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美月の詩歌  作者: はるか
6/10

彼の行方、彼女の不在

 息が切れる。彼がそれを気持ち悪いと感じるのは、いったいいつ以来のことだったろうか。

 向坂詩歌は全力で逃げ出していた。それでも、いままでならふわふわついてきていたはずの彼女――久遠美月の姿はない。

 何を間違えたのかなんて、彼が理解するところの話ではない。しかし、なにかを間違えたことだけは疑いようがなかった。

 なにしろ彼女はきっと、どうしようもなく。絶望の中にいた。


   /


 彼女はひとり、立ち尽くす。

 彼はいない。そして私も。

 陰鬱はなにも、彼女一人のものじゃなかった。彼の亡い最初の夜を通り過ぎ、迫る夕闇のうちにも主だった人々は集い寄った。

 数はけして多くない。それでも彼に連なりを持つ人のほとんど全てだ。仮通夜は昨夜に済ませたけど、その面々と顔触れもそう変わるものではない。彼にしたところで私にしたところで、知り合いなんてそういるはずもないから。

 遺影を目にする彼らは一様に痛々しい。それでも彼らは分かち合う。


 彼女はひとり、立ち尽くす。

 彼はいない。そして私も。

 分かち合うものなどいるはずもない。

 いまになって、間違えたことが分かる。どうして私は、あんな――。

 彼女は寂しかったに違いない。彼を前に、彼女はいつもころころと笑って、楽しげで。だから気がついてあげられなかった。彼女の精一杯を。そのいまにも切れそうに張り詰めた、強がりを。

 あんなにも綺麗で、煌めくはずの彼女の瞳は――。

 いまはもう、あんなにも虚ろ。

 ――――っ。私は、私を、殺してやりたい。それがあの子の世界を殺す、犯すべからざる過ちだったことは分かるけど。


 彼女はひとり、立ち尽くす。

 彼はいない。そして私も。

 分かち合うものなどいるはずもない。彼女は私達に置き去りにされたのだから。



   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇



「――さい」

 これまでの夢とはどこか違った。

 彼女のいないためか、内容は虚ろな不鮮明。視せられる端から、滲む感情に映像が溶かされていくようなあまりにもはっきりとしないそれは、夢らしく今にも忘れてしまいそうになる。

 そんな夢でも、彼の胸には少しだけの安心が落ちていた。

(まだ、つながってる)

 そう思えた。久遠美月とまだ繋がっていると。

 確証などあるはずもない、儚いにも程がある希望だった。

(それでもオレは、夢を視た)

 向坂詩歌は一縷にすがり――逃避した。

「――きなさい」

 その声が希望を揺さぶって、容赦なく儚い夢から醒まさせることがなければ。

 詩歌はなにとはなしの怒りを覚えた。幼い子供そのままの短絡で。もう少しあの夢と繋がっていたかったのに、と。

 だが、彼がそんなことを考えていられたのもそこまでだった。

「起きろって言ってるのが、分からないの?」

 胸倉をつかまれて締め上げられる。苦しさよりも襟元が首に食い込んで引きつる皮膚の痛みに、うっすらとでも目を開けざるをえなくなった。

 詩歌を締め上げる細腕は、それでも親の留守がちである彼の生活を支えてくれる頼もしい腕だ。

「あね…き?」

 強襲者は彼の言うように間違いなく彼の姉だ。わけの分からない事態を前に、混乱に呑み込まれていく。

 それでも詩歌は考えていた。つい今しがたまで視ていた夢のことを。おかしな話だが見当違いなことだとは露ほどにも思えずに、この状況の中でそのことばかりを考えていた。

(……夢に出てきた、ひとりぼっちの女の子)

「――あれは、誰だったんだ?」

 首を傾げて、呆然と呟く。

 今日の夢に視たあまりに幼い彼女は、いままでの夢が追いかけていた少女とは明らかに異なる人物だったのだから。


 ――こいつはあの子に、何をした?

