隣の女
「教子! やっとわかってくれたのね」
姉の有里子が涙目になりながら、私を抱きしめた。本当に姉は私を入信させたかったんだ。そこには、ノルマだとか、位の向上だとか、そんなものは微塵も感じない。純粋に「私のため」といった善意でしかないのだろう。私は姉のその善意がいつも鬱陶しかった。
突然入信するといった私の行動は、姉を大いに喜ばせたが、治樹をこの上なく失望させた。
最初、治樹には内緒にして、この計画を実行しようとしたが、大喜びの姉からすぐに治樹に伝わってしまった。
「ここ、ずっとおかしいと思ってた。教ちゃんいったいどうしたの?」
治樹は泣きそうな顔をしていた。
「あのね、これは『フリ』なの。ほんとに入信なんてしない。有里ちゃんを退会させるためなの」
「言ってる意味がわからないよ。それにここずっと聞こうと思ってた。週末いつもどこ行ってるの?」
最初の頃は女友達のつぐみに会いに行くと言っていたが、ここ二週間位は特に何も言わずに出掛けていた。
この瞬間、治樹にすべて打ち明けてしまおうかという思いが頭を過ったが、私の中の何かがそれをさせなかった。結局、こんな言葉で濁した。
「つぐみの紹介で、宗教に詳しい人に相談に乗ってもらってるの。その人のアドバイスなの。だから心配しないで」
つぐみはこの件にはまったく関係ないのだが、最初の嘘でつぐみを出してしまったので、ここでも利用させてもらう。
治樹はとても納得したようには見えなかったが、これ以上議論する気もないようだった。
「教ちゃんが宗教にハマるのも困るけど、外で浮気でもしてるんじゃないかってそんなことも考えたんだぜ……風呂入ってくるわ」
そう言ってリビングから出て行ってしまった。治樹にそう思われていたことにドキッとした。
その日はもう桜が咲いてしまうのではないかと思うほど、暖かな日だった。厚手のコートを着てきたことを後悔した。姉はまたこうして私を連れて来られたことがよほど嬉しかったのか、会話が途切れると鼻歌を歌っていた。神奈川東支部は会員数も多いため、駅からすでに信者と思われる人たちの列のようなものが出来ていた。その人たちと混じりながら敷地内に入る。初めてここを訪れた時は、姉に連れられ、訳も分からず、ただただ圧倒されていた。今は明確な意志のもと、まるでスパイ映画のヒロインにでもなったような興奮を押さえるのに必死だった。幼少のお転婆だった頃の秘密基地ごっこを思い出した。こういうことが嫌いでない自分を三十三にもなって発見するとは驚きだった。
「教子、これ仮会員証。来週にはきちんとしたものが届くから。あと、これね。とりあえず貸しておく」
そう言って、黄色い袈裟のようなものを鞄から出した。袈裟と言っても、着物の襟部分を輪にしたようなもので、皆これを掛けて講堂に入っていく。建物は近代的なビルだし、皆の服装もジーンズだったり、スーツだったりと道行く人と変わらない。この袈裟を身に付けることで、ようやくここは仏教系の教団であったことを思い出させる。
袈裟を掛けて講堂に足を踏み入れる。以前ここに来た時は、雰囲気に呑まれていたため、周りをよく見ていなかったが、講堂の中だけ畳が敷かれ、正面には何と言う文字なのかわからない書が大きく書かれた対の衝立と、その中央に金色で描かれた仏画、その手前に小さな仏像があるだけの、壁と天井は大きな会議室となんら変わらないシンプルさであった。姉は最初お寺に連れて行くという表現を使っていたが、やはりここは集会所という表現がぴったりだった。
私はポケットから写真を取り出した。宮永さんからメールの添付で送られてきた奥さんの写真だ。マナミさんと言っていたその女性が一人大きく写っている。背景にはどこかヨーロッパを思わせる建物があることから海外旅行での写真だろうか。これが彼女と行った最後の旅行――とメールに書いてあったのが、なんだか悲しかった。この美しい女性に今から会うのだ。
