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第十九話

「おはようございます、先輩」


「おはよう、風香」


 月曜日の朝。いつもの様に、駅前で風香と落ち合う。


 あんな事があった後なのだから当たり前かもしれないが、立華さんは今日は一緒には来ないらしい。風香を通してそんな連絡を受けていた。


「学校、行きますか?」


 と、風香。


「なんだその、サボりませんか、的なニュアンスの強い訊き方」


「いえ、なんとなく……先輩の顔色が良くないように見えたので」


「気のせい」


「ではないですよね?」


「……まあ、風香が見過ごしてくれないくらいには、やられてるんだろうな」


「ご理解いただけた様で、何よりです。それで、どうしても学校に行きますか?」


「……いや、やめておこう。それで、どこに行くんだ?」


「決まってるでしょう」


「だと思ったよ」


 と、早速駅を通り過ぎて静かな住宅街まで移動し、そこで休みの連絡を学校に入れる。殆ど同時に風香も電話を入れていた。


 そして、勿論向かった先はレミニスだ。


 しかし、三叉路の向こう側に店を構えている雰囲気の良い喫茶店レミニスの扉にかかった板は、まだ準備中になっている。


「ん……?まだ開いてないみたいだぞ」


「なんでここから見えるんですか。まだ開いてないのは、そうですね。後十分ちょっとですよ」


「なるほど。あと、見えるものは見える。割と目は良いんだ」


「私は、眼鏡をかけててもここからは見えませんよ」


「そういえば、たまに眼鏡かけてるな。今はしてないけど」


「授業中は席が後ろの方なので眼鏡ですよ。裸眼視力が一より弱い近視です」


「俺はどれくらいだったかな……詳しく測った事はないけど、よくある視力検査のボードなら適正距離で全部見えるくらいだ」


「相当良いですね。羨ましいです」


「正直、どう羨ましいのかも分からないんだが」


「そういえば、立華は普段からコンタクトをしているらしいです」


「……まあ、弱視はメラニン欠乏症の人には珍しくない症状だからな」


「へぇ……そうなんですね。あと、今ので先輩が誰の事を気にしてるのか分かりましたよ?」


 丁度レミニスの前に着いた辺りでそう指摘される。


 ちらほら、開店を待つ人が居る中、俺は小さく頭を下げる。


「……悪い」


「いえ、気にしてない訳じゃありませんけど……先輩の事ですからね。どうせ、立華を傷付けたんじゃないかって、気にしてるんでしょう?昨日、立華が駅で私と別れて先輩のお家に向かった時点である程度察してましたよ」


「だろうな。あぁ……でも、そこまで分かるか」


「はい。先輩がどんな人なのか、それなりによく分かっているつもりです。勿論、私から見えてるのが全部ではないでしょうけど、でも臆病で慎重で優しい先輩が選んだ事なら、少なくとも最悪の結果にはならないと思います」


「……だといいな」


 風香が励ましてくれている。


 俺にとってはその事実が一番の励ましになるのだが、風香自身はその事に気付いているのだろうか。


 全く人の事は言えないので口には出さないが、風香は自分を価値を過小評価している気がする。風香より魅力的な人などそうは居ないのに。


 芯が強く、しかし頑なでなく、自分の意見をハッキリと伝えつつも押し付けはせず、周りがよく見えている。


 しかし、周りが見えているからこそ、自分がどこか周囲から浮いている事を理解してしまっているのだろう。そして、周囲の人間は無意識に、違いに自覚的な人間に指を差して追い詰める。


