第十六話
七夕祭りの日。
祭り自体は夕方からなのだが、少し早めに水野さんと立華さんが家に来た。
「何というか、気が早い」
「まあ、いいじゃないですか」
「まあいいけど。っと、そうだ。ちょっと待っててくれ」
と残して、俺はキッチンに向かう。二人が家に来る事は勿論把握していたので、昨日の内に用意しておいたものがあるのだ。
手間はかからないが時間のかかる、水出しコーヒーである。
グラスを三つ出して、氷を入れてからコーヒーを注ぐ。
緑茶なんかだったら水出しでも冷蔵庫に入れておけばいいが、コーヒーの水出しは基本的に常温水で抽出しそれを氷で冷やすのだ。
普通に湯で淹れるよりも爽やかな香りと後味になるのが特徴だ。
「お待たせ。今更だけど、立華さんはコーヒー苦手だったりしないよな?」
「大丈夫ですよ。クセの強いのはちょっと苦手かもですけど、水出しだったら多分大丈夫です」
「なら良かった。まあそれでも苦手だったら一応牛乳と砂糖はあるから、それでなんとか」
「はい」
立華さんは素直に頷く。
水野さんはジトっとした目で俺を見ていた。
「なんだ?」
「先輩、私にはそういう気遣い無いじゃないですか」
「いや、そりゃだって、コーヒー党だし」
「そういう事じゃ……って、あぁ、もういいです。そっちモードの先輩には何言っても無駄でした」
「ご理解いただけて何より」
「二人って、本当に仲が良いですよね。なんだろ、糸電話……?糸電話みたい、って思います」
「糸電話か……」
何だろう。
お互いに持っていないと使えない意思疎通の手段を持っていて、けれどそれがもどかしさの残る距離感だというのを一言で表現すると糸電話になるのか。
言われているとなるほど確かに、秀逸な言葉選びのセンスだ。そして俺と水野さんの関係をよく見ている。
「糸電話、ね。なるほど」
「先輩もピンときましたか」
「糸電話だけに?」
「今、自分で言ってから、上手くかかってるなって思いました」
「狙った訳じゃないのか」
「そうですね。完全に偶然の産物です」
糸電話というのは、最近は馴染みのない物だが、原理は多くの人が知っている。あれは糸がピンと張っていないと上手く音を伝えないのだ。そもそも、真っ当に音が通じる糸電話なんて見た事も無いが。
「あ、美味しい」
そう呟いたのは立華さんだった。
クセの強いのは苦手かもしれないと言っていたが、どうやら杞憂だったようだ。水出しコーヒーは気に入ったらしい。
「そうなんですか?私も……ん、確かにこれは、良いですね。外が暑かったのも手伝っている気がしますけど」
「まあ、そうだよな。前に水野さんが泊まりに来た時に思ったんだよ。朝には冷房がタイマーで切れて暑いから水出しを用意しておけばよかったって。因みに、水出し緑茶も用意してある」
「水出し緑茶……実は飲んだこと無いんですけど、どんな感じなんですか?」
「甘い。緑茶って思って飲むと、なんだこれってなる」
「……澤木先輩のお家って、緑茶もコーヒーもあるんですね」
「そうなんですよ。しかも、男の一人暮らしなのに、インスタントじゃなくてちゃんと茶葉とか豆で。きっと、ボッチを極めるとこうなるんです」
「澤木先輩って、不思議な人ですよね。お家も綺麗だし、風香ちゃんの話だと料理も上手だとか」
「そうなんですよ。こう言ったらアレですけど、異常です。先輩は変な人代表です」
「変な人代表って……」
いやはや全く否定できないのが辛いところだ。
と、そんな調子で下らない話をしていたら、いつの間にか一時間程経っていた。
そろそろ準備して行こうという事になって、俺が自分の部屋で手早く出掛ける準備をしていると。
「先輩!来てください!」
リビングで準備を進めていた筈の水野さんの声が、今まで聞いた事も無いような音量で響いてきた。
何事かと思って階段を駆け下り、リビングに入ると。
「うおぉ!?ちょ、なんでそんな状態で呼んだ!?」
下着姿の水野さんと立華さんが視界に飛び込んできた。
しかも、何やらパニック状態の。
「そ、そんなことはどうでもいいので、あれなんとかしてください!」
「ご、ゴキ……ひぁっ、ちょ、ちょっと……」