 問いかけは誰のもので、誰に対するものだったのか。根本のところを置き去りにしたままで、彼女はその答えを胸中で吐露していた。

(……置き去りに、したんだ。バカそのものの、あの日の私とおんなじにっ)

 怒りに震える腕から力を抜くことがなかなかできない。それでもこんなことをしている場合ではないことだけは確かだった。

 彼女は人差し指から順に一本ずつ、ゆっくりと。波うつように荒れる気持ちを無理矢理にでも落ち着けながら、強張りをほぐしていく。全ての指を首元から引き剥がす頃には、どうにか少しだけ気分を落ち着けることができていた。

 とっさの判断で首ではなく襟元を掴みあげたことは彼女にしては上等な判断であったようで、おかげで詩歌は絞め殺されずに済んだ。

「……あの子は何処? あんたは美月をどうしたの?」

「なん…で、あいつのこと――」

 呆けて間の抜けた顔と返事に、彼女の激情がぶり返す。

「そんなこと、どうでもいいでしょ?! 私はあの子がどうしてるのかを訊いて――」

 熱の籠もった血が全身を駆け巡っていた。あまりの勢いに、くらくらと視界が揺れる。

(――落ち着きなさい、私。無理なんて、通らないから無理って呼ばれるんだから)

 改めて自身を諫めて、一度だけ深く息を吐き出す。自分のものでもない身体の扱いに、途方もない戸惑いがついてまわっていた。

 そもそも。彼女がまるまる自分の意思で身体を動かすこと自体が久しくなかったことだ。本当に落ち着いたほうがいいには違いなかった。

「……どうしてあなたが、一人でいるのよ。あなたはどこに、彼女を独りにしてきたの?」

 絞り出した声は彼女が自分で想像していたものよりもずっと頼りない。

 なにも声の出し方まで忘れていたわけではない。ただ口にしたそれが、彼のことよりも彼女自身を抉る刃であったというだけだ。

「…………」

「…………」

 沈黙は痛いほどではなくても、やはり気の重いものだった。

 だから、詩歌のほうからそこに穴をあけてくれたことは、彼女にとっては恩恵だ。それでも正直に感謝する気にはなれないようではあったが。

「……なあ、ほんとうに。オレにはなにがなんだか、わかんなくて。いや、あんたがオレの姉貴じゃないことは――まあ、わかる。

 じゃあさ。あんたは誰だ? オレの姉貴に何をしたんだ?」

 問いかけは真摯で。そうであるなら彼女にも応える義務がある。

「私の名前は久遠静月――美月の姉よ」

 それがいまの彼女を語る、全てだった。



 その先が語られるには、詩歌の家では不似合いなのだろう。静月たちはいま、生前に美月の暮らしていた家へと向かっていた。

 静月の胸にはいまだ、美月のことを想うがゆえの焦燥がある。しかし、詩歌には事情を説明したほうがいいという理性もあった。妹のことを訊ねるためにもまずは自分たちのことを話そう、と。


「こんなふうに、美月の家に来ることになるとはなぁ。変な感じだよ、ほんと」

 ぼやいて久遠家の呼び鈴を鳴らそうとする詩歌を横目に、静月はドアノブへと手をやった。

「へ、なに? 鍵は?」

「この家に鍵が掛かってるところ、私は見たことない。それに。

 美月から聞いてない? この家には美月以外の人間なんていない。呼び鈴なんて押しても意味ないのよ」

 「そういえば」などとこぼす詩歌に呆れたのか、静月は彼を待つこともなくさっさと家の中へと入っていってしまった。

「わっと、待った待った。なにもドアまで閉めることは!

 ……ふぅ。なんか根拠もなしに、美月の姉貴だって信じられそうな気がしてきた」

「なに言ってるんだか」

「いやー。あ、でもな。独り暮らしの女子の家に鍵もかかってないっていうのは、ちょっとあれじゃないか?」

 静月は「そうなんだけどね」と困ったように眉をひそめた。

「あの子にとって、この家に盗まれて困るようなものなんてなかったから。

 私もずっと心配はしてたんだけどね。でも、いまさらこんな状態の私が出張っても不自然でしょうし。だから鍵のことは仕方なかったというか。

 ……でもそのおかげでこうして家には入れるんだから、何が役に立つかなんてわからないものよね」

 こんな状態――他人の身体に収まっている自分を複雑な面持ちでそう評して、リビングへと繋がる廊下を行く。その途中にある階段へと、彼女は迷うこともなく足をかけた。

「あー、美月の部屋って二階にあるのか」

「さっきから美月美月って。ちょっと馴れ馴れしいんだけど?」

「……うぅ、ごめんなさい」

 意識してのことではなかったのか、詩歌の面が必要以上に赤くなる。その様子に改めて呆れなおしたのか、静月もそれ以上は何を言うでもなく肩をすくめるにとどめた。半ば以上は目的地に辿りついたためでもあったが、とりあえずそこで足はとまった。