私は藤枝さんからの指示どおり前から二列目の右側の席に行こうとしたが、まずは姉から離れなければならないことに気付いた。
「ちょっとトイレに行ってくる。先に席に着いてて」
「場所わかる?」
「外にいる誰かに聞く」
私は外に出るフリをしてそのまま人込みに紛れて前方に移動した。前のほうの席はだいたい常連が陣取っているらしく、私が二列目の右から二番目に座ると「誰?」と言った感じで一瞥を寄越した。藤枝さんの言うことが正しければ私の右側に彼女が座る。
場内の電気が消えた。すぐ前方にスクリーンが降りてきた。その時、右側に人の気配がした。彼女だ。すぐにわかった。暗闇の中でも色白だとわかる、数珠を持つほっそりとした白い手が見えた。スクリーン上では以前見たものとまったく同じ映像が流れていて、お坊さんの唱えるお経に合わせて、一同お経を唱えはじめた。
私は藤枝さんのシナリオどおりに小芝居を始めた。背中を丸め、口元を押さえて、具合の悪い人に成りきった。
「すみません。ちょっと貧血で。出口はどこですか?」
マナミさんに向かって小声で話しかけた。
「大丈夫ですか? 一緒に付き添います。こっちへ」
そう言って私の手を引き、講堂から出た。
「歩けますか? この先に医務室があるの。そこまで行けますか?」
「はい。ちょっと休めば、回復すると思うんです。ほんとにすみません」
私は申し訳なさそうに言い、マナミさんに抱えてもらって医務室に向かった。私よりちょっと身長が高いが、私が抱えたほうがいいんじゃないかと思うくらい、ほっそりとした体つきをしていた。
医務室というその部屋は、パーティションで区切られてベッドが二つと片隅にソファが置かれている、これまたシンプルな部屋だった。
「ここで横になってるといいわ。今お水もってくるね」
そう言ってこの部屋のさらに奥の部屋に行ってしまった。彼女は相当この建物内に精通しているようだ。一人きりになってベッドで横になっていると、計画どおりにいったことに嬉しさが込み上げてきた。マナミさんは想像どおりの美女で、幹部の愛人という話は信憑性があると思った。
そして宮永さんの奥さんである人――。私は嫉妬するだろうかと思っていたが、嫉妬どころか宮永さんにふさわしい人だと彼女を見て納得していた。
「具合はどう?」
お水と毛布を持ってマナミさんが戻ってきた。
「だいぶ良くなりました。すみません。お経の邪魔しちゃって」
たぶん寝ている私の方が顔色が良く、彼女の方が貧血気味に見えるだろう。
「お経はいつでもあげられるわ。寒かったらこの毛布使ってね。私は戻るけど、何時間でもここにいて大丈夫だから」
そう言ってマナミさんが部屋を出ていこうとした時、ドアがノックされた。マナミさんが返事をするのと同時に男の人が入ってきた。寝ている私を見るなり「失礼」と言い、マナミさんに向かって「どこ行ったかと思ったよ」とホッとした表情で言った。その男は藤枝さんが語った特徴とぴったりだった。中肉中背で髪は短め、スクエア型の黒ブチメガネをかけた年の頃四十くらい。今回マナミさんに近付ければ上々と思っていたのに、最終目標の幹部に会えてしまった。
私は耳を欹てて、ドアの近くで何やら小声で話す二人の会話を聞こうとしたが、ダメだった。そのまま二人は部屋から出て行ってしまったが、その幹部の男の手がマナミさんの背中にまわっていたのは見逃さなかった。
さて、もうここに用はないな。姉が心配しているだろうと医務室を出て、そのまま講堂に向かおうとした時、私の中の好奇心がムキムキと頭を擡げた。気付けば講堂とは反対側に足が向いていた。廊下の窓からは中庭が見える。その先に、さっき医務室から出て行ったマナミさんと幹部の男が並んで歩いているのが見えた。私は何の躊躇もなく、二人の後を追った。
