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3-3

 圭太は、薄れた記憶を思い起こしていた。そう、あれはたしか十一歳か十二歳のときだ。

 たしかに圭太は、一人の青年――いや、あれは今の自分と同じくらいの年齢だったから、実際はまだ少年といっても良かったのだろう――に出会った。しかしそれを龍だと断定するには、圭太は唸ってしまう。

 あの少年は、清潔そうな黒髪に、ノンフレームの眼鏡をかけていた。わずかに脚色はされているだろうが、今の龍とはかけ離れている。

 それに、当時の圭太にとって、彼は本当に大きな人だった。龍も圭太より大きいが、それよりも、もっと大きな印象を持っていたのだ。

「やっぱりもう、覚えてないか?」

「覚えてるよ。家の裏庭で、男の人と話したことはよく覚えてる。普段父さんの患者と会う事なんてほとんどないから……、忘れるわけないよ」

「そうか」

 龍はあっさりと頷いたが、それは本当だった。圭太はこの先何年生きても、あの少年と話したことは忘れていなかったはずだ。

 だって、彼は生まれて初めて、圭太が自分の傷を明かした人間だった。律子を嫌いだと伝えたのが彼だったことは記憶になかったが、この人は自分と同じ傷を抱いていると安心して、いつしか心を曝け出していた人だった。

「……俺が本当にお前に初めて会ったのは、その時だよ。診療はその直後に終わってしまったから、二度とお前に会う事はないと思った」

 それは圭太も同じだった。二度と会わないと思ったからこそ、律子を大嫌いだと吐き捨てることもできたのだと思う。しかし、龍の言葉はまだ続く。

「そのあと、俺は進学した大学で心理学を専攻した。別にカウンセラーになるつもりがあったわけじゃない。親の薦める大学に行きたくなくて、だからって特に学びたい事もなくて、一番身近に感じたから選んだだけだ。でも、二十歳を過ぎたころ――」

 不幸喰いの力に目覚めた、と、龍は小さく言った。

 ドク、と圭太の心臓が鳴り出す。人の不幸を喰う、その奇妙な力が龍の体に備わったのだ、と思うだけで、人間の禁忌を知った気がしてしまう。

 どうして、そんな力が存在するのだろう。不幸を喰ったからといってその人が幸せになれるわけでないなら、それほど無意味な能力ちからはない。無意味で、奇妙な力……。

 誰を救うわけでもない能力。

 ふと圭太は、龍に不幸を喰われたときのことを思い出した。あの瞬間、圭太の意識はまどろみ、今思い出しても夢を見ていたようだ。とても心地良くて、安心して、幸福すら感じた。

 それはまるで、麻薬のように――。

 ああ、そうか。不幸喰いに不幸を喰われる事は、麻薬を服用するとも同じことなのだ。快楽は一時のみで、効果が切れれば絶望が待っている。体も、心も、蝕まれてしまう。

 そんな力を持った龍は、恭平は、一体どんな思いを抱えているのだろう。きっと圭太が思うほど、二人は幸せな世界には居ないのではないだろうか。

 フッと、心が重くなるような気がした。

「圭太」

 名前を呼ばれてハッとする。いつしか俯いていた顔を上げて龍の方に向けると、驚く事に、彼は圭太の目の前に立っていた。

 じれったそうに、龍はまず溜息をつく。

「またお前は……。そうやってなんでも抱えるから、お前の不幸はどんどん大きくなっていくんだ。圭太、不幸喰いがいい奴ばかりでないことは、この前話しただろう? そんな奴にとって、お前の不幸にどんなに魅力があると思う?」

「……俺の不幸を喰いたがる奴がいるの?」

「いるのなんてものか。わんさかだ。お前は人一倍、いや、人三倍くらいは不幸を溜め込みやすい。ただでさえそうなのに、お前は幼いころに傷付きすぎたんだ。蓄積されたその不幸を喰いたがる奴は、きっと大勢いる」

「龍くんはどうして、そんなに俺を気にかけてくれるんだよ?」

 奇麗事だとか、偽善だとか、そんなことを思ったわけではなかった。ただ純粋に、彼が自分を心配してくれる理由を知りたい。

 だって、カウンセラーとしてでなく柳沢やなぎさわ龍として圭太を癒してやりたいと言ったのは、彼自身なのだ。

 龍は、一瞬困ったように唸って眉を掻いた。

「……初めてお前と話をしたとき、お前と先生に、無性に腹が立った。先生には、どうして他人である患者を癒す前に、息子である圭太を癒してやらないんだって。お前には……」

「……何?」

「――どうして泣かないんだって。不幸喰いでなかった俺にだって、お前が不幸を抱えている事は分かったのに、お前は母親を嫌いだとか、そんな心にもない言葉でしか自分を守らないから。ガキならガキらしく、大声で喚けばよかったんだ。奪われたくないって、欲しいって、叫べばよかったんだ……って」

 それこそ、奇麗事だ。圭太はしかめた顔をはぐらかすように下げた。嘆く事も叫ぶ事も、やろうと思えば簡単なのだ。だけどできなかったのは、圭太が奪われたくないように、律子からピアノを奪いたくなかったから。

