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アッシュという少年1<ローザ視点>



 魔導ショットガンを杖にして立ち、エミリアに肩を貸して貰った体勢のままのローザは、トロール達の集団に肉薄するアッシュの姿を、ただ茫然と眺めてしまっていた。


 いや、目を奪われていたというか、思わず見惚れていたというべきかもしれない。


 シャーマンが爆発系の魔法を詠唱し、ローザとエミリアを吹き飛ばそうとしている最中であるのに、この場から逃げようという意識が働かなかった。


 ローザを支えるようにして立っているエミリアも、同じような様子だった。

 

 とにかく、あのアッシュという少年は、ローザの常識の枠を超えている。

 

 僕は逃げ足が速いんです。


 9階層でローザと出会ったアッシュは、曖昧な表情でそう言っていた。あの言葉が、嘘でも誤魔化しでも、比喩でも何でもないことをローザは確信した。

 

 ドーム状のフロアを駆け抜ける彼は、疾いというか、ローザの目の焦点が追い付かない。


 あれだけのスピードで動くことができるなら、うろついているトロール達など全て素通りできるだろう。上位トロールと遭遇するまでは、余計な戦闘自体をこなす必要が無いはずだ。

 

 だがそれは、トロール達から怯えて逃げ回って、隠れて、やり過ごすという意味とは、きっと違う。


 彼の持っていた杖が、二振りの短剣に変わったことには驚いた。


 だが一方で、カルビとネージュに襲い掛かっていたトロール達を、瞬く間に狩り尽くしてしまった彼の強さに対しては、背中が寒くなるような納得感もあった。


 巨大ツルハシを持ったトロールからローザを助けてくれたときも、さっきの投げ槍を受け止めて投げ返してくれたときも、アッシュが見せた身のこなしは、明らかに戦闘に慣れ親しんだ者の動きだった。


 最低等級である5等級。

 戦闘には向かない治癒術士。


 それらの肩書は、アッシュという少年の一部でしかなかったのだ。


 そして彼だけが、このフロア内で何者にも縛られていない。


 彼は無表情のまま、疾駆している速度を一切殺すことなく、シャーマンを守るように並み居るトロールの群れを――トロール達の脇を、横合いを、股の下を、すり抜けていく。


 厳めしい岩の隙間を、清流が音も無く滑り落ちていくかのように。

 

 アッシュが狙っているのは、やはりシャーマンだ。ローザ達に向け、攻撃魔法を編み上げようとしているシャーマンを仕留めようとしている。

 

 だが、そう簡単にはいかないかもしれない。

 

 シャーマンの周りを固めるように居並んでいるトロール3体が、アッシュの前に立ちはだかろうとしたのだ。


 あの3体は、魔法を扱うシャーマンを守るための前衛、或いは壁役、いや――、雰囲気からして、シャーマンの親衛隊といったところだろうか。


 他のトロール達に比べて身体が更に大きく、頑丈そうな鎧で全身を固めている。それに、手にしている剣や盾なども武器も重厚で、見るからに手強そうだ。


 だが、アッシュは全く怯んでいない。

 呼吸の気配すら感じられないような、静かな表情を崩していない。

 腕と背中の傷も浅くはない筈だが、彼は平然としている。


 黒い短剣を口に噛んで、白い短剣を左手に握った彼は、周囲のトロールの達をすり抜けてきた速度よりも、より鋭く親衛隊トロール達に踏み込んだ。


 極端な前傾姿勢を維持しているアッシュの姿がブレて、次の瞬間には、もう親衛隊トロールの目の前にいた。

 


 瞬く間に懐に潜り込まれた親衛隊トロールのうち1体は、「MUGUA!?」と驚いたような声を上げつつも、咄嗟に片脚を持ち上げようとしていた。


 ぎっしりと筋肉の詰まった、あの丸太のように太い脚で、小柄なアッシュを蹴飛ばすか踏み潰そうとしたのだろう。だが、親衛隊トロールが繰り出そうとした脚での攻撃は、空振りにすらならなかった。


 その時にはもう、アッシュは跳躍していた。


 物理的にそんな筈はないのだが、少し離れた場所にいるローザには、一瞬でアッシュが4人に増えて、一斉に親衛隊トロールに襲い掛かったように見えた。


 この4人のアッシュはすぐに掻き消えたあと、親衛隊トロールをすり抜けるようにして、その背後に、またアッシュは1人で現れた。そうとしか見えなかった。


 ほぼ同時だったろうか。


 片脚を上げようとしていた親衛隊トロールの軸足が切断され、大剣を持った右腕が宙を舞って、ついでのように首が飛んだ。アッシュが振った剣の動きは見えなかったが、すれ違いざまの刹那に、複数回の斬撃を放っていたということだ。