講堂のある棟とは別棟になる低層の建物に入って行った。一介の信者が入れる場所ではなさそうだった。案の定その建物の入り口には警備員らしき男がいて、私はすぐに引き返したが、気付かれたかどうかはわからなかった。マナミさんは顔パスで入れるほど、ここでは認知された人物だということだ。
「どこ行ってたの?」
講堂を出たところのロビーで姉が私を見つけた。
「迷子になっちゃった」
適当な言い訳をした。
「ねえ、それなあに?」
姉が手にしていた封筒が気になった。
「朝倉さんからもらったの。仏像とか仏画とかが買えるカタログなんだけど、高すぎてとても……」
「それ、借りていい?」
「興味あるの?」
「うん、まあね……」
姉は意外そうな顔をしたが、すんなり封筒を渡してくれた。私は思わずニマッと笑ってしまった。それを見て姉は「表情が明るくなったよ」と言った。
家に帰り、治樹がお風呂に入ったのを見届けるとすぐに電話を取った。今日の出来事をまず、藤枝さんに報告することにした。宮永さんの奥さんに会えたこと。なんと幹部にまで会えたこと。そして別棟に二人で入っていったこと。
「幹部専用の施設だ」
藤枝さんは空かさず言った。さらに姉から借りてきたカタログのことを話すと、
「それだ! 今すぐにでも見たい。ああ、すごい! 大成功だ」と興奮気味に言い、彼のその勢いに押されて、明日会う約束をしてしまった。
次に、宮永さんに報告を入れるため、電話を手にした。胸が高鳴っているのが自分でもわかった。
「もしもし、盛崎ですが」
「……ああ、ちょっと待って」
ざわついた音が何秒か続いた後、急に静かになって宮永さんの声がはっきり聞こえた。
「ごめん。電話待ってたよ」
この言葉でさらに心臓の鼓動が大きくなった。
「今日、東支部に行ってきました。奥さんに会えました」
「で?」
「すごい綺麗な方でした。想像どおりというか……」
「綺麗なのは知ってる。家にいるし」
私はドキッとした。そりゃ、そうだ。奥さんなんだから。
「あの……、前に話した幹部と一緒でした」
「愛人って感じだった? 君の目から見ても」
私は一瞬、答えに詰まったが、見たままを報告することにした。
「奥さん……マナミさんの背中に手をまわしていました」
数秒の沈黙があった。
「ふーん。情けない夫だな」自嘲気味に言った。
私の役回りはなんだろう。なんでこんなことをしているのだろう。自嘲したいのは私のほうだった。
「奥さんは……、落ち着いた穏やかな表情をしてました。とても宮永さんの浮気が原因で自殺未遂までした人とは思えないくらいに。彼女はこの宗教に入信したことで救われたんじゃないかって、そんなふうに思えた……」
私は自分で何を口走っているのかわからなくなるほど、興奮してじゃべっていた。途端に後悔したがもう遅かった。
「あんたまでそういうこと言うんだ。……悪い、明日早いから。おやすみ」そう言って電話が切れた。
今まで聞いたことのない沈んだ声だった。
私は自分がやっていることの意味が急にわからなくなった。
翌日、藤枝さんとは彼の勤務先の近くで会うことにした。平日は完全看護だから会社が終わってからなら時間が作れるということで、七時過ぎに会う約束をした。私は派遣で四時にはきっかり終わる仕事をしていたので、七時まで時間を持て余していた。家に帰ってしまうと、また出てくるのは億劫だし、お互いの会社もそう離れていないので、どこかで時間を潰すことにした。治樹には会社の送別会で遅くなると言ってある。
とりあえず、藤枝さんの会社の最寄り駅、田町の駅前の喫茶店に入った。昨夜からずっと、宮永さんに言ってしまった一言を後悔していた。なんであんなことを口走ったのか。謙翔会の被害者の会の一員としてこうして潜入までしているのに、謙翔会を肯定する発言をしてしまった。しかも、あれでは宮永さんが悪者だと言ったも同然だ。
ふと昨日の感情が蘇った。
「そうか……」
マナミさんに会って、私は彼女が幸せそうに見えたんだ。
携帯が鳴った。藤枝さんだ。
「今、会社出ました。どこにいるの?」
