彼の空想、彼女の夢想
2
硬い靴音が響く――いつもなら。だが、その日に限っては日常など意識するべくもない。
氾濫する靴音は喰らいあい、混ざりあう。無音であることにすら等しい雑音の中では、響くことなどありえない。
「…………」
だから、少女のそれは確信だ。予感だなどと生ぬるいことを思う余裕などない。
少女は駆ける。ただそれだけ。白の床を踏み抜くかのような激しさも、彼らの慌しさには届かない。
見慣れた部屋――あまりの繰り返しについぞ見慣れてしまうほどに通いつめた病室からは、白の人々が入っては出て、出ては入る。
それら医師や看護師の様子を見れば、中で何が起きているのかは容易に想像がついただろう。
部屋を覗く勇気すら失くした少女は、次第に駆ける速度を衰えさせる。ついには脚が止まってしまうほどに。
手が届くほどの距離にある、開け放たれたままの扉。
少女にとり、その距離が如何ほどであったことだろうか。
――――トン
不意に背を押したそれがほんのひとときで、少女の永遠を瞬く間にゼロにしてしまったのだとしても。
偶然。慌てる看護師が、彼女の背に触れる程度にぶつかってしまったのだとして。そこにどれだけの罪があろうか。そんなものありはしない。――ただ、残酷であるだけ。
病室の少年。ぐったりと意識のないその様子を見て、少女はただ一言。
「……ごめんね」
たった一言だけ、そう告げた。
その日の遅くまで掛かりきりになって、病院の医師たちに出来たことといえば。
今日、明日が。
少年の命日になるだろうという不吉を語ることだけだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……そうか。だから――」
だからなんだというのか、この男は。昨日今日だけで、このありよう。
日頃からこの調子なのだと私に確信させるには、十二分に過ぎるというものだろう。
「――おまえ」
――――ずだんッ
「ほんとに。なにしてんの、あんた」
泣き顔のまま抱きついてきて――実体などないから当たり前にすり抜けたわけだが――ベッドから転がり落ちた間抜けには、私とて冷たい視線でもって応えざるを得まい。
しかし、そんなものは何処吹く風か。アイツはとんでもない勢いで起き上がると、
「よしっ、きめたぁ!」
――――びくぅッ
……いや、それは驚きもするだろう。これは不覚でもなんでもない、とは思うのだが。認めてしまえば、悔しいような悔しくないような。
「ちょっとぉー?! いまのなにっ?
朝っぱらから近所迷惑でしょーがっ!!」
部屋の外からはアレの姉が呼ばわっている。その調子できちんと躾けてやってほしい。それがコイツのためというものだ。
「ああ、ごめん。あとそれから、オレしばらくは学校行かないから」
……あー、と。
「「はぁッ?!」」
いや、正気か? 正気なのか??
「ちょっとなにいって――もう、入るからねっ!!」
断るうちにも、もう扉を開け放って入ってしまっている。まあ、だからといって咎める気がカケラも起こらなかったのは、言うまでもないことだが。
「やることできた」
そんなもので通れば、ものごとにいちいち道理やら筋やらをつけてやる必要もないわけで――
「……それ、大切なことなの?」
……まてまてまてまて。それはなんというか、この流れはなんというか。
「やばいでしょまずいでしょありえないでしょー!?