 あれだけ分厚くて強靭な肉体を持つトロールの肉体を、あの頑丈そうな鎧ごと、どうやったらあんなにスパスパと斬れるのか理解不能だった。


 アッシュの持つ、あの短剣の切れ味が凄まじいのか。

 いや、短剣を扱うアッシュの技術が途方もないのか。


 恐らく両方だろうと、ローザはぼんやりと思う。

 だって、アッシュは止まらない。


 首を失った1体目の親衛隊トロールが倒れるよりも先に、彼は次の親衛隊トロールに襲い掛かっていた。


 仲間が一瞬で解体されたのを目の当たりにして、呆気に取られていた親衛隊トロールの2体目は、瞬間的に詰め寄ってきたアッシュに反応すらできていなかった。


 アッシュは静かな表情のまま、この2体目の親衛隊トロールに正面から斬りかかる。――かのように見えた時には、アッシュは既にトロールの首の付け根のあたりにしゃがみこんでいた。


 まるで瞬間移動だった。

 無音のまま、2体目の親衛隊トロールの両腕と首が斬り飛ばされる。


 それを見て、最後に残った親衛隊トロールの3体目が、ようやくアッシュの危険さを認識し、怯えらしきものを見せつつも、手にした剣と盾を構え直そうとしていた。


 だが手遅れだった。


 トロールが戦闘態勢を整え終わったのは、鋭く跳躍したアッシュが、そのトロールの肩に着地し、飛び越えていったあとだった。アッシュは飛び越えるついでに、トロールの後頭部に短剣を埋め込み、引き抜いていた。


 あっという間だった。


 シャーマンを守っていた親衛隊トロール3体が全滅した。

 時間にして、4秒か5秒くらいだろうか。

 

 えぇ……。嘘でしょ? なに今の……?

 や、カルビとネージュを助けてくれたときも、かなり凄かったけどさ……。

 さっきよりも動きが疾くなってるというか……。

 アッシュ君、ちょっと強過ぎない……?


 立ち尽くしているローザの頭の隅に、ようやく動揺と驚愕が過り始める。

 

 上級冒険者になるまでには、それなりにローザも修羅場は潜って来たつもりだった。ヤバい魔物と戦った経験だって両手じゃ足りない。凄腕と言われる冒険者の戦いを間近で見たことも在ったし、共闘したことだってある。


 それに、ローザの仲間であるカルビやネージュ、それにエミリアだって、冒険者の中ではかなり強い部類だ。彼女達はトロールを相手にしても、1体1ならまず負けないし、多対1でも押し返せる。

 

 だがアッシュの強さは、そういったものとは質が違うような気がしてならなかった。


 そもそもアッシュとトロール達の間に、戦闘と呼ぶような何かは起きていなかった。

 アッシュが一方的に、無造作に、無味乾燥とした死をトロール達に与えただけだ。


 彼の内部にある何かが、あの二振りの短剣を通じて外界に触れるとき、殺戮とも解体ともつかない、壮絶な戦闘技術となって解放されているかのようだった。

 

