第七話
梅雨入りを控え、普段はそうでもない人も折り畳み傘を持ち歩くようになる時期。
今も、厚い雲が空を暗く覆って、いつ雨が降り出してもおかしくないような天気。予報だと、今日は夜中まで降らない事になっていたが、この分だとどう転んでも不思議ではない。
「先輩は、雨は好きですか?」
「家の中なら。降られたくはない」
「気持ちは分かります。雨音は好きなんですけど、今降り出すのはちょっと勘弁してほしいですね」
「だよな。で、水野さん」
「はい?」
「この流れで言うのもおかしな話なんだけど、また喫茶店に行こうかなって。水野さんに教えてもらったところ」
「どっち……って、学校帰りですし、レミニスですね。最初に教えた方ですよね」
「そうそう。あそこレミニスっていうんだな」
「はい。そういえば、店の名前は言ってませんでしたね」
ふむ。
不意に、頭の中で小さなパズル遊びが始まる。
丸罰ゲームくらいの難易度だが。
「マスターの苗字、橘とかだったりするのか?」
「……私なんか、聞くまで知らなかったのに。なんで先輩がそんなメルヘンな知識持ってるんですか」
「花言葉ってメルヘンなのか?」
因みに、レミニスの元となっただろう言葉が和訳すると追憶という意味の英単語で、追憶という花言葉を持つのが橘という柑橘系の植物、というかなり安直な発想で出した答えだったのだが。
水野さんの反応を見る限り、それで正解だったらしい。
「それで、どうかな」
「どうって、なんですか?」
「一緒に行けたら、と思ったんだけど」
「そりゃ行きますよ。断る理由はありませんし。でも、雨が降り始めたら家まで送ってください。折り畳み、鞄に入れるの忘れてました。全部全部天気予報が悪いんです」
「まあ、それは構わないけど」
水野さんはニュースキャスターが今日は夜中まで降らないと言っていたのを聞いて、油断していたらしい。
俺は一応持ってきている。朝から雲行きが怪しかったから、殆ど無意識に。
鞄の中を確認してみても、ちゃんと入っている。問題は、もし本当に降ったら、折り畳み傘に二人で入ると絶対に狭いという事。
いくら水野さんが小柄と言っても、流石にこればっかりはどうにもならない。
最悪の場合、水野さんに折り畳み傘を預けてしまって、俺は走って帰っても良いかもしれない。
他にも理由は幾つかあるが。
「なら、行きましょう」
「あぁ」
駅まではいつもと同じ。そのまま駅舎を抜けて、閑静な住宅地を通って、喫茶レミニスの扉をくぐる。元々静かな場所という理由もあるかもしれないが、それを差し引いても店の中は静かなものだった。
まあ、この天気では仕方ないか。
パッと見た感じ、前に来た時と比べて半分も居ないだろうか。相変わらず、学生らしい姿は見受けられないが。
「お好きな席へどうぞ。……二か月くらいですか?なかなか長持ちですね」
「私のこと電池みたいに言うのやめてもらえます?」
「これは失礼……つい口が滑りました」
「水野さんは人間関係が長続きしにくいのか?」
「……まあ。余り続きませんね。なんだかどっちかが遠慮してしまって、上手くいかないと言いますか」
「あ~……なんか容易に想像できるな、それ」
水野さんの性格と、相手の性格が上手く噛み合わないという事だろう。
相手の方が遠慮し過ぎると自然消滅のようにフワッと終わり、相手が積極的過ぎると鬱陶しくなって遠ざけてしまう。
そんな光景が目に浮かぶようだった。
「ご注文は?」
マスターが声をかけてくる。
『ブレンドで』
思わずハモる。
『あっ……』
また重なる。
「ぶっ……ブレンド二つですね。かしこまりました」
マスターが何やら面白いものでも見たように笑いを堪えながらカウンターの奥の方へ向かう。
そこで、水野さんが先程の続き、とばかりに口を開く。
「……先輩は距離感が絶妙で、いい具合に天秤がつり合ってる気がするんです」
「そうなのか?」
「先輩は、そうでもなかったりしますか?実は無理してるとか……」
「そんなことは。水野さんと居るのは心地好いから、俺はむしろ水野さんの方が無理して合わせてくれてるんじゃないかと」
「そうですか。……そんな風に見えました?」
「どうだろうな。正直、水野さんの考える事はよく分からん」
「……私も、先輩の事はよく分かりません。用心深過ぎて、本当に何を考えてるのか……」
軽く睨むような視線をこちらへ向けながら、そんな事を呟く水野さん。
「人の気持ちが簡単に分かったら、どれだけ楽か」
「生きる楽しみが無くなるくらい、ですかね」
「なるほど、確かに。無いものねだりか」
「ですね」
人の心が読めれば、なんて言うが、きっと実際にそうなったら退屈で仕方ない。
もし本当に心を読める人間が居るとしたら、一体どんな感覚で生きているだろうか。
生まれついてのものか、或いは後天的にそうなったかというのでも違う感想が出てきそうだ。
「……もし心が読めたら、他人を騙すことも、疑う事も無くなるでしょうか」
「善意で他人を傷つける人が明るみに出て、地獄だな」
「……それは、嫌ですね。魔女裁判が無くなるだけマシかもしれませんけど、結局のところ、こうなったら必ず良くなるなんて事は無いんですね」
「……あぁ、魔女狩りの事か。確かに、比喩的には現代社会にもあるな……。心が読めれば無くなるって意味なら、美人局とかも近いか」
「つつもたせ……?」
「ビジンキョクって書くあれ」