 圭太がピアノを続けるには、そこから律子の存在を消すほかなかったから。

 しかしそんな感情を、龍は続けて言葉にして放ってしまった。

「……だから、あの時は何も言わなかったんだ。でも、不幸喰いになって、俺の脳裏に一番に浮かんできたのはお前だった。あの子は、まだ不幸を抱えているんだろうか。俺に何ができるとも限らないけど、もう一度会う事は出来ないかって、そう思った」

 たったそれだけで、圭太は目頭が熱くなったような気がした。そのせいで、やっぱり顔は上げられない。

 龍の言葉の、何に感動したわけでもない。もしかしたら、また奇麗事なのかもしれない。でも、だけど

 龍は、自分のことを覚えていてくれた。名前も知らない、たった一度、ほんの数十分の記憶を共にしただけの相手を、この五年間ずっと覚えていてくれた。会いたいと思ってくれていた。

 圭太がピアノをやめたところで、誰も気にかけてはくれなかった。彼のピアノには嫌という程中傷的な言葉を浴びせたピアニストも、何度も母親と比べて批判したマスコミも、圭太がピアノをやめた途端、そんな人間は初めから存在しなかった、とでも言うように名前を出さなくなった。篠塚圭太という人間は、瞬く間に世間の記憶から消えていった。

 だから圭太にとって、自分の記憶を鮮明に残してくれる人は貴重なのだ。だってそれは自分の存在を証明し、認めてくれている証拠だから。

「でも、思ったから行動できるわけじゃなかった。まだ心理学の勉強をし始めたばかりの俺が、お前にしてやれることなんてたかが知れてる。……いや、何も無いも同然だ。だから、それからはとにかく勉強したよ。――不思議だよな。今までは大嫌いだった勉強が、夢が出来た途端に苦痛じゃなくなるんだ」

「……何それ。俺に会う事が夢だったの?」

 苦笑じみた笑いが漏れた。そんなちっぽけな事のために、龍はカウンセラーになったというのか。

「笑うなよ。俺にとっては大事なことだったんだ。お前に会うには、半端な覚悟じゃいけないと思った。きっと不幸を抱えていたなら、癒してやりたくなる。でも、だったらそれ相応の資格が必要だろ? だから俺は、カウンセラーになったんだ」

 不満げにそう言う龍だが、圭太はそんな口調も気にはならなかった。喉が焼けるような痛みが走り、胸が締め付けられるような心地。

 これは、喜びだ。

 とうに失ったのだと思っていた感情が、龍の言葉で、一つ一つ、舞い戻ってくる。

 思えば、初めからそうだった。いつしか自分が不都合なく生きられる術を身につけた圭太が、怒りや悲しみを露にしたのは、実に久しい事だった。そしてそれは、龍によってもたらされたものでもあった。

 圭太すらが気付かぬうちに、彼は喜怒哀楽の全てを失っていたのだ。それすらが不幸を蓄積する材料になっていたとも気付かずに。

 干渉される事への怒りも

 傷をほじくり返される哀しみも

 再びピアノを奏でられた楽しさも

 自分を忘れないでいてくれた喜びも

 圭太の傷を増やす出来事になってしまったこともあったが、すべては龍がくれたものだった。

「で、今年。偶然……、本当に奇跡かってくらい偶然に、先生が助手を募集している事を知ったんだ。それで俺は、お前に再会した」

「……俺に、幻滅した?」

「幻滅なんかしねえよ。ただ、びっくりした。俺が想像してたより、お前はたくさんの不幸を抱えていたから。性格も、余計頑なになって可愛くなくなってるし」

「うるさいよ」

「でも」

 二人の声が重なった。漸く心が落ち着き始めた圭太が顔を上げると、龍が慈しむように優しい視線を向けてくれている。

「でも、やっぱり思うことは一つだった。俺は、お前を癒してやりたい。知識はあっても実践はないから、きっと傷つけることも少なくないけど、それでも一緒に、お前の抱える不幸を一つずつ取り去っていこう。圭太、お前は一人じゃない。聞いてやるから、言いたい事はもっと口にしろよ。お前はもっと、我がまま言ってもいいんだよ」

 ――っ!

 熱いものが一気にこみ上げた。それが温かい水滴となって頬を伝うのが分かったが、隠す事も忘れて、圭太は龍の顔を見つめた。

 自分が誰かにそう言って欲しかったのだと、身にしみて分かる。そしてそれは、律子や恭平では意味をなさなかった。

 圭太が欲しかったのは、他人の優しさだった。律子が圭太を心配するのも、恭平が同情を向けるのも、確かにありがたいことだったが、それは気休めでしかなかった。

 心の無い大人。それは言い方を変えれば赤の他人で、そんな人間につけられた傷は、同じ他人にしか癒せない。出生も生きてきた環境も違う人間が、圭太の存在を認め、分かってくれる事が、彼には必要だったのだ。

 涙が後から後から溢れてくる。こんな風に泣いた事が、圭太の記憶にはなかった。何度自分のピアノを否定されても、彼はただ頑なに涙を耐えてきたからだ。

 どうしても止まらない涙を拭っていたら、ふと視界が暗くなった。このぬくもりを、圭太は知っている。いつか、彼はこの温かさの中で眠りについた。何も言わずに抱きしめてくれる龍の腕に縋りつくように、圭太はしっかりとそれを握りしめる。

 大好きな龍くん。でも、涙で喉が詰まってか、はたまた違う事が理由なのか、圭太はどうしても、彼に雪華のことを話すことはできなかった。


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