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第二十三話

 外へ出ると、空を覆っていた雲は、いつの間にか姿を消していた。


 幸せな時間、楽しい時間というのはあっという間に過ぎるもので、もう空も随分と赤らんで来た頃。


 歩行者信号が目の前で点滅し始める事に、苛立ちよりも安心を覚えるような寂寥感の募る駅への道。


「今日は、なんだかとても気を遣わせてしまってすいません。ありがとうございます」


「ん?何の事だ?」


「慣れないヒールなんか履いてましたし、歩くの遅かったでしょう?」


「あぁ、そんな事か。気にしなくていいのに」


「言っておかないと、私の気が済まなかったんです」


「そうか。それなら、どういたしまして、だな」


 黄昏色の中、今日という日が終わってしまう事を名残惜しむようにゆっくりと話していると、ふと低気圧かビルの呼んだ強い吹き込みが、風香の長い髪を大きく揺らした。


 その時。


「ん……?」


 俺がそう溢すと一呼吸遅れて、少し慌てたように、或いは何かに怯えるように、繋いでいた手を離して風香が額を抑えた。


 特に動く事をしなければ俺がそれを特別に気に留める事は無かっただろう。風香も当然それくらい頭では理解していた筈で、ならばそれは反射的な行動だったのだろう。


 俺は確信する。


 ほんの数瞬目に触れたそれが、何が重大な意味を持っている事を。


 夕暮れの作るセンチメンタルな雰囲気は、瞬間、一気に霧散した。


「風香、その傷……」


 ビクッと、繋いだ手が跳ねた。


「ち、ちが……私……っ!」


 信号は少し目を離した隙に赤から青に変わっていて、なのに動かない俺達へ通行人が怪訝そうな視線を流して通り過ぎていく。


「……とりあえず、落ち着こう。大丈夫だから」


「は、はい……」


「歩けるか?」


「……はい」


 自信無く頷いた風香を支えながら駅まで歩く。


 踵のある靴なのも相まってか、覚束ない足取りでフラフラと力無く歩く風香が、俺の手を強く握ってきた。それこそ、爪が食い込むくらいに、強く。


 血が滲む。痛みは大したものでもないが、風香がその事に気付かない程余裕を失っているという事が、普段からは想像もつかない遠慮の無さから伝わってくる。


 改札を通って、風香と電車に乗る。普段ならば当然気付いて気を遣ってくるだろうが、その電車が俺の帰るのとは逆方向だという事にも気付いていない。どこまでも上の空だ。


 何かを堪えるように、何かに耐えるように両手を強く握り込んで、全身をガクガクと震わせて、繋いだ俺の手だけをずっと見つめる風香。


 そのまま成り行きで風香のマンションの前まで辿り着いてしまう。


「風香、もう家の前だけど、大丈夫か?」


「……はい」


「うん、まあ知ってたけど、大丈夫じゃないな」


 言葉の意味を辛うじて噛み砕いてくれているのだが、どうも条件反射で話しているらしい。要するに、状況が全く飲み込めていないのだ。


 こんなにも取り乱した風香は、今まで見たことが無い。


 それだけ、あの額の傷痕は重大な何かを意味しているのだ。


「家に人は?」


「お母さんが居ます……」


「俺は、上がってもいいのか?」


「……先輩、な……ら……?」


「ようやく正気に戻ったか」


「あ、あれ?私……あ、あぁっ!ごめんなさい!こんなところまで送っていただいてしまって……。手の傷も……私、なんて事を……」


「それはいい。気にするな。あんな状態の風香を放っておけるか。そんな事より、上がっていいのか?」


「えっと……はい。大丈夫です。お母さんは居ますけど、家に人を呼んだらダメと言われた事は無いので」


「なるほど」


 つまり、今まで呼ぶような相手が居なかったという事だろう。


 それ自体は特に意外でも無いし、風香もとりわけ気にしていないらしいから構わないのだが。


「……まあ、お察しの通りです。そういう訳で、折角ここまで来たので少しゆっくりしていってください」


「それなら、お言葉に甘えさせてもらうかな」


 と、成り行きに成り行きが重なって。


 ついこの間来たばかりの風香の家、三〇八号室の前。


「一応確認だけしてくるので、ちょっと待っててください。もう家の前まで来てると言えばダメとは言われないと思いますけど」


「あぁ」


 言って、風香が扉の向こうに姿を消す。


 今から恋人の親と顔を合わせる事になるのだと思うと少し緊張してしまうが、果たして風香の母親とはどんな人物なのだろう。


