2話
衝撃から十日後、シェリーは、大国の片田舎の小さな村の外れの古い家のやや殺風景な庭にいた。
そして、殺風景と感じるのは何故だろう、と首を傾げた。
「花がないからじゃないか?」
と、軽薄な声が、求めてもいない返事をした。
「王宮はどこも、見事な花が目を楽しませてくれるからな」
肩を越えるほどの金の髪を後ろに払いながら、もの憂げな顔をして立つ、少年と言っていい細身の姿は、王都の女性が喜んで買う貴公子の姿絵そのものだ。ぞんざいな口調に反して、どこか尊大で、浮世離れした印象を受ける。
少年は、ふう、と息をつく。どうして俺が、王宮ではなくこんな田舎に、という意味の溜め息だろう。
それはシェリーが聞きたい。
大任を勤め上げて、お役御免と田舎に戻るシェリーを追いかけてくるものはいない、はずだったのに。
快適な馬車に揺られて王宮を出て、その夜の宿の前で止まった馬車から降りる時にはすでに、このやたら人目を引く少年が、シェリーに手を貸すべく、馬車の外で待機していたのだ。
彼はレード。王子付きの魔法剣士の一人で、シェリーの護衛を命じられたと言う。王宮から付いて来てくれた護衛たちは、あまり関わらないように遠巻きに警護してくれるのだが、彼だけは、出会った時から、妙に踏み込んでくる。
対応に困りながらも、無碍にはできずにいたら、村について他の護衛が引き上げても、何故か居座っているのだ。
どうしたものか、シェリーの目下最大の悩みである。
そしてもうひとり。さきほどから庭の一角が妙に薄暗い、と思ったら、そこに黒尽くめの大男がうっそりと佇んでいた。ベルノーという、王子付き近衛兵の一人で、同じく護衛だと言う。
彼もまた、レードと同時に現れ、レードの背後でひたりとシェリーに張り付き、村への道中、そして村についてからもずっと、わずかなりと目を離してはくれないのだ。
シェリーは、困っていた。
「そ、そうですね、気がつかないうちに、贅沢な眺めに慣れちゃってたんですね、私の目が」
「花について侍女たちに聞き学んでいたというじゃないか。ここにも植えたらいい。真っ赤な花が好きだったんだろ?」
「そうでしたっけ。私ではなくて、聖女様のことですね。さすが聖女様は、お花がスキナンデスネー」
返答に困る問いかけばかり。そしてレードは、意味有りげにシェリーを見つめ、口元だけで微笑んだ。
「その花を好むようになった切欠は、王子殿下が贈ってくれたからだっていうよな」
「え、あの、さあ、聖女様のお気持ちまではちょっと……」
「またまた。なんだ、王子殿下は好みじゃないのか? 縁談から、逃げたかった?」
「と、とんでもないこと、言わないでください!」
シェリーは不敬な発言に怯えて、さっと家に駆け込んだ。どうせ、宿もないこの村に辿り着いて、馬車を帰してしまって以来、彼ら二人も勝手にこの家に寝泊まりしているのだが。
家の中で一番居心地のいい居室の窓の近くで、空の彼方をぼんやりと見ていた弟を、抱きしめる。
生き別れていた弟と再び会えてから、それがシェリーの、安心の仕方だった。
「ほんと、困るなあ……」
弟を抱きしめる腕が、かすかに震えていた。
報賞として金銭が与えられたからといって、村の生活に直接役に立つとは限らない。
修繕された家には、家財道具も残っていたし、必要なものは一通り揃えてくれてあった。食物も、領主からの口添えか、村から食材が定期的に届けられたが、それ以外の生活の基礎は、すべて自分たちの作業で賄わなければならない。シェリーは、毎日、くるくるとよく動いた。
食事の用意に洗濯、掃除と、毎日の作業に追われて、日々は駆け足で過ぎて行く。
その忙しい合間に、水場に使い良い台を置いたり、食事に手製のジャムを添えたり、枕元に庭から選別したハーブの束を飾ったり。ほんの少しずつ、屋敷を、自分たちの家にしていった。
毎日、日が暮れれば、疲れ果てて倒れ込むように眠った。