 階段を上がってすぐ。そこが美月の自室とする部屋だ。

 一人で暮らしていても几帳面に境界を設けようとするあたりに、静月は思い出したかのようにくすりと笑みをこぼす。妹の奇妙な可愛らしさが相変わらずであることに思い至り、そのことが彼女には妙に嬉しく思えていた。

「そこか? んじゃ、失礼して」

――――が、がちゃ。がちゃがちゃ

 そんな彼女の不意を突いた、というわけでもないのだろうが。静月を押しのけるようにして、詩歌が部屋のノブを忙しなく騒がせる。それでもドアは一向に開こうとはしない。まるで不埒な侵入者を拒むかのような頑なさだった。

「あれ? 鍵なんてついてないのに、どうなって――」

――――ごっ

 とりあえず、本気で殴った。少なくともそれを確信させる程度には、鉄拳制裁の鈍い音が廊下に反響していた。

 静月は痛むのであろう手をふりながらも、それをまったく意に介していないかのように平気な顔だ。あまつさえ詩歌のことをキツイ目で睨みつけてさえいた。

「キミはまず、デリカシーというものを理解する必要があります。呼び鈴は鳴らすくせに、どうして女の子の部屋にはズカズカ入り込もうとするの?!

 こんな状況だから本人の了解を取れとは言わないけど、親類を押しのけて勝手に入ろうとするなんて。せめて私に断ってからにしなさいよ、いい!?」

「……うぅ、ごめんなさい」

 痛みに悶える詩歌の謝罪に頷いて、溜飲は下げることにしたようだった。仕方なしといった風情で扉へと向き直る。

「……はぁ。このドアね、ちょっと立て付けが悪いの。開けるのにはコツがいるみたい。だからこそ美月も、この部屋を選んだんでしょうけど。

 家には頓着してなかったけど、自分の部屋っていう領域にはこだわりがあったのね」

 言いながら手前に引いてからドアノブをまわし、心もち持ち上げるようにして押し込む。静月にしても自身で行うのは初めてのことだが、どうやらあっさりとうまくいったようだった。

 扉は先程の頑なさが冗談ででもあったかのように、静月の手が離れても自分のほうからするすると開いていった。


 部屋に足を踏み入れて、静月は息をとめた。もう幾度となく見ているにも関わらず、罪悪感が胸で蠢く。部屋に入ってすぐ、どうしても目に入ってくる写真が――どうしようもなく彼女を苦しめていた。

「うわ。すごいな、これは。部屋んなか、写真だらけじゃん。

 あー……と、ん?」

 部屋のいたるところに貼り付けられた写真に圧倒されていた詩歌も、やがて一枚の写真に目を留める。ベッドの隣に置かれたデスク――そこに備え付けのボードには、たった一枚だけ写真が留めてあった。

 傷まないよう、素人に考えられる最大限の配慮が施されている。少し不揃いな余白を見てとればデジタルスキャナーでの複製であることが分かるし、にも関わらず丁寧に薄めのラミネート加工が施してある。そのうえ――静月にしか分からないことではあるが――もとのポラロイドはアルバムで大切に大切に保管されていた。

「この写真。美月と――あいつの弟だよな。

 ……よっぽど大事にしてるんだな、あいつ」

 さすがに見て分かるほど特別に大事にされている写真だ。詩歌も触れたりはせずに、ただ眺めるだけにとどめた。

 デリカシーのない彼のそこまでを確認して、静月は気づかれないように目を逸らした。その写真を、見ていられなくて。

「……ちがう。それは美月じゃないし、その男の子だって美月の弟なんかじゃない」

「はぁ? でも、これに写ってるのは間違いなく夢に――」

 静月はなにもかもが億劫で仕方がないとでもいうように、溜め息一つで彼の言葉を断ち切った。

(夢にでてきた、女の子。……まったく、少しは考えてくれればいいのに)

「どうして美月の見た光景の中に、あの子自身がでてくるのよ?