などと言いながら擦り寄って来る始末。まだ意図をハッキリと伝えてきている分、水野さんの方が少し冷静だろうか。いや、どちらにしても、今の自分の状態を少しは省みてほしいのだが。
その黒いアイツは、床のど真ん中という実に分かりやすい位置で静止していて、今のところ動く気配は無い。
無いのだが。
「あ、あぁ……なるほどな。分かった、落ち着こう二人とも。下着姿なのはともかく、二人して密着されたら流石にどうしようもないんだ。リビングから出てていいから」
冷静さなど欠片も見受けられないあられもない姿の二人に、理性をオーバークロックして限りなく無心で窘めるように離れていただいて。
バタン、とリビングの扉が閉まるのを背に、俺は何とはなしに呟く。
「さて。どうしたものか……」
そうだ。俺もあの二人に流されて若干冷静さを欠いたが、よく考えたらスリッパがあるじゃないか。
これがムカデとかだったらちょっとスリッパでも勘弁願いたいところだったが、精々ゴキなにがしである。
動きさえしなければ何とかなるだろう。
俺はできるだけそいつを刺激しないように射程距離に捉え、勢いよくスリッパを叩き付けた。
パァン。床を叩く心地好い音の向こうに、生理的嫌悪を抱くような乾燥した音が小さく鳴った。
いや、俺だって別に虫が得意な訳ではない。どちらかと言えば苦手だ。というよりも嫌いである。
ただ、だからこそ躊躇無く叩き潰せる訳で。
「よし」
スリッパの裏を確認すると、見るも無残な黒い汚れが付着しているのが確認できた。
ただ、このままにしておくと実はマズい。生命力が尋常ではないのだ。こんな状態でも、まだ確実に絶命したとは断言できない。
スリッパの裏と床の黒い汚れを速やかにティッシュで取り、汚れのついていたところと汚れを取ったティッシュに対ゴキ用殺虫剤を噴射する。
これで大丈夫。
「注文通り何とかしたぞ」
リビングの外で待っている水野さんと立華さんにそう声を掛ける。
恐る恐る、という様子で、扉が開かれる。
「もう……大丈夫ですか」
「ゴキなんとかの事なら大丈夫」
「はぁ……良かったです……」
「それは良いけど、とりあえず二人とも、頼むから自分の格好を考えてくれ」
「へ?あ……あぁっ!」
下着姿二人の叫び声がハモる。
「見ない。見ないように努めるから。というか、まだ準備があるから部屋に戻るから。うん、その、なんだ。怒らないでくれると」
ゴキの残骸をゴミ箱に捨てつつそう残して、俺はそそくさとリビングを出た。
俺が部屋に戻って残りの準備を済ませてから少しして、準備を終えたのだろう、扉がノックされた。
「はいよ。って、あれ、立華さんだけか?」
「えっと、あの……澤木先輩って、浴衣の着付けってできますか……?」
それだけで、言いたい事は分かった。目の前に立つ立華さんは既に浴衣姿で、しかしどうにも綺麗に着られていないようだったから。
要するに、俺ができるならやってもらおうと、そういう事だろう。
まあ、知識としてはあるのだが、流石に男の俺がやるのはちょっといかがなものかと思う。少なからず興味はあるが、強い理性で己の煩悩を制して。
「……できない」
そう言って踵を返すと、シャツの裾の部分を思い切り掴まれてしまう。
「ま、待ってください!絶対嘘です!できますよね!お願いします!」
「服が伸びるだろ。離してくれ」
「やるって言うまで離しません!」
「できないって言ってるだろ」
「嘘です!絶対嘘!だって妙な間がありましたもん!実はできるんですよね!しかも、ちょっとやりたいって思ったでしょう!?」
何故そんなところばかり気付くのか。
そこまでして浴衣を着たいのか。いや、まあ気持ちは分からないでもない。非日常な出来事に身を投じるのに、日常しない格好で着飾っていきたいのは女の子ならそういうものなのだろう。
ただそれでも、そこまでして、と思う。
俺は男だぞ。いや、さっき見られたからもういいやとヤケクソ気味に覚悟を決めてきたのか。
「いや、思ってないしできないから、本当に勘弁してくれ。というか自分達で着られないのになんで持ってきたんだ」
あくまで平静を装ってそう返すが、こんな魅力的な誘惑も中々無い。見目麗しい女性が涙目気味に懇願してくるというだけでもかなりの破壊力だが、その内容が浴衣を着せてほしいとなると。
