第十七話
明るい気分で気分良く終わる筈だった七夕祭りは、しかしなんとも微妙な空気で幕を下ろした。
それは、俺達全員、とりわけ水野さんが上の空で居たからだろう。
水野さんは俺の心の姉と交わしたあの会話を、頭の中で反芻しているらしかった。
滅多なことでは表情を顔には出さない水野さんが、今日ばかりは堪えたのか、ひどく落ち込んだ様子。
発言の意図はある程度理解しているので俺から余り強く言う事はできないが、タイミングが最悪だった事に関しては今度会った時に文句の一つでも言っておこうと心に決めた。
「先輩……」
夜闇にも引けを取らない暗い声。
俺はなるべく普段と変わらない調子で返す。
「なんだ?」
「私、先輩の……いえ。すいません。なんでもありません。ごめんなさい……」
「風香ちゃん……」
「……私、何も言い返せなかったんです」
「あぁ」
「……悔しくて。ちょっと、泣きそうかも……しれません」
そう言う水野さんの瞳には、確かに涙が浮かんでいて。
「……あぁ。それなら、早く俺の家に戻るぞ。今泣かれたら、俺が酷い男みたいになるだろ」
「……はい」
俺は、俯いたまま小さく頷いた水野さんの手を取る。
「……寂しい人なんて言って、ごめんなさい」
「いいから、あんまり暗い顔しないでくれ」
「……それができたらもうやってます」
「なんだか、私アウェー感が凄いです」
「……ごめんなさい」
「重症だな」
「重症ですね」
「あぁ、冗談ですか……すいません」
これは、かなり深刻だ。
普段の水野さんは見る影もない。正直、別人だと言われたら信じられそうな程、纏っている雰囲気からして違う。
家は目の前だが、ふと繋いだ手を後ろから引っ張られるような感覚がして、俺は足を止めた。
振り返ると、引っ張られたのではなく、水野さんが立ち止まったのだと分かる。
「水野さん?」
「……私、帰ってもいいですか?」
「帰りたいなら帰ってもいいけど、荷物を置いてくのは勘弁してくれ」
「う……」
「風香ちゃんなら分かると思いますけど、こういう時の澤木先輩には多分何言っても無駄ですよ」
「そう……なんですよね……。なんで、分かっちゃうんですか……」
「何の事だ?」
帰りたくて言った訳では無い事か、それとも引き留めて欲しかった事か。
どちらでも構わないが。
「……先輩、ズルいです」
「お?良いな。今のもう一回頼む」
「……絶対嫌です」
「それももう一回」
「何なんですかもうっ!」
「なんだろうな」
言いながら俺は握ったままの水野さんの手を引く。
「あっ、ちょ、ちょっと……」
「人に言われた事気にし過ぎ。水野さんがどうしたいかの方がずっと大事だろ」
「……それは」
「……とりあえず、家に入ろうか」
控え目に頷く水野さんの手を握ったまま、俺は家の扉を開けた。
――――――――――。
家に着くなり、汗が気持ち悪いという事で水野さんと立華さんが入浴を済ませ、俺はその後。
そういえば、水野さんは確か前に家へ来た時、後から入られるのは嫌だと言っていたような気がするのだが。そんな事が気にならないくらい汗が鬱陶しかったのか、或いは、下着姿を見られたり浴衣を着る手伝いをされたりでどうでもよくなったか。
なんて考えつつ、暫く見納めになるであろう二人の浴衣姿を目に焼き付けておいた。
そして。
「水野さんはここ、立華さんはこっちの部屋で寝てくれ」
「はい」
「分かりました」
そうやって促すのは、一種の逃避でもあった。
話したがらない事を俺から追及するのは違う気がした、なんていうのは言い訳でしかない。
だが、どうすればいいのか分からなかった。
きっと今の水野さんは、自分の非力さを突き付けられている。それは、俺も通った道だから、なんとなく分かる。
痛くて、辛い。突き付けられるというよりは、棘が刺さっている方が感覚的には近いか。
蝕まれるように、自分が何者でもなくなっていく不安と、恐怖。
それを乗り越えるには、自分の中で答えを出すしかない。自分が誰で、どんな人間なのか、どうありたいのか、それを決められるのは自分だけだ。
いや、それは決して外から与えられないという事でもない。ただし、それが人間として赦される行為であるのかどうかを別にすればだが。言ってしまえば、それは洗脳に近い。
俺は、誰を自分に都合の良い傀儡にしたい訳でも無いのだ。だとしたら水野さんに何をできるだろうか。出来る事は精々、その意思決定を支えて、寄り添う事くらい。
