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外伝9.昼下がりは人魚の楽園で

 お誕生日に何をしたい?

 どんなものが欲しい?


 それは、この時期になるとエレナを悩ませる切実な問題だ。エレナの夫は、あれこれと希望を口にすることがない。もともと裕福な生まれだからなのか、あるいは旅から旅へ過ごしてきた名残なのか、もとより物への執着が薄いよう。がらんとしていた夫の部屋に物がいくつか増えるたびに、心のどこかでほっとしていた日々を、エレナはまだ覚えている。


 さて、今年のお祝いは一体どうしたものか。エレナはそっと頬に手を当てる。


 回りくどいやり方は苦手なものだから、エレナはたいてい、ずばりヘルトゥに聞いてしまうのだけれど、結局は特別なことなんてしなくとも良いよと言われてしまうのだ。せいぜい、一緒においしいものを食べようかなんて微笑まれるくらい。パティスリーを営んでいるのだから、消え物が無意味だなんてもちろんエレナは思ってなどいない。それでも、何か特別な贈り物がしたいのだ。夫が欲しいもの、夫が喜ぶもの。服や小物はむしろエレナが選んでもらっている方だし、自分には何ができるのだろうか。店の仕事に追われる一方で、エレナの頭の中はずっとそればかりを追いかけていた。


 そんな時だ、ヘルトゥがいきなりエレナを呼び止めたのは。


「今から、海に行かないかい?」


 勧誘表現ではあるものの、既に予定を立てていたのだろう。片手には綺麗なナプキンとともに、こんもりと盛り付けられたバスケット。籠から覗くのは、エレナが好んでいる甘口の白ワイン。お気に入りのパンとチーズに瓶詰めのオリーブ、それからいくつか果物もみつくろってくれたらしい。どこかお茶目なお誘いは、エレナに小さな笑みをもらした。準備の良い夫のことだから、あの東洋風の衣の下にはしっかり水着が着込まれているのかもしれない。いっそ夫ならば、生まれたままの姿で泳いでいてもきっと絵になってしまうのだろうが。


 ああ、そう言えば結婚してすぐの頃にふたりで避暑地へ出かけたのだったか。夫の瞳の色に良く似た、綺麗な海が自慢の小さな島。懐かしい記憶に、波の音が聞こえる気がする。夏の昼下がり、この時間帯なら店を抜けてもそれほど迷惑にはならないだろう。久しぶりに、海へ出かけるのも悪くない。とは言え、この時期近くの海は酷い人混みだがどうするつもりなのだろうか。小さく首をかしげてみればその疑問を読み取ったのだろう、夫は何やら意味ありげに思案するエレナに向かってウインクをひとつ飛ばした。


 街から少しばかり離れた場所にある海辺。そのとある一角に置かれた「立入禁止」の立て札をあっさりと無視して、ふたりはずんずんと奥へ進んでいく。こんな風にちょっとしたルールを破ってみせるところが、実に夫らしいとエレナは思う。真面目なエレナ一人であれば絶対に入り込まないであろう静かな入江は、気持ちの良い風が吹き抜けていた。


「どうして立入禁止なのだろう」


 人の立入を禁止するからには、それなりに理由があるはずだ。例えば潮の流れが早いだとか、人体に有害な毒性生物が生息しているだとか。火山帯なら毒ガスが溜まっていることもしばしばあるが、この辺りにはそんなものもない。履いている編み上げ靴を脱ぎ捨てても怪我などしなさそうに見えるくらい、足元の砂はきめ細かく、浅瀬の波はくすぐったいくらいに穏やかだ。こんなに優しい海なら水着でなくても、スカートをめくり上げるだけで十分。人目のない海だからこそ、薄手のワンピースを着たまま、エレナは童心に帰ったかのようにはしゃぎ続ける。そこでふと漏れたエレナの呟きに、同じく濡れそぼったヘルトゥがこともなげに答える。


「この辺りでは、日が沈む頃になると人魚が出るそうだよ」


 人魚が出るなんて、まさか。エレナが目を見張れば、夫はわざとらしく肩をすくめてみせる。やはり噂でしかないらしい。だってここは人の声さえしない、穏やかな波打際。人魚に間違われるような生き物など、入り込むこともないだろうに。人魚の正体として名高いずんぐりむっくりとしたジュゴンを思い浮かべてエレナは笑った。


 久しぶりに海で遊んだ後は、少しばかりお行儀の悪いお食事。小さなナイフで切ってもらった皮付きの果物たちは、太陽の下でいつもよりもずっと味わい深い気がする。海の中で冷やしておいたワインは、瓶にそのまま口をつけて飲み込んだ。日の当たらないひんやりとした砂の上でころころと転がって、波の音を楽しむ。ああ、この入江はその形のおかげで天然の舞台になっているのか。目を閉じて音を味わっていたエレナの耳には、緩やかに伸び行く歌声が聞こえた気がした。


 思ったよりも、疲れていたらしい。気がつけば、エレナはすっかり眠りこけていた。昼下がりに店を出たというのに、今はもう夕暮れ時。


「のんびり過ごせたのは久しぶりだね」


 眉間を指先で優しく撫でられて、最近の自分が余裕のない顔をしていたであろうことをエレナは知る。喜ばせたい誰かに心配をかけてしまうなんて。申し訳なさと恥ずかしさと、それ以上の嬉しさを込めてエレナは夫に口付けた。


 まったく夫はこうやってすぐに自分を喜ばせる。家に戻ったら、美味しいものをたくさん作ろう。どんなに素敵なものを見繕ったところで、夫の笑顔にかなうものなどどうせないのだから。


 立入禁止区域から出た直後、エレナは知人を見かけた気がした。あれは、結婚式を挙げた店の女主人だったはず……。連れ立っていたのは確か……。くつくつと笑いを噛み殺したヘルトゥの横顔を見上げ、エレナもこれ以上の追求はやめた。波の音に混じって、柔らかなアルトが聞こえる。


 オフィーリアのとある入江では、夕暮れ時になると人魚の美しい歌声が流れるらしい。楽しそうに跳び跳ねる姿を見かけることもあるのだそうだ。数日後、そんな噂話を店の客から聞いたエレナは、夢のある話だとにっこり微笑んだ。

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「そしてふたりでワルツを」
「黄塵(仮)」
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