「だ、だって、楽しみだったんですよ……友達と遊びに行くなんて、殆ど初めてで……」
「……まあ、気持ちは分からないでもないが」
泣き落としだ。泣き落とし。揺れるな俺の理性。
こうやって同情心を煽って上手くやり込めるのは、古典的な詐欺の手法である。
流されてはいけない。
と思った矢先、立華さんは更に強烈な追い打ちをかけてくる。
「……やっぱり、白い体が気持ち悪いんですね」
「う……そういう訳じゃ、ないんだが」
「じゃあ、なんでできないって嘘吐くんですか……?」
俺は、何も言えなくなってしまう。
できないのが嘘だと断言された以上、できないという言い訳を重ねるのは悪手だ。余計な隙を与える事になる。
しかし、こうなってしまうと、やりたくないというのも言えない。
「やっぱり、気持ち悪いですよね……」
キュッと、喉の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。
「わ、分かった!降参だ!やるから、勘弁してくれ!」
「えへへ……良かったです。じゃあ、お願いしますね」
部屋を出ながら、俺は毒づく。
「くそ……水野さんだな……?」
「な、なんで分かったんですかっ」
「立華さんが思いついたにしては、余りにあくどい。卑怯過ぎた」
と、指摘しつつリビングに入ると、水野さんが冷ややかな視線を向けてくる。
「まるで、私が性悪みたいな言い方ですね……」
「違う。立華さんが純粋って意味だ」
「……まあ、いいですけど。上手くいったんですね」
「はい!上手くいきました!」
「はぁ……まあ、二人がいいならやってもいいんだけどな……。文句は言うなよ?間違いなく触る事になるからな?」
「何を今更。同じベッドで寝たのにそんな事を気にするとでも?立華は……知りませんけど」
「え?風香ちゃんと澤木先輩が同衾……?」
「違う。いや、意味としては合ってるが、一線は越えてないから」
「あ、そういう事ですか。ビックリしちゃいました。あ、私は、えっと……恥ずかしいですけど……大丈夫です。気持ち悪いって、触ってもらえないよりは」
また、喉の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。さっき感じたのよりも強く。
それは、立華さんの負の感情がそうさせたのだろう。
「……分かった。やるから、あんまり暗い顔しないでくれ」
「あ、ご、ごめんなさい」
やはり、メラニン欠乏症に余り良い記憶は無いのだろう。
それは自然な事で、同時に理不尽だ。
肌や髪が白い、目が赤い、そんな理由にもならないような理由で、何故こんなにも心優しい人が徒に傷つけられなければならないのだろう。
いや、そんな事は分かり切っている。それが、人間という生き物の在り方なのだ。マイノリティは徹底的に叩き潰し、その重い罪への陳腐な罪の意識でもってマジョリティは団結力を高める。
吐き気がしてくる。そんな方法を取ってまで団結なんて下らないものを得ようとする下劣な輩に対して。そして、そんな連中が世の中に溢れ返っているという現実にも。
団結なんて、何かの拍子で簡単に消え去ってしまうのに。そんなあやふやな物は、すぐに裏切られるのに。
「……澤木先輩?」
「あぁ、いや、なんでもない。着付けだったな」
「……先輩」
「……なんでもないから、気にするな」
水野さんには、どうやら何か気取られてしまったらしい。
それから、俺は努めて冷静に、二人に浴衣を着せた。
揃って小柄な二人だが、柔らかくも整った曲線と滑らかさが見ただけでも分かる色艶を湛えた美しい肌は、間違いなく女性のものだった。
できるだけ意識しないように気を付けてはいたのだが、立華さんの方が少し胸が大きく、水野さんの方が少し脚がほっそりとして長かった。
二人して小柄なものだから、上から覗き込むような形になった時だったり、帯を締める時に体勢を低くした時にそれが分かってしまうのだ。
勿論、口には出さなかったが。
「ほい。終わった」
「先輩って、なんでこんな事できるんですかね……」
「不思議ですよね」
「……まあ、趣味?役に立つ時が来るは全く思ってなかったんだけども。ちょっと気になって調べてたら面白くてな」
「先輩のその知識欲はどこから来るんです……?」