「俺は……どうしたら良いんだろうな」
二人が各々指示した部屋に入っていくのを確認して、俺は自分の部屋に入るなり、そう呟く。
悩む余地など、本当は無いのだが。
俺は、俺がかつて選んだものを、これまでの道のりを、少し疑い始めている。
本当にあれで良かったのか。これが、自分の欲しかったものなのか。
分からなくなってくる。
そして、水野さんは、果たして何を選ぶのだろうか。
その時ふと思い出したのは、水野さんと最初に会った時の事だ。その時から不思議な波長を感じていた。今にして思えば、だが、何故俺は言葉を交わすだけであんなにも緊張したのだろう。
初対面の人と話す時、俺は言葉に詰まるタイプだろうか。決して、そんな事は無い。そうでなければ、作り物はすぐに見破られてしまう。
だというのに。
いや、水野さんに感じた不思議な波長の正体は実に簡単だ。そしてそれこそ、仮面が外れてしまった原因だ。
いつかの自分自身。水野さんに見たのは、それだった。
油断が生まれたのは、そのせいだろう。
水野さんがその事に気付いているかと言えばそんな事は無いのだろうが、何かの拍子に気付かれるかもしれないとは思った。
敵を知り己を知れば百戦殆うからず、とは孫子の言葉だが、その可能性を水野さんは持っているのだ。
作り物の表情に、気付かれていないだろうか。嘘は、見抜かれていないだろうか。
もし水野さんが、自分という答えを得たのなら、或いはそこに気付かれる可能性も十分に考えられる。
謀は得意な方だと自負しているが、だからこそと言うべきか、あらゆる可能性が心配事や懸念材料として頭の中に浮かんでは消えを繰り返す。杞憂に終わる事の方が多いが。
その時、部屋の扉を叩く音が響いた。
「先輩。私です」
「どうぞ」
ノブが下がり、蝶番が唸る。
「お邪魔します」
「どうした?」
訊きながらベッドに座るように促すと、大人しくそれに従ってくれる水野さん。俺も、水野さんに並ぶようにベッドに腰を降ろす。
「私、先輩と一緒に居ても良いんですよね……?」
「……あぁ。勝手にいなくなられたら、ちょっと困る」
「ちょっと、ですか?」
「……凄く困る。水野さんが嫌じゃないなら、これからも一緒に居てくれ」
「……風香って」
「ん?」
「風香って、呼んでください」
「あ、あぁ……それは何というか、かなり恥ずかしいな」
「じゃないと、嫌です」
そんな寂しそうな表情をされたら、俺に拒否権は事実上無い。ちょっと卑怯だ。
「……風香さん」
「呼び捨てで、お願いします」
「……風香」
「はい。これから、ずっとそう呼んでください」
「……分かった」
「それで、あの、先輩……」
「まあ、そうだよな。その為だけに来たって事は無いよな」
水野さんは、膝の上に揃えた手に戻して、自分の決意を確かめるように頷く。
ゆっくりとこちらに向いて、真っ直ぐに見つめて開かれる唇は、小さく震えているように見えた。
「……私、先輩の事が好きだと思います」
「……そう、か」
「先輩と居ると、凄く安心できて、居心地が好くて、幸せなんです」
「……それは、良かった」
「先輩も、私と居るのが幸せですか?私、負担になってませんか?」
「幸せだよ。それに、手に余ると思ったら、こんな風に話してないな」
「……それ、嘘じゃないですよね?」
「あぁ、今のは誓って嘘じゃない。本心だ」
「だったら……もう一度、ちゃんと言いますね。……好き。好きです、先輩」
「……あぁ」
「お付き合い、したいです」
さあ。どう返したものか。
俺も水野さん、いや、風香のことが好きで、風香も俺の事を好きと言ってくれている。
断る理由は無い。無い、のだが。
チラリと、脳裏を過る。
苦い過去というには余りにも薄味だが、同じことを風香にされたら気が狂いそうなくらいの記憶。
勿論、疑っているのかと言えば疑ってはいないが、信じ切れてもいないというのが正直なところだ。
そして、もう一点。
「……焦ってるのか?」
「……っ!?」
「図星か。あぁ、別に焦ってるのが分かったからって付き合うのが嫌って事ではないけど」
「だったら……!」
「そうだな……。俺も風香の事が好きだ」
「……はい」
「って聞いて、少し嘘っぽいって思っただろ」
「……そうですね。なんとなく、ちょっと信じられないです」
