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心理学は正しいのか?  作者: シンリーベクトル


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23/33

それってあなたの感想ですよね

──議論の場から“関係”を切り落とす技法


西村博之の

「それってあなたの感想ですよね?」

という言葉は、ネット上でよく使われる。


一見すると、

論理的で冷静な指摘に見える。


だがこの言葉は、

議論を前に進める言葉ではない。


むしろ構造的には、

議論の前提そのものを破壊する言葉だ。



そもそも、ここは「感想と解釈の場」だ


まず前提を確認したい。


私たちが議論している場所の多くは、


・研究発表の場ではない

・論文審査の場でもない

・データ提出を義務づけられた場でもない


日常の会話であり、

意見交換であり、

解釈や仮説をぶつけ合う場だ。


そこに向かって

「それは感想ですよね」

と言うのは、


「この場の前提を、私は引き受けません」


と宣言しているのと同じだ。



「感想ですよね」は反論ではなく、遮断


重要なのはここだ。


「それは感想だ」と指摘しても、

内容は一切否定されていない。


・どこが違うのか

・どの前提がおかしいのか

・別の解釈は何か


こうした反論は、何も出ていない。


ただ

「それは主観だ」

と言って、場を切る。


これは論破ではない。

関係の遮断技法だ。



この言葉が成立するなら、議論そのものが成立しない


もし

「感想であること」は

発言の価値を下げる理由になるなら、


・哲学

・倫理

・社会批評

・創作批評


は、すべて無意味になる。


なぜなら、

これらは最初から

感想・解釈・仮説として始まるからだ。


にもかかわらず

「論文はあるんですか?」

「データは?」

と要求するのは、


場のルールを途中ですり替えている。



本当に起きていること


「それってあなたの感想ですよね?」

と言われた側は、こう処理させられる。


・この場では話せない

・説明責任を一方的に背負わされる

・相手は何も出さずに優位に立つ


これは理性的な態度ではない。


議論コストを相手にだけ押し付ける立ち位置だ。



反応予測の観点から見ると


この言葉が強く感じられる理由は、

内容の正しさではない。


言われた瞬間、


「ここから先は、

 学術レベルで説明しないと認められない」


という反応予測を強制されるからだ。


つまり、


相手の主張を評価するのではなく、

発言者の立場を格下げしている。



正しい問いは、そこではない


議論の場で問うべきなのは、

こういうことだ。


・その解釈は、どこが筋が通っていないか

・別の見方をするとどうなるか

・自分はどう考えるか


「感想かどうか」ではない。



結論


・「それってあなたの感想ですよね?」は反論ではない

・感想と解釈を前提とする場では、無意味な切断になる

・論文やデータは、必要な場で要求すればいい

・この言葉が機能するのは、議論を終わらせたいときだけ


議論とは、

感想と感想の間で起きる摩擦だ。


それを

「感想ですよね」の一言で消そうとするのは、

論理ではなく、撤退だ。


論破ではない。


「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」


──アドラー心理学が切り捨てたもの


アルフレッド・アドラー心理学では、

よく次の比喩が使われる。


馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない

行動するかどうかは本人の課題であり、他人が介入すべきではない


一見すると、

主体性を尊重した、成熟した考え方に見える。


だが、この比喩には

どうしても見過ごせない構造的な欠陥がある。



馬と連れて行く人は、本当に無関係なのか


この比喩では、

• 馬=本人

• 水=解決策

• 連れて行く人=周囲(親・友人・支援者)


として描かれる。


そして暗黙に、こう前提されている。


連れて行く側は、やることをやった

ここから先は本人の責任だ


だが現実では、

馬と人はそんなに切り離されていない。

• どんな水かを決めたのは誰か

• 過去にその水で嫌な経験をしたのはなぜか

• 今その場が安全に見えるかどうかは、誰との関係で決まっているか


本人の予測や行動は、

関係の履歴そのものによって形作られている。


馬と人は、無関係ではない。

同じ因果の中にいる。



「飲まない」のは意思ではない


馬が水を飲まない理由を、

「飲まないと選んだ」とまとめてしまうのは乱暴だ。


現実には、こうした予測が先にある。

• この水は安全か

• 飲んだあと、何が起きるか

• 今、油断していい状況か


水を飲まないのは、

拒否ではなく危険回避であることが多い。


それをすべて

「本人が選ばないだけ」

で済ませてしまうのは、


行動の前にある予測と履歴を丸ごと消している。



この理論を一貫させると、どこまで行くか


ここで思考実験をしてみる。


この理屈を完全に通すなら、

次のことも言えてしまう。


病気になったのはあなたの課題

苦しむかどうかもあなたの選択

私が距離を取るのも、私の課題


これは極論ではない。

論理的な帰結だ。


なぜなら「課題の分離」は、

• 因果ではなく

• 行動の責任だけを個人に押し戻す


構造だからだ。


だが、病気や不調は

意思や選択ではどうにもならない。


それでも切り捨てられてしまう時点で、

この理論は関係を扱う理論として破綻している。



課題の分離は「因果説明」ではない


本来、課題の分離は

過干渉や支配を防ぐための境界設定の技法だったはずだ。


だがそれを、

• 行動できない理由

• 回復しない理由

• 立ち上がれない理由


の説明に使った瞬間、

理論は冷酷な遮断装置になる。


人は関係の中で壊れ、

関係の中で回復する。


その現実を無視したまま

「それはあなたの課題だ」と言うのは、

勇気づけではない。


関係からの撤退表明だ。



本当に問うべきだったこと


もしこの比喩を現実に近づけるなら、

問いはこう変わるはずだ。


なぜその水は、安全に見えていないのか

どんな関係の履歴が、その予測を作ったのか


これは意思の話ではない。

配置と予測の話だ。



結論

• 馬と本人は無関係ではない

• 行動しない理由は、意思ではなく予測と履歴

• 課題の分離は、因果説明には使えない

• 病気すら個人責任にできてしまう時点で、理論は破綻している


「水を飲むかどうかは本人次第」

それ自体は事実だ。


だが、

なぜその水が危険に見えているのかを無視した瞬間、

心理学は人を救わなくなる。


アドラー心理学がここで手放したのは、

主体性ではない。


関係の現実だ。


課題の分離が広まる前から、

私たちはずっと「他人の課題に触れない」という選択肢を持っていた。


新しく手に入れた知恵でも、

革命的な技法でもない。


ただ、

やらない理由に名前が付いただけ だ。


行動が変わったのではなく、

後付けの理由付けで安心できる形に整理された。


だから課題の分離は、

人を強くする理論ではない。

もともと選んでいた判断を、

正当化する言葉 にすぎない。


本当に見るべきなのは理論ではなく、

その選択をしたとき、

自分は何を失わずに済んだのか――

そして、何を恐れて避けたのか、だ。

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