20話 別れたくないな
朝の喧騒が満ちる教室。
開いた教科書の文字を追っていると、不意に俺の机に影が落ちた。
「おはよ、三島君」
「あぁ、おはよ」
一度視線を上げ、舞岡の姿を確認して、再び視線を教科書へ戻す。
恋人になってから数日経つが、彼女は教室でも普通に話し掛けてくるようになった。
俺は男子たちの鋭い視線を浴びながらも、当たり障りなく舞岡の恋人を演じ続けている。
「隣座っていい?」
「どうぞ」
舞岡は隣の席から椅子を引き寄せ、腰を下ろすと、「はあ」と溜め息を吐いて、頬杖をついた。
「どうした?」
「……向こうにいる人たちと話してて少し疲れたわ」
彼女がクラスでも目立つ男女数人とお喋りに興じていたことは知っている。教科書を暗記していたので、彼女の表情までは見ていなかったが。
「何かあったのか?」
「そうじゃないけど、大勢で騒がしいとちょっとね……あんたと2人で居た方が落ち着くわ」
俺は騒ぐタイプではないし、俺に対しては猫を被る必要がないからな。
もっとも、近頃のこいつがちゃんと猫を被れているのかは疑問だ。俺と恋人になった日以来、彼女は教室でも自然体で過ごしているように見える。
クラスの連中だって、多分彼女の素顔には気付いていると思う。特にあの日はあれだけ騒いだしな。
「まあ俺も他の人よりはお前と居る方が落ち着くよ」
「え、何で急にデレるの? 怖いんだけど」
「デレてはいない。お前が先に同じことを言っただろ」
「おお、ほんとだ。盲点だったわ」
これまで一緒に居てわかっていたことだが、こいつは基本的にアホの子である。素でこんなボケみたいな発言をしている。
「あの人たちと何話してたんだ?」
「うーんとね、恋愛話とか、あんたの話とか、世間話とか」
「俺の話が混じってるのが嫌だなぁ」
「優しいから好きなの! とか言っておいたわ」
「可愛い彼女だなー」
「でしょ? そして彼も私のことが大好きでいつも可愛がってくれるの! って言っといたわ」
「何か俺の方が好きっぽいな……あとその言い方だと微妙にエロいからやめて欲しいんだけど」
「えっ…………あ、確かに」
舞岡がはっと気付いたように口を抑える。アホの子なので、無自覚でそういうアピールをしてしまうのだ。
何かと誤魔化して乗り切ってきたものの、本気で俺たちが爛れた関係だと勘違いしている奴もいるだろうな……
出来れば迂闊な発言はやめて欲しいのだが、もっと酷い目に遭ってきているので、多少のことは諦めてしまっている。
俺は小さく溜め息を吐いた。
「そんな惚気話にみんな興味あるのか?」
俺だったら、他人の惚気話などほぼ興味が出ない。俺に殺気の篭った視線を向けてくる男子たちも、舞岡の惚気話など聞きたくないだろう。実際には惚気るような話など全くないが。
「女子は結構楽しそうに聞いてくるわよ。何か私たちのこと応援してくれてるし」
「へえ……」
女子は恋愛話が好きそうだしな。それに舞岡が彼氏に惚気ていた方が都合が良いだろうし。
「そんなに惚気てると別れづらくなるぞ」
「……別れたいの?」
「いや、そういうわけでもないけど……」
今更形式上の恋人関係を解消したって意味がない。こいつは何も考えずに同じように接してきそうだし。
「私は別れたくないな……」
舞岡は頬を赤く染め、黒髪をくるくると指で弄る。
微かに心臓が跳ねる。
「だって告白に呼び出されると『彼氏がいるから』って言って断れるもん」
紛らわしい! 俺の動揺を返せ!
「呼び出しはあるのかよ」
普通その女子に彼氏が居るにも拘らず、告白などしようとするものだろうか。
「もしかして彼氏があんただとあんまり効果ないとか?」
「それはすみませんねえ」
要するに、告白しようとする男は、舞岡が俺から乗り換えてくれることを期待しているわけだ。
俺の存在が防波堤として機能していないのかもしれないが、そんなの知ったこっちゃない。
別の理由で舞岡が勝手に嘘告白したのであって、俺は巻き込まれただけだからな。
男のアプローチに対する効果は付加価値のようなものなので、少しあるだけマシだと思って頂きたい。
そういう目的なら、もっとイケメンの男を恋人にでもすればいいのだ。
「言っとくけど、私は恋する女として生きていくしかないの。別れるならあんたに振られたーって言って泣くから」
「最悪かお前」
教室で彼女に泣かれたときの、居た堪れない空気や刺すような視線を思い出し、気が重くなる。あのときのトラウマが消えない……
俺が憂鬱な気分に支配されていると、教室の扉がガラリと開き、担任の教師が入って来た。
「あ、先生来ちゃった。じゃあ戻るわね」
舞岡はそう言って、軽やかな足取りで、自分の席へと戻っていった。