「焦ってるっていうのは、そういう事だ。水野さん……じゃなかった、長い事呼んでたから間違えるな。風香は頭が良いから、自分の気持ちに付け入られるかも、ってどこかで考えるだろ?」
風香が、視線を再び手元に戻す。
その頭の良さは、基本的に疑う事をベースに発揮されるものだというのが、これまで二か月程の間を共に過ごして風香を見てきた俺の見解だった。
そして、それはどうやら正解だったらしい。
「別に、焦るのが悪いとは言わない。時には焦りも必要だと思う。人間関係なら特にな。でも、今回のは少し良くないんじゃないか?お互い不幸になる、と思うぞ俺は」
「……そう、ですね。分かります。尤もな意見だと思います。合理的で、正論です。……けど」
「けど?」
「私は、別に不幸な目に遭ってもいいんです。今更ですし。それに、先輩になら、最悪裏切られたって構わない、それくらいの覚悟は、してきてます」
「……それは、ちょっと困るな」
「知ってます。先輩が私に困らされるのを嫌っていない事も」
「そう、だな。気付かれてたか」
「はい。それで、ですね。不幸になっても構わないので、私の覚悟を汲んでもらえませんか?確かに先輩の言う通り焦っています。私は、先輩の力になれていないから、これからもなれる気がしないから、それを美穂さんに見抜かれたから、焦っています。きっと、私なんかじゃ先輩には全然届きませんし、つり合いませんけど……それでも少しでも先輩の為に何かできるなら、私は……!」
「ちょっと待て」
「え?あ……はい」
「つり合わないとか、俺の為にとか、そういう事を気にするなら、絶対断る。それと、私なんか、ってのはやめてくれ」
「……言ってる意味が、よく分かりません」
「風香は、俺には勿体無いくらい魅力的な女の子だ。綺麗だし可愛いし、頭も良くて優しい。なのに、そんなに卑屈になられたら、俺の立つ瀬が無いだろ」
「……本当に、言ってる意味が分かりません。私には、先輩にそんな風に褒めてもらえるような美徳も美点もありませんよ。情けないくらい何の力も無くて、先輩の優しさに甘えっぱなしの私に、価値なんて無いんです。先輩は、こんなに優しくしてくれるのに、私から返せるものなんて何も」
そんな事を言いに来たのではないだろう。
それでも、溢れだしてしまったものは止まらない。
何かで塞いでやらないと、止まれない。
なら、それは俺の役目だろう。
それに、聞いていたら少し腹も立ってきていた事だし、丁度いい。
「あぁ、もう、うるさい。黙れ。よく聞いてろ。俺な、風香はもう少し自分の事を理解してると思ってた。ただ、どうもそうでもなかったみたいだから、俺が教えてやる。風香は、俺が変わる為に捨ててきた物をまだ沢山持ってるんだ。今の俺には無い、俺が後から大切だったと知った物を、沢山持ってる」
「で、でもそれじゃ……」
「まだ終わってないぞ。そういう大事なものを持ってるのに、自分の事を価値が無いなんて言うな。何かを返そうなんて思わなくていい。返されても困るし、それに何より、俺は風香から色んなものを貰ってるんだ。だから、俺は風香に良い顔しようとするし、風香の事が好きなんだ。だから、価値が無いなんて言うなよ」
言いながら、少しずつ風香の表情が変わっていくのを感じていた。
そして、まくし立てるように言い終えると、風香が珍しく顔を真っ赤にして口を開く。
下着姿を見られた時でもここまで赤くはなっていなかった。
「……あ、う……その、ごめんなさい。私、えっと……先輩の事、全然考えてなかったんですね。先輩、やっぱり凄く優しいです。それと……今の好きは、嘘っぽくなかったです」
「そうか。それで?」
「う……えっと、私、先輩に甘えても、いいんですよね」
「勿論。好きな女の子相手なんだ。少しくらい良い顔させてくれてもいいだろ」
「あ、あの……なんでそんな平然と好きって……」
「……心外だな。これでも、かなり緊張してるぞ」
俺はそう言って、水野さんの手を俺の心臓付近に押し当てるように引き寄せる。
そこでは、喧しく泣き喚く心臓の暴れる音が響いていることだろう。自分でそれが分かるくらいには脈が不整だ。
「……本当、ですね。こんなに、緊張してくれてるんですね」
「……仕方ないだろ」
「そうですね。私も、まだドキドキしてます。先輩と一緒なのに、全然落ち着かないです。心臓、壊れそう」
「それは困る。今すぐ落ち着けてくれ」
「ふふっ……」
水野さんが微笑む。
その卑怯なくらい可愛らしい笑顔に、俺の心臓は余計に高鳴った。
