第4話 夜食と外套
「私にできることは、料理だけではありません」
言ってしまってから、少し後悔した。
でも、この惨状を見て黙っていられるほど、私は器用じゃない。
ヴィクトルの執務室は、紙の海だった。
机の上。棚の前。窓際のソファ。床にまで書類が積まれ、足の踏み場がない。秘書官が三日前から熱で倒れたらしい。代わりの人員は手配中だが、間に合っていない。
「今朝の分の外交文書が翻訳待ちで止まっている。午後の予算会議の資料も未整理だ」
ヴィクトルは淡々と言ったが、目の下の隈がいつもより濃い。昨夜は寝ていないのだろう。
——放っておけない。
「閣下、外交文書はどの言語ですか」
「ヴェルデン帝国の公用語だ」
「読めます。翻訳もできます」
「……何?」
灰色の瞳が、初めて驚きの色を見せた。
一度目の人生で、王太子妃候補として叩き込まれた教育。隣国語の読み書き、外交儀礼の書式、予算書の読み方、社交行事の段取り——全部、あの三年間で身につけた。
当時は義母の命令で嫌々やっていた。意味があるとも思えなかった。
でも今なら使える。王太子妃のためではなく、自分の意思で。
書類の山に手を伸ばした。
外交文書を一枚取り上げ、目を通す。ヴェルデン帝国語。文法は硬いが、要約はできる。余白に翻訳を書き込んでいく。
一度目の人生で、何通こういう文書を読んだだろう。王太子宛の書簡を事前に仕分けし、要約を作り、返信の下書きまで用意した。全部、一人で。
あの時は「やれ」と命じられたからやった。今は自分で手を挙げた。同じ作業なのに、ペンを握る手の感覚がまるで違う。
ヴィクトルが、黙って私の手元を見ていた。
視線を感じるが、気にしている暇はない。外交文書の次は予算書だ。
一時間後。翻訳を終え、予算会議の資料の整理に取りかかった。数字の並びに目を走らせ、項目ごとに分類する。
——あ、ここ。道路補修費が二重に計上されている。赤で印をつける。隣の頁では辺境の駐屯地への物資輸送費が前年比で三割も跳ねているのに、注記がない。これも印を。
「……エレノーラ」
ヴィクトルの声に顔を上げた。
「なぜ料理人が、これほどの書類処理をこなせる」
——来た。
心臓がどくんと跳ねる。
(まずい。言いすぎた。こんなこと、普通の伯爵令嬢にはできない)
「……実家で、少しお勉強させていただいていたので」
苦しい。自分でもわかっている。「少し」で外交文書の翻訳はできない。
ヴィクトルの目が細くなった。疑っている。当然だ。
でも——追及は、来なかった。
「そうか」
一言だけ。
万年筆を取り直し、ヴィクトルは自分の書類に視線を戻した。
助かった。
同時に、この人が「踏み込まない」選択をしたことに気づいた。聞けば答えないとわかっている。だから聞かない。
(……優しいのか、合理的なのか。多分、両方だ)
* * *
日が暮れても、書類は終わらなかった。
夜の十時を回った頃、私は厨房に降りて夜食を作った。
味噌汁——この世界の発酵豆調味料と、根菜と、豆腐に似た白い食材。出汁をたっぷり効かせて、仕上げに刻んだ青菜を散らす。
湯気が立ち昇る。この匂いだけは、どの世界でも変わらない。発酵した大豆と、出汁の合わさった、あの匂い。
焼き握りを二つ。表面をこんがり焼いて、薄く塩味をつけた。漬物を少し添える。
執務室に戻ると、ヴィクトルはまだ書類と格闘していた。
小テーブルに夜食を並べる。ヴィクトルは万年筆を置き、無言で椅子を移動してきた。——また、小テーブルで食べるのだ。書類の隙間ではなく。
二人で、小テーブルを挟んで座る。
窓の外は暗い。蝋燭の灯りだけが、部屋をぼんやりと照らしている。
昼間の書類の嵐が嘘のように、静かだった。
ヴィクトルが椀を持ち上げ、一口啜った。
「……」
二口目。三口目。
箸が止まった。
「この——味噌汁、と言ったか」
「はい」
「なぜこんなに安心するんだ」
思わず手が止まった。
ヴィクトルは椀を見つめている。灰色の瞳に、蝋燭の火が映っている。
感情の読めない人だと思っていた。でも今、その声には——何かが混じっている。困惑と、もっと奥にある、柔らかいもの。
(……お母さんの味、って言いたいのかもしれない。この人にとっての)
ヘルタさんが言っていた。ヴィクトルの母は、幼い頃に亡くなったと。温かい食卓を知らないまま、政務だけを叩き込まれて育った宰相。
「出汁です」
私は答えた。
「出汁をちゃんと引くと、何を入れても安心する味になるんです。……多分、どこの国でも同じだと思います」
ヴィクトルは何も言わなかった。
ただ、椀の最後の一滴まで飲み干した。
* * *
気がつくと、頬に硬い感触があった。
——テーブルだ。
小テーブルに突っ伏して、寝てしまったらしい。書類の整理を終えた安心感で、糸が切れた。
身じろぎをした瞬間、肩から何かが滑り落ちそうになった。
外套。
黒い、仕立てのいい外套。
ヴィクトルの外套だ。黒い、仕立てのいい一着。インクと紙の匂いが染みついている。
顔を上げる。
ヴィクトルは隣のデスクで、何事もなかったように万年筆を走らせていた。こちらを見ない。外套がないぶん、白いシャツの袖が蝋燭の灯りに浮かんでいる。
(……いつ、かけてくれたんだろう)
聞くべきだろうか。お礼を言うべきだろうか。
でもヴィクトルは完全に仕事に戻っていて、話しかけるタイミングが見つからない。
外套を肩にかけ直した。重い。温かい。微かに、インクの匂いがする。
——この人の匂いだ、と思って、慌てて考えを打ち消した。インクの匂いだ。仕事道具の匂い。それだけ。
一度目の人生を思い出す。
王太子妃候補として過ごした三年間。夜会の準備で眠れない夜も、外交文書の翻訳で目が霞む日も、誰も外套をかけてはくれなかった。「お前の仕事だ」と言われるだけだった。
(……あの人生は、無駄じゃなかったんだ)
辛かった三年間が、今この人の役に立っている。
王太子のためでも義母のためでもなく、自分が選んだ場所で、自分の意思で使っている。
それだけで、あの三年間の意味が変わる。
「エレノーラ」
万年筆を止めずに、ヴィクトルが言った。
「なぜ君ほどの人間が、伯爵家で埋もれていた」
問いかけではなかった。独り言のような、静かな声。
答えを求めていない。でも、疑問は本物だ。
「……埋もれていたのではなく、埋められていたのかもしれません」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
ヴィクトルの万年筆が、一瞬だけ止まった。
それきり、何も言わなかった。
窓の外で、夜が白み始めている。
外套の重さが、肩にじんわりと染みていた。