 そうすると、もうどうしようとも、自己評価が上がる事など無くなってしまうのだ。


 それから、広く深い知見を持つ人間ほど己の未熟さを知っている、というのも大きいか。


 などと考えていると、風香が言葉を重ねてくる。


「それに、私の為にしてくれたんですよね?」


「そんなつもりは無い。俺はただ……」


「はいはい。そういうのはいいですから。どうせそうやって全部自分が勝手にやった事だって、私に気負わせないようにしたいんですよね?」


「気付いてるなら、そのまま押し付けてくれればいいだろ。風香もつくづく優しいな」


「そ、そんな事……ありませんよ?」


「いや、そんな裏返った声で言われても説得力皆無だから。それに、風香が優しいと思ったのは俺だから、風香に拒否権は無い」


「そんな横暴なっ!?」


「横暴だが事実だ」


「う……で、でも先輩みたいには、上手くできませんからね」


 顔を赤らめつつ抗議してくる。目元は相変わらず長い前髪に隠れてよく見えないが、怒っているというよりは恥ずかしがっているだけだろう。


 風香は大抵の事に動じず、余り顔色に出さず、大人びて見えるから、こういう分かりやすい反応というのは新鮮だ。


 可愛らしい、というのが素直な感想だが、余りからかうと怒らせてしまうのも経験則で理解している。


 こういう部分は、俺に似ているかもしれない。アップダウンが無いと退屈だが、しつこくされるのは鬱陶しい、というちょっと面倒なタイプだ。自覚はしている。


 まあ、どんな人間もある程度はそうだろう。その丁度良い幅がどれほど狭いか、という個人差があるだけで。


 面倒なタイプというのは要するに、その幅が比較的狭いタイプという事だ。


 適度な距離感、適度な干渉、その波長が合う事が、時間を共有して居心地の好い相手の条件の一つだろう。まあ、その波長を相手に合わせて変える事のできる人も稀に居るのだが。


「俺みたいにはならなくていい。というか、ならない方が良い」


「それじゃ、いつまで経っても先輩に……」


 風香が言いかけたところで、レミニスの扉が開いた。


 姿を見せたのは勿論マスターだ。


「おや?お二人とも……」


「自主休講です」


「高校生でしょう?それに……いえ、後で聞きましょう。しかし、長話になるかもしれませんね」


 相変わらずの鋭さを見せるマスター。同じく途轍もない鋭さを持つ姉さんも、これくらい物腰柔らかく居れば敵を作らないのだろうが。


 そうそう簡単に在り方など変える事は出来ないというのも十分理解しているし、特にあれだけ出来上がっていると言うだけ無駄ではある。良くも悪くも、だ。


「今から開店ですよね?」


「はい。開店直後は少し忙しいですが、平日ですからすぐに収まりますよ」


 暗に、手が空いたら話でもなんでも聞きますよ、と伝えてくる。


 伊達に相手の顔色を窺う商売をしていない、という事だろう。それは姉さんにも言える事だが、あの人は割と直球を投げるタイプだ。


 比較してみると、とても興味深い二人だ。地頭の良さだったり、相手の意図や心情を察する能力は共通していて、しかしその使い方は大きく方向性が違っている。


 促されるまま店の前で待っていた数人と共に俺達は店内に入り、カウンターのいつもと同じ席に座る。


「お二人はどうします?」


「折角ですし、私はモーニングセットで」


「じゃあ、俺もそれで」


「かしこまりました」


 マスターはそれから立て続けに数組の客から注文を取って、カウンターの中へ引っ込んだ。



――――――――――。



 小一時間程して、マスターが俺達に声をかけてくる。


「さて、聞きましょうか」


「まあ長話にする事でもありませんし、簡潔にいきますよ。立華さんに告白されて、断りました」


「……ふむ」


「……今、マスターの考えている事が分かります。意外ではないが予想より早かった、でしょう?」


「中々におっかない人ですね、貴方は」


「マスター程ではありません」


「まあ、そういう事にしておきましょう。話を戻します。本当にそれだけ、という事でもないでしょう?確かに結果だけ言えばそうなるのでしょうが、どんな結果にも原因がある筈です」


「そうですね」


 マスターの言葉に、隣の風香が息を呑む。


 それは、もしかすると自分のせいなのかもしれない、という懸念、緊張感がそうさせたのだろう。


「大丈夫。風香に非は無い。全くだ」


「は、はい……」


「なるほど。おめでとうございます」


 まあ、今まで苗字だったのが急にファーストネームで呼んでいれば違和感を覚えて然るべきだろう。それが、マスターのような聡い人ならば尚の事だ。


 俺はその祝福に、素直な感謝の意を示しておく。


「ありがとうございます」


「それが、理由ですか?だとしたら、全く貴方らしくない回答ですね。それは余りに不誠実だ。恋は人を狂わせると言いますが、まさか貴方に限ってそうではないでしょう」


「皮肉ですか?……いえ、誉め言葉として受け取っておきましょう。そして、俺が誠実な人間だと確信してやまない理由は今度じっくり聞かせていただくとして、その通りです」


 言いながら、俺は自分が誠実な人間であるとは全く思っていない事も含ませておく。そこまで自惚れられるのなら、今のようにはなっていない。


「では、何故」


「……立華さんから、そこまでの好意を感じなかった、というのが一番の理由です」


「そこまでの、というと?」


「そうですね……少し説明が難しいのですが、姉さん……黒石美穂さんの事を知っていますね?」


「えぇ、存じております」


「俺が、あの人に向けているのと同じ性質のものです」


「……なるほど。しかし、それも好意である事に変わりはないのでは?」


「仰る通りです。ただ、そうですね……立華さんから向けられる筋合いが無いという事と、俺は立華さんの期待には応えられない。正直、好意を向けてもらえる事そのものに悪い気はしませんが、あそこで立華さんを受け容れるのは詐欺のようで気が引けました」


