**第155話 『味の定まらない、蕎麦屋のつけ汁』**
深夜食堂しのぶ。
夜更けのカウンターに、湯気の立つ蕎麦茶の香りが漂っていた。
暖簾をくぐって入ってきたのは、常連の礒野さん。
珍しく、顔に不満がにじんでいる。
「忍さん、マサさん……聞いてくださいよ。」
しのぶが微笑みながら湯飲みを差し出す。
「どうしました?礒野さん。」
礒野さんは一口飲んでから、溜め息をついた。
「行きつけの蕎麦屋があるんですけどね……
毎回、つけ汁の濃さが違うんですよ。」
マサが包丁を置き、ふっと笑う。
「ほう……今日は濃い、明日は薄い、ってやつか。」
「そうなんです!
ある日は“これこれ!”って味なのに、
別の日は妙に塩辛かったり、逆に水っぽかったり……。」
■ つけ汁は“ブレやすい”
しのぶが静かに言う。
「つけ汁って、実はすごく繊細なのよ。」
マサが続ける。
「蕎麦つゆはな、
かえし・出汁・温度・寝かせ、
この四つのバランスで決まる。」
礒野さんが身を乗り出す。
「温度?」
「そう。」
マサは頷く。
「かえしは前日に作って寝かせる。
出汁はその日の鰹節の状態で変わる。
そこに温度がズレると、
同じ分量でも味は別物になる。」
■ マサ流・蕎麦屋のつけ汁
「ちょっと作ってやるよ。」
マサは小鍋を出し、手早く準備を始める。
【材料・2杯分】
鰹節(厚削り)…20g
昆布 …5cm角
水 …300ml
かえし
醤油 …100ml
みりん …100ml
砂糖 …小さじ1(好みで)
■ 作り方
① かえしを作る
鍋に醤油・みりん・砂糖を入れ、
一度沸かしてアルコールを飛ばす。
火を止め、最低でも一晩寝かせる。
マサ
「これを当日使う店は、味が暴れやすい。」
② 出汁を取る
水に昆布を入れ30分。
火にかけ、沸騰直前で昆布を取り出す。
火を止めてから鰹節を入れ、1分。
濾す。
③ 合わせる
出汁:かえし=3:1
※蕎麦の風味を活かしたいなら薄め
※濃いのが好みなら2.5:1
④ 温度管理
つけ汁は温めすぎない。
人肌〜少し熱い程度がベスト。
礒野さんが一口すすり、目を見開く。
「……あぁ。これだ。
この“角がないのに、芯がある味”。」
しのぶが笑う。
「毎回味が違うお店、
もしかしたら“真面目”なのかもしれないわね。」
礒野さんが首を傾げる。
マサが言う。
「素材に左右されて、
その日の出汁を信じすぎちまうと、
味はブレる。」
「料理人ってのはな、
ブレちゃいけないところと、
ブレていいところを
ちゃんと分けなきゃいけねぇんだ。」
礒野さんは、しみじみと頷いた。
「……今度行ったら、
今日はどんなつけ汁かなって、
それも楽しんでみますよ。」
しのぶが湯気立つ蕎麦を差し出す。
「それでいいと思います。
料理は、完璧じゃなくてもいいもの。」
深夜食堂しのぶ。
今夜も、
**味の奥にある“理由”**が、
静かにほどけていった。




