『ヒューム管の向こうに、舞台があった(短編一話完結)』
公園の階段の途中にあるヒューム管。
その奥で、少女は“未来の舞台”に立つ。
バイオリンを学ぶ十六歳の美咲は、
不思議な体験を通して、
初めて「本番」を知る——。
少し不思議な青春短編。
その日、美咲は初めて——舞台に立った。
ただし、それは公園のヒューム管の中だった。
美咲は十六歳。バイオリンを習っている。
レッスンを終え、いつもの帰り道を歩く。住宅街を抜けると、緑ヶ丘公園の前に出る。夕方の光がやわらかく差し込み、遊具の影が長く伸びていた。
公園の駐輪場の横に、五十段ほどの階段がある。
毎日のように目にしていながら、美咲は一度も登ったことがなかった。
——今日は、なぜか気になった。
ケースに入った大切なバイオリンを抱えたまま、美咲はゆっくりと階段を上り始めた。
十段ほどで、小さな踊り場に出る。
その右側に、コンクリートの円い口があった。人がかがめば入れそうな大きさのヒューム管だ。
中を覗くと、ひんやりとした空気が流れてくる。
その奥、はるか先に——小さな、丸い光が見えた。
(どうしてだろう。あの場所に、立ってみたい)
自分でも理由はわからない。
だが、その思いは、はっきりと胸にあった。
美咲は身をかがめ、ヒューム管の中へ足を踏み入れた。
外の音は遠ざかり、足音だけが静かに響く。
一歩、また一歩と進むたびに、世界が切り離されていくようだった。
十五メートルほど進んだだろうか。
天井に小さな穴があり、そこから一筋の光が差し込んでいた。
その下に立った瞬間——
視界が、白く弾けた。
気がつくと、美咲は舞台の中央に立っていた。
眩しい照明。
客席のざわめき。
何百という視線が、自分に向けられている。
「——十八番、立花美咲さん」
司会者の声が、はっきりと響いた。
「演奏曲目をどうぞ」
美咲は一瞬、言葉を失った。
だが、胸の奥から自然に声が出た。
「クライスラー——前奏曲とアレグロ、です」
「バイオリンは、まだケースの中のようですね」
その一言で、我に返る。
美咲は慌ててケースを開き、楽器を取り出した。
指が、わずかに震えている。
(失敗したらどうしよう——)
その考えが、指先にまとわりつく。
だが、逃げる場所はない。
弓を構える。
深く息を吸う。
「……失礼しました。演奏します」
最初の一音が、空気を震わせた。
音は、思っていたよりもよく響いた。
ホールの空間が、音を受け止め、やさしく返してくる。
速くなりすぎないように。
重音を丁寧に。
流れを崩さないように。
やがて、余計な思考が消えていく。
ただ音だけが、そこに残った。
——弾き終えたとき、世界は静まり返っていた。
一拍の間のあと、拍手が沸き起こる。
審査員の一人が口を開いた。
「重音の安定と、スピード感が見事でした」
美咲は舞台袖へと下がり、結果発表を待った。
鼓動が速い。
だが、不思議と落ち着いている。
やがて、名前が呼ばれた。
——五位。
悔しさよりも、達成感が胸に広がった。
美咲は思わず手を振り、客席の声援に応えた。
その瞬間——
世界が、ふっと揺らいだ。
気がつくと、美咲は再びヒューム管の中に立っていた。
さっきと同じ場所。
差し込む光も、変わらない。
だが、胸の奥には、確かな余韻が残っていた。
——あれは、夢だったのだろうか。
一週間後。
バイオリン教室で、鈴木先生がふと顔を上げた。
「美咲さん、今日はずいぶん余裕がありますね。いい演奏です」
その言葉に、美咲は小さく息をついた。
あのとき感じた緊張。
あの舞台の空気。
それが、今も身体の中に残っている。
美咲は静かに弓を構えた。
次に立つときは——本当の舞台で。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は「本番を経験したことがない不安」をテーマに書きました。
もし少しでも感じるものがあれば、応援いただけると嬉しいです。
短編ですが、同じ世界観で続編も考えています。