「……貴方でも、そういう事を気にするのですね。そして腑に落ちない事が一つ」


「俺は立華さんに対して嫌悪感は抱いていません。できるなら、こんな形で終わりにしたくは無い程度には好意的です」


「……そういう事ですか。それはまた、難儀な」


「そうですね。もう少し、上手くできれば……」


「それは難しいかと。貴方は間違っていない。後腐れもしませんし、長い目で見れば一番傷付けない方法でしょう」


「それでも、申し訳無く思っています。期待に応えられなかった訳ですから」


「進む事が勇気ならば、退く事も勇気です。決して無謀でないそれを責める権利は誰にもありません。しかし……もう少し淡白で冷徹な方と思っていましたが、意外と情熱的なのですね」


「不完全なだけです」


「そういう言い方もできますが、貴方は臆病且つ大胆の価値を理解しているでしょう?」


「……俺が、そうだと?」


「そうです。自覚、しているのでしょう?しかし、そこに自信が持てない。違いますか?」


 その通りだった。


 俺は、それなりに自分の事をよく理解しているつもりだ。


 しかし、その言葉に頷く事はできない。勿論、違うと否定することもできずに待った。


 沈黙は是なり、という言葉が突き刺さる。


 そしてその沈黙を破ったのはマスターだった。


「貴方には、確かに期待をしました。彼女を任せたのも、信頼があったからです」


「俺は、それを裏切ってしまった」


「勝手にかけられた期待にまで応えようとするくらい律儀な人だという事は、あくまでも見せようとしないのですね」


「……途中で責任を投げ出した卑怯者の間違いでしょう」


「そのどちらもが正しいだけで、間違いではないかと。確かに、やろうと思えば貴方には別の選択肢があった筈ですが、そうしなかった理由に気付いていないと思いますか?」


「……本当に、人が悪い」


「言った筈です。貴方は間違っていない、と。大丈夫です。貴方の言った様に、予想通り、ですから」


「なるほど……そういう事、ですか」


「そういう事です。貴方に向いていると、思いませんか?」


「……そうですね。よく知っていただけているようで」


「黒石とは学生時代の友人でして、今でも折に触れて話します。貴方の事は、それで」


「全く……」


 呆れた人だ。いや、文句を言うような事でもないのだが。


 それに、よく考えてみれば姉さんの事だ。信用が置ける仲の良い相手になら、興味を持った対象の話題を上げることもある筈。失念していた。


 と、自分の浅薄さにも呆れていると、風香が口を開いた。


「あの……私、全然話に着いていけないんですけど」


「この前夏祭りの時に会った人から、マスターが俺の話を聞いてたって事だ」


「そっちじゃないです。先輩に向いてるとか、向いてないとか」


「……落としたら上げろって」


「立華を、ですか?」


 俺は黙って頷く。


 正直、気乗りしないのだ。


 確かに、立華さんの事は放っておきたくない。傷付けた罪悪感もあるし、もっと単純な話をすると、俺は立華さんの事を割と好いている。勿論、恋やら愛やらという感情とは全く違ったベクトルではあるが。


 ただ、落として上げるというやり方が気に入らない。殆ど洗脳と同じそれに、激しい拒否感がある。


 しかし、今から俺が作ってしまった立華さんの傷を塞ごうと、或いは穴を埋めようとすれば、そういうやり方しか無いのも、理解している。と言うよりも、自然とそうなってしまう光景が目に浮かぶ。


