76話 飢えた三万
風が吹いていた。
その風は豊かな大地を渡る。
黄金色の麦畑。
整備された街道。
巨大な倉庫群。
二万人を超える民。
食料充足率二五〇%。
かつて貧困村だった土地は、今や周辺国家が恐れる巨大都市へと成長していた。
その日の朝。
索敵本部に緊張が走った。
鳥人族のミシェルが空から降りてくる。
翼を畳むより早く報告した。
「北東より大軍」
会議室の空気が変わる。
「数は」
セリナが問う。
「三万」
静寂。
しかし誰も慌てなかった。
索敵部隊二千人。
遠隔透視。
念聴。
風探索。
光探索。
全てが稼働している。
この都市は奇襲を許さない。
ミシェルが続ける。
「ジョンウン王国軍です」
「ただし異常があります」
「異常?」
エレノア侯爵が眉をひそめた。
ミシェルは苦い顔をした。
「兵が痩せています」
「全員です」
「鎧が浮いている者までいます」
「歩く速度も遅い」
「食事を取れていません」
沈黙。
その場にいた者達は理解した。
ジョンウン王国。
風魔法放送による亡命勧告。
大量流出。
農民流出。
職人流出。
教師流出。
治療師流出。
国家は既に崩壊を始めていた。
トミーが呟く。
「兵士まで食えなくなったか」
誰も否定しなかった。
食料を作る人間が逃げれば国は飢える。
それは当然の結果だった。
会議室。
エミリー。
ロバート。
ソフィア。
カタリナ。
ガイル。
ティグリス。
マイケル。
エルナ。
主要人物が集まっていた。
中央には巨大な地図。
ジョンウン王国軍三万人。
都市防衛軍二千。
戦闘部隊二千。
数字だけ見れば敵が圧倒的。
しかし誰も負けると思っていない。
セリナが地図を見る。
「戦えば勝てます」
「問題はそこではありません」
エレノア侯爵が頷く。
「三万人を殺せば恨みが残る」
「三万人を救えば人材になる」
その言葉に皆が静かに考え込んだ。
ケルナインは会議の隅で黙って聞いている。
いつも通りだった。
指示は出さない。
判断するのは育った人材達。
エミリーが立ち上がった。
狼獣人の女戦士。
かつて村を守ることしかできなかった少女。
今は二万人の民を守る指揮官だった。
「私が行く」
全員が彼女を見る。
「投降勧告をする」
ソフィアが笑う。
「優しいな」
エミリーは首を振った。
「違う」
「食える人間を無駄に殺したくないだけ」
ロバートが笑う。
「立派になったな」
エミリーは少し照れた。
数時間後。
両軍は対峙した。
平原。
見渡す限りの兵。
ジョンウン王国軍三万人。
しかし。
誰が見ても異常だった。
痩せている。
頬がこけている。
目が死んでいる。
歩くだけで息が上がる。
兵士ではない。
飢えた民だった。
先頭に立つ将軍も顔色が悪い。
その前へ。
エミリーが進み出た。
後ろには二千人の戦闘部隊。
整然とした隊列。
鎧は輝き。
顔色は良い。
明らかに違った。
エミリーは風魔法を発動した。
風が声を運ぶ。
平原全体へ。
三万人全員へ。
「聞け」
声が響く。
兵士達が顔を上げる。
「私はエミリー」
「この都市の守備隊長だ」
静寂。
風だけが吹く。
エミリーは続けた。
「お前達は腹が減っている」
誰も否定できなかった。
「お前達は利用されている」
誰も否定できなかった。
「お前達は捨てられた」
誰も否定できなかった。
沈黙。
長い沈黙。
そしてエミリーは言った。
「投降しろ」
兵士達がざわつく。
「武器を捨てろ」
「食事を与える」
ざわつきが大きくなる。
「治療もする」
さらに大きくなる。
「働く場所もある」
誰かが唾を飲み込む。
「家もある」
兵士達の目が揺れた。
「学校もある」
「子供も学べる」
「飢えなくていい」
その瞬間だった。
一人の兵士が崩れ落ちた。
泣いていた。
「もう嫌だ……」
誰かが呟く。
「腹が減った……」
別の兵士が座り込む。
「三日食ってない……」
連鎖した。
一人。
二人。
十人。
百人。
千人。
武器が落ちる。
槍が落ちる。
剣が落ちる。
盾が落ちる。
音が響く。
将軍が叫ぶ。
「やめろ!」
兵士達は動かなかった。
「命令だ!」
誰も聞かない。
もう限界だった。
飢えは忠誠を超える。
その事実をジョンウン王国は理解していなかった。
最初に千人。
次に三千人。
そして五千人。
雪崩が起きる。
ロバートが呟く。
「止まらんな」
エレノア侯爵が目を閉じた。
「当然です」
「人は石ではありません」
「食べなければ生きられない」
エミリーは静かに立っていた。
威圧もしない。
脅しもしない。
ただ事実を告げただけ。
環境が人を育てる。
その言葉を誰より理解していた。
夕方。
投降者は一万人を超えていた。
平原には巨大な列ができる。
武器を捨てた兵士達。
皆やせ細っている。
食堂では大量のスープが準備される。
パンが焼かれる。
肉が煮込まれる。
農業革命の成果。
備蓄された食料。
二万人都市だからできることだった。
最初の一杯を受け取った兵士が泣いた。
二杯目で泣いた兵士もいる。
三杯食べても泣いている者もいる。
エルナは治療班を率いていた。
「大丈夫です」
「ゆっくり食べてください」
「もう急がなくていいです」
優しい声。
兵士達は顔を覆った。
誰もこんな扱いを受けたことがなかった。
敵なのに。
侵略者なのに。
なぜ食事をくれるのか。
なぜ治療してくれるのか。
答えは単純だった。
この都市は人材を捨てない。
それだけだった。
夜。
ジョンウン王国軍本陣。
残った兵は二万人。
しかし士気は崩壊していた。
誰も戦いたくない。
誰も死にたくない。
誰も飢えたくない。
将軍は震えていた。
理解してしまった。
敵は軍隊ではない。
都市でもない。
教育だった。
環境だった。
人材だった。
その頃。
都市の中央広場。
一万人の元兵士達が食事を取っていた。
笑顔が戻っている。
子供達もいる。
エルナはその光景を見ていた。
そして静かに呟く。
「また増えますね」
隣にいたマイケルが笑う。
「そうですね」
「人は希望がある場所へ集まります」
風が吹く。
風魔法放送は今日も続いていた。
ジョンウン王国へ。
自由はある。
学ぶ場所はある。
食べる場所はある。
その声は国境を越え続ける。
そして誰も気づいていなかった。
この日。
ジョンウン王国は軍事的敗北ではなく。
人材流出によって滅び始めていたことを。