「田町の駅出てすぐ右側にある、えっと……名前が分からないけど、喫茶店です」
「実は、品川のレストランを予約したんだ。駅を背にして左にずっと歩いてきてくれる?そっちに向かうから」
途中の道で藤枝さんに会い、そこからタクシーを拾ってプリンスホテル内にある創作料理の店に行った。熱帯魚が泳ぐ、揺らめく水槽に囲まれて食事をする、オシャレでゴージャスな店だった。
「これです」
私は鞄から例のカタログが入っている封筒を渡した。藤枝さんはカタログを見るなり、
「これだ。母さんが持っていたものと同じだ」と言って、10ページもない薄いカタログを何度もページを繰って注意深く確認した。
私は昨日これを見て疑問に思ったことを質問した。
「このカタログには値段がいっさい書かれてないのに、姉は高すぎるって言ったんです」
「そこなんだよ。このカタログ、教団の名前も書かれてないだろう? 仏像の由来とか、この仏像を買った人のエピソードとかは細かく紹介されているのに、どこで入手できるとかそういう情報がいっさいない」
「ほんとだ」
私はカタログの裏表紙を見てみたが、お問い合わせといった情報も何もなかった。
「つまり、そういったことは全て口頭で説明するんだろう。たぶん、お姉さんはそれで値段を知ったんだよ。証拠になるようなことは残さない」
藤枝さんはそこで考え込むように黙ってしまった。
「どうしたんですか?」
「いや、お姉さんはこれをどこで手に入れたかのかと思って……」
「朝倉さんっていう女性からもらったって言ってました」
「朝倉?」
「一度会ったことがあるんですけど、姉が入信するきっかけにもなった人らしいんです」
「その人に会うことはできる?」
「たぶん、姉に言えば会わせてくれると思います」
「そうか、今度はそこから言ってみようかな。また策を練るから、シナリオが出来上がったら説明するよ。よろしく頼みます」そう言って頭を下げた。
「あの……」
私は思いきって、メールアドレスを変えて私を騙したことについて問い質してみることにした。
「以前、宮永さんの書き込みのアドレスのリンクを自分のアドレスに変えて、私を騙したのはなぜですか?」
藤枝さんは明らかに動揺した様子で、震える手で水を一口飲んだ。
「……恥ずかしいことをしてしまった。ほんとにすまない。宮永に対しては謝ってもすまないな」
そこでまたテーブルに頭が付くくらい頭を下げた。「ごめんなさい」声がかすれていた。
「もういいです。顔をあげてください。なんであんなことをしたのか理由が聞きたいだけです」
藤枝さんは顔をあげ、眉間に皺を寄せた表情でしばらく黙っていたが、徐に話し出した。
「宮永とは母親の件もあって、そろそろ距離を置きたかったんだ。あいつの奥さんが直接関わっているのを知ったら、もう相談できなくなる……」
ここで言葉が止まってしまった。藤枝さんは頭を左右に振り「盛崎さん……」と言った。
藤枝さんの目がまっすぐ私を捉えていた。
「あなたのことを好きになってしまったんです。だからあなたが宮永に惹かれていくのを見ていられなかった。宮永を紹介したのは僕だけど、こんなに後悔したことはない……」
これがドラマなら、なんというロマンチックなシチュエーションだろう。藤枝さんの後ろにはライトアップされた水槽の中をきれいな色をした魚がひらひらと泳いでいた。
「宮永さんに……、宮永さんに謝ってください」
私はやっとの思いでそれだけ言った。
食事はデザートが残っていたが、こうして藤枝さんと対しているのがつらかった。
「もう時間も遅いのでこれで帰ります。大丈夫、心配しないでください。作戦は遂行します。シナリオが出来たら連絡ください」
私はお金を置いて店を出ようとしたが、藤枝さんが一足先に席を立ち、会計を済ませてしまった。
「駅まで送る」
「大丈夫です。駅すぐそこだし」
本当は同じ路線で駅も近いので途中まで一緒に帰れるのだ。気まずい空気が支配していた。