 俺の切れるカードは無数にあるが、そのどれもが一貫して、欺き偽る為の物なのだ。そういう人間の取る手段は、その過程は、否応なしに。


「それが、嫌なんですね?」


「……まあ、気乗りしないな」


「だったら、私に任せて貰えませんか?先輩みたいに器用にはできないと思いますけど……」


「いや……それは流石に、ちょっと……」


「お願いします。私、先輩の力になりたいんです。先輩に頼りっぱなしなのは、嫌なんです。それに立華の事なら、私だってもう……」


 それがどう映ったのか。そう思って少しだけマスターに視線をやると、まるで俺がそうする事が分かっていたかのように微笑を浮かべていた。


 いや、どうしろと。好きにすればいいのか。


 風香が俺を想って言ってくれた事だというのは間違いない。だが、本当に俺はその優しさに甘えて良いのか。


「……風香が傷つくかもしれないぞ」


「そうなったら、先輩に癒してもらいますから大丈夫です」


「……まあ、俺が癒しになるならそれは構わないが」


 そもそも不思議なのだが、俺はいつ風香の力になったというのだろうか。俺は風香の前では比較的、自然体で居る事が多かった筈だ。だとしたら、何故。


 不可解な点は多いが。


 正直なところ、風香の申し出は有難い。それは立華さんにとっても良いだろう。俺も、洗脳まがいの事をせずに済む。


 しかし、風香の負うリスクは大きいのだ。


「風香が傷つくのは、あんまり見たくないんだけどな……」


 そんな生温い事は言ってい居られないし、そもそも叶わぬ願いであるのは、よく分かっているが。


「それは、私も同じです。先輩にばっかり辛い思いをさせたくありません」


「……駄目だと言っても聞かないかな、これは」


 風香はゆっくりと、しかし確かな意志を感じる動きで頷く。


 そこで頷いて欲しくはないのだが。ただ、風香の性格は知っている。誰が何と言おうとも、これと決めた事を簡単に翻しはしないだろう。


「だったら……止めはしない。ただ」


「分かってます。先輩の言う事も尤もですから。でも、それでも先輩の為に私ができる事があるんです」


 確かに、風香が力を貸してくれるなら最良の結果を得られる可能性が生まれる。


 だが、腑に落ちない。風香の言っただけが行動原理だとすれば、それは余りに希薄過ぎる理由だ。


 何を思ってこんな申し出をしているのだろうか。余計な苦しみを背負うリスクまで抱えて。


 考えにくい事だが、恋人の存在に浮足立っているのかもしれない。いや、しかしマスターは風香にとって俺が初めての恋人という訳でも無いと言っていた。


 おかしい。


 何を考えているのか、全く予想できない。


 そこでふと、マスターが溢した。


「期待し過ぎです」


 その言葉は、明らかに俺へ向けて放たれたようで、しかし同時にどこか風香に向けられたもののようにも思えてならなかった。


 その矛先が不明瞭なくらいには、地に足のついていない言葉に聞こえた。それでも、首元にナイフを突きつけられたような危うささえ感じる。


 その錯覚が正しい認識だったとしたら、つまりその言葉が俺に向けられたのだとしたら、それは俺がかける、誰への期待に宛てたものなのか。


 風香か、立華さんか。状況的には無さそうだが、或いは姉さんやマスターという事も考えられなくはない。


 しかし、どの場合にあっても、その発現は若干的外れているように思う。そもそも俺が他人に期待をする事など、殆ど無いと言っていい。期待なんてものは裏切られるばかりで、かけるだけ無駄だと俺は知っているのだ。


 横目に風香を見やると、キョトンとした表情を浮かべている。それが理解の足りない故か、はたまたマスターの言葉の向けられた先が俺だったからか、全く分からない。


「先輩に、ですか?」


「さあ、どうでしょう」


 そのやり取りさえ、解せずに居た。


 風香の言葉が孕んだニュアンスも、マスターの表情も、読めない。


 俺はひどく不安に駆られた。


 ここ最近、俺はつけあがっていたのかもしれない。物事がよく見えていると、勘違いをしていたのだろう。


 それは間違いなく、油断だった。風香を筆頭に、最近知り合った人間が思いの外善人ばかりだったから、俺の根底にあった不信感が崩れたのだろう。


 疑え。自分にそう言い聞かせる。


 真実を疑え。他人を疑え。自分を疑え。


 都合の良い事を信じるな。厚意と善意を信じるな。言葉を信じるな。


 自分以外は全て敵だ。


 数ヵ月ぶりに、呪詛のようなその暗示で思考回路を歪ませていく。鋭く、深く。


 それは俺が人生で身に着けた処世術だった。


 俺は、あの時以来そうやって生きてきた。これからも同じように生きる筈だ。


 問題無い。忘れていない。いや、そもそも簡単に忘れられるようなものではない。洗濯落ちしない染め物のようなものなのだ。


 呪いのように付き纏って、自分の心を蝕んでいく代わりに何者にも裏切られないだけの力。生きる術。


 そうだ。これでいい。


 裏切られるのが嫌なら、最初から信じなければいい。


 それだけが、俺の中で唯一掲げられる絶対的な『正しさ』だ。


「……貴方という人は」


「なんです?」


「いえ。黒石の言っていた意味が分かった、というだけの事です」


「……一つ、お聞きしても?」


「構いませんよ」


 俺の訊きたい事が分かっているような口振りだ。実際、そうなのだろうが。


 それなら、遠慮することは無いだろう。


「この状況も変わらず、期待通りではない、ですか?」


 その問いかけに対してマスターは、静かに頷くのみを返した。

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