだけで心が痛むなら、吐き出せって、いつも言ってるだろ」

 龍が言い終わる前に、圭太は表情を歪めた。また泣きそうになっているのか、不幸喰いの力を疎んでいるのか、さすがにそこまでは龍には分からない。

 一つ分かるのは、どちらだろうと圭太が、自分の感情を抑えようとしていることだけだ。だから彼の不幸ストレスが、またその大きさを増す。

 ほんの少しとはいえ、圭太は自分に心を開いてくれたのだと思っていた。しかしそれは思い過ごしだったのか、それとも自惚れだったのか。やはり少年は、最後には自分で抱えようとしてしまうのだ。

「俺は頼りにならないか……?」

「ち、違うよ。龍くんには感謝してる。俺、龍くんに助けられたとこ、あるんだ。……てか、それだって分かるんだろ? 俺の不幸、昨日から少しも減ってない?」

 正直な話をすれば、龍には減っているようには見えない。でも、圭太の根底にあった、一番輝いていた不幸は、その色を落としていた。たまたま気の持ちようかと思っていたが、自分のおかげだったのか……?

「龍くんがいてよかったって、俺、本当にそう思ってるよ。……でもごめん。まだ何もかも、話せるわけじゃないんだ」

「だったら、そう言え。わざわざ探るなんて、無粋な事しないから。だから隠すな。お前が自分で不幸を増やしてたら、俺がどれだけがんばっても間に合わない」

 ポン、と圭太の頭を一撫ですれば、龍は病院へと体を向けた。少しずつでいいから、この小さな少年の、心の拠所になってあげたい。多分それが、龍が圭太を気にかけた最初の理由だ。


***


 梅雨が明けて随分と経った空は、朝から肌をじんわりと湿らすほどの熱気があった。はやく夏休みになってほしいと思いながら、圭太は制服に袖を通す。

 学校へ行く準備を万端にして、階段を下りる。キッチンに入れば、甘い卵焼きの匂いがした。

「おはよ……」

「おはよ」

「おはよう」

 席に着く前に挨拶すれば、新聞を読んでいた龍と、キッチンで皿に朝食を盛っていた恭平が、一緒に言葉を返してくれた。どうしてか、それが圭太の心を安心させてくれる。家をあったかいと思うのは、随分と久しい感覚だった。多分、実父が生きていた頃以来だろう。

 龍の向かい側である自分の定位置に立てば、日課となったように体が動き、三人分の箸を並べてから席についた。もちろん箸立てには、ピンクの箸が一膳残る。

 恭平が料理を並べ、「いただきます」と唱えれば、朝食はスタートする。龍が来てからも、朝食の静けさはそう変わらなかった。恭平と龍は時折言葉の掛け合いを行うが、圭太は何も言わないからだ。

 しかしそれが苦痛だとは思わない。むしろ黙っていても苦痛に思わない空間は、貴重だと思う。

「圭太」

 そんな圭太に、珍しく龍が声をかけた。

 卵焼きを味わっていた圭太は、ふいっと顔を上げる。

「何?」

「お前の学校に、音楽科ってあるんだよな?」

「うん。あるけど」

「そこに友達、いるのか?」

「友達……」

 言葉の意味を確かめるように、圭太は呟いた。友達。一緒に何かをしたり遊んだりして、気持ちの通い合っている人。生憎、圭太には休み時間を共に過ごす程度の友人しかいないため、ほかのクラスにも、まして学科になど、友達と呼べる人間はいない。