「あの……」
言いかけたものの、藤枝さんの表情を見て、言葉が止まってしまった。今までに見たことがないくらい、悲しい顔をしていた。私はこの場の空気を一新するためにも、出来るだけ明るい声を作った。
「かならず、連絡ください。最初は藤枝さんの相談に乗った形だったけど、もう自分の問題になってる。何が行われたのか知りたいんです。どうしても突き止めたい」
それは私の本心だった。
「……ありがとう。盛崎さん、僕はほんとにダメな男だ。ほんとに嫌になる」
そう言いつつも、藤枝さんの表情が変わったのがわかった。
「そんなことないですよ。力を貸して下さい」
藤枝さんが小さく頷いたのを見て、私は駅まで駆け出した。
高層ホテルの上に誂えたように月が浮かんでいた。
家までの電車に揺られながら、藤枝さんが言った言葉を反芻していた。藤枝さんは私が宮永さんのことを好きになっていることを知っていた。そして、宮永さんは……藤枝さんが私を好きだと言うことに気付いていた。できあがってしまった三角関係。私はなんでこんなに鈍いのだろう。いや、こういうことの存在を長く忘れていたと言ったほうがいいかもしれない。
家に帰ると、まだ治樹は帰っていなかった。三月に入って仕事が忙しくなると言っていたことを思い出し、ホッとする自分に罪悪感を感じた。
藤枝さんからの連絡は二日後にあった。これから私にやってもらう作戦を話す藤枝さんは妙に楽しそうだった。私もそれに釣られたのか、早く実行したくてわくわくした。
まず、姉に電話を入れて、前に貸してもらったカタログの中の品物を購入したいから朝倉さんに会わせてほしいと言うと、こっちが驚くくらいの吃驚した反応をした。
「教ちゃんどうしたの!? あれみんな凄く高いんだよ!」
「高いってどれくらい?」
「たぶん想像より丸が二つくらい違うよ。それにー」と語尾を延ばしながら、「別にね、ああいうもの買わなくても信仰心というか奉仕の心に違いはないと思うのよ。私はおすすめしないよ」
私は姉のこの言葉が嬉しくて仕方がなかった。姉の金銭感覚はまともだ。
そんな気持ちとは関係なく私は食い下がった。
「買うか買わないかは会ってから決める。どうしても話だけでも聞きたいの。それに前に朝倉さんって人に会って話だけでも聞いたらって言ったの有里ちゃんだよ」
最後の言葉が効いたのか、姉は次の土曜日の読経会の始まる三十分前に朝倉さんと会う約束を取り付けてくれた。
約束の土曜日の前日に私は治樹と大げんかをした。夕飯を食べ終わって、明日、姉と謙翔会に行くことを告げた時、もう我慢ならないという風に怒鳴り散らした。普段、明るく陽気な治樹は、こうやって溜め込んだ怒りを出すことはそんなになかった。
「何をやろうとしてるわけ? お姉さんを連れ戻すために教団に潜入するの? 誰の指示なのさ、教えろよ!」
テーブルを思いきり叩いた。私は治樹をここまで怒らせていたことに、そしてそれに気付こうとしなかった自分に、愕然とした。
「同じように肉親が謙翔会に入信して悩んでいる人たちの会があって、その人たちと連絡を取り合っていたの」
私は正直に話した。
「そいつらは信用できるのか?」
「そいつらって……。真面目に活動してる人たちだよ。奥さんが入信してしまったとか、母親が入信してしまって……」
「何か、こそこそやってると思ってたらそういうことだったのか。妙に最近楽しそうだしさ。俺には何も言わないくせに、そいつらにいろいろ悩みとかじゃべってたわけ?」
「だって、治ちゃん、宗教とかの話するだけでも嫌がってたじゃない? 姉と距離を置けとか、会わないほうがいいとか、そんなことしか言わないじゃない」
涙声になってきた。治樹は自分が怒鳴ってしまったことに、反省をしたのか、急に穏やかなトーンになって言った。