 あの子は鏡の中の世界でも覗いていたって、そういいたいわけ?」

「……え」

「あなたが視た夢。あれが美月の見せる過去だってことには、気がついてたんでしょ?

 それなら少しは考えてみてよ。あの子の思い出の景色の中に、自分自身が映ってると思う? そんなわけ、ないじゃない。自分で自分を見ることなんてできないんだから。

 あなたが覗いていたのは美月の思い出。美月が見ていたもの。それなら、そこにいたのは――」

「……あいつじゃ、なかったのか」

「そう、美月じゃない。あんたが視ていた女の子は、たぶん私で。そして、一緒にいた男の子は私の弟であり、美月の兄にあたる――久遠充、なんだと思う」

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 脳裏によぎるものは、在りし日の話。

 静月からようやく幼さが抜けて、彼女の弟からは幼さが抜けきらなかった頃。

 美月はどうしようもなく幼かった――そのことが理解できるほどには静月は大人でいられなくて、ただ子供でもなかったというだけの。

 彼女は毎日のように――いや、毎日、充の病室に通った。〝彼女たち〟ではなく、〝彼女〟が。美月はいつも静月の後をついてまわってはいたが、それだけだ。

 少なくとも当時の静月はそのように考えていた。病室に通うのは私だけで、妹はついてきているだけだ――そう思っていた。そんなわけがなかったのに。

 でも、だから。

 静月は弟のことばかりだった。病室では彼だけを見て、彼だけと話し、彼だけと接した。充に向かい合うばかりだった。

 だから充はそんな彼女だけを見て、彼女だけと話し、彼女だけと接した。静月と向かい合うばかりだった。

 彼らは病室の隅で居心地悪そうに――それでも姉や兄に必死で明るい笑みを向けていた、美月の存在に気がついていたというのに。彼女のそれが強がりだったことなんて、考えるまでもないことなのに。

 静月も充もただ目の前に突きつけられた命の儚さに、圧倒されるばかりだった。



 あの日、静月が弟に誓った幸福と悲哀のいっしょくた。彼女が履き違えたまま終えてしまった誓約の交わされた日に、彼女たちは何かを記念にしようと考えた。

 それがたった一枚きりの写真の馴れ初め。

 なにかずっと形に残る、なおかつ思い出の象徴になるもの。そう考えれば写真は実際のところ、具合のいいものには違いなかった。くわえて隣りの病室にはカメラを持ち込んでいる患者もいて、折り良くポラロイドのそれであったことが決め手だった。

 写した思い出がすぐにも手元に残るのなら、その瞬間の新鮮な気持ちまで吹き込まれるかのように思えたのだ。

 早速と借りてきたカメラに、しかしそこには問題が一つ。誰に写真を撮ってもらうのか。

 本当ならカメラの持ち主に頼めればよかったのだが、そのときはすぐにも検査があるということだった。終わってからならと言ってはくれたものの、この瞬間でなければ意味も薄れる。

 だからといって医師や看護師に、などとは静月の頭には片隅にすらなかった。病気の一つも治せない、あんな愚図な奴らに撮ってもらっても嬉しくない――それが彼女の思うところだ。