「外から来るものではないと思うが」
「それもそうですね。あ、そうです先輩。折角なので聞きましょう。どうですか?似合いますか?」
水野さんの身を包んでいるのは、淡い水色ベースに同じく淡い色のシンプルな花柄の浴衣、赤い帯。
明るくも落ち着いた色合いに、強い主張を持つ赤という選択は、着る者によっては浮くかもしれないが、水野さんはそれを上手く調和させて、メリハリを持たせるのに活かしている。
自分の特徴をよく理解している人間のコーディネートだ。
文句無しに似合っているだろう。
「水野さんの素材が良いのもあるかもしれないけど、綺麗だぞ。服に着られてる感じでもないし、その色合いをよく着られてると思うし、似合ってる」
「あ、ありがとうございます……」
水野さんが珍しく顔を赤くして、俯いてしまう。恥ずかしいなら聞かなければいいのに。
すると横からも声がかかる。
「私はどうですか?」
立華さんは、水野さんと同じく赤色の帯だが、最も主張しているのは帯よりも浴衣の方だ。黒い生地に、こちらは限りなく白に近い薄ピンクの花柄で、水野さんのものよりも模様が派手で、ともすればフリル装飾のようにも見える。
そう。花の模様と地の色のコントラストから受ける印象は、ゴシックロリータのものだ。
それは、立華さんの生まれ持った白い肌と髪、赤い瞳があるからこそ、ここまでの輝きを見せてくれる。
「和装ゴスロリは邪道だと思ってたんだけどな。その認識は改める必要がありそうだ。間違いなく可愛い」
「はぅ……っ。ありがとう、ございますっ」
いや、それにしてもこれは良い。
あれだけ浴衣を着せるのを嫌がっていた自分を殴ってやりたい。
それくらい目の前にある光景は素晴らしいものだ。
元々二人ともかなり容姿の整った方ではあるが、こうして非日常を身に纏うと、新鮮さもあって余計に映える。
そしてこれも二人に共通して言える事だが、浴衣の質がかなり良いものだという事。着せている間にも思ったが、何故こんなにも仕立ての良い和服を拵えているのかというのは、かなり不思議に思う。家にあったものを持ってきただけだとしても、現代の一般家庭に和装が存在するのは稀なのではないだろうか。
わざわざ仕立ての良い服を用意してくる程楽しみにしていてくれたという事は素直に嬉しくあるし、そこに水を差すような事はたとえ疑問に思っても口にしないが。
「……そういえば、先輩は和装しないんですか?」
「すまん。用意してない。だから役に立つ事は無いと思ってたんだが」
「あ、確かに。そういう意味だったんですね」
「いや、単純に同年代の女の子に服を着せるなんて機会があるとも思ってなかったけど」
「まあ、そうですよね。逆の立場なら私だってそんな事あると思いませんし」
「澤木先輩も、風香ちゃんも、準備に少し時間かかっちゃいましたし、早く行きませんか?」
「そうだな」
「行きましょうか」
――――――――――。
俺達が着くと、祭りの出店が立ち並んだ通りには既に大勢の人が居て、一周回って清々しいほどの喧騒を織りなしていた。
そして、すぐ傍から下駄の音が聞こえる。
その音の主は勿論水野さんと立華さんだ。二人とも、わざわざ下駄まで用意したらしい。
やはり歩きづらいのか、水野さんも立華さんも少し普段の歩くペースより少し遅い。
立華さんは、陽も沈みかけたこの時間でも日傘を差していて、余計に動きにくそうだ。余談だがその日傘のお陰で余計に浴衣の色合いから受けるゴスロリっぽい印象が増したように思う。
「本当に近かったんですね」
「だから言っただろ、音が聞こえるくらい近いって」
「先輩、それ聞いたの私だけですよ」
「あれ、そうだったか?……あぁ、そういえば電話か」
「ですね」
と話しながら、道の両脇をズラリと埋め尽くす出店を眺めていく。
特にどこへ寄るでもなく歩いていると、水野さんが口を開いた。
「そういえば、立華が誘ってくれた訳ですけど、何かやりたい事でもあるんですか?」
「えっと……何か目的がある訳じゃないんですけど……強いて言うなら、射的とかやってみたい、かな?」
「なるほど。確かに、祭りの出店っぽさはあるな。丁度そこにあるし、やってみたら良いんじゃないか?」
と、指で示した先に水野さんと立華さんが揃って視線を向ける。
