3話
王子の訪れ以来、レードの表情は、日増しに険しさを増した。
ある日、シェリーが、料理につかった野菜の切れ端を集めて、ちょっとした酢漬けを作ったときに、それが爆発したようだった。
「お前はっ」
いきなり背後から腕を掴まれて、酢漬けの瓶は割れ、シェリーは悲鳴を上げたが、それすら忌々しいと、レードは舌打ちをした。
「聖女が、こんなネズミのエサみたいなもの食うかよ。小間使いみたいにちょろちょろするかよ。いったい、どういうからくりだ!」
普段の軽薄さの欠片も見当たらない。
怒鳴りつけられて、混乱し、シェリーはただ、身を竦めることしかできなかった。さらに舌打ちが聞こえて、びくりと震えれば、あっという間に体を反転された。壁に挟まれ、伸し掛かられて、後ろ髪を掴まれ、首もとを乱暴に広げられた。
「聖女が、消えるはずはない。だが、お前が、聖女のはずがない。——聖女を、聖女様を、出せ」
怨念の篭った低い声で恫喝されて、声も出ない。恐ろしさは、シェリーの息すら奪った。喘ぐように肩を上げて下げる。視界が歪む。顔も歪む。
「どうした、はねのけてみろ。かの国の誰も傷つけることのできなかった、あんただ。これくらい、雑作もないだろう」
赤らんだ歪んだ顔で、レードが迫る。
何を言っているのだろう。
シェリーは、恐怖で埋め尽くされていた。その合間に泡のように浮かぶのは、疑問ばかりだ。
レードの言うことが、わからない。何を求めているのか、理解できない。
戦は、兵たちのものだった。かの国を倒したのは、こちらの連合軍だ。聖女は、ただ、そこに在っただけ。
そこに、在っただけ。
無力にも、はね除けることはおろか、意識を保つことすら危うい、今のシェリーと何が違うのだろう。どう違ってほしいのだろう。
視界が、まだらに黒くなる。
くそっ、と吐き捨てて、レードがシェリーの服を破いた。洗濯で、水を切る時に、大変な苦労をして絞る固い布の服が、ブチブチと音を立てて裂けた。引っ張られて、肩口が擦れて痛んだ。
理不尽な暴力に、シェリーはただ、残っていたかすかな空気の塊を口から吐いた。
ふと、かかる力が消えて、シェリーの体がずるりと落ちる。厨房の冷たい床に尻を落とした衝撃で、シェリーははっと息を吸い、咳き込んでえづいた。
小さな手が、その背を撫でる。
弟だ。弟が、こんなところに。
落ち着かない息を抑え込んで、シェリーは小さな体を抱き込んだ。守る気だった。庇うようにして、レードを見れば、彼は魂が抜けたかのように、落ち窪んだ目をして立っていた。
弟もまた、レードを見上げていた。
王宮で裾に縋って来た日から、誰も、シェリーにすら目を向けることがなかったというのに。
けれどそれは一瞬。
ふと弟は、興味を失ったようにレードから視線を外し。
ただその小さな手が、もう一度、シェリーのかろうじて隠れているような有り様の肩を撫でて、ほとりと小さな体の脇に下ろされた。
「レード」
部屋の入り口から声がして、シェリーの体が跳ねた。
もうひとりの護衛であるはずのベルノーが、冷めた目をして立っていた。
「おいたはそれでやめておけ」
弾かれたように、シェリーはベルノーを睨みつけた。頭の中が真っ赤に染まるほどの怒りを感じた。
けれど、それは抱えてはいけない感情だ。感情の極度の高まりは、魔力の流れの乱れを生じさせる。避けなければならない。
必死で、息を整える。気道が縮んでいるのか、ヒューヒューと、風の鳴るような音がした。
それを暗く澱んだ眼差しで見下ろして。
「もう萎えた。貧相すぎて」
吐き捨てて、レードは踵を返した。
二人の男の背中が、部屋から出た途端、シェリーは駆け寄って、扉を閉めた。
「出て行って! 出て行ってちょうだい! 何が護衛よ、どこがよ! 誰から守るって言うのよ! もういらないから、王都に帰って。帰ってちょうだい!」
家の中の一部屋から追い出しても、なんの実効もない。自分が、自分の家であるはずの屋敷の台所で、扉を必死に押さえて、閉じこもっているだけ。
けれどそれ以上、シェリーには何もできない。自分の家とはいえ、国に修繕してもらい、融通してもらった家と生活では、強気に自分の権利を主張するのは難しいのだ。
出て行こうか、と思う。
国からの恩恵をあてにして暮らし、監視され、遠慮して生きることを、覚悟していたはずだけれど、あの護衛と称する二人が側にいることには、耐えられそうもない。
王子に宛てて書いた手紙に、返事は来ない。王子の助けは、期待できないようだ。
もしかすると、届いていないのかもしれない。村長に手紙を託せばいいと王子は言ったけれど。王子の配下であるという護衛たちが求めれば、きっと村長は手紙を渡してしまうだろう。
しかし。弟と二人きり、ここを離れて、満足に食べていける自信はない。
まだ、まだ歯を食いしばるしかない。
ようやく落ち着いてきた息を深く長く、吸って、吐いて。
ふと見下ろせば、貧相、と罵られた自分の体が見えた。ささやかな胸と細い腹、そして、浮いたあばら。自分でも、ぎょっとした。このところ、食欲がない。食べたいと思っても、体が受け付けないのだ。体力も、みるみる落ちて来ている。
シェリーは破られた服の前をかき合わせて、弟の頭のてっぺんに頬を乗せた。
——まだ、仕方ない。まだ、かかる。
けれど、きっと——もうすぐだ。
次は夕方投稿します。