 悲鳴を漏らす間もなく親衛隊トロール達が解体されたせいもあって、ドーム内には残響する音も殆どない。


 薄暗がりのフロア内は、やけに静かだった。


 だから、地面に膝を突いているカルビが、「スゲェな、オイ!」と少し興奮したように溢すのがローザにも聞こえた。


 そのカルビの隣で同じように膝を突いているネージュも、「速いだけじゃないわ。凄い剣術……」と何か美しいものでも見ているかのような、眩しそうな目つきになっている。


「惚れそう……惚れた」何故が涙ぐむような声を洩らしているエミリアに、「や、そんな場合じゃないから」と軽くツッコミを入れた御蔭で、ローザは少しだけ冷静になれた。


 一方で、親衛隊らしきトロール3体を瞬く間に殺戮されてしまったシャーマンも、もうローザとエミリアに向けて魔法の詠唱などしていなかった。


 いや、まさしくシャーマンにとっても、“そんな場合”ではなくなったのだ。


 アッシュとシューマンとの間の距離は、もう6メートルぐらいしかない。近い。シャーマンは完全に、アッシュの殺戮圏内に捉えられている。


「U、GU……GU……!」


 アッシュの超人的な速度と動きを目の当たりにしていたシャーマンは、手にした水晶玉を取り落とし、ガクガクと身体を震わせながら、後退りしている。


 もはや悠長に呪文を唱えている暇などないと悟ったのだろう。低く呻くだけで、魔法の詠唱を始める気配は微塵もない。今にも逃げ出そうとしている様子だ。


 そしてそれは、このフロアに残っている他のトロール達も同じだった。


 普段はとにかく好戦的で他種族に容赦のない彼らが、今は威嚇の唸り声すらあげていない。小柄なアッシュに対して攻め込むことができず、明らかに逃げ腰になっている。


 このフロアに不穏な静寂を齎したアッシュは、血に濡れた灰色のローブを揺らしながら、完全な無表情のままで、絶命したトロール達の残骸を軽く見回していた。


 そして怯えているシャーマンに、すぅっと視線だけを向けた。


 そのアッシュの眼差しに、ローザは鳥肌が立った。


 息が詰まり、怖いとさえ思った。ショットガンを杖にして持つ手が震え、エミリアに支えられた肩も震えた。エミリアも気圧されたのか。後ずさる寸前のように息を飲んで、僅かに上半身を仰け反らせている。


 静かに佇んでいる今のアッシュは、圧倒的で異様な存在感を纏いつつある。


 ローザと出会って腕を治療してくれた時のアッシュの雰囲気は、なんとなく冒険者らしくない、ちょっと頼りなさそうなものだった。ただその分だけ、とても優しげで、彼の青みのある灰色の瞳には、確かに穏やかな温もりが宿っていた。


 だが今の彼は、全く別の精神の持ち主にしか見えなかった。

 

 シャーマンに向けられるアッシュの目は、無機質でありながらも澄み渡っていて、残虐さや冷酷さを含んでいない。殺戮を楽しむ衝動を見せるでもない。ただ無感動な判断と、無慈悲な行動だけを予感させる、温度の籠らない目つきだった。


「GIHII……!」


 そんな恐ろしいアッシュの眼差しを正面から受けたシャーマンは、とうとう悲鳴を上げて踵を返し、背中を向けて逃げ出した。周りに居る他のトロール達を見捨てるようにして、“大階段”に向かって駆け出そうとしたのだ。


 下の階層にもいるであろう、他の仲間に助けを求めるつもりなのかもしれない。


 その無防備なシャーマンの背中を眺めていたアッシュは、また音もなく歩き出した。


 1歩。2歩。ゆったりとした足取りだった。3歩目で、アッシュは静かに姿勢を落とした。直後には、必死で逃げようとしているシャーマンの背中の、すぐ近くまで踏み込んでいた。


 ローザにはアッシュの動きと言うか、シャーマンとの距離が縮まっていく過程が見えなかった。それは周りのトロール達も同じだったようで、シャーマンを守ろうとか、アッシュの動きを阻もうとか、そういう反応が全くできていなかった。


 一瞬で終わった。


 逃げようとするシャーマンをすり抜けるようにして、アッシュが追い越した。やはり、そんなふうにしか見えなかった。


「U、……、GUEee……」


 低く呻いたシャーマンが、ゆっくりと前のめりになっていく。シャーマンの側頭部と頭頂部から血が溢れたのは、ヤツが倒れてからだった。

 

 倒れてピクリとも動かなくなったシャーマンを一瞥したアッシュは、無感情な眼差しでトロール達の群を睥睨する。


 別にアッシュは威嚇したわけでもないはずが、その視線だけで、トロール達が一斉に2、3歩程下がった。超然としたアッシュの存在感に引き摺られるようにして、このドーム内の静寂も分厚さを増していく。


 いつのまにか戦闘も止んでいた。

 誰かが息を飲む音が、やけに大きく聞こえる。


 それがエミリアのものであったとローザが気付くのと同時に、自分も呼吸すら忘れて窒息しそうになっていることにも気付いた。


 ローザは唇を舐めて湿らせてから、大きく息を吸って、吐いた。土と埃の匂いがするし、血の味のする口の中もザラついた。腕で汗を拭いながら、周囲を見回そうとしたときだった。


 カルビとネージュの方から、薄いガラスが割れるような音が聞こえた。


 見れば、2人の動きを拘束していた魔法円が砕け、その破片が霧散し、消滅しようとしているところだった。これは術者であるシャーマンが倒されたからだろう。


 2人は体の自由が戻ったことを確かめるように、手を握ったり開いたり、軽く腕などを回しながら互いに顔を見合わせていた。そしてすぐに立ち上がり、残っているトロールの群れに対して戦う姿勢を見せる。