あなたはそれでいいの? ほんとにいいの?? 弟がなんか大変なことを口走ってるんだってこと分かってるのーっ?!」
よくない熱に浮かされた頭で、自分がみっともないことになってることだけは意識できている。それでも、この狂奔は収められそうにない。
いやだって。ありえないし、じっさい。
再びの抗議のために深く息を吸い込もうとして、
「――――」
冷水を引っかぶらされたように、頭の芯から冷えていた。
本当に、ふとした瞬間だった。
お姉さんの瞳が、まっすぐに、私を捉えている。
私は息を吐き出すことも忘れて、それどころか動くことも出来ない。
アイツの目を覗き込んでいたはずの真摯な瞳が、不意に私のほうへと。それで。
私の世界が、彩りを取り戻した。
だが、そこまでだ。お姉さんはなんでもなかったかのように、再び、アイツへと視線を戻す。
ただ、少し考えることがあったから。それでアイツから視線を逸らして、それがたまたま私を捉えているかのように感じられたのだろうか。いや、でも。
「――はぁ。わかった、好きにしな。
あんたはそういう子だしね。昔っからさ」
優しく、まるごと包み込むような笑み。それはアイツへと向けられたものだ。
――あの感覚はやっぱり、ただの気のせいだったのだろう。
そのことが、
(安心したような。でも、それ以上に――)
どうしよう、とめられない。アイツが驚いたような、焦ったような顔でこっちを見ているのも分かってる。それでも。
どうしても、頬を伝う涙がとめられない。
(――苦しいよぅ。胸がイタくて、イタくて……)
ぽろぽろと、子供のように泣き続けることしかできない。いや、あの優しい感覚が――その唐突な空虚の再来が――私を、まるきり子供の頃へと巻き戻してしまったのかもしれない。
「??? あ、うー? えーと、じゃ、そういうことだから。
ほら、早く部屋から出てくれ。着替えとかあるし!」
「なにをいまさらそんなもの。気にすることでも――って、分かったから! 押さないでったら!!」
――――ばたんっ
扉が閉まる。まだ泣き止むことも出来ずにいたが、それでも言わなければならないことくらいわかる。
「ありがと。それから、ごめん」
いろいろと気遣ってくれて。急に変なとこ見せて。
「いや、いいけど。……でもどうしたんだ――てのは訊かないほうがいいか?」
私はそれに、ただ沈黙をもって応える。いまは、その程度にしか余裕がなかったから。
ほんとに。どうしたことだろう。
幽霊になってから心が、感情が、揺さぶられてばかりだ。この私が。
さすがにもう、おもしろいなどとはいえたものではなかったけれど。
「ちっとは落ち着いたか?」
「べつに。最初から取り乱したりしてない」
とはさすがに。自分でもありえない言い訳だなとは思う。
……案の定、笑われた。あんなのに。
「む、そこはさらっと流すところでしょ? 男なら。……まあ、アンタに男を期待するのも酷な話かもしれないけど。
それで? なんで急にあんな話になったんだっけ」
無理矢理に過ぎる話題転換だったかな、とは思わないでもない。しかし、他にいいやり方を思いつかないのだから仕方あるまい。
それでも、話題についてこれない奴のフォローくらいは、してやらなければいけないのだろうが。というより。それをしてやらないと話題を転換したことにならないのだし。
「だから、なんで急に学校に行かないなんて言い出したのかってこと」
「おーおー。そういえば、まだ説明してなかったような気もする。
あー、と。だからつまりな」
……何をいきなり照れているのか、この男は。きしょくわるい。
「ぐっ。あいかわらず、失敬な。オレにだって言いにくいことの一つや二つくらいあるんだっつの」
一つや二つでもあるまいに。
「――るっさいわ。とにかく。お前にオレのことを好きになってもらおうかと。
平たく言うと、惚れさせてやる?」
平たくなど言わんでよろしい。いきなり何を言っているのかコイツは。
「いやさ。お前が幽霊なのはオレの未練のせいなんだろ?
だったら、すっぱりとオレの未練を解消してやればいいんじゃないかと」
「すっぱりと断ち切る気はないわけ、その未練」
そういうあたりがなんというか――女々しいったら。
「どっちかっつったら! むしろ男らしいだろが。
なんつーか、諦めない姿勢? そういう感じの」
……コレに惚れろと?
「そういうのは将来への夢とかだから男らしいのであって。未練がどうので諦めきれないのは、変質的だと思う」
おそらくは重要なことだから、口に出して伝えてみた。
「いいから。いいかげん気にしねー。
よし、とりあえずデートだ。お互いの――主に俺への理解を深めてもらおう。ほれ、いくぞ!!」
伝わらないだろうことは、いいかげん予測できたものである。というか何処に行くつもりなのか。いやそれ以前に。
「……いいけど。さっさと着替えたら」
「あ――うん」
…………これである。
「なー」
「んー?」
気の抜けた呼びかけだったものだから、取り敢えず気を抜いたままで応えてみる。どうせたいしたことでもあるまい。
「くっ、否定できないあたりがキツイなぁ。キツイよ、うん」
うっとうしい。
「いいから、なに?」
「んー、幽霊とのデートってどうすりゃいいんだろ?」
いままで何処に向かって歩いていたのかと問いたい。
「いや、とりあえずぶらぶらと」
頭が、頭が痛い。これはもう気のせいではないかもしれない。
「映画とか?」
それでアンタの何を理解しろと言うのか。
「……遊園地?」
人の多いところは遠慮したい。
「…………ショッピング?」
だから。
「じゃーどうしろと」
なんともそういう浮いた話に浅薄な男なんだということは、とりあえず分かった。私も人のことは言えたものではないが。
「もうやめようか?」
「絶対にイヤだ」
私とてそれは溜め息もでる。ノープランでここまでの強気を維持できるのは、稀有な才能ではなかろうか。
「んー、写真展とかは? それなら近場でいいところを知ってるけど……」
……はたして、こんなのと一緒に行って楽しいものだろうか?
