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圭太は、薄れた記憶を思い起こしていた。そう、あれはたしか十一歳か十二歳のときだ。
たしかに圭太は、一人の青年――いや、あれは今の自分と同じくらいの年齢だったから、実際はまだ少年といっても良かったのだろう――に出会った。しかしそれを龍だと断定するには、圭太は唸ってしまう。
あの少年は、清潔そうな黒髪に、ノンフレームの眼鏡をかけていた。わずかに脚色はされているだろうが、今の龍とはかけ離れている。
それに、当時の圭太にとって、彼は本当に大きな人だった。龍も圭太より大きいが、それよりも、もっと大きな印象を持っていたのだ。
「やっぱりもう、覚えてないか?」
「覚えてるよ。家の裏庭で、男の人と話したことはよく覚えてる。普段父さんの患者と会う事なんてほとんどないから……、忘れるわけないよ」
「そうか」
龍はあっさりと頷いたが、それは本当だった。圭太はこの先何年生きても、あの少年と話したことは忘れていなかったはずだ。
だって、彼は生まれて初めて、圭太が自分の傷を明かした人間だった。律子を嫌いだと伝えたのが彼だったことは記憶になかったが、この人は自分と同じ傷を抱いていると安心して、いつしか心を曝け出していた人だった。
「……俺が本当にお前に初めて会ったのは、その時だよ。診療はその直後に終わってしまったから、二度とお前に会う事はないと思った」
それは圭太も同じだった。二度と会わないと思ったからこそ、律子を大嫌いだと吐き捨てることもできたのだと思う。しかし、龍の言葉はまだ続く。
「そのあと、俺は進学した大学で心理学を専攻した。別にカウンセラーになるつもりがあったわけじゃない。親の薦める大学に行きたくなくて、だからって特に学びたい事もなくて、一番身近に感じたから選んだだけだ。でも、二十歳を過ぎたころ――」
不幸喰いの力に目覚めた、と、龍は小さく言った。
ドク、と圭太の心臓が鳴り出す。人の不幸を喰う、その奇妙な力が龍の体に備わったのだ、と思うだけで、人間の禁忌を知った気がしてしまう。
どうして、そんな力が存在するのだろう。不幸を喰ったからといってその人が幸せになれるわけでないなら、それほど無意味な能力はない。無意味で、奇妙な力……。
誰を救うわけでもない能力。
ふと圭太は、龍に不幸を喰われたときのことを思い出した。あの瞬間、圭太の意識はまどろみ、今思い出しても夢を見ていたようだ。とても心地良くて、安心して、幸福すら感じた。
それはまるで、麻薬のように――。
ああ、そうか。不幸喰いに不幸を喰われる事は、麻薬を服用するとも同じことなのだ。快楽は一時のみで、効果が切れれば絶望が待っている。体も、心も、蝕まれてしまう。
そんな力を持った龍は、恭平は、一体どんな思いを抱えているのだろう。きっと圭太が思うほど、二人は幸せな世界には居ないのではないだろうか。
フッと、心が重くなるような気がした。
「圭太」
名前を呼ばれてハッとする。いつしか俯いていた顔を上げて龍の方に向けると、驚く事に、彼は圭太の目の前に立っていた。
じれったそうに、龍はまず溜息をつく。
「またお前は……。そうやってなんでも抱えるから、お前の不幸はどんどん大きくなっていくんだ。圭太、不幸喰いがいい奴ばかりでないことは、この前話しただろう? そんな奴にとって、お前の不幸にどんなに魅力があると思う?」
「……俺の不幸を喰いたがる奴がいるの?」
「いるのなんてものか。わんさかだ。お前は人一倍、いや、人三倍くらいは不幸を溜め込みやすい。ただでさえそうなのに、お前は幼いころに傷付きすぎたんだ。蓄積されたその不幸を喰いたがる奴は、きっと大勢いる」
「龍くんはどうして、そんなに俺を気にかけてくれるんだよ?」
奇麗事だとか、偽善だとか、そんなことを思ったわけではなかった。ただ純粋に、彼が自分を心配してくれる理由を知りたい。
だって、カウンセラーとしてでなく柳沢龍として圭太を癒してやりたいと言ったのは、彼自身なのだ。
龍は、一瞬困ったように唸って眉を掻いた。
「……初めてお前と話をしたとき、お前と先生に、無性に腹が立った。先生には、どうして他人である患者を癒す前に、息子である圭太を癒してやらないんだって。お前には……」
「……何?」
「――どうして泣かないんだって。不幸喰いでなかった俺にだって、お前が不幸を抱えている事は分かったのに、お前は母親を嫌いだとか、そんな心にもない言葉でしか自分を守らないから。ガキならガキらしく、大声で喚けばよかったんだ。奪われたくないって、欲しいって、叫べばよかったんだ……って」
それこそ、奇麗事だ。圭太はしかめた顔をはぐらかすように下げた。嘆く事も叫ぶ事も、やろうと思えば簡単なのだ。だけどできなかったのは、圭太が奪われたくないように、律子からピアノを奪いたくなかったから。
圭太がピアノを続けるには、そこから律子の存在を消すほかなかったから。
しかしそんな感情を、龍は続けて言葉にして放ってしまった。