「よォし! シャーマンさえ居なくなれば、もうアタシ達の勝ちだな!」


 大戦斧を肩に担ぐように構え直したカルビが、着込んだ鎧に炎を纏わせる。


「……えぇ。早く片付けて、彼の治療を急ぎましょう」


 ネージュは静かな表情でトロールを見据え、そのあとで僅かに唇を噛んで、アッシュの傷を心配するような視線をチラリと向けていた。


 シャーマンによって動きを封じられていた2人だが、大きな負傷もなく、まだまだ戦える。アッシュが味方であると分かり、その戦意も十分だった。


「アッシュさんの傷もですが、ローザさんの魔力も回復しないといけませんわねッ!」


 ローザを守るように盾を構え続けていたエミリアも、今が攻勢に出るチャンスと見たようだ。


「もう少しの辛抱をお願いしますね、ローザさん! このわたくしもォ、残りのトロール達を撃滅して参りますわ!」


「いや、そこまで徹底的に戦わなくても、もう一押しで向こうは崩れそうだよ。……でも、ありがと。私は大丈夫だから」


 前衛のエミリアは健在だし、後衛として魔導銃を連射していたローザ自身も、魔力消費は激しいものの無事だ。ローザ達のパーティは誰も戦闘不能には陥っていない。


 一方、強力な魔法を扱うシャーマンと、その親衛隊を瞬く間に惨殺されたトロール達の群れには、大きな動揺が走っているのが見て取れた。


 彼らは互いに顔を見合わせて周りを見渡し、何事かを唸り声で交し合って、既にじりじりと後退しはじめている。


 復活したカルビ、ネージュの強さについては、彼らも十分彼らも理解しているはずだ。アッシュの対しては理解不能だろうが、それでも彼らにとっては脅威に違いなかった。


 もうトロール達は前に出てこようとしていない。

 間違いなく、トロール達はこのフロアから撤退しようとしている。

 この好機を、ローザは逃さなかった。


 魔力切れ寸前でグロッキーに近いが、あと一発ぐらいなら撃てる。


 ふっ、と鋭く息を吐いたローザは、エミリアに支えられながら魔導ショットガンを撃ちだす。狙ったのは、撤退しようとしているトロール達の群れの、その無防備な横っ腹だ。


「GIII、GUUOOOoooo……!!?」

「Nu、GUUUAAAaaa……!!?」


 撃ち出された氷結魔法弾が展開され、瞬時に6体のトロールが霜に覆われて凍てついた。その周りにいたトロール達も、発生した魔力と冷気の壁に押し飛ばされて、ゴロゴロと地面を転がる。


 これが決定打になって、トロール達の群れは一気に潰走状態に陥った。彼らはバタバタと撤退しはじめる。トロール達は“大階段”を転げ落ちるように逃げていくものが大半で、残りはこのフロアの出入り口に向かっていた。


 緊張と戦闘の気配も、このフロアから見る見るうちに引いていく。


「トロール達が逃げ出すところなど、わたくし、初めて見ましたわ……」


 ローザを守るために体を支えなおしながら、エミリアは困惑と安堵を混ぜ込んだような苦笑を浮かべた。確かに、勇猛かつ獰猛なトロール達が逃走する光景などは、ローザも初めて見た。


「珍しいこともあるもんだね」


 軽口めかして応じつつ、ローザは周囲に視線を巡らせる。


 “大階段”やフロアの入り口から、他のトロールが押し寄せてくるような気配は無かった。やはり静かだ。敵意のない静穏さが、このフロアにもゆっくりと満ちて来るのが分かる。


 危険な状況は乗り越えた。

 そう思っていいようだ。


 緊張の糸が完全に切れかけて、ローザは身体から力が抜けそうになりながらも、深呼吸をもう一度した。まだ気を抜いてしまうわけにはいかない。


「アッシュ君の傍に行こう。傷を回復して貰わなきゃ」


 声を引き締めてローザがに言うと、エミリアも大袈裟なほどに真面目な表情をつくって頷いた。


「え、えぇ! そうですわねッ!」


 いや、頷くよりも先にローザを片手で抱えて、アッシュの許へと走りだした。


「治癒魔法にせよ魔法薬を使うにせよ、アッシュさんにゆっくりと治癒して貰うには、傍で誰かが壁役に徹する必要がありますものねッ!? つまり! 私の出番ということなのですから! あぁ! アッシュさん! あんなに大きな傷を負って……ッ! わたくしが抱きしめてあげないと……ッ!!」


 興奮した様子の早口のエミリアは、左腕で大盾を引き摺り、右腕でローザを抱えているが、物凄い足の速さった。


「や……、抱き締められるよりも、エミリアが盾役に徹してくれてる方が、アッシュ君も助かると思うんだけど……」


 運ばれながらローザは軽くツッコんだときには、カルビとネージュの2人が、先にアッシュの傍に歩み寄ろうとしているところだった。













第9話まで読んで下さり、ありがとうございます!


アッシュとローザ達の関係など、少しでも皆様に面白いと感じて貰えれば幸いです。

今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございました!

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