 そんな他愛ない事を考え始めると、一分もしない内に扉が開いた。


「どこか出掛けてるみたいなので、どうぞ。上がってください」


「お邪魔します」


「私の部屋で構いませんか?」


「それは勿論」


 部屋に通してもらうと、風香は声を掛ける間もなく出て行き、かと思えば程なくして戻ってくる。


 その手には、救急箱を持っていた。


「手、出してください」


「ん?あぁ」


 俺は左手を差し出す。荷物を提げていた方の手だ。


「そっちじゃありません。私と繋いでいた方の手です」


「……あぁ」


 気にするなとは言ったのだが、それで気にしないかと言えばそんな訳が無かった。


 俺は言われた通り風香と繋いでいた方の、つまり爪が食い込んで傷の付いた右手を出す。


 すぐに箱から道具を出して、右手の傷になったところに消毒など必要と思われる処置を実に手際よくこなしていく。


「本当にごめんなさい……」


「気にしなくていいんだけどな」


「そういう訳にはいきませんよ……。はい、これで終わりです。ありがとうございます」


「ありがとうな。利き手だったから助かった」


「それこそ、気にしないでください。元はと言えば私のせいなんですから」


「律儀だな」


「先輩が言いますか?」


「……まあな」


 反論の余地が無いそれに俺が言葉を詰まらせると、風香が小さく笑う。


 しかし、やはりどこか気掛かりは消えないようで、その笑みは屈託した作り笑いじみて見えた。


 暫く、居心地の悪い沈黙が降りた。


 風香との間に流れる静寂感に、こんな緊張を覚える事は珍しい。


 それは、風香の心の内と同じことを意味している。


「……訊かないんですか?」


「聞いてほしいのか?」


「……どう、なんでしょう」


 普段から落ち着いた調子の声色ではあるが、今のこれを落ち着いたと表するのは違う。


 落ち込んだ声、というべきだろう。


 不思議なことに震えた声ではないが、恐怖や不安で感情のキャパシティが埋め尽くされてしまっているのだ。


 その気持ちは、痛いほどに分かる。喉の奥に何かがつっかえるような幻覚さえする。


 自分の側に問題があって、それが原因で嫌われてしまう事に対する憂慮。それがたとえ自分に責任の無い事でも、非の無い事でも、その不安を和らげる理由にはならない。


 俺の問いに回答を濁したのは、実に簡単な理由だ。


 知ってもらわないと進めないし、ずっと怯え続ける事になる。それでも、話すのは怖い。それで何もかも終わってしまうかもしれないから。見限られる事が何よりも怖い。


 ならば、その答えは俺に託されたのだろう。


「聞かせてくれ。人間、心配事をするのが一番疲れるんだ。話した方がスッキリする」


「そう、ですね……。じゃあ、話します。できれば……嫌わないでほしい、かな、なんて……お願いです」


 俺が頷くと、風香はぽつりぽつり話し始めた。


「……私が、髪を伸ばしてる理由でもあるんです」


「傷痕を隠す為か」


「はい。……小学校の高学年に上がった頃からです。父が、暴力を振るうようになって……最初は、酒に呑まれた拍子、みたいな頻度だったんです。けど、それがいつの間にか……」


「エスカレートしていった」


「……はい。額の傷は、小学五年生の夏からずっと……。私が叩かれて、倒れた先に棚があって、丁度その角にぶつけた時、沢山血が出て、私は意識が朦朧として病院に運ばれました。父は、血を見て少し怯えた表情をしていました」


「……あぁ」


「それが響いたのか、暫く暴力が収まったんです。……けど」


「まだあるのか」


 風香は小さく頷いて続ける。


「それから一年くらいして、今度は身体を使われるようになりました……。嫌だって、言ったんです。でも、腕を振り上げられたら怖くて、体が震えて、逆らえませんでした……。最初は手、慣れてきたら口でした。最後は……言わなくても分かりますよね……」


 風香が震える唇から、掠れた声で紡ぎ出される恐怖の記憶。


 話し方の生々しいせいか、ありありとその光景が想像できてしまう。考えただけでも吐き気がしてくる。


 ただ、語られたそれが決して意外という事もなかった。想像の範囲を超えていたというだけで。


「知ってますか?最初って、凄く痛いんですよ。頭をぶつけるより、ずっと痛くて、苦しいんです。奥に注ぎ込まれる感覚も、おぞましいくらいに気持ち悪くて……。耐え切れなくなって、私は母に相談もせず交番に行きました」


