十八
私は大急ぎで自室へ駆上がり、抽斗に蔵って在る鋏を取出し、樋へ帰った。いまかと待構え、運命の手続を待ちあぐねる盲の目瞼は闢き、色彩の漲る世界を自由闊達に飛廻るのである。観念としてのみ存在するであろう因果は最も色濃いところへ高まって居た。
私は踞み、鋏を展いた。メスを握り、患部へ漸々接近ける医師のように、颯と畢ることだろうと思われた。鋭利く剪られた疵口からは、それを忘却て居たようにしか血が流れないのと同一で、胡蝶は微睡むように緩と翅を身動がせ、肉体を忘れた魂の如く飛翔することだろう。私はそう想った。
ところが、時に魂があらぬ方向へ対うように、この蛹もまた唐突な方向へ往った。と云うのも、それは剪れなかったのである。利手を違えたかのような薄い感触であった。怠惰い脂肪が極限まで意志を抜き、柔らかくなることで、この上なく硬質な、全く傷つくことのない存在と同じ力を獲得するように、蛹は些少も刃を押し返そうとはしなかった。粘土に呑れるように刃は沈込み、神経質な皺を何条か刻んだだけで在った。どれだけ点検しても抵抗いは確認されず、その度に蛹は膨れたり、萎んだりした。
私は裏切られたと想い、鰐に咥えられたように謐って居る蛹を抱擁え、一個の鉢の前へやってきた。昔日学校で小蕃茄を栽培した折に使用たものであるが、それ以降は物置の横で、見棄られたように熟と押黙っている。そこに溜った土塊へ蛹を下ろした。
私は鋏と云うものを肉体で握ったものだから拙かったと思い、魂で握るようにし、何度も蛹を突き刺した。
今度は巧くいった。
初は血のようにぴゅーっと噴出すかと思慮えて居たのだが、そんなことは全然なく、涎のように淡く濁った*玉虫色の液体が頽然と礼儀知らずに垂てくるだけであった。それは刺々した脱肛の如く、蛹と世界とは仮借なく結附いて居た。だが世界と出逢ったと云うのにそれは澱のようであり、魂の残滓のようでもあった。やがて蛹は*煤竹色の襤褸巾へ渝り、中身は土に攪拌され、溶かし込まれていった。
復讐を遂げたような快感と、茫乎とした虚脱感が濤と押寄せた。爾来、私は因果の立会人から当事者へなったことで、その糸を裁断ることで却って因果は連続る、そういうこともあるのだと云う意識が萌芽え、刃物に対する強い信頼感を持つようになった。
後から斯様について追求されることが厭だったので、すぐさま隠蔽工作を諮った。尤もそれは稚児らしく稚拙いもので、前栽から僅に土砂を拝借し、鉢の中へ匿した鋏に押蔽せると云うものであった。
皆一度こうした証拠湮滅を了ると、なんでもない事件にも宛然罪を犯したかのような罪悪感が湧いてくるのと同一で、私は終日訊問を待つ犯人のように恟々と緊張しながら過した。それはその次の日も、そのまた次の日も。
しかし、日毎に思い巡らせることも少くなり、今日と云う日まで永いことそれを忘れていた。
畢竟、あの事件は誰にも見附ることなかったのだ。
これが私の過去の汎である。
*玉虫色…玉虫の羽のように光線の具合で緑色や紫色に見えたりする染色または織色