通りは人だらけだが、幸い今は誰も客が居ないらしい。店からしたら全く幸いではないだろうが。
「じゃあ……やってみても良いですか?」
「あぁ」
「勿論ですよ」
「っと、傘は俺が差しておこう」
「ありがとうございます」
揃って店へ向かうと、威勢とガタイのいい中年男性が俺達を迎えた。
「お、嬢ちゃんか?」
先頭を歩いてきたからだろう、店主がそう見抜いて、立華さんに声を掛ける。
「は、はいっ!お願いします。じゃあ、えっと、澤木先輩、傘お願いしますね」
「おう」
立華さんが傘を俺に渡してくる。少しでも陽が当たらないように気を遣いつつ受け取ると、立華さんもうこちらを向いてはいなかった。
いつの間にか銃を握って、悪くない姿勢で構えている。
一発目。狙った物のは大きめのぬいぐるみだろうが、少し逸れて命中はしなかった。
二発目を入れて、レバーを引く。程よい緊張感がこちらにも伝わってきた。狙い澄ました射撃。命中。しかし、大きめのぬいぐるみを落とすには、パワー不足だったらしい。
それから、決まった数の五発を撃ち終わるまで全弾命中しても、ぬいぐるみが目立って動くことは無かった。
「うぅ……取れませんでした」
しょんぼりした顔でこちらを向いて、俺に預けていた日傘を受け取りながら呟く立華さん。
「残念だったなお嬢ちゃん。まあ筋はイイと思うぜ」
「よし、次は俺がやろう」
「お、次は兄ちゃんか。五百円で五発だ」
「はいよ」
「よしきた。その子の狙ってたのは中々厳しいと思うが、どうだ?」
「問題無い」
このタイプのものなら、確かにコツを知らないと難しいだろう。
受け取った銃を見て、そんな感想が浮かぶ。
俺は早速ストレートプルのボルトハンドルに似たレバーを引いて、前時代的な前装式の銃に弾を込める。
それを見て、店主の男の顔色が変わった。
「なるほど。兄ちゃんの自信はそれか」
「そういう事だ」
一発目。トリガーを引くと、コルク弾は吸い込まれるようにぬいぐるみの腹に命中した。
しかし、大きく動くことはない。
先程と同じようにして、二発目の狙いをつける。ただぶつけるだけでは、そうそうぬいぐるみなんてものは動きはしない。中には綿が詰まっていて、緩衝性能が高いのだ。
さっきので腹に当たるなら。俺はぬいぐるみとの距離を考えて、体勢を大きく落とし、代わりに銃口の角度を上げる。
引き金を絞る。
二発目は、ぬいぐるみの喉とも顎ともつかない位置にアッパーカットを叩き込むように入って、微かに浮かせる。ぬいぐるみはそのまま、コルク弾の勢いを殺しきれずに棚の向こうへ落下。
「わお。やるな」
「先輩の謎がまた増えました……」
「澤木先輩、凄いです……」
と、わずかばかり居るギャラリーが思い思いに声を上げる。
俺は三発目を込めながら振り返らないまま水野さんに声をかけた。
「水野さん、あの中に何か欲しいものあるか?」
「え。なんでしょう……あと三発ですよね」
「あぁ」
「……先輩が三発で落とせるかギリギリくらいのやつを狙ってみてください」
「なるほど。やってみよう」
中々に挑戦的な注文だ。
要するに、目ぼしいものは無かったという事でもあるのだが。
どれを狙おうか。
と、そこで俺は一つ、水野さんの言った条件にピッタリの物を見つける。
エアガン。どうやら電動らしく、重さもあるので普通にやったらかなり面倒な部類だ。若干傾くように置かれている。
その箱の背中を支えているのが、ブックラックのようなもの。その足にはラバーが履かれていて、簡単には動かされないようになっていた。
箱が直立していたら狙わなかったのだが。
三発目、横に移動して斜めの角度から、弾が箱の側面を叩くように狙い、撃つ。箱の足元を狙ったのが良かったのだろう、予想よりもブックラックの上を滑った。
同じように当たれば、最後の一発で丁度落とせる気がする。
四発目。狙い通り、ブックラックの上を箱が滑って、その端が露出した。
レバーを引いて五発目を込め、俺は狙う的の正面に戻って、微かに狙う隙のできたブックラックの端を撃つ。
真正面からコルク弾のエネルギーを受けたブックラックは、足に履いたラバーのお陰で滑らず、後ろに倒れるように姿勢を崩していく。