「いない。音楽科は一クラスだけど、名前がわかるのも、伎倉きくらくらいしか……」

「伎倉?」

「前、コンサートに行ったときに会っただろ。伎倉香苗かなえ。あれ、俺の幼なじみ」

「ああ……」

 ようやく思い出したように龍は視線を上に上げた。少し考えるように黙り込んでいたので、変わって恭平が口を開いた。

「香苗ちゃんか。なつかしいね。律子さんがいた頃は、よく遊びに来ていたよね」

「別に母さんがいないから来なくなったんじゃないよ。中学に上がって、あいつも教室やめたから、共通点がなくなっただけ」

 興味無さげにご飯を口に含んでいると、考えをまとめたように龍が圭太を見た。

「じゃあさ、圭太。その子に頼んでくれねえ? 楽譜書いて欲しいんだ」

「楽譜?」

 訝る圭太を、龍は瞳でたしなめた。

「ああ。この家、せっかく立派なグランドピアノがあるのに、誰も弾いてねえんだろ? だったらせっかくだし、咲ちゃんの好きな歌、弾いてみようと思ってさ」

「龍くん、ピアノ弾けるの?」

「まさか。でも一応音楽療法ってのは実証されてるし。片手でもいいんだ。好きな曲を新しい方法で聴くのって、新鮮で楽しいからな。ただ、咲ちゃんに聞いたら好きなのはアニメの曲だって言うから。MDはもらったけど、さすがにそれじゃあ俺は弾けないし……」

「伎倉だって、バイオリンの楽譜しか書けないんじゃないかな」

「だったらその子伝で書ける奴に頼んでもらうとかさ。無理か?」

 さりげない動作でMDを渡され、圭太はそれを凝視した。音楽科へ足を運ぶのは正直荷が重い。どうしようかと頭を掻いた。

 迷うのは、心のどこかで龍の申し出を断りたくないからだ。しばらく考えれば、ぎこちなくだが頷いた。

「分か……った。頼んでみる」

「ありがとう」

 途端に龍のホッとした顔が視界に飛び込んできて、圭太は複雑な気分になった。

 龍が喜ぶのは嬉しいが、そのために自分の重荷になることをするのは、正しいのだろうか。心のどこかで本当は嫌だと思っている圭太の気持ちは、ストレスとなって二人に見えてはいないのだろうか。

 そんな思いを抱えたまま、圭太はいつもより早く家を出た。


***


「伎倉」

 圭太から香苗に声をかけるのは、実に久しい事だった。圭太自身、そんなことをする日がくるとは思っていなかったし、香苗も、目を丸くしている。

 いつもなら「香苗って呼んでってば」と怒鳴るところ、今日はそれも忘れているようだ。まるで意識を取り戻したようにぴくっと背筋を伸ばしてから、履き替えていた靴をロッカーにしまう。

 音楽科へ足を踏み入れたくなかった圭太は、玄関で香苗を待っていた。家を早めに出てきたのもそのためだ。

 ロッカーの戸をばたんと閉めて、香苗は繕うように苦笑した。

「あはは〜、何?」

「……あのさ、頼みがあるんだけど」

「え……、うん。珍しいね。どしたの?」

 ふと笑みを消せば、香苗はきょとんと訊ねてきた。次々と登校して来た生徒が行き交うため、圭太は半ば強引に、持っていたMDを押し付ける。

「これのさ、楽譜書いてくんない? あんたが書けないなら書ける人に頼んで。いいかな」

「圭太ピアノ弾くの?」

 香苗は素直にMDを受け取ってくれたが、その口はやはり理由を求めた。しかし、ピアノについて詮索されるのは、どうあってもいい気がしない。

 すでに教室へ行こうと歩き出していた圭太の後ろを、香苗は急いでついてくる。

「ちょっと、圭太! やってあげないよ?」

 ピタリ。圭太は立ち止まった。全く面倒だ。頭を掻いて溜息をつく。

「龍くんに頼まれたんだよ。患者に弾いてあげたいんだって」

「ああ、おじさんのアシスタントの人? 前にコンサート来てくれたよね」

 MDを顎に当てれば、そういうどうでもいいことをよく覚えている女は、さらりと語った。でも、と言葉を続ける。

「だったら圭太が書いてあげたら? あたしが誰かに頼むより、よっぽど早いじゃない」

 前を向いたままの圭太は、顔をしかめた。余計なことを、と思う。

「俺は無理。もう五年くらい弾いてないから、楽譜の書き方なんて忘れたよ」

「忘れたって何よ。今でも普通にしてるだけで分かるんでしょ? だって圭太は――」

「黙れよ!」

 自分でも驚くくらいに、圭太は声を荒げていた。教室へ向かおうとしていた生徒や、廊下を行き交っていた職員が一斉にこちらを見る。

 人から注目される事に嫌悪すれば、香苗に向いていた体を再び正面に戻して、教室へと突き進む。

「ちょ、ちょっと待って! 圭太ってば!」

 香苗はすぐに後を追ってきた。その声に、やはり周りの注意はこちらに向いて、圭太は舌打ちする。

 自分の教室を通り過ぎた。香苗はそれに気付かないらしく、相変わらずよく動く口を操る。

「気に入らない事があるなら、ちゃんと言ってよ! 圭太っていつもそう。だからあたし、圭太が嫌がることも言っちゃうんじゃない。ねえ、何が嫌なの? どうしたらまた笑ってくれるの? 本当にピアノ、嫌いになっちゃったの?」

