第66話 最後の朝
町が何かを忘れると決めたとき、いちばん初めに外されるのは、たいてい看板だ。バルトがそれを聞かされたのは、刑の前の晩、牢の格子越しにだった。
石の壁は、夜になると、触れた背中から熱を吸い取っていった。格子の外の机に置かれた小さな灯が、藁の寝床の端までをかろうじて照らしている。表の部屋からは、看守の鼾が規則正しく聞こえていた。ときどき、自分の鼾に驚いたように止まり、しばらくしてまた続く。
駐在所の戸が開き、冷えた夜気と一緒に、ジルが入ってきた。制服の上に外套を羽織っている。この半月で頬の肉が落ち、外套の襟が、首のまわりで余っていた。机の上には、ジルが夕方に置いていった包みが、手をつけられないまま残っている。中身はパンと、煮た豆だけだった。駐在所の誰も、もう腸詰を買ってこない。この町に、それを売る店はなかった。
ジルは格子の前の丸椅子に腰を下ろし、しばらく灯の芯を見ていた。それから、帳面の行を読み上げるような声で話しはじめた。
「看板は、今日、外しました。牛と角猪の絵の、あの看板です」
バルトは黙って聞いていた。
「帳簿は、全部燃やします。仕入れ帳も、調書も。トマスさんたちの名前も、この秋のことも、行商人の二人を牢に入れたことも、なかったことにすると、町で決めました。集会所に皆が集まって、誰も反対しませんでした」
「行商人は」
「バルトさんがここへ入った朝に、牢から出しました。預かっていた荷を銀の腕輪一つまで残らず返して、二人とも、その日のうちに町を出ていきました。もう、この街道は回らないそうです」
ジルは一度、言葉を切った。膝の上で、指が外套の裾を掴んでいた。
「カイ先生は、先週、診療所を閉めて町を出ました。誰にも、何も言わずに。この町には、もう医者がいません」
「忘れようとした、ということが残る」
バルトは言った。目方を告げるときの、いつもの声だった。
「それで十分だ。町は、変わった」
ジルの肩が、外套の下でわずかに揺れた。灯の芯に向けていた目が、ゆっくりと格子の内側へ上がってくる。
「悔いたことは、一度もないんですか」
「悔いる理由が、見つからない」
バルトは、ジルの目をまっすぐに見返した。
「知りたかったことが、全部分かった」
ジルは、何も言わなかった。膝の上で外套の裾を掴んだ手が、灯の下で細かく震えていた。その震えは、台の縁に掌を押しつけていた夜から、まだ一度も止まっていないように見えた。やがてジルは立ち上がり、丸椅子を壁際へ戻した。戸口で一度だけ足を止め、右手を額のあたりまで上げかけて、そのまま下ろした。敬礼の真似は、最後までしなかった。
◆
夜が明けた。高い窓の格子越しに見える空は、薄い灰色に塗りこめられていた。看守が水の入った椀を格子の隙間から差し入れ、それから鍵束を腰に下げ直した。王都から調査官についてきた、髭の濃い年嵩の男だった。
「来る途中で、あんたの店の前を通った」
看守は、天気の話でもするように言った。
「壁に、釘の跡が四つ残ってるだけだったよ。あれが、看板の掛かってたところだろう」
「ああ」
バルトは椀の水を飲んだ。冷たい水が喉を通り、空の腹の底へ落ちていった。
看守は格子の錠を開け、バルトの両の手首に縄を回した。結び目を確かめる手つきは、慣れていて、乱暴でも丁寧でもなかった。表の部屋へ出ると、駐在所の戸はまだ閉じたままだった。外で、調査官の合図を待つのだという。看守は戸の脇の壁にもたれ、手持ちぶさたに鍵束を指で鳴らした。
「そういえば」
看守が、思い出したように言った。
「王都の宿で、北から下りてきた荷運びが話してたんだがな。北の古い遺跡に、番人がいるんだそうだ。人じゃない。何百年も前から、同じ場所を同じ道で、行ったり来たりしてるだけの番人だ」
バルトは、閉じた戸の板目を見ていた。
「それが、このあいだ、急に別の道を歩き出したらしい。誰も命じていないのに、だそうだ」
「……誰かが、影響を与えた、ということか」
「さあな」
看守は肩をすくめ、鍵束を腰に戻した。
「誰も命じていないのに、だそうだ」
戸の外で、短い声がした。看守が壁から背を離し、閂を外す。
戸が開くと、冬の朝の光が、石の床に細長く差しこんだ。広場には、誰もいなかった。広場を囲む家々は、どの窓も板戸を閉ざし、市の日に幟がはためいていた四隅にも、人の影はない。見送る者も、石を投げる者も、この朝の町には一人もいなかった。
広場の隅に立つ古木の枝が、そのとき一度だけ鳴った。頬に触れる風は、どこにもなかった。看守がつられたように顔を上げ、首をかしげる。
バルトは見上げなかった。凍った石畳の上へ、店の戸板を外す朝と同じ歩幅で、一歩を踏み出した。




