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4話

 覚悟していた日が来たのは、それから間もなく、王都を離れてちょうど半年後だ。

 毎日が、じっとりと長く感じるようになっていたシェリーには、とても長い時間だった。けれども思い返せば、あっという間でもあった。

 家の庭は、少しずつ植えた花が咲き、殺風景ではなくなっていた。

 その花を、倒れ臥して横から眺め、ほっと息をつく。後ろにまわされた腕が、焼けるかのように痛い。背を押さえつけられて息ができず、喘いだ拍子に口に草と土が入った。自分を押さえつけているのが何者か、振り返るなんてできるわけがない。わずかでも動けば、腕が捥ぎ取られそうだった。

 ただ痛みから気をそらすために、花を見るだけ。

 その花の向こうに、愛おしい小さな体が近づいた。

 弟が、無防備に、無頼者に取り押さえられたシェリーに近づいてくる。

 その意味は。


「よかった」


 シェリーは、乏しい息を音にした。


「ちゃんと、間に合ってよかっ……」


 ぐっと胸を踏まれて、骨が軋んだ。固い靴底が、薄い肉と骨を躙るようにいたぶる。

 護衛という存在がもし必要だったとしたなら、今がその時のはずだが、彼らは今、このあたりにはいないだろう。

 シェリーの目的のためにも、それは好都合だった。

 もう、ここで踏み殺されたとしても、シェリーに許された猶予はそう変わらなかった。まさに、ぎりぎりのところだったのだ。

 安堵して、意識を失うために目を瞑ろうとした。もう、再び目を開くことがないかもしれないと思いつつ。

 けれど。

 重たいものを弾く音がして、唐突に圧力が失せた。萎み切っていた肺が、勢い良く空気を取り込んで、その途端、胸に走った痛みにシェリーは悶絶した。空気が足りずに吸って吸って、咳き込み、また苦しむ。地面でのたうっていたシェリーに、小さな足が近づいて、どん、と温かな体が抱きついて来た。

 弟を抱きしめたことはあっても、抱きしめられたのは初めてだ。

 驚いて、跳ね飛ばさないように、痛みをこらえてじっとした。


「お前、やっぱり力があるじゃないか!」


 予想外の声がしたのは、その時だった。レードが、庭の垣根を乗り越え飛び出て来て、喚いている。その目がぎらぎらと自分を見ているのに気がついて、シェリーは困惑した。

 彼が何を言っているのか、またもわからない。


「どけ、ガキ」


 シェリーに覆い被さった弟の体に手を掛けようとしたのが、にわかに駆け寄る足音と殺気に、びくりと強張った。

 甲高い音がした。

 いつの間にか、影も見えなかったベルノーが、レードの傍らで背を見せて、刃を受け止めている。だが、ぐいぐいと押されて、仰け反った背中がレードに触れた。

 ベルノーを押すのは、大柄なベルノーよりさらに上背と質量のありそうな、フード姿の何者か。覗く口元を凶暴に歪め、ベルノーの体ごとレードを切らんとばかり、真上から打ち懸かっていた。ベルノーの必死の抵抗で競り合いとなり、そのフードについた土塊と花の残骸が、はらはらと落ちる。その体の向こうには、無惨に抉れ、荒れた庭。

 おそらく、シェリーを押さえつけて踏み殺そうとしていたこの巨漢は、一度どうしてか吹き飛ばされて地面に打ち付けられ、今また、今度はレードに襲いかかって来ているようだ。

 冷静に、分析のために頭が動く。だが、体は動かない。ぶるぶると震えて、役に立たない。

 せめて、せめて。

 シェリーが自分に伸し掛かる暖かな温もりを、抱きしめて庇おうと、言うことを聞かない腕を上げたとき。


『もう、いいか?』


 弟から、弟のものではない声。

 喉と口を通った音ではなかったかもしれない。不思議と頭に響く、低く艶やかな声。

 視線を下ろせば、胸元にぎゅっとしがみついたまま、顔だけ上げて弟がシェリーを見ていた。滑らかな頬、長い睫、小さな鼻と、少しだけ左右非対称な目。生意気な、口元。

 突然こみ上げた涙で、その顔がぼやけてしまうのを、瞬きして必死に見つめた。これで終わりなのだと、わかったから。

 そう、さっきだって、終わりを覚悟していたのだ。最後に目に焼き付けられるなんて、幸運なのだ。


「うん、うん、もういいよ。ありがとう。ありがとう……」


 さようなら、とは言わない。

 これはシェリーの、勝手な行動だった。彼にも得はあったのだろうけれど、それでも、それでもこの姿は贈り物だった。シェリーのためという以外の理由は、きっと、ない。

 だから、シェリーは壊れたように、ありがとう、と繰り返した。

 そのやり取りを、苛立ち怯えつつも怪訝に見ていたレードに、ベルノーが退いて下さい、と短く言った。

 切羽詰まった声。平静ではない様子を、初めて見た。レードも、驚いたようだった。はっとして転げるようにその場を離れる。その足に掠める勢いで、押し切られたベルノーの剣が突き立った。