 ただただ廊下を直進した。その先にあるのは化学室だ。圭太が目指していたのはそこだった。この少女は、放っておいたら公衆の面前で圭太の傷を暴きかねない。

「ねえっ、何とか言いなさいよ! なんでそんなに自分の才能嫌うのよ? おばさん言ってたよ。圭太の力は凄い物だって。他人ひとはいろいろ言うけど、神様はちゃんと意味を持ってその力を持たせたんだって。あたしだって羨ましいもん! だって圭太は、一回聴いたらどんな音でも――きゃっ!」

 化学室にはいるなり、圭太は香苗の腕を掴んで押し込んだ。ドアを閉めてその前に立つ。きちんと聞かすまで、逃がす気はなかった。

「何が羨ましいだよ。お前に何が分かるんだよ? 他人ひとは色々言うって……それが俺には痛かったんだ。一番辛い事だったんだ。分かってくれる人だけ分かってくれればいいなんて思うほど、俺はできた人間じゃないんだよ! ……なのになんなんだよ。母さんもお前も、冗談じゃないんだよ……もううんざりなんだよっ!」

 香苗に口を挟む隙も与えないまま、圭太は一気に捲くし立てた。胸が苦しい。自分の傷を言葉にするのは、辛くて、泣きたくて、それ以上は声にならなかった。

 くるりと踵を返して、化学室を出て行こうとする。――と、つんっと体が止まった。その腕を香苗ががっしりと掴んでいる事に気がつけば、圭太は億劫そうに振り返る。

 また、気休めのような言葉で慰められるのだろうか。それが嫌で、何も言わせないようにしたのに……。

 香苗や律子に慰められるのは嫌いだ。そこは生温くて、ぬるま湯みたいで、自分がふやけていく気がする。それが心地よくて、傷などないと勘違いしそうになって。でも消えない傷に再び心を蝕まれるから、大嫌いだ。

 しかし圭太の思いとは裏腹に、交わった香苗の視線はどこか嬉々としていた。

「圭太、いい顔するようになったね」

「……は?」

「驚いた。何言っても面倒そうにしかしない圭太が、あたしを怒鳴りつけてくるんだもん。何かと思ったよ。――でも、嬉しいな。また昔みたいに、喧嘩とかできるのかな」

 驚いたのは、こっちだ。

 圭太は魂抜かれたようにただ瞬いた。ずっと、感情をあらわにするのが嫌だった。楽しい事も嬉しい事も、いつか何かに奪われる。怒ったり哀しんだりするのもバカらしい。だったら何も感じないほうがいいと思った。そう思っていた。

 でも、目の前で笑う香苗が、今まで見た彼女で一番綺麗だと思うのは、多分錯覚なんかじゃなくて。

 そしてそれは、自分がもたらしたものなのだと思うと、圭太はつい彼女に見入ってしまう。さっきも香苗は、「どうしたらまた笑ってくれるの」と言った。……もしかしたら、圭太が失ったと思っていた喜と楽は、本当は律子に奪われたのではなく、自分自身が潰してしまっていたのだろうか。

 不幸ストレスを言い訳にして、見えないつもりでいたのだろうか。

 ここにあったのに。

「うん、決めた! 圭太、楽譜あたしが書くよ。だから条件、出してもいい?」

「は?」

 圭太が考えている間、香苗も何かを考えていたらしく、口を開けばそういうことだった。

 別に条件飲んでまで、書いてくれとは頼んでいないのだが……。

「今日、一緒に帰ろう」

「はああ?」

 明らかに嫌そうに、圭太は声を出した。だって、香苗と帰ったところで話すこともないし、だからといって彼女の詮索じみた会話に付き合いたくはない。

「何よ? いいじゃない。あたしたちって高校で再会してからこっち、全然一緒に遊んだりしてないしさ。……てか、誘っても圭太が断るんだけど。たまには、ね? もうすぐ夏休みなんだし、遊ぼうよ」