小学校で習う理屈で、箱より背の低いブックラックがエアガンの箱を揺らし。
「……あっ」
そう溢したのは水野さんだ。
梃子の原理でバランスを失ったエアガンの箱は、棚の後ろではなく手前側に倒れ、そのまま地面まで転がり落ちる。当然、その途中に配置されていた景品も道連れである。
まさかこんなアニメみたいな事が現実に起こるとは、俺も予想しなかった。本当は、ブックラックのような支えごと向こう側に落ちると思ったのだが、恐らく箱をずらした時に棚の面と支えとの丁度上くらいに移動したのだろう。
結果、その支えに蹴り上げられるようにしてこちら側へ転げ落ちた、と。
「うおぉおおおおっ!?」
店主がよく分からない叫び声を上げる。
「巻き込まれたやつは戻してもらって構いませんよ」
「あ、あぁ……じゃあ、これと、これか。兄ちゃん、えげつねぇ腕だな」
「それほどでも。もうやりませんから、安心してください」
「そ、それは良かった」
安堵の溜め息を吐いた店主からぬいぐるみとエアガンという中々にヘビーな景品の入った袋を受け取って、俺は踵を返す。
「まさか、あれを落とすとは……」
なんて、呆れたような声で放ったのは、そう注文した張本人。
「あれって、三発で落とせるんですね。澤木先輩が三発で狙うのにあれを選んだ時はちょっと自分の目を疑っちゃいました」
「落とせるみたいだな。理科の実験みたいで中々面白かったぞ」
「感想がおかしいですね」
「言うな。梃子の原理がまさかこんなところで使えるとは思わなかったんだ。とりあえず、家に戻るまでは袋に入れたままで良いよな?」
「持ち歩くにはその方が都合がいいですもんね」
「……この後、水槽が空になるまで金魚を掬ったりするんですか?」
「いや、そっちは知識ならあるけど反射神経の遊びだから俺には無理だ」
「そうですか。じゃあ、後は平和ですね」
一体全体、さっきの射的で水野さんは俺にどんな印象を持ったのだろうか。
そんな物騒な物を見つけたような視線を向けられる筋合いは無いのだが。
なんて、内心ツッコミを入れつつ、俺達は夕食をここで済ませようとその手の出店を探して回る。
それから一時間くらいは、殆ど食べ歩き状態だった。焼きそばやたこ焼き、焼き鳥、甘味系ではかき氷とクレープ、りんご飴など、歩き回りながらとは言え、一体その華奢な体のどこにそれだけ入るのかという疑問が浮かんだ。
思い出してみると、水野さんに料理を振舞った時も、自分が食べるのとそう大差ない量を出したような気がするが、綺麗に皿を空けていた。
楽しい。素直にそう感じたのは、いつ以来だろう。
そう大して長い人生でもないが、まるで思い出したかのように心の底から笑顔で居られた。
間違いない。水野さんと、立華さんのお陰だった。
そして、帰り際。人もまばらになってきて、丁度俺達も帰るかという話になった時。
「おや、翔。君がこういう場所に顔を出すなんて珍しい事もあるもんだ。明日は雨かな?」
と、聞き覚えのある、鮮明に響く声がした。
「姉さん……!」
「お前に姉さんと呼ばれる筋合いは無い」
振り向きざまの俺に冷静にツッコミを入れてくる女性は、黒石美穂。
立華さんのような極端なものではないが、やや色素が薄いのが分かるダークブラウンの髪。俺と同じ程もある高身長の持ち主で、以前俺が足繁く通っていた喫茶兼バー、アルカナのマスター。
モデル体型で、しかも十人に聞けば十人が美人だと答えるような麗人ではあるものの、本人はそのように囃し立てられるのが苦手らしい。
だがそんな事は露知らず、俺に続いて振り向いた立華さんが、しみじみと言う。
「わ……綺麗な人……」
水野さんも同じように振り返ったが、言葉を発するでもなくただ息を呑んだ。
「……綺麗だと思ってもらえるのは女冥利に尽きるが、余りそういうのは好きじゃないんだ」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「いや、こちらこそ、初めましてなのにこんなことを言って申し訳ない。ただ、まあ……そこの愚か者と一緒に居るような子だから、ちょっとくらい遠慮しなくてもいいだろうと思ってね」
明け透けとした物言いに、しかし大してたじろぐことも無く水野さんが問う。
「貴女は……先輩のお姉さんなんですか?」