「教ちゃんがお姉さんを心配する気持ちはわかるよ。でも、結局は宗教とか、何を信仰するとかは本人の自由なんだし、他人がとやかく言っても仕方がないことだと俺は思うよ。それにお姉さんが謙翔会に入ったからって別に困ることってないだろ?」
私は最後の言葉になぜかカチンときてしまった。
「そりゃ、治ちゃんにとっては、うちの姉は他人だもんね」
私はバタンと思いっきり強くドアを閉めて出て行くことで、治樹とのやり取りに一方的に幕を下ろした。
治樹とは翌日もほとんど言葉を交わさない状態で、謙翔会に行くために家を出た。
気分はすっきりしなかったが、これから実行しなければならないことに気持ちを集中させることで気分の切り替えに努めた。
朝倉さんとはロビーの片隅のソファーが設置してある一角で対面した。もうすでに読経会のために沢山の人が集まっていたが、それ故、却って目立たなくてよかった。
「以前、お会いしましたよね。朝倉と申します。お姉さんにはいろいろとお世話になっております」
物腰の柔らかい、常に微笑みを絶やさない、しかしマナー教室で講師でもやっていそうな隙のなさがある女性だ。
「盛崎教子です。姉がお世話になってます。今日はこのカタログを見て――」
私は早急に話を進めた。姉にはいろいろと突っ込まれるのが面倒だったので席を外してもらった。
「なんでこの仏像が気に入られたの?」
「実は藤枝さんという女性がこの仏像を購入してから、持病の肝臓病がよくなったって聞いたものですから。実は母が肝臓病を患っておりまして……」
私は口からでまかせを言った。姉がいなくてよかった。
「藤枝さん……」
朝倉さんは考えていたようだったが、途中からどうでもいいといった感じで、喋り始めた。
「とにかく、一度実物を見てからのほうがいいと思うの。正直安くはないから、こんなのじゃないって後から文句を言われても困るじゃないの? それとね、これから言うこと、とっても大事なことなの、よく聴いて。これらのカタログに載っている品々は単なる美術品とは違ってそれぞれがそれぞれのパワーを持っているの。そのパワーはただ持っていれば発揮されるものではなくて、その人の心構えとか、信心とかが反映されるものなの。だから無闇矢鱈に手に入れたことを喋ったり、何処何処で購入したとか言うことは、逆に皆が持ち出すことでパワーが減退してしまうことにもなるの。本当に欲しいと願う人の元には自然と機会がやってくるものなのよ。あなたはラッキーだったわ」
私はなんとなくカラクリが見えてきたような気がした。
「読経会の後、時間あります? 実物を見せてもらえるように上の方に話しておきますわ」
「上の方って?」
「あなたにこの仏像を譲ってくださる人よ。ほんとにラッキーよ」
ラッキーという言葉が繰り返される度、胡散臭く感じるのが、この人にはもう分からないのだと思った。
姉が戻ってきた。朝倉さんにお礼を言って、また読経会の後に会う約束をして別れた。
「どうだったの? 買うの?」
姉は不安そうに尋ねた。
「実物を見せてくれるって。それから決めても遅くないからって」
「教ちゃんってハマると怖いね」
宗教にハマっている姉にそう評されるとは、なんだか複雑な気分だった。
藤枝さんの指示では、今日も前から二列目の右側に席をとって、マナミさんの隣に座る作戦になっていたが、講堂に入るタイミングが遅くなり、すでにマナミさんの隣には誰かが座っていた。私は仕方なくマナミさんが見えるくらいの位置に姉と並んで座った。お経を諳んじている時、私の中ではいろんな雑念が湧いて出てきていたが、時間が経つにつれて、だんだんと消えていき、終わる頃には何のためにここに来たのかを一瞬考えた。これはお経のもつ力なのか、集団で何かを唱えるという一種の催眠なのか、なんとなく自分に危うさを感じた瞬間だった。
