第3話 空席のパーティ
宰相邸の朝は、出汁の匂いで始まる。
昆布に似た海藻を水に浸して一晩。朝になったら鍋に移し、弱火でゆっくり温める。沸騰する直前に引き上げて、乾燥させた魚の削り節を入れる。
この世界の出汁は、日本のそれとは少し違う。海藻の香りが強くて、魚の風味は穏やか。でも、澄んだ黄金色の液体が鍋に満ちた瞬間の幸福感は同じだ。
(今日の卵焼きは、甘めにしようかな)
卵を三つ割る。出汁を大さじ二杯。蜂蜜を少し。
焼き加減は——昨日より弱火で、じっくり。一度目がまだ甘い。巻きが緩い。もう一度。
三度目で、ようやく納得のいく焼き色がついた。
薄く切って、皿に並べる。
端を一切れ味見して——うん。昨日より、いい。
「お嬢ちゃん、それ味見って量じゃないわよ」
ヘルタさんが呆れた顔で水差しを運んでくる。
「味見です。大きめの味見です」
「はいはい」
宰相邸に住み込んで二週間。
朝は出汁巻き卵と漬物とスープ。昼は弁当を執務室に届ける。夜は煮物か焼き魚。
献立は日によって変えているけれど、ヴィクトルは何を出しても無言で完食する。感想はない。ないのだけれど——。
頬の肉が、少しだけ戻ってきた気がする。
目の下の隈は相変わらずだけれど、顔色は明らかによくなった。
(よし。効果は出ている)
栄養管理は長期戦だ。焦らない。
朝食の配膳を終え、厨房の片付けに取りかかった時だった。
包丁の刃が、指の腹をかすめた。
「——っ」
浅い切り傷。血は少し出たけれど、すぐに止まった。
この世界の包丁は重くて、刃のつけ方が荒い。日本の包丁に慣れた手には扱いづらい。
(気をつけないと。慣れてきた頃が一番危ない)
指に布を巻いて、片付けを終えた。
大したことはない。明日には忘れている。
* * *
翌朝。
部屋の扉を開けたら、廊下に木箱が置いてあった。
磨かれた胡桃材の箱。留め金は真鍮。カードもメモもない。
開けると、中に包丁が三本。
——息を呑んだ。
刃が薄い。軽い。柄の握りが、手にぴったり馴染む。
試しに一本抜いて、指の腹で刃先をそっと撫でた。切れ味が、今使っているものとまるで違う。これなら薄切りも桂剥きもできる。
「あら、届いたのね」
ヘルタさんが廊下の角から顔を出した。にやにやしている。
「ヘルタさん、これは」
「閣下が手配なさったのよ。昨日の夕方『良い刃物を扱う店はどこだ』って聞いてきたから」
(閣下が?)
……指を切ったのを、見ていたのだろうか。あるいは誰かから聞いたのか。
いずれにしても、翌朝に届くということは、昨日のうちに手配したということだ。
(経費……かしら。業務に必要な備品として処理した、とか)
多分そうだ。宰相閣下が料理人の道具に私費を使う理由はない。きっと宰相府の経費だ。
——うん。そういうことにしておこう。
でも、にやにやしているヘルタさんの顔が気になる。何がそんなに面白いのだろう。
箱を厨房に運び、新しい包丁を洗う。
刃に水が走る。
この包丁で、明日からもっと美味しいものが作れる。
* * *
同じ日の夜。王城の大広間は、混乱の渦中にあった。
セドリック・ラヴァル・アストレア——この国の王太子は、苛立ちを隠せずにいた。
春の夜会。各国の大使が列席する社交行事。本来なら華やかに進行するはずの場が、今夜に限って噛み合わない。
「殿下、隣国の大使夫人がお席について不満を——」
侍従が駆け寄ってくるのは、今夜三度目だ。
席順が違う。隣国の大使夫人と、友好国の大使夫人を隣り合わせにした。両国は犬猿の仲だ。こんな初歩的なミスを、以前の夜会ではしなかった。
以前は——。
(誰がやっていたんだ、これ)
席順の調整。来賓への挨拶回りの順序。料理の配膳タイミング。給仕の動線。
考えたこともなかった。夜会は来れば始まっていて、滞りなく進み、終わった。当たり前のように。
「殿下、わたくしが対応いたしますわ」
リーリアが微笑んだ。柔らかな声。慎ましい所作。こういう時、彼女の笑顔は場を和ませる——はずだった。
「大使夫人、お席の件、わたくしの配慮が足りず……」
リーリアが大使夫人の前で頭を下げる。
大使夫人の眉が上がった。
「あなたはどちらのお嬢さん?」
「聖女リーリアと申します」
「聖女。では外交には関わりのない方ね。席順の責任者を呼んでちょうだい」
——凍りついた空気が、会場を包んだ。
リーリアの目に涙が浮かぶ。「わたくし、お役に立ちたかっただけなのに……」
周囲の貴族たちが慌ててなだめに入る。大使夫人はますます不機嫌になる。
セドリックは奥歯を噛んだ。
(——不便だな)
思った瞬間、記憶の底から妙なものが浮かんだ。
匂い。甘い、素朴な匂い。
以前、エレノーラが持ってきた煮物。茶色い地味な見た目の料理。「殿下にお召し上がりいただきたくて」と差し出されたそれを、俺は笑って突き返した。
——庶民の味だ。王太子の食卓に出すものではない。
箸もつけなかった。
なのに今、なぜあの匂いを思い出す?
「殿下? どうかなさいましたか」
リーリアが涙を拭いて、こちらを見上げている。
セドリックは首を振った。
「何でもない」
何でもない。たかが煮物だ。
——たかが煮物のはずなのに、あの匂いが頭から消えなかった。
* * *
宰相邸。
厨房の窓から、夜風が吹き込む。
ヴィクトルの夕食を片付け、明日の仕込みをしていた私のもとに、ヘルタさんが手紙を持ってきた。
「お嬢ちゃん、また届いてるわよ。伯爵家から」
受け取る。封蝋を見ただけで、義母だとわかった。
『お前がいなくなったせいで、社交の場で恥をかいた。ルシウスの立場も考えなさい。宰相邸の使用人など、伯爵令嬢のすることではありません。すぐに——』
読むのをやめた。
(ルシウスの立場。ルシウスの将来。全部あの子を盾にする)
十歳の義弟に罪はない。でも、だからこそ義母の道具にされるのは——。
——まあいいわ。
手紙を畳んで、ゴミ箱に入れた。前回のように破りはしない。もう、それだけの感情を使う価値もない。
新しい包丁を手に取った。
大根を半分に切る。すとん、と綺麗に刃が入る。桂剥きをしてみる。薄く、均一に、途切れず。
(——いい包丁だ)
この包丁で、明日は何を作ろう。ヴィクトルは根菜が好きらしい。煮物にすると必ず最初に根菜を食べる。だったら大根の煮物にしようか。面取りをして、出汁でじっくり。
大根の皮が、薄い帯になって手元に垂れる。
厨房の明かりが、刃先に反射する。
ここが、私の場所だ。
義母の手紙は、もう怖くない。
——多分、最初から怖かったのは手紙じゃない。居場所がないことだった。
今は、ある。
出汁の匂いと、焦げつかない火加減と、明日の献立。それだけで十分だ。