「ではないね。勝手に言ってるだけで、血の繋がりも無ければ戸籍が移った訳でもないよ」
「では……?」
「そうさな……一番わかりやすいのはうちの常連って事だろうけど、そういう事を訊いてる訳じゃなさそうだね。まあ、最近は余り顔も出してないけども」
確かに行く機会は随分減っていたが、全く行かなかった訳でもない。
土日の昼に自炊するのが面倒な時は足を運んでいた。
「まあ、近い内にまた行きますよ」
「なるほど、そういう事か。最近来なかった理由は何となく分かった。私は、その二人の事は知らないけど」
「私は、水野風香です」
「あ、白姫立華です」
「あぁ、いや名前を聞いた訳じゃないんだけど……まあいいか。黒石美穂。断じて翔の姉では無いよ」
「でも先輩の事ファーストネームで呼ぶんですね」
「それは、まあね。最初に会ったのが、翔の小学生の頃で、その時は翔くんと呼んでいたから、その名残だね」
「小学生!?」
「小学四年だな」
「……その時の先輩って、どんな感じだったんですか?」
「ん?小狡くて聡くて賢しい子だったよ。年相応だったのは、素直なとこだけさ」
「……要するに、澤木先輩は今とそんなに変わらなかったんですね」
「いや……それはどうだろうね。まあ、いずれ分かる事だ。敢えて言う必要も無いね。翔にも悪いし」
かつて、俺を道化師と呼んだその人の言葉は、やたらと重く感じた。期待と、心配。或いは少し軽蔑も入っているかもしれない。
水野さんや立華さんも、違う意味で重く感じているかもしれない。それは単純な時間の重みだが。
「二人とも、翔の事は君達の目にどう映る?」
「澤木先輩は……優しい人、ですかね」
「……寂しい人、でしょうか」
「……なるほどね」
納得の言葉は、俺を見て放たれた。
ゾッとした。
恐らく俺にとっての二人を今のやりとりで見切ったのだろう。
流石と言うべきか。
「……正直、言ってもいいかな?お二方」
「はい?」
「ダメと言われても言うけどね。正直、今の君達にとって、翔の存在は余りに重い。まあ……この子はもしかすると、上手くやるかもしれないけど、それに気付いてやれるかどうか」
「水野さんと立華さんの事を悪く言うのは、やめてくれ」
「おや。そんなにこの二人は翔にとって大事かい?本当は、翔だって分かっているだろう?自分にとってこの二人が、毒にも薬にもならないって事くらい」
「美穂さん。貴女に、先輩の何が分かるんですか?貴女は、先輩の一体何なんですか?」
「ふむ……一つずつ答えよう。まず一つ目。こういう言い方をするのは余りに大人気無いが、間違いなく、君達よりは分かっている。そして二つ目。翔にとっての私は、特に何でもない。ちょっと縁があって、力になってやっただけだ」
それは、紛れもない事実だった。そして同時にそれは、深く水野さんを切り付けるナイフだった。
よく、分かっている。会ったばかりの相手の事だというのに。
「っ……!そ、それは……」
「すまないね。余り、気は進まないのだけど、事実は事実として受け止めてもらわないといけない。確かに翔は君の事を気に入ってるようだけど、それでも翔自身それは分かっている筈だよ」
「……そう、なんですか?先輩」
不安そうにこちらを見つめる水野さん。
返す言葉は、決まっていた。
「ん?あぁ、ごめん。話聞いてなかった。いや、祭りってのはやっぱり騒がしいな」
「……翔は、それでいいのか?」
「いや、だから何の話か聞いてなかったって言ってるでしょう」
「……そうか」
そうだ。これでいい。
誰が何と言おうとも、これでいい。
たとえ水野さんに言われたって、こればっかりは譲るつもりが無いのだ。
心の姉にだけ聞こえるように小さく呟く。
「俺は、愚か者の道化師だから」
「……そう、か。あくまでもそうするなら、止めはしないよ」
同じように、小さく返してくれる。
俺の意志を、確かめさせるように。
「……先輩?」
「澤木先輩、風香ちゃんが」
「ん?あぁ、そろそろ帰ろうか。じゃあ、姉さん、また」
俺は一刻も早く、水野さんと姉さんを引き離したかった。
「だから、姉になった覚えは無いと何度言ったら分かるんだ」
背中から響くその言葉に振り向くこともせず、俺はその場を後にした。




