波剣 人魚針 9
浜風の女亭は、煉瓦を漆喰で固めた、白い建物である。木窓は大きく作られ、下から持ち上げる事により、日中は日陰を作り出す工夫がなされていた。
そろそろ夜の七時を回りそうな時間ではあるが、開放された窓からは、その名の通りの浜風と、表通りの喧噪が店の中まで運ばれてくる。
その心地よい背景音楽を切り裂き、がつがつ、と、幾つもの硬いブーツの足音が店内に響いた。
「んで、お前は結局のところ、何しに来たんだ? 」
食事を取りながらも、未だ黒雀と睨み合うみつばちに、御用猫は呆れたように尋ねる。けして、追い掛けて来るなと、マルティエに預けた手紙には四回繰り返し、御用猫の切なる願いを綴っていた筈なのだが。
「貴様が御用猫か? 」
「いえ、私は個人的に、余暇旅行を楽しんで来ようかと思い立っただけで、猫の先生がオランにいるなんて、すごい偶然、運命を感じてしまいますね」
「うわ面倒くさい……あと、黒雀も気持ち悪いから、舐めるの止めてくれるかな」
黒雀は、御用猫が炭酸の少ないビールを飲む度に、彼の口まわりを、ぺろぺろと舐めるのだ。
(こいつは、かぶとむしか何かの類いだろうか、いや、雀蜂もそうだったかな)
ぐりぐりと、髪の毛を綯交ぜる勢いで撫で付けるのだが、この黒猫は、御用猫の膝を自分の縄張りだと決め込んだようだ、ぴったり張り付き、頑として動こうとはしない。
「貴様に、尋ねているのだ、耳が無いのか、それとも無礼打ちが所望か? 」
「え、人違いです」
ようやくに顔を向けると、声をかけてきた男は、眉を顰めて後ろに控える者に振り返る。二、三度確認して頷くと、再び、御用猫に顔を向けた。
「おい、巫山戯ているのか、そんな傷顔、二人と居らぬそうだぞ! 」
眉を吊り上げて怒る男は、随分と身形が良い、後ろのお供達を見ても、貴族か何かだろうと想像できる。赤味がかった金髪にくっきりとした目鼻立ち、歳は御用猫と同じ程だろうか。
リチャードやウォルレンには一段劣るだろうが、中々の美男子であった。
「え、まさか、ハーパス様? 」
ティーナが、彼の素性に思い当たったのか、隣りのチャムパグンを抱えてテーブルの隅に下がる。
「む、良い、今は微行だ」
ハーパスと名乗る男は、軽く手を振ると、ティーナが避けた長椅子に腰を下ろし、供回りを下がらせた。変装はしているが、如何にも騎士然とした男達は、隣りのテーブルにいた町人だろう客を追い出し、そこに陣取る。
(お忍びにしては、目立ち過ぎじゃないかなあ)
(お忍びにしては目立ち過ぎよね)
「お忍びにしては目立ち過ぎですね、基本から教育するべきです」
「ん、しろうとの集まり、五秒で、やれる」
「先生ー、お代わり下さい、こいつが奢ってくれる予感がします」
御用猫は、目と目の間を揉み解した、礼儀に関しては、御用猫も他人の事は言えないのだが。
だが、これは酷い。
「申し訳ございません、ハーパス様、なにぶん田舎者ゆえ、みな礼儀に疎く」
御用猫は頭を下げる、下げる時は幾らでも下げる。
そういった事に拘る自尊心は持ち合わせていないのだ。
「はは、良い、貴族以外に礼を求めて何になる、しかし、先程の態度は感心せぬがな」
そう言う割には、もう気にしてもいない様子だった、ハーパスは部下が注文したのだろうビールを受け取り、一気に飲み干した。
「くぅ、堪らぬな、館ではこうはいかぬ」
彼は、追加の酒と料理を要求し、テーブルの上の料理も勝手に食べ始める。
さりげなく、チャムパグンが皿を増やしていたが、特に気にした様子は無く、機嫌良さそうに料理に舌鼓を打っていた。
「おっと、忘れていた、それで、御用猫とやらに話しがあるのだが」
だん、とテーブルにジョッキを置くと、彼は御用猫を見つめてくる。
何やら、雲行きが怪しくなってきた。
どうするか、どうやって逃げようか、御用猫の頭の中で、ぐるぐると、考えがまとまらぬまま、廻り始めていたのだが。
(とりあえず、こいつは誰なんだろう)
すっかり、聞く時機を逃してしまい、御用猫は愛想笑いをする他は無かったのだ。