 それで。自然と静月の視線は、やはり所在なさげにしていた妹へと向けられた。

 それまでは少し俯き加減でぼんやりと窓の外を眺めていた美月が、静月の視線に気がつくや、ぱっと明るく笑ってみせた。

「え…と、どうかした?」

 静月はそれには答えないままで、すぐ傍らにいた弟と顔を見合わせた。カメラを手にして浮かべたその表情は、悪戯な笑み。

「充。写真撮りたいねぇ、一緒に」

 そのときに弟がなんと応えて、どのような顔をしていたのか。静月にはもう思い出すことができない。ただ戸惑う美月のことは、よく覚えている。

「ね。美月、お願いできる?」

 ひどいものだ、とは今なら思える。もしかしたら当時の静月にも罪悪感のひとかけらくらいならあったかもしれない。

 しかし当の美月はと言えば、その言葉にどんな意味を見出したのか。

「ぁ――うん!」

 それまでの笑みなど比べ物にならないほどの、とても魅力的で可愛らしい、満面の笑顔で。それはそれは嬉しそうに頷いてみせた。

 あんまりにも勢いよく首を振るものだから、細っこい首が折れやしなかったかと姉兄らが心配するくらいに。

 てててっと傍らまで駆けた美月は姉からカメラを受け取ると、また、とててっと部屋の隅まで駆けていく。

「ほら、笑って。しづき姉、みちる兄も!」

 その様子がおかしくて、くすりと笑った。静月も充も。

 しかし、すぐにでも写真を撮るのかと思えた美月は、頬を火照らせてぼーっとしている。

「んー、どうかした?」

「――――ぁ。ん、なんでもない。いま撮るから!」

 静月の声に、慌てたようにシャッターを切る。

 そんなふうだから。

 数分後に浮かび上がる静月たちは、お世辞にも上手く撮れたものではなかった。それでもそれは、とてもいい写真だ。少なくとも彼らにとっては、そうだった。

 だから、もう一度だけ撮らせてほしいとごねた妹に、

「これ、借り物だから。そんなに撮りたいなら、明日にでも家のカメラを持っておいで」

 なんて口にして、それきりになった。


 翌日、充が容態を急変させたから。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「なぁ、あいつ――美月が写ってる写真は?

 ちょっと気になることがあるから、確認したいんだけど」

 詩歌からの呼びかけに物思う思考を断ち切って、静月はいつのまにか伏してしまっていた目線を彼へと寄越した。見やれば詩歌は部屋中の写真を一枚一枚、丁寧に覗いているところだ。

