表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

『ヒューム管の向こうに、舞台があった(短編一話完結)』

公園の階段の途中にあるヒューム管。

その奥で、少女は“未来の舞台”に立つ。

バイオリンを学ぶ十六歳の美咲は、

不思議な体験を通して、

初めて「本番」を知る——。

少し不思議な青春短編。


その日、美咲は初めて——舞台に立った。

ただし、それは公園のヒューム管の中だった。

美咲は十六歳。バイオリンを習っている。

レッスンを終え、いつもの帰り道を歩く。住宅街を抜けると、緑ヶ丘公園の前に出る。夕方の光がやわらかく差し込み、遊具の影が長く伸びていた。

公園の駐輪場の横に、五十段ほどの階段がある。

毎日のように目にしていながら、美咲は一度も登ったことがなかった。

——今日は、なぜか気になった。

ケースに入った大切なバイオリンを抱えたまま、美咲はゆっくりと階段を上り始めた。

十段ほどで、小さな踊り場に出る。

その右側に、コンクリートの円い口があった。人がかがめば入れそうな大きさのヒューム管だ。

中を覗くと、ひんやりとした空気が流れてくる。

その奥、はるか先に——小さな、丸い光が見えた。

(どうしてだろう。あの場所に、立ってみたい)

自分でも理由はわからない。

だが、その思いは、はっきりと胸にあった。

美咲は身をかがめ、ヒューム管の中へ足を踏み入れた。

外の音は遠ざかり、足音だけが静かに響く。

一歩、また一歩と進むたびに、世界が切り離されていくようだった。

十五メートルほど進んだだろうか。

天井に小さな穴があり、そこから一筋の光が差し込んでいた。

その下に立った瞬間——

視界が、白く弾けた。

気がつくと、美咲は舞台の中央に立っていた。

眩しい照明。

客席のざわめき。

何百という視線が、自分に向けられている。

「——十八番、立花美咲さん」

司会者の声が、はっきりと響いた。

「演奏曲目をどうぞ」

美咲は一瞬、言葉を失った。

だが、胸の奥から自然に声が出た。

「クライスラー——前奏曲とアレグロ、です」

「バイオリンは、まだケースの中のようですね」

その一言で、我に返る。

美咲は慌ててケースを開き、楽器を取り出した。

指が、わずかに震えている。

(失敗したらどうしよう——)

その考えが、指先にまとわりつく。

だが、逃げる場所はない。

弓を構える。

深く息を吸う。

「……失礼しました。演奏します」

最初の一音が、空気を震わせた。

音は、思っていたよりもよく響いた。

ホールの空間が、音を受け止め、やさしく返してくる。

速くなりすぎないように。

重音を丁寧に。

流れを崩さないように。

やがて、余計な思考が消えていく。

ただ音だけが、そこに残った。

——弾き終えたとき、世界は静まり返っていた。

一拍の間のあと、拍手が沸き起こる。

審査員の一人が口を開いた。

「重音の安定と、スピード感が見事でした」

美咲は舞台袖へと下がり、結果発表を待った。

鼓動が速い。

だが、不思議と落ち着いている。

やがて、名前が呼ばれた。

——五位。

悔しさよりも、達成感が胸に広がった。

美咲は思わず手を振り、客席の声援に応えた。

その瞬間——

世界が、ふっと揺らいだ。

気がつくと、美咲は再びヒューム管の中に立っていた。

さっきと同じ場所。

差し込む光も、変わらない。

だが、胸の奥には、確かな余韻が残っていた。

——あれは、夢だったのだろうか。

一週間後。

バイオリン教室で、鈴木先生がふと顔を上げた。

「美咲さん、今日はずいぶん余裕がありますね。いい演奏です」

その言葉に、美咲は小さく息をついた。

あのとき感じた緊張。

あの舞台の空気。

それが、今も身体の中に残っている。

美咲は静かに弓を構えた。

次に立つときは——本当の舞台で。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

この物語は「本番を経験したことがない不安」をテーマに書きました。

もし少しでも感じるものがあれば、応援いただけると嬉しいです。

短編ですが、同じ世界観で続編も考えています。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