「今日は、また一緒に寝ようか」
「それはなんですか?肌を重ねようというお誘いですか?」
「流石にそれは気が早すぎるな。時期尚早もいいところだ。普通に添い寝。勿論、風香が嫌じゃなかったらだけど」
「そうですよね。勿論、嫌な筈がありませんよ。恋人同士でする事、少しずつしていきましょう。まずは、添い寝からです」
順番がおかしいというのは、もう今更だろう。そもそも恋人同士になる前に、添い寝はしてしまったし。
ただ、それでもあの時とはやはり意識が違っている。
俺が布団に入ると、風香もそれに並ぶように入ってくる。
「また、抱き締めていてほしいです。もう二度と離さないってくらい、思い切り強く。できれば……少し、痛いくらいがいいです」
「それは、また難儀な注文だな。俺は女の子を痛めつける趣味は無いんだが」
「そういう事じゃないです」
「……まあ、分かるけど。それでも、だ。どうしても痛くしてほしいのか?」
「……別に、痛くなくてもいいです。でも、私が先輩にだけ赦せる特別を、一つでも持っておきたくて」
「だったら……そうだな。少し、動かないでくれ。あと、できたら目を瞑ってくれると」
「はい。ん……」
風香は目を瞑って唇を差し出し、じっと待つ。
俺は、風香の肩に手を添えて、差し出されたそれをゆっくりと奪った。
触れ合うだけの口づけに、風香の肩が小さく揺れる。
十数秒の微かな触れ合いを名残惜しむように、俺が唇を離そうとすると。
「ん……!」
風香はそれを認めてくれない。半ば俺は押し倒されるような形になって、唇を重ね続けられる。
そして。
「んむ!?」
驚いて声を上げてしまった。
それは唇を押し開けられるようにして舌が滑り込んできたからだ。
流れ込んでくる明らかに自分のものではない唾液の味と、突き入れられた舌の艶めかしい感触。気が触れそうなくらい気持ち良い。
冷静さと理性が少しずつ奪われていくのが分かる。
なんだこれは。恋人同士になって初めてのキスからこんな事をしていいのか。
普段の風香から考えると、驚くくらい積極的に貪欲に、俺を。
俺を、どうしようとしているんだろうか。求めてくれているのか、悦ばそうとしてくれているのか。或いは。
と、考えた次の心拍が、やけに静かなものだった。
ふっと、体の奥から湧き上がってきていたマグマのように滾る衝動が、何かによって急速に冷やされる。
気付けば、俺は風香の頭を押し返していた。
「……せん、ぱい?」
呆けた顔で、俺を呼ぶ風香。
俺はその無言の問いかけに答えを返す。
「すまん。息苦しくて」
俺は、息が上がってしまったのを分かりやすく見せるように、深い呼吸を繰り返しながらそう告げた。
カチリと、スイッチが切り替わるような感覚が頭の中で響く。
「あ、そう、ですよね……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。俺の方こそ驚かせてごめん」
「えっと、はい。確かに驚きましたけど、大丈夫です」
深呼吸を緩やかに鎮めつつ、俺は自分に詰問する。
何故、俺は疑ったんだ。
誰かが答えを呟いた。
そんな事は、自分でも分かっているだろう。
あぁ、確かにその通りだ。
風香がそうであるように、その成れの果てたる俺にとって、疑う事は呼吸に等しい。そこに空気があれば吸うように、俺は常に人を疑い続けている。
勿論、その理由も分かる。俺をそんな人間にしてしまった過去の事は、今でも鮮明に思い出せる。
あの日のあの時。誰から何をされて、どう感じたか。
幾つも幾つでも思い当たる節は無数にある。
今でこそ、誰もが嘘吐きではないと知っているが、しかしそれでも嘘は俺にとって最も身近な物の一つである。
誰も信じなければ、誰にも期待しなければ、誰に裏切られる事も無い。本気でそう思っていた時期さえあった事を考えれば、穿った視点を捨てきれずにいるのも致し方の無い事なのかもしれないが。
それに、実際にこうして何もかも疑ってかかって、疑う人間の見方を知って疑われる可能性を限りなく排除して、そうして立ち回っていた方が遥かに様々な事が上手くいく。
だから自分の選択は間違っていなかったと、そう思いたいが、それすらもう自信が無くなってくる。
「先輩、大丈夫ですか?」
「ん?もう息苦しくはないぞ」
「いえ、そうじゃなくて……先輩が、なんだか寂しそうに見えたので」