「見たとこ、なさそうだよなぁ。あんたらのも一枚きりだし。

 そういや、一緒の写真の一枚くらいはあってもよさそうなもんだけど?」

 振り返る詩歌から、とっさにも目を逸らしてしまう。その程度には、後ろ暗いことをしてきた自覚が彼女にはあった。

「……ふーん。ま、いいけど。

 あー、いまさらだけどさ。あいつの弟――じゃなくて兄貴か。そいつが死んだのは分かるんだけどさ。あんたは? 死んでるのか??」

「……そうでもなきゃ、あなたのお姉さんに憑りついたりしない――というかできないし」

「む、やっぱりそういうことなのか。あとでちゃんと返せよ、姉貴の身体」

「あたりまえ。本当はこんなふうに身体を奪ったりなんてしたくなかったし。あなたがもう少し頼りになる奴だったら、そもそもこんなことしてないわよ。私も疲れるもの」

「はっきり言うね、さすがは姉妹。

 んで、結局はどういうことなわけだよ? 説明してくれ、せつめい」

――――ふ

 吐き出した息は、溜め息の一歩手前。いかにも気が重いようだった。

「……あなたが美月を好きになったのは、どうして?」

「……その話の切り口は、まじで如何なものか」

 慌てたふうもない詩歌に、いいかげん美月に遊ばれ慣れたのだと理解する。静月はその理解の上で笑うでもなしに、ただでさえ重たい空気をコールタールのように澱ませた。

「べつに関係ない話でもなかったんだけどね。

 私たち――私と充は、美月にとても酷いことをした。本当に、ひとひらの容赦もなく、とてもとても酷いことを。

 これは私たちの償いの話。もうだいぶ、予想外の展開になっちゃってるけど」

 ひたりと、詩歌の瞳を真正面から覗き込む。

「もういちど、訊くわ。

 ――あなたが、美月を好きになったのは、どうして?」

 戸惑う彼の瞳を、それでも黙って捉え続ける。やがて観念したのか。少しばかり考えるそぶりで、しかし彼はそれさえもすぐにやめて口を開いた。

「好きになるのに理由なんかないだろ。いつのまにかあいつのことを目で追うようになって、気がついたらあいつのことを気にかけるようになってた。

 美月の何が好きになったかなんて分からないけど、気がついたら好きになってた。たぶん、そんだけ」

「……そう。じゃ、償いの話。一応、最後まで黙って聞いててもらえると、助かる」

 それだけは前置いて。咎負う彼女は話さなければならないことを、順番に、精確に。しかし余分も蛇足もない簡潔さで。

 告白は懺悔のそれではなく、自らへの刑罰の類でもないのだから。



 充の死。静月の死。その後の話。

 正確には、彼も彼女もようやく自分が幽霊になったんだと理解できた、その後の話。

 彼らが妹の異変に気がついたのは、忸怩たることにも随分と経ってからのことだった。

 美月の様子が、どこかおかしい――その程度のことを理解するのに、いったいどれほどの時間をかけたことか。

 二人の子供を亡くした父母が精神的に不安定な状態に陥って、よく仲違いをするようになった。それが原因で美月を蔑ろにするようになった。二人が離婚して、そのどちらも美月の身元引き受けを拒絶した。

 そのことごとくが古臭く思えてしまうほど、彼らが美月の異変を察するために費やした時間は茫漠としたものだった。明確に認識障害の事実に行き着いた時点ともなると美月が高校に通いだして、ようやくといった具合。つまりは校則が非常に緩かった地元中学では許されていたカメラの携帯が、高校になって許されなくなった頃のこと。

 どこに進学するのか頓着せずに惰性で入学した美月は、その高校が風紀に異常に厳しいことを知らなかった。だから携帯許可を勝ち取るために、彼女は慌てて精神科医にかかることにしたのだ。

 情けない話。それまで、彼らは気がついてあげられなかった。だから、よけいに。

 静月たちは慌てに慌てた。もともと美月が独りになったのも静月のせいだというのに、彼女の愚かな振る舞いが、美月をそんなふうにしてしまっていた。

 美月が両親につらく当たられるようになったのも、身寄りを失くしてしまったのも、他の誰に打ち解けることができなくなったのも――美月から笑顔を、きらきらとした瞳の輝きを奪ってしまったのも。

 すべてが、静月たちの、せいだった。

 少なくとも静月と充はそうと認識していたし、彼らの過ちに起因する悲劇であったこともまた事実だった。

 静月たちは美月に不幸を押しつけた――いやそんなものでは済まされない。なにしろ静月は、幼かった妹から、世界そのものを取り上げてしまったのだから。

 だから探した。せめて、ひとかけらでもいい。彼女を祝福する何か。幸福を感じさせてあげられる何か。

 美月の背負うものを、いまさら取り払うことなどできるわけがない。それでも幸福のひとひらくらいなら見つけてあげられるに違いない。――絶対に、見つける。

 罪の意識にまみれた、たんなる贖罪なのかもしれない。しかし、美月にとってもきっと必要なことに違いない。

 そうした強迫観念ともとれる焦燥のなか、静月たちが目をつけたのが、向坂詩歌。



「――つまり、あなたのことよ」

 そうやって、締めくくる。静月は詩歌が理解できるまで、ゆっくりと待つつもりではあった。しかし、彼はと言えば相変わらずの怪訝な顔をしたままで。

 いい加減に――などと口にするほどの時間の流れはなかったが、とにかく焦れたのか、ひとつ深く息を吸って、

「充。でてきなさい。たぶん、そっちのほうが早い」

 彼――向坂詩歌の目を真正面から見据えて、呼びかけた。

 いくらも時を置くことはない。彼はすぐにも応えてみせた。

「うん。でもこれ、ややこしくならないかな?」

「へいきへいき。面倒なのよりは、ややこしいほうが楽だろうし」

 困惑に、混乱が折り被さって――パニックの一歩手前。静月はそんな詩歌の顔を見ながら、応える。そして、その声に応えるのもやはり。

「どちらもおなじな気がするんだけど――」

 向坂詩歌の口から飛び出す声だった。

「――姉さんがいうなら、仕方ないね」

 言うのが早いか、詩歌の身体がブレて見えてくる。定まらないのも一瞬で、それはすぐにももう一人の人影として存在した。

「や、ひさしぶり。こうして会うのは、もう何ヶ月ぶりだろうね、姉さん」

 ふわふわと頼りない、実に幽霊らしい久遠充の登場だった。


「……なぁ、おい。これはどういうことだよ」

 静月としては早いと思えばこそ、わざわざ弟の登場をすら促したのであろうが。むしろたっぷりと時間をかけて放たれた言葉は、それでもただの問いかけだった。もしくは、ただ認めたくないだけなのか。

 どちらにしろ、静月にとって面倒であることには違いなかった。

(……なるほど。充の言うとおりだ。結局、かかる手間は変わらないのか)

 などと不埒にも考えていた彼女はそこで、「だから言ったのに」としたり顔の弟を目に留めてしまった。だから。

「充、説明しなさい」

「――ぇ、ぼくが?!