弟とは、ひとときだって離れたくはない。だが、昼間は作業があるので、家で留守居をさせることが多い。その分、夜はひとつの寝台で、寄り添って眠った。
最初はそれぞれ別の部屋を決め、すでに寝入っている弟の顔を毎夜眺めてから寝ていたのが、疲労と寂しさに耐えきれず、そっと同じ寝台に入って、その温かさに心の真ん中からぐずぐずと蕩ける極上の眠りを味わってしまっては、もう離れて眠ることはできなかった。弟も、特に嫌がることもしないのだから、なおさら。
眠りが快すぎて、寝る体制が定まった、と思ったら朝が来ていて、びっくりしたりもした。
かつてしていた生活。けれど、聖女であった期間に、体は少し、鈍っていたようだ。
自称護衛たちの食事は、どこからかベルノーが調達しているようだ。彼らの分まで面倒を見なくてもよい。当然だとも思うが、それは、助かった。
村に着いて、七日が経ち、ようやく毎日の過ごし方が、落ち着いて来た頃。
家に、客がやって来た。
「お、王子殿下……」
扉を開けたら、つい先日、蒼褪めた切羽詰まった顔で自分のことを見つめて来ていた王子が立っていた。
今度は、シェリーが腰を抜かしそうになった。
「驚かせてすまない。前触れを出すよりも、馬で駆けた方が早かったのだ」
シェリーが、ゆったりと馬車の旅をしてきた三日の道のりは、馬を走らせれば半日ほどでこなせる距離だそうだ。多忙な王子が往復する時間をとることのできる機会はあまりなく、行けると分かった時点で馬を走らせ始めたのだと言う。
「変わらないようだな」
静かに言われて、お茶を出していたシェリーは、俯いた。謝ることでもないように思ったものの、申し訳ありません、と頭を下げると、相手は慌てたようだった。
「いや、責めてはいない。大変なお役目だった。ご苦労だった。そう、きちんと言いたくて来たのだ」
「もったいないお言葉。わざわざお越し下さいまして、ありがとうございます」
「顔を、上げてくれないか」
「……はい」
恐る恐る、視線を上げる。
王子は、王族らしく、よく整った容貌をしている。お忍び故だろう、いつもの装飾品が一切外され、簡素な基本軍服ながらも、美しく映える。シェリーは、落ち着かず、視線を逸らしそうになり、慌てて思いとどまって、王子の強い視線に耐えた。
「……ほかの皆も、来たがっていたよ。だが、君の任務は極秘ゆえ、あまり目立つ訪問はできないから」
「はい……」
会話が続かない。
こういう時、護衛は任務の報告をしたりしないのだろうか。周りをうかがうも、今日この時に限って、どちらも気配がないようだった。
弟は、シェリー以外の気配を悟って、部屋から出て来ない。村人や、常につきまとう護衛たちに対しても似たような態度なので、これが通常だ。
ふっと、王子が視線を外してくれた。解放されて、シェリーは俯き、肩で息をついたのだが。
「この家の持ち主の夫妻は、君の祖父母だった? あるいは両親? 村で暮らしていたことは皆が知っているけど、そここに越して来る前は、どこに……いや」
下がった華奢な肩が、まだ上がったのを見て、王子は鋭く光った目を、そっとまた伏せた。
「父陛下のご決定で、君が再び聖女様の依り代とならない限り、君自身の身上については一切問わず探らず、ただ感謝をすべしとのことだ」
深く、辛い息をつく。
シェリーには、それにかけるべき言葉は、何もなかった。ただ、さらに小さくなって、目を閉じた。
「……ここでの生活に、困ったことはないかな? 力になるから、いつでも言って」
「ありがとうございます。……困ったこと、というか、ひとつだけ、お尋ねしたいことがあります。お許しいただけるなら。……あの、無礼かもしれませんが」
王子は少し目を見開いてから、柔らかく笑んだ。
「シェリーからの質問だな。構わない。聞こう」
「ありがとうございます。……あの、聖女様の記憶では、旅の間で、殿下と話をしたのは、ほんの何回かです。聖女様は、いつも専属の護衛と側仕えの人たちに囲まれて、殿下方と食事を共にしたことすら、数回しかないようですが」