 それも仕方あるまい。


 父親がそんな事をしていると知らなかったとして、それが年端もいかない少女にとってどれだけの意味を持つか。


 なんで助けてくれないの。なんで知ろうとしてくれないの。なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで。


 小学校高学年の風香が求めた救い。悲痛な心の叫びが、頭の奥に響いてくる。


 親どころか、周囲の大人、或いは人間そのものに対して不信感を覚えていてもおかしくないその状況で、辛うじて信用のおける公的機関を選んだ風香を誰が責めると言うのか。


「それから、父が家を去るまでは本当にあっという間でした。大して法律に詳しくなかった私は、見た事も無い大人にただただ自分の身に起きた事を淡々と話しました。強い子だ、なんて誉めているのか貶しているのかも分からないような言葉をかけられました」


 淡々と話した、というのは、感情を正しく表現する方法が抜け落ちてしまうくらいに参っていたのとほぼ同義だ。


 そしてそれが全く自然な事のように思えてしまう程度に、語られた内容は凄惨だった。


 きっとひたすらに空虚だったのだろう。


 風香からしてみれば、自分だけでなく父親も失ったのだから。


「そして、それ以降大した事件も無く今に至ります」


「あぁ……」


 心というものに非自覚的な年頃に降りかかった不幸としては、余りに酷だ。


 人によっては、いっそ死んだ方がマシとすら言うかもしれないくらいには、何も救いが無い。


 失っただけ。それで何を得るでもなく、本当にただ何もかも奪われただけ。


 風香が今まで何を標に生きてきたのか不思議に感じてしまう。


 同情が何の支えにもならない事ならよく理解しているが、それでも心が痛んだ。


「……気持ち悪い、ですよね。こんな話してごめんなさい」


「いや、いいんだ。辛い思いをしたのは、俺じゃない。風香が謝る事じゃないだろ。……それから、風香の事は変わらず好きだ。過去がどうだろうと関係無い。俺は、今の風香が好きだよ」


「……ありがとう、ございます。先輩なら、そう言ってくれるって思ってました」


「だったら、別にお願いなんかしなくてもよかったんじゃないのか?」


「そうですね。でも、今までこの話をしたら引かれるか憐れまれるか、どっちにしても、嫌な距離になってしまって」


「そうか……まあ、辛い話だからな。俺だって、聞いててちょっと心が痛かった」


「……だったら」


「勘違いするなよ。俺は今ここに風香が居てくれれば過去に何があったかなんて気にしないって言ってるんだ。それと俺が話を聞いてどう思ったかは別だろ」


「……そうですね。なんで今までそんな簡単な事に気付かなかったんでしょう」


「それだけ、風香にとって辛い出来事だったんだろ」


「……先輩」


「なんだ?」


「改めて、これ、大事にしますね」


「……あぁ」


 風香が小さく持ち上げて俺に見せたのは、着けっぱなしになっていた月の飾りがあしらわれたネックレスだった。



――――――――――。



 暫く流れていたゆったりとした時間を破る様に、玄関の方で音が上がった。


 開錠と、扉の開閉音。随分丁寧なのが音だけでも分かる。


「あ、お母さんが帰ってきたみたいですね」


 言うや否や、風香の部屋、つまりこの部屋の扉をノックする音が響く。


「ただいま。誰か来てるの?開けて良い?お取込み中だったりする?」


「おかえりなさい。先輩が居ますけど、特に何もしてませんよ」


「じゃあ開けるわね」


 という会話の後、部屋の扉が開かれる。


 姿を現したのは、髪を切った風香、と言われれば納得できそうなくらい似た女性。壁越しだったが、声も殆ど同じだ。


 ただ、声の調子や雰囲気は風香のそれより随分と明るく、間違えるかと言われれば決して間違えないのだが。


「お邪魔してます」


「いらっしゃい。風香の母の藤花です」


「澤木翔です」


「先輩さんね?」


 その問いには、俺ではなく風香が頷いて答えた。


「ん~……風香のこと、どう思ってる?」


「どう、と言うと……」


「ほら、あるじゃない?いじらしくて可愛いとか、守ってあげたいとか、そういうの」


「なるほど。それなら、そうですね……一緒に居ると落ち着きます。それから、話してみると見た目の印象より面白いですし、俺の事をよく理解してくれてるので」


「へぇ……」


「何か……?」


 風香のお母さん、藤花さんの視線が鋭くなったのが分かる。これくらいなら姉さんに比べればなんてことはないが、品定めする様な視線を向けられるのは少し慣れない。


 俺は本心から思っている事しか言っていないのだが、何か気にかかるところでもあるのだろうか。


 いや、あるのだろう。


 よく考えてみれば、風香には取り入られそうな過去がある。そこに付け入られたら、甘言に組み敷かれてしまう可能性も考えられる。勿論、風香がそこまで不用心でない事も理解した上で、それでも俺の事を疑っているのだろう。