 あぁ、もう分かったよ。そうだね、そうすれば姉さんに掛かる手間は減るもんね?」

 諦めを伴うぼやきに、静月は鷹揚に頷いてみせる。……いまともなれば、彼女と弟との関係も随分と変わった。死の頸木から外れてしまえば、彼らとてこれほどに自然でいられるのに。

 だがそれは終わったことだ。そうした感傷を置き去りに、静月は充の語る言葉に耳を傾けた。

「うん、なんていうかさ。

 妹に霊感がないなんてことは、これまでに横たわってた時間で十分に分かってたから」

(……ほんとうに。あの子に霊媒師も裸足で逃げ出すくらいの強い霊感があれば、話は簡単だったのに。まあ、そんなのがほいほいいたら、本職の人たちが大変なんだろうけど)

「すでに死んでいるぼくらがどうこう――なんてわけにもいかなくてさ。やっぱり生きてる美月には生きてる人間が必要かなと。ぼくと姉さんで話し合った。

 でもさ。美月には積極的に関わってくれる人が必要なのに、そんな人はいなくて。そもそもただ見てるだけなら、ぼくらのそれは償いでもなんでもなくて、ただの出歯亀だよね?

 状況が他者の介入を求めるもので、ぼくらには介入するだけの動機があった。妹のためになにかをしてあげたい――そういう強い気持ちがあったんだ」

 あまりにも遅すぎた。それでも彼らは確かに、妹のことを想っている。遅すぎて強すぎて――だからこそ他のことなど、彼らにとってはどうでもよくなっていた。

「探したよ。妹のそばにいて、ぼくらが干渉しうる人間――つまりはキミみたいな人を。

 それでぼくらはキミに興味を持った。もしかしたらって具合にね。それからちょっとキミにつきまとってみたら、いろいろと都合がいいことが分かってさ。

 例えば、お姉さんがいることだとか。その人が霊媒体質だとか。他にもいろいろ」

 そう告げた充は、ついっと詩歌の視線を静月のほうへと促した。なにとはなしの笑顔で応じた彼女は、とりあえずといったふうで手を振っている。

「だから! んなことは訊いてねぇ、なんでおまえがオレのなかにいたかってことで――」

 自身にも抑えきれない〝なにか〟に煽られているのに、得体のしれないそれは当り前のように捉えどころがない。続く言葉はすぐにも損なわれた。

(ほんとうに、人の話を聞かない子だ。でもまあ、こうなることは分かってたのかな)

 思う裏で、しばらくは詩歌の息継ぎの回数を数えるでもなしに数えていると、荒い息を吐くだけになった。いつのまにかそちらを数えてしまっていたので、意味などあるはずもないその行為は意味もないままに終えられた。

「落ち着いたかな、少年」

 静月の落ち着いた声を迎えたのは、ひどく憔悴した詩歌の瞳。

「……オレはどうして、あいつを好きになったんだ?」

「それは最初に、私が訊いた。理由なんかないのよね?

 ――かわいそうに。せめてなにか、確かな理由が、あればよかったのにね」

「うるさいッ!!」

 黙ってくれよ、と掠れた彼の息はかろうじて静月にまで届いていた。望まれて、詩歌を傷つけるつもりのない彼女としては素直に応じるだけだ。見込み違いは静月たちの責任で、衝動的な怒りは通り過ぎてしまってただの苛立ちでしかなくなった。これ以上は、ただのやつあたりにしかならない。

(話すことも――まあ概ねは話したし、いいかげんに話を戻す頃合いなのかもしれない)

 ひとりごちる胸中に褪めたものを抱えていることを自覚したままで、それでも彼女はこれだけは告げておく。

「――じゃあ、これだけ教えなさい。

 あなたは、私の妹をどうしたの?」

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