13 火の国王城(10)
暗がりのせいか、精悍な顔が少し疲れているように見えた。
その気怠げな様がどこか不穏で、ターナハースは半分腰を浮かせて振り向いた状態で固まってしまった。
明らかに怯えるのを気にもせず、王太子は腰に着けていた剣帯を寝台の枕元に投げ出すと、どかり、とその脇に胡座をかいた。
そのまま、こちらを見つめてくる。
ターナハースは、にっちもさっちもいかなくなった。
今動いたら、自分は逃げ出してしまいそうだ。だが逃げ出したら、この王太子はきっと追うだろう。そして追うからには、必ず捕らえる、だろう。——望ましくないことだが。
といって、その赤茶の視線を受けながら、背中を向けて座り直すことなどできそうになかった。
「どうした、終いか?」
「はい……いえ」
ちょうどきりのいいところだったが、そう言ってしまうのは憚られた。
「ジーク様は、その、何かご用」
「気にするな。ただ休みにきただけだ」
王太子の部屋が別にあることは知っていた。だから、そういうことなのだと理解した。
いよいよ逃げる方法を考えなくてはならない。いや、逃げてはならない。逃げずに、免れることはできないか……。
だが呆然としているうちに、灯りが大きく揺らめいて、かき消えた。
とっさにターナハースは身を翻そうとしたが、一瞬、手首を掴まれるのが早かった。寝台から書机までは数歩の距離があったのに、見計らったようなタイミングだった。灯りは、自然に消えたのではなかったのかもしれない。
掴まれた手首を引かれ、抱きすくめられても、あまりの動揺のために声が出なかった。
湯を使ってきたらしく、香油の匂いがした。
「水の香りがする」
うなじのあたりに呟きを落とされて、膝が震えた。
ゆるしてください、と呻いた声は、倒れ込んだ寝台のきしみに紛れて消えた。
逃げてはならないという戒めよりも、自分を覆い隠すほどの存在感にただ圧倒されて、暴れることもできない。
素肌に触れた手の温度や、胸の花に寄せられた唇から伝わった吐息の湿り気が一瞬のうちに思い出されて、ぎゅっと目をつぶった。
体をできる限り小さく縮めて身を守ろうとしたターナハースは、ばさりと掛布を被せられ、その上からまた抱きしめられた。長時間机に向かっていたためか、恐怖に血が滞ったのか凝っていた体に、じわりと温もりが染みてきて、気持ちのどこかが緩んでいくようだった。
「まだ固いな」
王太子が呟いて、背中を掛布越しに撫でてきた。
ぞくり、と背が反る。だが撫でられたところは湯につかったように温まって、ターナハースの意図しないところで、口からほっと息を洩れた。
日溜まりでうたた寝をしたような心地。
それは昼間の熱を孕んだ触れ方とは、かけ離れていた。
手足を縮めたまま薄目を開ければ、夜の暗闇の中、男の輪郭はゆったりと呼吸を刻んで、寝台に馴染んでいた。いつの間にか諸肌を脱いでいたらしいのを見て取って慌てたが、それは寝支度だったようだ。
王太子は、早々に目を閉じていた。
(眠ってる?)
赤茶の目が閉ざされたことにひどく安心して体の力を抜いた途端、ぐいっと引き寄せられてさらにすっぽりと抱き込まれたが、王太子の薄い唇からは規則正しい寝息がこぼれてくるばかり。
なのに、様子を見ながら少し抗ってみても、拘束からは抜けられそうになかった。
(え、ええ。これってほんとうに寝てるの?)
往生際悪くさんざんもがいたが、起こしてしまって別の展開になるのが嫌で、全力を出せない。結局、この危険極まりなさそうな腕の中で夜を過ごさなければならないことを悟った。
気持ちに反して、体はほかほかと気持ち良い。
無理矢理に花を暴かれそうな恐怖は、どこか遠いところへ隠れてしまった。
自分をぐるりと包み込んだ掛布のもたらす安心だとしたら、そんなに薄っぺらいものはないのだけれど。なにしろ、その掛布ごとターナハースを抱え込む男は、文字通り一瞬でそんな障壁を消し去ることができるのだ。
弱々しく、理性が忠告をしてくる。
だが、気が狂いそうなほどに事が多かった今日、ターナハースは疲れきっていた。
そこに、この心地よい熱は、麻薬のようだ。
とろとろと、力が抜けていく。
瞼も支えきれなくなって、やがて寝息はふたつになった。
目を開けると、寝台から少し離れた窓から、青い陶製の床に向かって斜めに光の筋が差し込んで、格子の美しい幾何学模様を映し出していた。
早朝の静かな陽。だが、日中の暑さを十分に予感させる眩さだ。
ぼんやりと、それを眺めて。
え、と呟いて体を起こした。
さらりと体をすべる夜着に違和感を感じる。汗をかいていない。涙も、異様な火照りも虚しさもない。夢を見た記憶もない。
普通の朝だ。
十年間、一度も手に入れたことのなかったもの。
それが何故、と思いを巡らせた流れで、寝入る前の状況を思い出し、部屋を見渡して王太子の姿がないことにようやく気がついた。
それとも、あれこそが夢だったのだろうか。
寝台から立ち上がったターナハースは、書机に引っ掛かるものを感じて近寄った。
昨日のまま、書きかけの書類が適当に置かれていたが、一番上の書類が違っている気がした。手に取って確認すれば、ところどころ、見知らぬ流麗な筆跡で添削がなされていた。
その犯人にすぐに思い当たって、ターナハースは顔を顰めた。どうやら、悪い夢、では済ませられないらしい。
「なんだったのかしら」
子供が人形を抱いて眠りたいのと同じに、王太子には女性を抱いて眠る癖でもあるのだろうか。添い寝の相手には事欠かないだろうが、性的な接触をなしに、ただ抱え込みたいのかもしれない。
(たまたま、お気に入りの人形にされてしまっただけなのかも)
そう思うと、無理があるのは重々分かってはいるものの、連れてこられた理由が見えたような気がして、わずかに浮上した。どんなことも、理由が分からないのは気持ちが悪い。
王太子にとって自分が性的魅力に欠けるとしても、安堵こそすれ衝撃を受けたりはしない。
だから、そういうことで勝手に納得しようとしていた。その時。
「失礼いたします。よろしいですか?」
エスターの声で入室の許可を求められたのに、最初に入ってきたのはエキドナだった。
王太子の翼棟に数多いる女官を統べる立場にいるらしいエキドナが、早朝から客に過ぎないターナハースの部屋にやってきたこと。さらに、立場上常に心のうちを隠して穏やかであるべき顔に、満面の笑みを浮かべていること。そしてエキドナとエスターの背後にまだまだ控えているらしい複数の女官の気配。
それらに、猛烈に嫌な予感がした。