「むー、それは映画とどう違うのかと」
「相互理解――序章」
お互いを理解する――というのならコイツばかりでなく、私に対しての理解も必要だろう。その点を踏まえれば、写真展というチョイスはあながち見当はずれでもない。
「あー、じゃあそこで」
私にも経験がないからよくわからないのだが――これは本当にデートなんだろうか?
先週から、市の美術館では現代美術展示フェアと銘打たれたイベントが始まっている。これより深まる秋へと向けて、ながらく企画してきたものを披露目るのだそうだ。
今秋いっぱいは続くフェアの先駆けとして選ばれたのが、
「えーと、〝躍動、その鼓動~人を生きる感情~〟?」
――というわけだ。もちろん最初に言ってあったように写真展のことであり、そのタイトルというかテーマというか。
「ここまでついてきといて、いまさらなんだが。おまえって写真すきなの?」
「ん、ちょっとね。むかしからけっこう好きだよ。
気づかなかった? 教室でも興が乗れば、パシャパシャとやってたんだけど」
そう立派でもない、安物のデジカメだが。認識障害の補足をつけてやったので、学校側にカメラの持ち込みと撮影を認めさせることも難しくはなかった。
「いや、えー……。ぜんっぜん、きづかなかった」
…………べつに、かまわないが。つまるところ、被写体に意識させない自然な写真が撮れていたということだ。かまわないとも、まったく。
「…………」
「なによ、その目は?」
そこはかとなく不快であることこの上ない。
「べっつにー。ほら、行こうぜ」
――なんだろう、かなり屈辱的だ。
館内は光を積極的に取り込めるように設計したとかで、巧妙に吹き抜けやらガラス窓やらを配してあるここは、たいしてきつい照明でもないのに馴染むまでは目が眩む。美術館そのものを一種の芸術作品として見立てたかったそうだが、これに成功しているかどうかは賛否の分かれるところか。少なくとも利用上では利点より欠点が先に目立ちそうだ。
だがそれも、ロビーなど入ってすぐの表層的な部分の話。美術館の本文を全うするため、展示品を傷めない配慮は当たり前のようにされている。
現にいまも展示スペースに入ってしまえば、室内は薄暗い照明でぼんやりと照らし出されるにとどまっているわけであるし。
適切に温度・湿度が管理されたそこは、人肌には少しばかり冷えが利いている。もちろん鑑賞する人間のことも考慮に入れてあるので不快を感じるほどではないし――そもそもいまの私には、温度を感じる人肌のほうが存在していない。
むしろもっとやれ――とは、隣りにコイツがいるからこそ思うことだが。
「…………おい」
「んー、なんでもないよ? 気にしない気にしない」
断じて意趣返しの類ではない。私が思うに、この程度のことはいつでも考えているのではないだろうか。
「なお悪いわッ!」
ここは美術館なのであるからして――、
「――ひっ」
――お静かに。ああして警備員のおじさんが、怖い顔をしていることでもあるし。
「お、おお、おま――きったねぇぞ。怒られんの、オレだけなんだぞ?!」
おーおー。どうやら身にしみたようだ。珍しく学習している。反駁する声も、存外に小さい。
「いいから。ほら、せっかくだから、ちゃんと写真みよ? そのために来たんだしさ」
いいながら目は既にそちらを向いている。じつのところ、先ほどから展示品が気になって仕方がなかった。コレの相手をするよりも、よほど有益だろう。
「……おまえ、外でたら覚えてろよ」
ひととおりの恨み節を堪能し、ようやくと私達は落ち着いて写真に向き合った。
ここには公園を駆ける、男の子がいる。
あちらには涙に濡れた瞳で微笑む、老人がいる。
そこには我が子を抱いて翳る、父親がいる。
こちらには母を見上げて首を傾げる、幼子がいる。
あそこには臥して顔を歪める、少女がいる。
そこかしこの暗がりでは、ぼんやりとした灯りが照らしだす――数多の人のカタチがあった。
「――――っ」