「……だから、あの時は何も言わなかったんだ。でも、不幸喰いになって、俺の脳裏に一番に浮かんできたのはお前だった。あの子は、まだ不幸を抱えているんだろうか。俺に何ができるとも限らないけど、もう一度会う事は出来ないかって、そう思った」
たったそれだけで、圭太は目頭が熱くなったような気がした。そのせいで、やっぱり顔は上げられない。
龍の言葉の、何に感動したわけでもない。もしかしたら、また奇麗事なのかもしれない。でも、だけど
龍は、自分のことを覚えていてくれた。名前も知らない、たった一度、ほんの数十分の記憶を共にしただけの相手を、この五年間ずっと覚えていてくれた。会いたいと思ってくれていた。
圭太がピアノをやめたところで、誰も気にかけてはくれなかった。彼のピアノには嫌という程中傷的な言葉を浴びせたピアニストも、何度も母親と比べて批判したマスコミも、圭太がピアノをやめた途端、そんな人間は初めから存在しなかった、とでも言うように名前を出さなくなった。篠塚圭太という人間は、瞬く間に世間の記憶から消えていった。
だから圭太にとって、自分の記憶を鮮明に残してくれる人は貴重なのだ。だってそれは自分の存在を証明し、認めてくれている証拠だから。
「でも、思ったから行動できるわけじゃなかった。まだ心理学の勉強をし始めたばかりの俺が、お前にしてやれることなんてたかが知れてる。……いや、何も無いも同然だ。だから、それからはとにかく勉強したよ。――不思議だよな。今までは大嫌いだった勉強が、夢が出来た途端に苦痛じゃなくなるんだ」
「……何それ。俺に会う事が夢だったの?」
苦笑じみた笑いが漏れた。そんなちっぽけな事のために、龍はカウンセラーになったというのか。
「笑うなよ。俺にとっては大事なことだったんだ。お前に会うには、半端な覚悟じゃいけないと思った。きっと不幸を抱えていたなら、癒してやりたくなる。でも、だったらそれ相応の資格が必要だろ? だから俺は、カウンセラーになったんだ」
不満げにそう言う龍だが、圭太はそんな口調も気にはならなかった。喉が焼けるような痛みが走り、胸が締め付けられるような心地。
これは、喜びだ。
とうに失ったのだと思っていた感情が、龍の言葉で、一つ一つ、舞い戻ってくる。
思えば、初めからそうだった。いつしか自分が不都合なく生きられる術を身につけた圭太が、怒りや悲しみを露にしたのは、実に久しい事だった。そしてそれは、龍によってもたらされたものでもあった。
圭太すらが気付かぬうちに、彼は喜怒哀楽の全てを失っていたのだ。それすらが不幸を蓄積する材料になっていたとも気付かずに。
干渉される事への怒りも
傷をほじくり返される哀しみも
再びピアノを奏でられた楽しさも
自分を忘れないでいてくれた喜びも
圭太の傷を増やす出来事になってしまったこともあったが、すべては龍がくれたものだった。
「で、今年。偶然……、本当に奇跡かってくらい偶然に、先生が助手を募集している事を知ったんだ。それで俺は、お前に再会した」
「……俺に、幻滅した?」
「幻滅なんかしねえよ。ただ、びっくりした。俺が想像してたより、お前はたくさんの不幸を抱えていたから。性格も、余計頑なになって可愛くなくなってるし」
「うるさいよ」
「でも」
二人の声が重なった。漸く心が落ち着き始めた圭太が顔を上げると、龍が慈しむように優しい視線を向けてくれている。
「でも、やっぱり思うことは一つだった。俺は、お前を癒してやりたい。知識はあっても実践はないから、きっと傷つけることも少なくないけど、それでも一緒に、お前の抱える不幸を一つずつ取り去っていこう。圭太、お前は一人じゃない。聞いてやるから、言いたい事はもっと口にしろよ。お前はもっと、我がまま言ってもいいんだよ」
――っ!
熱いものが一気にこみ上げた。それが温かい水滴となって頬を伝うのが分かったが、隠す事も忘れて、圭太は龍の顔を見つめた。
自分が誰かにそう言って欲しかったのだと、身にしみて分かる。そしてそれは、律子や恭平では意味をなさなかった。
圭太が欲しかったのは、他人の優しさだった。律子が圭太を心配するのも、恭平が同情を向けるのも、確かにありがたいことだったが、それは気休めでしかなかった。
心の無い大人。それは言い方を変えれば赤の他人で、そんな人間につけられた傷は、同じ他人にしか癒せない。出生も生きてきた環境も違う人間が、圭太の存在を認め、分かってくれる事が、彼には必要だったのだ。
涙が後から後から溢れてくる。こんな風に泣いた事が、圭太の記憶にはなかった。何度自分のピアノを否定されても、彼はただ頑なに涙を耐えてきたからだ。
どうしても止まらない涙を拭っていたら、ふと視界が暗くなった。このぬくもりを、圭太は知っている。いつか、彼はこの温かさの中で眠りについた。何も言わずに抱きしめてくれる龍の腕に縋りつくように、圭太はしっかりとそれを握りしめる。
大好きな龍くん。でも、涙で喉が詰まってか、はたまた違う事が理由なのか、圭太はどうしても、彼に雪華のことを話すことはできなかった。