 良い親だ。


「……先輩は、なんというかストイックでプラトニックな方なので、そういう心配は要りませんよ」


「風香がそういう風に思ってるから心配してくれてるんだろ」


「その心配は無くなりました。でも、良かった……風香、やっと甘えられる人を見つけたのね」


「……ッ!?」


 言われた途端、風香が一瞬の内に顔を真っ赤にして俯く。


 俺は、何の事だろう、という顔をしておいた。


「あら。先輩さんの方は無自覚?」


「ちがっ……」


「俺が何か?」


 風香はすぐに俺が何か演技をしたのだろうと察して母の誤解を解こうと声を上げたが、当然俺はそれを遮る。


「ううん。分からないならいいの。きっと風香も悪いようにはしないから。これからも風香の事、よろしくね」


「え?あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


 俺の返事を聞くと、藤花さんは部屋を出て行った。やけに上機嫌そうに。


 そして、足音が離れていったのを確かめた風香が、冷たい視線を俺に向けつつ言う。


「先輩?」


「ん?」


「ん?じゃないですよ。なにサラっと流そうとしてるんですか。私は騙されませんよ?」


「知ってるけど、別にいいだろ。実際、風香のことは全く負担になんて感じてないんだから。それとも実の親の前で惚気られて恥ずかしい思いをしたかったのか?」


「くっ……ああ言えばこう言う……」


「何を今更」


 まあ、確かに若干印象操作めいているが、あれくらいはよくある事と見逃してほしいところだ。


「……本当に私のこと負担になってませんか?」


「全然」


 俺が断言すると、しかし風香はどこか納得がいかないのか更に問いかけてくる。


 全く嘘は言っていないのだが、それだけ念を押すという事はやはり不安なのだろうか。或いは、俺の言葉が嘘か本当か計りかねているのか。


「……重くないですか?」


「……重い?」


「重いでしょう?何というか……性格とか、過去とか」


「いや、別に」


「……だったら、良いんですけど」


 不服そうに言う風香。それ程に自信が無いのか、と思わないでもない。


 勿論、心配になる気持ちも分かる。そういう性分なのだろうし、俺にもそういう心当たりがあるから全く人の事は言えない。


 ただ、だからこそ、そういう部分で不安を感じる風香に寄り添って居たいと思う。少しでもその不安を和らげられるように。


「……先輩って、考えてることが全然分からないんです。理由も分からないのに優しいから、気を遣われてるんじゃないかって」


「理由か……恋人だからじゃダメなのか?」


「それは、先輩の気持ちじゃないじゃないですか」


「俺が好きでもない相手と付き合うと思うか?」


「……言いたい事は分かります。けど、そういう事じゃないです。全く合理性に欠きますけど、納得できません」


「あぁ……まあ、そういう事なら仕方ない」


 感情と合理性なんて水と油の関係だ。相反するとまでは言わないが、親和性は途轍もなく低い。


「好きの気持ちを証明する数式があったら良いのにな」


「……柄にも無い事を言ってますね」


「言ってから自分で思ったよ」


「それに、そんなものがあったとして、疑り深い性分はそう簡単に変わりませんよ」


「違いない」


 染み付いた癖は絶対に抜けない。それが疑う事ならば、自分すら信じ切れないほど懐疑的な人間ならば尚のことだ。


 直したくても直せない。生きる上で必要に迫られたから身に付いたものを捨てる事に対する恐怖で体が動かなくなるのは、疑い癖に限った話ではない。


「……まあ、言いたい事は分かりますけどね」


「だよな」


「でも、今は無くて良かったかなって思ってます」


「……その心は?」


「そんなのがあったら、先輩と出会っても上手くいかなかった気がしますから」


「……あぁ。なるほど、確かに」


「なので、良いんです」


「理由が知りたかったんじゃないのか?」


「……先輩の言葉を信じます」


「好きだからって?」


「はい。先輩が今日話したことを気にしないと言うのも、優しくしてくれる理由も纏めて」


「……そうか」


「だって、私は先輩に嫌われたい訳じゃありませんから。私も先輩と一緒に居たいですから。そういう事、ですよね?なので、信じます」


「……あぁ。ありがとう」


「どういたしまして」

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