それってあなたの感想ですよね
──議論の場から“関係”を切り落とす技法
西村博之の
「それってあなたの感想ですよね?」
という言葉は、ネット上でよく使われる。
一見すると、
論理的で冷静な指摘に見える。
だがこの言葉は、
議論を前に進める言葉ではない。
むしろ構造的には、
議論の前提そのものを破壊する言葉だ。
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そもそも、ここは「感想と解釈の場」だ
まず前提を確認したい。
私たちが議論している場所の多くは、
・研究発表の場ではない
・論文審査の場でもない
・データ提出を義務づけられた場でもない
日常の会話であり、
意見交換であり、
解釈や仮説をぶつけ合う場だ。
そこに向かって
「それは感想ですよね」
と言うのは、
「この場の前提を、私は引き受けません」
と宣言しているのと同じだ。
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「感想ですよね」は反論ではなく、遮断
重要なのはここだ。
「それは感想だ」と指摘しても、
内容は一切否定されていない。
・どこが違うのか
・どの前提がおかしいのか
・別の解釈は何か
こうした反論は、何も出ていない。
ただ
「それは主観だ」
と言って、場を切る。
これは論破ではない。
関係の遮断技法だ。
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この言葉が成立するなら、議論そのものが成立しない
もし
「感想であること」は
発言の価値を下げる理由になるなら、
・哲学
・倫理
・社会批評
・創作批評
は、すべて無意味になる。
なぜなら、
これらは最初から
感想・解釈・仮説として始まるからだ。
にもかかわらず
「論文はあるんですか?」
「データは?」
と要求するのは、
場のルールを途中ですり替えている。
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本当に起きていること
「それってあなたの感想ですよね?」
と言われた側は、こう処理させられる。
・この場では話せない
・説明責任を一方的に背負わされる
・相手は何も出さずに優位に立つ
これは理性的な態度ではない。
議論コストを相手にだけ押し付ける立ち位置だ。
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反応予測の観点から見ると
この言葉が強く感じられる理由は、
内容の正しさではない。
言われた瞬間、
「ここから先は、
学術レベルで説明しないと認められない」
という反応予測を強制されるからだ。
つまり、
相手の主張を評価するのではなく、
発言者の立場を格下げしている。
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正しい問いは、そこではない
議論の場で問うべきなのは、
こういうことだ。
・その解釈は、どこが筋が通っていないか
・別の見方をするとどうなるか
・自分はどう考えるか
「感想かどうか」ではない。
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結論
・「それってあなたの感想ですよね?」は反論ではない
・感想と解釈を前提とする場では、無意味な切断になる
・論文やデータは、必要な場で要求すればいい
・この言葉が機能するのは、議論を終わらせたいときだけ
議論とは、
感想と感想の間で起きる摩擦だ。
それを
「感想ですよね」の一言で消そうとするのは、
論理ではなく、撤退だ。
論破ではない。
「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」
──アドラー心理学が切り捨てたもの
アルフレッド・アドラー心理学では、
よく次の比喩が使われる。
馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない
行動するかどうかは本人の課題であり、他人が介入すべきではない
一見すると、
主体性を尊重した、成熟した考え方に見える。
だが、この比喩には
どうしても見過ごせない構造的な欠陥がある。
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馬と連れて行く人は、本当に無関係なのか
この比喩では、
• 馬=本人
• 水=解決策
• 連れて行く人=周囲(親・友人・支援者)
として描かれる。
そして暗黙に、こう前提されている。
連れて行く側は、やることをやった
ここから先は本人の責任だ
だが現実では、
馬と人はそんなに切り離されていない。
• どんな水かを決めたのは誰か
• 過去にその水で嫌な経験をしたのはなぜか
• 今その場が安全に見えるかどうかは、誰との関係で決まっているか
本人の予測や行動は、
関係の履歴そのものによって形作られている。
馬と人は、無関係ではない。
同じ因果の中にいる。
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「飲まない」のは意思ではない
馬が水を飲まない理由を、
「飲まないと選んだ」とまとめてしまうのは乱暴だ。
現実には、こうした予測が先にある。
• この水は安全か
• 飲んだあと、何が起きるか
• 今、油断していい状況か
水を飲まないのは、
拒否ではなく危険回避であることが多い。
それをすべて
「本人が選ばないだけ」
で済ませてしまうのは、
行動の前にある予測と履歴を丸ごと消している。
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この理論を一貫させると、どこまで行くか
ここで思考実験をしてみる。
この理屈を完全に通すなら、
次のことも言えてしまう。
病気になったのはあなたの課題
苦しむかどうかもあなたの選択
私が距離を取るのも、私の課題
これは極論ではない。
論理的な帰結だ。
なぜなら「課題の分離」は、
• 因果ではなく
• 行動の責任だけを個人に押し戻す
構造だからだ。
だが、病気や不調は
意思や選択ではどうにもならない。
それでも切り捨てられてしまう時点で、
この理論は関係を扱う理論として破綻している。
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課題の分離は「因果説明」ではない
本来、課題の分離は
過干渉や支配を防ぐための境界設定の技法だったはずだ。
だがそれを、
• 行動できない理由
• 回復しない理由
• 立ち上がれない理由
の説明に使った瞬間、
理論は冷酷な遮断装置になる。
人は関係の中で壊れ、
関係の中で回復する。
その現実を無視したまま
「それはあなたの課題だ」と言うのは、
勇気づけではない。
関係からの撤退表明だ。
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本当に問うべきだったこと
もしこの比喩を現実に近づけるなら、
問いはこう変わるはずだ。
なぜその水は、安全に見えていないのか
どんな関係の履歴が、その予測を作ったのか
これは意思の話ではない。
配置と予測の話だ。
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結論
• 馬と本人は無関係ではない
• 行動しない理由は、意思ではなく予測と履歴
• 課題の分離は、因果説明には使えない
• 病気すら個人責任にできてしまう時点で、理論は破綻している
「水を飲むかどうかは本人次第」
それ自体は事実だ。
だが、
なぜその水が危険に見えているのかを無視した瞬間、
心理学は人を救わなくなる。
アドラー心理学がここで手放したのは、
主体性ではない。
関係の現実だ。
課題の分離が広まる前から、
私たちはずっと「他人の課題に触れない」という選択肢を持っていた。
新しく手に入れた知恵でも、
革命的な技法でもない。
ただ、
やらない理由に名前が付いただけ だ。
行動が変わったのではなく、
後付けの理由付けで安心できる形に整理された。
だから課題の分離は、
人を強くする理論ではない。
もともと選んでいた判断を、
正当化する言葉 にすぎない。
本当に見るべきなのは理論ではなく、
その選択をしたとき、
自分は何を失わずに済んだのか――
そして、何を恐れて避けたのか、だ。