「あ、美人局。言われると思い出しますし、意味も分かりますけど、今パッと頭の中で変換出来なくて。なんであんな分かりにくい字なんですかね」
「……そういえば、なんでだろうな」
「元々は、仕掛けサイコロを使ったイカサマ賭博の事をつつもたせと言い、それが安物を高く売りつける行為、法外な値での売春行為、そして今使われている美人局の意味に転じた、と言われていますね。詳しい事は知りませんが。お待たせしました、ブレンドになります」
美人局の語源というか由来を丁寧に説明しながら、コーヒーを差し出すマスター。
「……詳しいですね」
「いえ、その手の知識に明るい友人が居まして、そこから少し聞いた程度ですよ。それにしても、何故美人局の話に?」
「人の心が読めたらどうなるか、って話をしてて」
「なるほど。そういうことですか」
「マスターはどう思います?もし人の心が読めたら……」
「余計な事まで知って、嫌な思いをしそうですね」
「よりネガティブな意見が」
「いえ勿論良い事もあると思いますよ。ただ、そうですね……例えば、貴方達二人の内心は……ちょっと勘弁願いたいですけど」
「まあ要するに、良い事ばかりでは無いだろう、と」
「そうなりますね」
なんとなく、そんな回答が返ってくるだろうとは思っていたが。
「そういえば、少し話は戻りますが美人局なんて言葉を耳にしたのは久々ですね。エウリアンと同じくらい聞きません」
「なんというか、ちょっと死語っぽいですよね」
「そんな事は無いと思うんだけどな。ラノベとか読んでると、たまに出てこないか?」
「確かに、出てきますね。本当に極々稀ですけど」
「……ではそのライトノベルを書いている世代は?」
「……あっ」
「そういう事です。死語とはまではいかなくとも、少なくともイマドキな言葉ではないかと」
「イマドキっていうのも、聞きませんよね」
「……どうやら、ここに若者は居ないようですね。おかしいですね。お二人は高校生、僕も二十六なんですがね?」
「おかしいですね」
「おかしいですね?」
三人、顔を見合わせて笑う。
そのまま、外が暗くなり始めるまで、三人で雑談に花を咲かせていた。
――――――――――。
もう殆ど陽は落ちきっていて、流石にそろそろ帰ろうか、となった時、俺は、いや俺達はある事を思い出した。
一度、水野さんに時間は大丈夫か訊いてみたら、今日は連絡を入れてあるから大丈夫、という事だったので、うっかりしていたのだが。
「雨、かなり強いですね」
「そうだな」
そう。
雨が降るなんてことは、すっかり忘れていたのだ。
水野さんが、ちょっと困った表情を、相変わらず顔には出さないまま浮かべている。
「この雨じゃ、水野さんと二人で傘に入っても、あんまり意味無いかもな」
「そうですね。なので……」
「って事で、これ」
言いながら、俺は水野さんの手に鞄の中から折り畳み傘を押し付けるように渡す。
「はい?これは……」
「見れば分かるだろ」
「はい。傘ですね。折り畳みです」
「貸すから。気を付けてな。じゃあ」
反論の余地を与えず、俺はそのまま軒下を出ようとするが。
「え?いや、ちょっと、先輩!待ってください!」
流石に静止をくらう。
「なんだ?」
「これが無いと、先輩が帰れなくなってしまいますよ」
「帰れるって。そんな距離でもないし、駅まで走って、駅からまた走るだけだ」
「いえ、そういう事ではなくて……その……」
「いいから。じゃあ、また学校で」
「ですから!」
「あぁ、明日返してくれればいいから」
「……もう、分かりましたよ。風邪でもひいてしまえ、この……」
と、何か言いかけて水野さんが口を噤む。
まあ、言わんとすることは分かった。
「馬鹿って?」
「……そうですよ。他人の体を気遣って、自分の事は疎かにするなんて馬鹿のする事です」
「じゃあ、馬鹿でいいから」
「……ありがとうございます」
「あぁ。じゃあ、また」
「はい。また明日」
そうしてその日は、水野さんと別れた。
俺は駅まで雨に打たれながら走って、電車で近くになった人から疎ましそうな視線を向けられて、電車を降りたら再び家まで走った。
当然だが、家に着く頃には、制服のシャツもズボンも、髪も雨でずぶ濡れだった。
気持ち悪くはあるが、水野さんを濡れて帰らせるよりは幾分かマシだ。
以前だったら、水野さん以外だったら、こんな事は思わなかっただろう。同性相手なら勿論そうだし、異性が相手だとしても、自分でなんとかしろ、と切り捨てていた筈だ。
それだけ、自分の中で水野さんの存在が大きくなっているという事に気付いて、少し恥ずかしくなった。
もう少し緊張感を持て。そう自戒した。
水野さんと居るのは好きだ。会話すればそこそこ弾むし、静かな時間を共有する事もできる。稀有な存在だ。趣味や気が合うという点でもそれは同じことが言える。
現状、一番大切な存在と言って良いだろう。
だが。
だからこそ、俺は彼女を、水野さんを一番に警戒しなければならないのだ。
余りにも気を抜き過ぎている。
一人になった時に自分の行動を、言動を省みて、そう感じてしまうくらいには。
そんな状態では、自分の身は守れない。
だからと言って、余り露骨に警戒するのも、それを気取られてはいけない以上良くない。
それに、俺は水野さんを少なからず好ましく思っているのだ。
自制と感情が、強烈にせめぎ合っていた。