ロビーに出ると朝倉さんがさっき話をした場所で待っていた。姉とはここで別れることにして、朝倉さんと連れ立って棟内を移動した。なんと別棟の幹部の施設だと藤枝さんが言っていた建物に連れて行かれた。朝倉さんが事前に話をしていたのか、警備員にも止められず、中に通された。建物の中は、講堂のある棟の素っ気なさに比べると段違いな、ホテルのような洗練された空間が広がっていた。二階の一室に通された。朝倉さんは「私はここまで」と言って帰っていった。
窓から外を見た。読経会が終わって帰って行く信者たちの姿が見えた。なぜかその姿が映画のエキストラが演技を終えて帰っていくようにも見えた。
「あっ……」
どちらからともなく声が洩れた。部屋に入ってきたのはマナミさんだった。
「あなた、この間の……」
「先週はお世話になりました。ほんとに助かりました」
私は立ち上がってお礼を述べた。こうしてまたマナミさんに会えたことに嬉しくなった。この嬉しさの半分は藤枝さんの考えた作戦が予想どおりの展開に運んだことの嬉しさであったが、残りの半分は純粋にマナミさんという人物に会えたことだった。
「もう体調は大丈夫なの?」
「はい。もうすっかり」
元々何でもないわけだから早くこの話は切り上げたかった。
「まさか、仏像を譲ってくれる人があなただったとはびっくりしました」
「私ではないの。私はただ、譲るための手続きをするだけ。……話を聞かせてもらっていい?」
マナミさんが私の正面のソファーに座った。こうして相対して見ると、マナミさんの美しさは表情から作られていることがわかる。涼しげな目元も微笑するとなんとも柔らかい印象になり、このギャップに男性はやられてしまうのだろう。宮永さんも……。
私はこの時始めて彼女に嫉妬をした。宮永さんが好きになった女性。宮永さんに愛されている女性。
私は意識を引き戻して、朝倉さんに語ったことと同じことをマナミさんに語った。私が藤枝さんと言った時、一瞬マナミさんが反応したように思えたが、気のせいだったかもしれない。
「その藤枝さんという女性、仏像を買うように勧めたの?」
「いいえ。私の母が肝臓病で苦しんでるという話をしたら、自分はあるものを購入してからよくなったという話をしてくれて、私がしつこく仏像のことを聞き出したんです」
私は藤枝さんに火の粉が飛ばないように話を作った。
突然、マナミさんがソファーから立ち上がった。続き部屋になっている部屋に行ってしまい、数分戻ってこなかった。戻ってきた時には手に黒いファイルを持っていた。
「藤枝さん……」と言いながらファイルをめくり、「藤枝紗登子さん?」と言った。私は名前まで聞いていなかった。
「あの名前は存じ上げてなかったんですけど、歳は六十代後半で……、あっ! あざみ野に住んでます」
「そう、この人ね。最近お見かけしないけど、元気かしら?」
私はマナミさんが持っているファイルに目が釘づけだった。このファイルが手に入れば……。
「あの……、それで仏像は譲っていただけるのですか?」
「ああ、そうね。その前に仏像をお見せしないとね」
彼女は部屋に入ってきた時から手にしていたバックから、桐の箱を取り出した。二十センチほどの箱で蓋を開けると臙脂色のビロードに包まれた金色の仏像が現れた。手に持って少し余るくらいの大きさだった。私はそれを慎重に手に取り、ずっしりとくる重さに、まさか本物の純金? などと思ったがそれを察したマナミさんが空かさず言った。
「銅に金メッキを施したものよ。でも金の部分は10gもあるの」
私はそれが多いのか少ないのかわからなかったがとりあえず値段を尋ねた。八十五万円という答えに、高いと想像していた私でもびっくりしてしまった。私は罷り間違って買う羽目になった時のことを考えて、敢えて小さい仏像を選んでいたのだ。
「その値段ではとても買えません」
私は「諦めます」と言って部屋から出て行こうとした。
「八十五万円を一括で払うのは無理よね。いい方法があるの。でもその前に、あなたともう少し話しをしたいと思ってるの。せっかくこうしてお会いできたんだから」