 どうと横倒しになりかけ、軽く受け身をとって再び予備の剣を構えたベルノーだが、攻勢には出ず、じっと体勢を整えている。その背後には、レードが、剣を抜くでもなく、当然の顔をして立っている。

 それを見て、シェリーはようやく、自称護衛が自分の護衛ではなかったことを悟った。


「おい、シェリー、早く聖女様を出せ。あるいは戻れ。こいつは、何かヤバい奴だろう」


 守られながら、ごく当たり前に要求を口にする。困った人だと思っていたが、いろいろと見えてくれば、違う見方ができる。彼は、この態度以外、取るべき態度を知らないのだ。


「レード、あなた、誰。何者?」

「俺のことを詮索するな。いいから、いい加減にからくりを明かせ。さっきはこいつを弾き飛ばしていたじゃないか。命がヤバくなれば、ボロを出す、そう踏んでいたのが正解だったわけだ。もうバレてるんだから、観念しておけ。もう一度、依り代として聖女様を呼び寄せろ。

 骨と皮ばかりの体と、美しくもない顔の娘が、聖女様のために役に立てるのなら、使いどころもあるものだ」


 まるでシェリーのことを思わない、相容れない考えを、なんの衒いも躊躇いもなく言葉に乗せて押し付けてくる。

 そんな様子は、戦の間にたびたび見ることがあった。聖女という、別格の存在を脅かすことはなかったものの、目の届く範囲で、身分の高いものは低いものに、当然のようにそうしていた。

 聖女の依り代として、今後の人生を安堵する保証をしたのは、この国の王だ。その決定を反古にするに等しいことをしても、許されると信じられるほどの、高貴な身の上とやら。

 シェリーの体が、嫌悪感で震えた。

 その高貴な身の上の、勝手な思い込みであろうが、その勝手を誰かが正すこともないのだろう。

 現に王子だって、レードのことを分かったはずなのに、何も言わず、何もしてくれなかった。

 王子を始め、シェリーの身の上を案じてくれていたはずの王やほかの高貴な方々にも、裏切られたような気がした。見て見ぬふりをするのは、約束を違えることと何が違うというのだろう。

 そんな推測を、正体の知れない巨漢も、同じく得たようだった。

 大剣を肩に担ぎ、首をひねって、シェリーとレードとを、交互に見ている。


「ふーん、お前、この国の放蕩者だとかいう、ぼんくらの第三王子だろ。で? 仮にも王子がそう言っているってことは。聖女が気配を消しているのかと思ったが、本当に聖女ではないってことか?」


 まじまじと、覗き込まれて、今度は体がみるみる冷たくなる。

 一度彼の支配下から逃れたことで、自分を石ころのように踏みつけていたあの圧倒的な力が、恐ろしくてたまらなくなった。


「だが、顔は同じだ」

「お、同じなものか。聖女様はもっと、光り輝いておられた!」

「第三王子は、戦にも参加してないんだろ。聖女の近くで顔見たことあんのかよ。こう、ものすごく草臥れて生気が薄れてるがな。あの女と同じ……憎らしい顔だ。どうしてお前が、庇われる?」


 最後の言葉は、シェリーに向けられていた。冷えていながら、煮えたぎるように熱い、悪意が込められていた。


『庇ったと分かっているのなら、退け』


 固まっていたシェリーの胸元から、声がして。

 巨漢は人が違ったかのように、畏まって平伏した。

 弟が、弟の姿をとっていたその人が、ゆっくりとシェリーから起き上がり、その力を解放した。

 空気は動かない。けれど、莫大な量の魔素が、その存在を中心にして、溢れ出す。溺れそうなほどの勢いに、シェリーは思わず目を瞑った。体を洗い流すように通り過ぎ、地を満たし、空を満たし、すべてがその魔素に浸り、世界は幸福に包まれた。

 ああ、間に合ったのだ。

 シェリーの目から、涙がこぼれた。それは別れを悲しむ涙でもあり、安堵の涙でもある。

 そっと、目を開けると、闇のように深い髪色をした青年が、シェリーに背を向けて立っていた。


次は明日朝に投稿します。

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