王子の笑顔が、固まったように見えた。けれど、今更取り消しはできない。
「私が記憶を客観的に見たところ、なのですが、皆様と聖女様は、適切な距離をおいてのご関係でした。旅が終わって、急に、どうしてそこまで、聖女様を——?」
しばらくの、沈黙。その間、ずっと王子の視線が外れることはなく、シェリーは肝を冷やした。
「す、すみません、出過ぎたことを」
「いや、聞くと言ったのは私だ。それに、怒っているわけではない。ただ、依り代としての視点で見ると、聖女様を随分と冷静に観ることができるのだな、と感心したのだ。——いや、王侯貴族に特別なことなのかもしれないが」
聖女の身に纏う膨大な量の魔素、それは何にも勝る魅力なのだという。
「といって、それだけが目的になるというのではなく……。魔素を多く持つ者には、心が傾く。優しい娘に感心し、美しい娘に惹き付けられ、賢い娘に敬意を抱くように、生まれ持った魅力として異性を強烈に魅了する。それゆえ、旅立ちのその時から、協定の一環として、聖女様と我々各国代表との間に距離を保つべし、とされたのだ。——皆が、その縛りのなくなる日を待っていた。
だが、確かに、その事情を知らない者から見たら、唐突に聖女様に群がるように見えたのかもしれない。……あるいは、聖女様ご自身にも」
そこで王子は探るようにシェリーを覗き込んだが、ふっと息をついて視線を外した。
「女々しいことはすまい。これで、今後会うことはないだろう。だが何か要望が出てくれば、手紙を送ってほしい。どうか、健勝で」
「ありがとうございます。王子殿下も、どうかお元気で」
話を終えて、王子が帰り支度をして表へ出たところで、困ったことの最たるものであったはずの護衛たちのことを思い出したのだが、今さらここで王子を引き止めて話をしていいものかどうか、悩んでしまった。
手紙を、追いかけるようにして出して、その中でぼやこうか。
ほぼそう決めて見送るべく立っていると、ちょうどよく、護衛の職務を放棄しているとしか思えないレードが、後ろにベルナーを従えて、素知らぬ顔で歩み寄って来た。
王子の前まで来て、さっと優雅に膝をつく。優美な仕草が板についていて、様になっていることが、シェリーには少し腹立たしい。
「殿下、ご機嫌麗しく」
「レードか。一体、何をしている」
「何を、とはおかしなことを。護衛ですよ、聖女様の」
ご報告を、とレードは、王子を連れてシェリーから離れた。
何となく、嫌な予感がしたが、どうしようもない。王子が怪訝な顔をしていたことも、気になった。
けれど結局、彼らは何事もなく頷き合うと、王子は馬上の人となり、シェリーに目礼をしてから去って行った。
シェリーは深く腰を折り、精一杯の見送りをしたのだった。
顔を上げた時にはすでに王子の後ろ姿は見えず、護衛たちも姿を消し、シェリーはひとり、玄関先にぽつりと取り残されていた。
——村へ、その外へ、王都へと続く、土のままの細い小道。
その道だけが、しろく浮かび上がるような視界に、細い体に、さらに小さな子どもを背負った女の子が、よろめきながら歩いて来るのを見た。
もとは仕立ての良さそうな服を、草木の汁と土とにまみれさせ、顔や体にもちいさな瑕を負いながら、それでも背を気遣い、必死に歩いてくる。
過去を諦め、共に未来を生きようと歯を食いしばり、助けて助けられて、ようやくここに辿り着いた、あれは、シェリーだ。
シェリーと、小さな弟。
胸を搔き毟りたくなるような気持ちになって、ふと気がついたとき。
いつの間に、家から出て来たのか。弟が、すぐ傍らに立っていた。特に声をかけて来ることもなく、目線もシェリーを向いてはいないが。
その小さな手は、しっかりとシェリーの上着の裾を握っていた。
あのとき、負ぶわれながらも一生懸命、シェリーの肩の布を握りしめていたように。
次話は明日朝投稿予定です。