私はシナリオどおりに事が運ぶことに胸が躍っていた。
場所を変えない? と言われて、外でお茶でもしながら話をすることになった。先ほどのファイルが気になった私は、お手洗いをお借りしますと言って、部屋から出て、ドアを完全に閉めない状態にして、ドアの隙間から中を覗いた。マナミさんは仏像を先ほどのバックに戻し、黒いファイルは奥の部屋に持って行った。その時、ドアを開け放したままだったので奥の部屋が少し見えた。右側にある棚に戻したように見えた。私はその位置をしっかり記憶した。
駅とは反対側の閑静な住宅街の一角にある、洒落た洋館風のカフェに入った。常連らしい主婦仲間が何組かお喋りに興じていた。私たちも主婦仲間に見えるだろうか。
「あなたとは、なんだか縁があるわね。最初お会いした時、年齢も同じくらいだし、なんであなたが謙翔会を信仰するようになったのか聞きたいなって思ってたの」
「えっ……とそれは……」
私が言い淀んでいると、
「その前に私が話すべきよね」と言ってマナミさんは身の上話を始めた。
「夫がね、会社の女の子とできちゃったの。その子、夫の子供を妊娠したって言って、私に別れてほしいって言ってきた。私は絶望して電車に飛び込もうとしたの。今思うとあまりにも短絡的で恥ずかしいんだけど、その時はほんとに死ぬ気だった。その時、たまたま駅に居合わせた人に助けられて……、その人が謙翔会を紹介してくれたの」
私は耳を塞ぎたくなった。聞いたことのある話が疑いようのない事実となって突き付けられたのだ。
「謙翔会を知ってから私は変わった。気持ちが前向きになって、夫の浮気くらいで死のうとしていた自分がバカみたいに思えたわ」
マナミさんはそこで笑顔になっていた。
「旦那様はその会社の子とどうなったんですか?」
「妊娠は嘘だったの。その子が夢中になり過ぎてついた嘘だったの。夫はそんなバカじゃないから、それきり別れたみたいだったけど……。ずいぶん反省はしたみたい。でも、もうどうでもよくなっちゃった。私はもう彼を信頼してないの。あの人の浮気をいちいち気に病んでたら、気がおかしくなっちゃう。それよりも謙翔会という素晴らしいものに出会ってしまったから」
宮永さんの浮気――。何か違うような気がした。彼の浮気というよりも、彼の魅力に女性が溺れてしまうような……、そういうもののような気がした。私はまさにそれに巻き込まれているのかもしれない。
「本当はもう離婚してもいいと思ってるの」
マナミさんは唐突に言った。
「でも……、でもあなたの旦那様は、まだあなたを愛していると思います」
真剣に取り戻そうとしている。じゃなかったら、あんなに教団のことを調べて、勉強して毎晩のようにサイトに書き込みなんてしない。
「なんでそんなことわかるの? ……まあ、いいわ。そういうことももうどうでもいいの。あなたの話を聞かせて?」
私は困ってしまった。こんな話を聞かされて、たいした悩みもない私の話というのは……。しかし嘘を言っても仕方ないので、姉が先に入信して、姉の表情がどんどん明るくなっていくのを見ているうちに、自分も入信したくなったと説明した。
「あっ、それと、母親が病気で何とかよくなってほしくて……」
急いで付け足した。忘れるところだった。
その話から、また仏像購入の話になった。分割を勧めてきたが、そうそう買える金額ではないと再び断わった。しかし、むこうも負けていない。
「今度、セミナーがあるのよ」
「セミナー?」
「在家の人だちだけでなく、一般の人も参加できる、謙翔会をもっとよく知ってもらうためのセミナーなんだけど、そこでも仏像の話を聞けると思うわ。私は参加しないけど、興味あれば今からでも申し込めるか聞いてみるわ」
これはいいチャンスかもしれない。行ってみたいとの希望を伝えた。
その日、マナミさんと別れて一人で家に帰る途中、誰かに後を付けられている気がした。




