第32話:BL狂信者シルフィ
あの日。北の大地に激震が走った。
「師匠……! 師匠ぉぉぉ!! 」
シルフィの絶叫は、冬の北風に虚しく消えた。
馬車に押し込められた黄色いカエルは、最後に「シルフィ、期待値を……期待値を絶やすなよ……!! www あと、描き込みは200%や!! www」という、呪いにも似た激励を遺して去っていった。
師匠が消えた翌日。
館の中庭には、虚脱状態のシルフィが、師匠が座っていた特等席(ビールケースを重ねたもの)を凝視したまま立ち尽くしていた。
「……終わった。私の、……私の薔薇色の人生が、……一ページ目で打ち切り(物理)なんて……」
彼女の瞳からはハイライトが消え、手にした黄金の羽ペンは力なく地面に落ちた。
だが、その時。
風に乗って、師匠が執筆中に好んで貪っていたポテトの揚げ油の残り香が、彼女の鼻腔をくすぐった。
「……んおっ!? www」
シルフィの口から、無意識になんJ民特有の鳴き声が漏れた。
その瞬間、彼女の脳内に、師匠の厳しい、しかしぬめった指導の声がリフレインした。
『いいかシルフィwww 師匠がおらんようになったからって筆を止めるなwww 孤独こそが、男同士の切ない別れを描く最大のスパイスや!! www 期待値、自分で作らんかい!! www』
「……そうだ。……そうですよね、師匠」
シルフィは、カッと目を見開いた。その瞳には以前の引きこもり令嬢の影はない。そこにあるのは、締め切り直前の漫画家のような、峻烈な殺気と情熱だった。
「師匠がいないなら、私が師匠になればいい。……この北の大地を、……世界一のBL供給地にして、……師匠の跡をたどります!!」
それからのシルフィの行動は、父エドワード辺境伯が「娘がまた別の病気にかかった」と確信するほどに、常軌を逸していた。
彼女は館の地下室を改造し、防音と結界を施した集中執筆ルームを設立。
食事は師匠に倣い、揚げたポテトと水のみ。
睡眠時間はレム睡眠のみを一日三回に分けて取る、完全なる執筆マシーンへと変貌を遂げた。
「ガルドさん! ルカ君! 入ってください!!」
呼び出されたのは、もはや逃げ場を失った騎士団の面々である。
シルフィは彼らに、より高度なより概念的なポージングを要求した。
「今日は、『雪の中で遭難し、体温を分かち合うためにやむを得ず服を脱ぐが、理性と本能の狭間で揺れ動く上官と部下』のシーンです! はい、脱いで!!」
「お、お嬢様……! さすがに外は氷点下です……! 竜人といえど凍えます……!」
「黙りなさい!! www その寒さによる震えが、恋の揺らぎに見えるんです!! www 期待値、今ので完全インフレです!! www はい、抱き合って!! もっと密着して!!」
シルフィの筆は、狂ったように紙の上を滑った。
師匠から教わった受け攻めの黄金比に加え、彼女自身の竜人としての解釈――「鱗の擦れ合う音の官能性」や「角の角度による心理描写」など、独自の進化を遂げた竜人BLという新ジャンルが、北の大地で産声を上げた瞬間だった。
二週間が経過する頃にはシルフィの情熱は館を飛び出し、領都全体へと波及していた。
彼女は私財(というか辺境伯の公金)を投じ、領内の印刷所をフル稼働させた。
タイトルは『北壁の守護者:薔薇の刻印』。
これが、街の女性たちの間で、爆発的なステルス・ヒットを記録したのである。
「ねえ、奥さん。読みました? 今号のガルド隊長の『あの視線』……」
「ええ、もう……。おかげで旦那の夕飯、焦がしちゃいましたわよ……尊すぎて……」
街のパン屋でも、洗濯場でも、話題は「どの組み合わせが至高か」という議論で持ちきりとなった。
もはや、北の防衛の要石であったはずの辺境伯領は、外部からは窺い知れぬ高度に訓練された腐女子の要塞へと変貌していた。
父エドワードは自室のデスクに置かれた「領内経済成長報告書」を見ながら、複雑な表情で頭を抱えていた。
「……マスターがいた頃より、……経済が回っている。……本(薄い本)の売り上げが、……小麦の輸出額を抜くとは、どういうことだ……。……だが、娘が……娘があんなに元気よく『受け攻め固定!』と叫んでいる……。……私は、……もう何も言えん……」
一ヶ月が経とうとしたある朝。
シルフィの元に、大陸東方の情報収集網(という名の同人誌即売会ネットワーク)から、一通の緊急公電が届いた。
『ドラシール王都、原因不明の火災により大混乱。……女王フジョーシ=ヤオイ、精神的ショックにより一時執務不能。……そして、幽閉されていた「黄色いカエル」が、混乱に乗じて中央諸国連合方面へ脱走した模様』
「…………!!」
シルフィの手から、インクまみれの羽ペンがポロリと落ちた。
だが、その表情に絶望はない。あるのは、獲物を定めた真祖の吸血鬼のような、鋭い歓喜だった。
「……師匠。www 期待値、ついに天井突き抜けましたwww」
彼女は震える手で、自らがこの一ヶ月で描き上げた、1,000ページを超える原稿(血と汗とポテトの油の結晶)をバッグに詰め込んだ。
そして、クローゼットの奥から、かつてエルフの国ドルフで身につけていた戦法衣を取り出した。
「ドラシールの女王ですら抑え込めなかった師匠……。流石です。でも、逃がさない。……貴方に、私のこの一ヶ月の深淵を見せてあげます。……そして、今度こそ二人で、……世界を薔薇色に塗り潰すのです!!」
夜明け前。シルフィは誰にも告げず、館の裏口から馬を出した。
背負ったバッグの中には、師匠に添削してもらうための原稿と、護身用の(そしてポージング矯正用の)槍。
彼女は、一度だけ館を振り返り、不敵に微笑んだ。
「お父様、ごめんなさい。私は行きます。……この大陸に、真の尊さを普及させるために。……待ってて師匠www 今度は私が、貴方を深淵なるBLに対する価値観を引き継いで、立派な同人誌作家になってみせますからね!! www」
北の大地を駆ける一筋の閃光。
それは、希望の光などではない。
中央諸国連合に、さらなる混沌と、行き過ぎた性癖(BL)を持ち込もうとする、美しき狂信者の進撃であった。
期待値、もはや計測不能。
シルフィ・エドワード。かつての令嬢は今、大陸最強の「腐の伝道師」として、師匠の背中を追って南西へと走り出した。