「……なんでそう思われたのか分からん。風香が居るのに寂しい筈ないだろ」
「……私は、先輩が居てくれても寂しい事がありますよ」
「それは、すまん」
「あ、先輩が悪いんじゃないですよ。私の問題、ですから」
「……できれば、それも何とかしたいんだけどな」
「もう、過去の出来事ですから。私が自分で気持ちに整理をつけるしかないんです」
「まあ、そうだよな」
風香には、俺から出来る事は少ない。自分で何とかするだけの力を持っているだけに、そうする事を重視するだろう。
「それよりも、先輩が寂しそうに見えたんです」
「……なんだろうな?」
まるで心当たりが無い、という体をとっているが、しかし風香の言う事は恐ろしい事に的を射ている。
それは、俺の疑う心がそういう違和感を生むのだ。
表面上では良いとしても、本当に心の深いところでは全く繋がっていないと感じる事が何度となくあった。それは風香に対してもそうだし、どちらかと言えば、ある程度仲の深まった相手にこそ感じる。
そういう時に、俺は孤独感を覚えるし、寂しくもなる。
しかし、それを表に出した覚えは一度も無かったのだが。何故風香にはそれが見破られたのか。
「……そういうとこ、じゃないんですか?やっぱり私じゃ、力不足ですか?」
「……いや。力不足って事は無いんじゃないか?それに俺は……」
と、誤魔化そうとして、そこで言葉に詰まる。
「正直に、言ってもらって大丈夫ですよ。先輩にとって、私はどうですか?」
「力不足だとは、全く思ってない。ただ、そうだな……寂しく感じる事は……ある。でも、それは風香のせいじゃないから」
「それは、先輩自身の問題ですか」
「あぁ」
「私には、なにもできませんか?」
「マスターや姉さんだとしても、何もできないだろうな」
「……それなら、確かに手の施しようが無さそうですね」
「仕方ない。自分で選んだ道だから、受け容れるよ」
「……はい。でも、忘れないでくださいね。私は、先輩の傍に居ますから」
「……あぁ」
少々不本意な形にはなったが、しかしどうやら誤魔化しきれたようだ。
信じ切れていない事に気付かれた様子は無い。
独りよがりだと笑われてしまうかもしれないが、無駄な心配をかけるような事はしたくない。
風香はただでさえ自分の事に悩んでいるのに、俺の悩みまで抱えてもらう訳にはいかない。
あくまでも俺は、そういう人間で居なければならないのだ。
少なくとも、風香にとってそういう人間でなければ。
立華さんの事も確かに気にかかる部分はあるが、そちらに関しては余り心配していなかった。
俺も、風香も、少し関係が変わった程度で他の誰かと接し方を変える程落ちぶれていない。彼女にとって、必要なのは気の置けない友人のような相手だろうから、今のままで充分の筈だ。
きっと、何かの拍子に上手くやっていけるようになる。まだ自己嫌悪に染まり切ってしまう前だから、取り返せる。
逆に、風香はそれが後戻りできない状態まで進んでしまっている。理由はハッキリとは分からないが。
風香は、変化を迎えようとしている。そうしないと生きていけないのだ。俺もそうだったように。
だから俺は風香に寄り添っていたいと思う。今の、少し触れるだけで崩れてしまいそうな程脆い心を、何とか取り繕うまで、その手助けをしたいと思う。
そうしたら、もしかしたら、俺もまた少し変われるかもしれない。
何一つ、道筋は見えていないが。そんな予感があった。
「先輩。ギュッと、お願いします」
「あぁ、そうだったな。ちょっと、後ろ向いてくれ」
「……?まあ、いいですけど」
俺はその場でくるりと体勢を変えた風香の背にピタリと体を寄せて、腹部に両手を回す。
丁度後ろから抱き締めるような形だ。
風香はちょっと落ち着かないのか、腕の中でモゾモゾと動く。
「せ、先輩……?これ、ちょっと恥ずかし……」
「この方が寝やすいだろ」
「そ、それはそうですけど……あ、あと、もっと強くって……そんなに優しくされたら、私」
「何も考えなくていいから。今はこれ以上何もしないから、安心していい。怖がらなくていい」
そう囁くと、風香はようやく力を抜いて、俺に体を預けてくれる。
「……もう、分かりました。好きにしてください。……本当、先輩には、敵いませんね」
「そんな大層なものじゃないんだけどな。とりあえず、おやすみ、風香」
「……私にとっては、大層なものなんです。おやすみなさい、先輩」