比喩でもなしに息を呑む。それぞれの躍動に。
私なんかが部屋に飾り立てている残滓とは比べ物にならない本物が、そこにはあった。
「……へぇ。写真なんてまじまじと見るのはこれが初めてだけど。
けっこー、すごいのな」
いま目の前にするこれも、きっとどうということもない一瞬だったのだろう。
窓辺に腰掛けて景色を望む女の人が、差し込む光に微かに目を眇める――それだけの。
「……ん、なんていうか――まぶしい。どきどきするね」
いかばかりかの時間を費やしてようやく口にできた言葉は、あまりにたどたどしくて。少しだけ恥ずかしい。
「そうか? よくわかんねぇけど――うん、よくわかる」
それこそよく分からなかったが。まあ、うん。
分かるかもしれない。
「おまえが好きになるのもわかるな、あれなら」
ところは美術館のなかに付随する食事処、軽食屋、休憩所……。まあ、なんでもいい。
「いやー、喫茶店とかカフェテリアとか。そっちだろ、ここ」
また、どうでもいいことを。聞き流すこととしておこう。
「私の場合は写真がいいものだとかじゃなくて、必要に迫られたってとこからはいったんだけどね」
「また、ぞんざいだなぁ。……いいけど。
――で。必要ってなんで?」
「わからない?」
……まったく。べつにコイツになにか期待するわけではないが、人の話とか聞いてないんだろうか?
いまからこいつの将来が心配である。
「むぅ。あからさまにバカにされてるぞ、おい」
「……ヒント1。私の認識障害」
「…………わるい。考えなしだった」
まあ、実際のところは関係ないわけだが。
「おいっ!?」
「そのくらいは最初に思いつかなきゃでしょ。じゃないと、これからさきの社会でやってけないよ?」
「いきなり進路相談に?!
――で。必要ってなんで?」
そこまではコイツに話してやる義理はない。プライバシー。
「あれ、相互理解の序章は?!」
なんでもかんでも知っていればいい、というものではない。そんなものは理解でもなんでもないのだ、お子様め。
「むぅ。あからさまにバカにされてるぞ、おい」
バカにするもなにも。一般常識を悟ってほしいというのは、コイツには過ぎた願いだったのか。
「あーあー、もういい。ったく。女に口では勝てないってのは至言だな。
オレはこの齢にしてついに理解した、昔の人はいいことを言いましたっ」
アンタの場合は口で勝てないとかの次元ではないと思うのは、私だけでもないはず。
「だから! いいっつったろ!?
……んーで、このあとはどうする?」
どうするもなにも。あとは帰るだけだ。あー、いや帰るのはアイツであって、私ではないが。
「なにを言っていやがりますか。おんなじことだっつの。それより。
このあと、どうせ暇だし。遅くなっても姉貴がいるわけでなし。いたところで帰りが遅いオレを心配するような姉でもなし。
……すこしブラブラしてから帰らねぇ?」
「……見てのとおり、身体なんかないよ?」
「ん?」
「ホテルでしっぽりなんて、物理的に無理なのです」
精神的にも甚だ無理であること請け合いだが。
……お、絶望的に顔が赤くなってる。
「だ、だだ、だれ、だれが――」
落ち着け、馬鹿者め。周りの人が不審者を見る目だ。
「…………」
何度も、それはそれは深い深呼吸を繰り返す。それこそ時間が差し迫っているわけでもないので、のんびりと待つ。
少しして、アイツはようやく落ち着いたようだった。
「だれが、んなこと、考えるかっ。
ただ。もうすこしブラブラ歩いて、どうでもいいこと話したかっただけだ」
「さっきは私のこと、うるさがったくせに」
「だから。オレは、いい――つったの。
そういうのが、いいんだよ。よくわかんないけど」
「……はずかしいことを」
ふむ。だがまあ、わるくはないか。
確か私達が美術館を後にしたのは、太陽も緋色に染まる前のことだったと思うが――アイツの家に帰り着いたのはとうに日も暮れて、月が中天に差し掛かる頃のことだった。