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聖女さまは、彼女の世界にお帰りになりました、ってば!  作者: 日室千種


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3/8

3話

 王子の訪れ以来、レードの表情は、日増しに険しさを増した。

 ある日、シェリーが、料理につかった野菜の切れ端を集めて、ちょっとした酢漬けを作ったときに、それが爆発したようだった。


「お前はっ」

 いきなり背後から腕を掴まれて、酢漬けの瓶は割れ、シェリーは悲鳴を上げたが、それすら忌々しいと、レードは舌打ちをした。

「聖女が、こんなネズミのエサみたいなもの食うかよ。小間使いみたいにちょろちょろするかよ。いったい、どういうからくりだ!」


 普段の軽薄さの欠片も見当たらない。

 怒鳴りつけられて、混乱し、シェリーはただ、身を竦めることしかできなかった。さらに舌打ちが聞こえて、びくりと震えれば、あっという間に体を反転された。壁に挟まれ、伸し掛かられて、後ろ髪を掴まれ、首もとを乱暴に広げられた。


「聖女が、消えるはずはない。だが、お前が、聖女のはずがない。——聖女を、聖女様を、出せ」


 怨念の篭った低い声で恫喝されて、声も出ない。恐ろしさは、シェリーの息すら奪った。喘ぐように肩を上げて下げる。視界が歪む。顔も歪む。


「どうした、はねのけてみろ。かの国の誰も傷つけることのできなかった、あんただ。これくらい、雑作もないだろう」


 赤らんだ歪んだ顔で、レードが迫る。

 何を言っているのだろう。

 シェリーは、恐怖で埋め尽くされていた。その合間に泡のように浮かぶのは、疑問ばかりだ。

 レードの言うことが、わからない。何を求めているのか、理解できない。

 戦は、兵たちのものだった。かの国を倒したのは、こちらの連合軍だ。聖女は、ただ、そこに在っただけ。

 そこに、在っただけ。

 無力にも、はね除けることはおろか、意識を保つことすら危うい、今のシェリーと何が違うのだろう。どう違ってほしいのだろう。

 視界が、まだらに黒くなる。

 くそっ、と吐き捨てて、レードがシェリーの服を破いた。洗濯で、水を切る時に、大変な苦労をして絞る固い布の服が、ブチブチと音を立てて裂けた。引っ張られて、肩口が擦れて痛んだ。

 理不尽な暴力に、シェリーはただ、残っていたかすかな空気の塊を口から吐いた。

 ふと、かかる力が消えて、シェリーの体がずるりと落ちる。厨房の冷たい床に尻を落とした衝撃で、シェリーははっと息を吸い、咳き込んでえづいた。

 小さな手が、その背を撫でる。

 弟だ。弟が、こんなところに。

 落ち着かない息を抑え込んで、シェリーは小さな体を抱き込んだ。守る気だった。庇うようにして、レードを見れば、彼は魂が抜けたかのように、落ち窪んだ目をして立っていた。

 弟もまた、レードを見上げていた。

 王宮で裾に縋って来た日から、誰も、シェリーにすら目を向けることがなかったというのに。

 けれどそれは一瞬。

 ふと弟は、興味を失ったようにレードから視線を外し。

 ただその小さな手が、もう一度、シェリーのかろうじて隠れているような有り様の肩を撫でて、ほとりと小さな体の脇に下ろされた。


「レード」


 部屋の入り口から声がして、シェリーの体が跳ねた。

 もうひとりの護衛であるはずのベルノーが、冷めた目をして立っていた。


「おいたはそれでやめておけ」


 弾かれたように、シェリーはベルノーを睨みつけた。頭の中が真っ赤に染まるほどの怒りを感じた。

 けれど、それは抱えてはいけない感情だ。感情の極度の高まりは、魔力の流れの乱れを生じさせる。避けなければならない。

 必死で、息を整える。気道が縮んでいるのか、ヒューヒューと、風の鳴るような音がした。

 それを暗く澱んだ眼差しで見下ろして。


「もう萎えた。貧相すぎて」


 吐き捨てて、レードは踵を返した。

 二人の男の背中が、部屋から出た途端、シェリーは駆け寄って、扉を閉めた。


「出て行って! 出て行ってちょうだい! 何が護衛よ、どこがよ! 誰から守るって言うのよ! もういらないから、王都に帰って。帰ってちょうだい!」


 家の中の一部屋から追い出しても、なんの実効もない。自分が、自分の家であるはずの屋敷の台所で、扉を必死に押さえて、閉じこもっているだけ。

 けれどそれ以上、シェリーには何もできない。自分の家とはいえ、国に修繕してもらい、融通してもらった家と生活では、強気に自分の権利を主張するのは難しいのだ。

 出て行こうか、と思う。

 国からの恩恵をあてにして暮らし、監視され、遠慮して生きることを、覚悟していたはずだけれど、あの護衛と称する二人が側にいることには、耐えられそうもない。

 王子に宛てて書いた手紙に、返事は来ない。王子の助けは、期待できないようだ。

 もしかすると、届いていないのかもしれない。村長に手紙を託せばいいと王子は言ったけれど。王子の配下であるという護衛たちが求めれば、きっと村長は手紙を渡してしまうだろう。

 しかし。弟と二人きり、ここを離れて、満足に食べていける自信はない。

 まだ、まだ歯を食いしばるしかない。



 ようやく落ち着いてきた息を深く長く、吸って、吐いて。

 ふと見下ろせば、貧相、と罵られた自分の体が見えた。ささやかな胸と細い腹、そして、浮いたあばら。自分でも、ぎょっとした。このところ、食欲がない。食べたいと思っても、体が受け付けないのだ。体力も、みるみる落ちて来ている。

 シェリーは破られた服の前をかき合わせて、弟の頭のてっぺんに頬を乗せた。

 ——まだ、仕方ない。まだ、かかる。

 けれど、きっと——もうすぐだ。


次は夕方投稿します。

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