 いつしか一緒に帰ろうと言う話が遊ぼうと言う言葉に変われば、圭太は余計に嫌そうに顔をしかめた。

 だから自分と遊んでも楽しくなんてないだろうに。香苗は圭太と違い、クラスにも、もしくは学校内、いや学校外にだって友達はたくさんいるはずだ。それなのに、どうして誘うのが自分なのか。

 それにふと、今日は無理なのだと言う事を思い出した。

「今日は無理。先約入ってる」

「先約って?」

「……なんでもいいだろ」

「圭太。分かってる? あなた、あたしに逆らえる立場じゃないのよ、今」

 だから、別にそこまでして書いてもらわなくてもいいのだ。

 そう思いながらも口にしなかったのは、頭の隅に龍の姿がちらついたからだ。「ありがとう」と自分にいった、龍の表情が忘れられない。彼を、がっかりさせたくない。

「患者の家……、遊びに行くんだ」

「患者? 何で圭太が患者さんの家に行くのよ?」

 圭太は嫌そうに視線を逸らしてから腕をさすった。香苗と話すと、語尾の「?」をよく聞く。

 そしてそれが、圭太にはとにかく億劫だった。

「……その子のお母さんに、頼まれ、て」

「何で?」

 突然香苗の視線が厳しくなった。

「何でって……」

「何で患者さんのお母さんと仲良くなるの? 患者って男? 女? いくつ?」

「お前こそ何なんだよ。何をごちゃごちゃと……」

「知りたいからよ」

「だから何で?」

 途端に黙るから、圭太は訝って眉を潜めた。誰かから、圭太について探れとでも言われているのだろうか。しかしそんな人物は、生憎思いつかない。

 だったら、律子が死んで、圭太の母親代わりにでもなったつもりなのだろうか。

「……圭太は、誰かに興味や関心を持たなかったから、どんな人なのか、気になって……」

 なんだ、そんなことか。小さく肩で溜息をつけば、視線だけ香苗を捉える。多分香苗は、圭太のことを友達だと、そう思っているのだ。

 それなのに圭太がこう冷たい態度では、彼女も悲しくなってしまうのだろう。一方通行の思いほど、虚しいものはない。

「患者は、十二歳の女の子。診療中に偶然敷地であって、仲良くなったんだ」

 単調にそれだけ教えてやった。パッと香苗の表情が華やいだのが、視界の端に映る。

「じゃあ、そのお母さんとは? あ、お母さんは一緒に病院に来るのか」

「……ん、まあ」

 言いながら、気付かぬうちに圭太は唇を噛み締める。それが何かを隠している証拠だと、目敏い香苗が気付かないわけがない。

「違うの?」

「違わないって」

 慌てて取り繕ってももう遅いのだ。彼女から注がれた疑いの眼差しは、圭太の表情の一糸の乱れも許さない。

「まさか、圭太が明るくなったのは、そのお母さんのおかげ? 十二歳の子の母親なら、まだ若いんでしょ。圭太、それ不倫だよ」

「バカかっ……! ……そんなんじゃない。大体、あの人の旦那はもう死んでる」

「死んでいたらいいって言うの? 自分はおばさんの再婚に反抗してたくせに」

「――だから俺はそんなことしない」

 香苗の言葉をそのまま続けてやれば、一度目を瞠ってから彼女は黙り込んだ。愚問だと、反省したのだろう。

「そうね。うん、ごめん。……圭太のこと、信じるよ。だから――あたしも行く」

「……はい?」

 信じると言って、一緒に行くとは、それはイコールでつながる話か? 信じるからこそ、圭太を一人で送り出すのではないのだろうか。

 心でどれだけ思ったところで香苗に伝わるはずもなく、勝手に全てを決定してしまった少女は、そのまま圭太の脇を通り抜けて化学室を出て行った。

 追いかけようと踵を返すも虚しく、校内に朝礼開始のチャイムが鳴り響いた。

 この後圭太が、いつか教室で絡まれた二人組に、再び香苗に対して問いただされたのは、もはや言うまでもない。


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