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第十話

 土曜日。今日は水野さんが家に来る日だ。


 時計を確認すると十三時五十分。約束通りなら、つまり水野さんならそろそろ来ると思うのだが。


 なんて思った矢先、インターホンが鳴った。


『水野です』


「いらっしゃい、水野さん。今、鍵開けるから」


『はい』


 浮足立ち気味に玄関へ向かい、扉を開ける。


「こんにちは、先輩」


「こんにちは。連絡してくれれば駅まで迎えに行ったのに」


 言いながら、俺は二度目となる水野さんの私服姿を視姦する。


 中心街でバッタリ会った時よりもパッと見で少し派手だろうか。スタイルは殆ど変わっていないが、明るい色のものが多かったり、レース装飾なんかの主張が若干大きい。


 それと、泊まりに来ているのだから当然だが、トランクが置かれている。また、それとは別にハンドバッグはハンドバッグで持っているから女の人の考える事はよく分からない。


「それは流石に申し訳ないかなって。大した荷物ではないですし……それより外、ジメジメして暑かったんです。シャワー借りても良いですか?」


「良いよ。荷物運んでおこうか?」


「あ、大丈夫です。どうせタオルと着替えは必要ですし、トランクごと持って行きます」


「分かった。風呂はそこの扉だから」


「ありがとうございます。……覗かないでくださいね?」


「覗かないから安心してくれ」


 そう言うと、水野さんはトランクにハンドバッグを載せて、俺が指した扉の方へ運ぶ。


 床を汚すのが忍びないのか、両手で持ち上げて。


「……開けようか」


「……すいません。お願いします」


 俺が扉を開けると、運び込んだ重そうな荷物を脱衣所の床へ降ろし、扉を閉める。


「さて……暑かったらしいし、エアコンでも入れておくかな」


 呟いて、俺はその場を去った。


 扉越しでも余り衣擦れやらシャワーの音を聞くのは申し訳ない、というのもあったが。



――――――――――。



「お待たせしました。……涼しいですね」


 さっき見たのとは随分と違う、部屋着なのだろう軽装に身を包んだ水野さんが、重そうな荷物をリビングへ運んで来ながら言う。


 荷物を部屋の隅の方へ降ろすと、続けてソファーに、俺に並ぶように腰も下ろす。


「三十分も経ってないだろ。涼しいのは、ほら、蒸し暑いって言ってたからエアコン入れておいた。人が増えたらどうせ部屋の中も暑くなるし」


「こんな時期からエアコンですか。ダメになりそうです」


「じゃあ切ろうか?」


「それは嫌です」


「だよな」


 なんだかんだ言いつつも、やはり外は暑かったのだろう。


 つけてから時間はそれほど経っていないが、それでも充分に快適だ。


 一人の時は余り気にならなかったが、実際にエアコンを入れてみると体感温度がかなり違う。梅雨の時期に除湿をかける効果は抜群らしい。


「はぁ~……気持ちいいです……」


 シャワーを浴びた後に涼しい部屋に出てくれば当然気持ちいいだろう。


 俺も夏が深まってくればそういう事はよくやるし、実際全身から力が抜けていくくらい気持ち良い。ただ、そのまま眠ったりすると次の日には間違いなく風邪だが。


 今の水野さんが正にそんな状態で、全身の力を抜いてリラックスしている。普段は姿勢の良い水野さんだけに、また部屋用の軽装も相まってその無防備さが際立って見える。


「なるほど。水野さんは家だとそんな感じなのか」


「……ハッ!?い、いえその……そんな、ことは……」


 勢いよく佇まいを正して、気まずそうに視線を逸らす水野さん。ちょっと面白いかもしれない。


「あるよな?」


「……はい。はぁ……油断してました……」


「別にそんな肩肘張りっぱなしだとは最初から思ってなかったから、気にしなくて良いんじゃないか?」


「それは……良いんですか?だらしないのは、嫌じゃないですか?」


「嫌じゃない。水野さんが俺にそういう姿を見られてもいいなら、俺は構わないよ」


「なら……ちょっとだけ、見逃してください」


「あぁ」


 頷くと、水野さんは横からこちらに体ごと倒して、俺の腿に頭を転がす。


「あ、あの……水野さん?」


「嫌なんですか?」


 不安そうな声音。それが作られたものか、心から出たものか、直感的には前者のように思ったが確かではない。


 目は合わせてこない。水野さんは俺から見て向こうの方を見ている。


 覗き込むのも、違う気がした。


「嫌じゃ、ないけどさ」


「先輩のそういうとこ、好きですよ」


 押しに弱いところ、という意味だろう。


 冗談めかしてそんな事を言われると、個人的には若干引っ掛かるところがある。


「……もしかしてバカにされてるか?」


「二割くらい。あとは本気です」


「……あぁ」


「聞かなきゃ良かった。って思いました?」


「……ノーコメント」


「それ、答えてるようなものですよ」


「それでも、ノーコメントだ」


 何故だろう。普段と違う状況だからか、物理的な距離が近いからか、どういう理由か分からないが、調子が狂う。


 落ち着かない、とでも言うのだろうか。何にしてもペースを握られっぱなしだ。


 目の前で、膝の上で無防備な姿を俺に晒している水野さんに、何故それだけの余裕があるのだろう。何故俺の方が余裕を奪われなければならないのだろう。


 社会的な脅迫を受けている、と考えれば自然だが。


「先輩?」


「なんだ?」


「私だって、何も思うところが無い程朴念仁ではないんですからね」


「……あぁ、分かってる」


 若しくは、惚れた弱みか。


 水野さんの言葉に、俺の心臓が跳ねる。叩きつける程強く鼓動する。


 嬉しいなんて浮ついた感情ではない。恐怖に、怯えてしまう。


 近付き過ぎた関係は、やがてすれ違ってお互いを見失う事を俺はよく知っている。或いは激しくぶつかり合って壊れるという可能性もあるが。


 自分の事だ。いつの間にか水野さんを強く意識してしまっている事くらい分かっている。ただ心と頭の中が離反しているだけで。


 俺は、関係が無くなる事には強い抵抗感を覚える。逆に言えば、最初から消えるような関係を作らない事でその可能性を排除してきた訳で。


「水野さん、ごめん」


「大丈夫です。分かってますよ」


 付かず離れずという事の重要性をだろうか。


 俺が一定の距離を置いている理由だろうか。


 或いは別の何かか。


 内心の恐怖とは裏腹に、激しく鼓動していた筈の心臓はいつの間にやら大人しくなっていて、いつもの冷たい自分が帰ってくる。


「もしかしたら、私も同じ気持ちかもしれませんから」


「そうか」


「先輩って、本当はこんなに弱かったんですね」


「強くなれる程、器が大きくないからな」


「どう、しますか?もっと惜しくなる前に……」


「それ以上、言わないでくれ」


「……はい」


「時間、かかってもいいか?」


「勿論です」


 水野さんが、俺の脚に頭を乗せたまま器用に頷く。


「ところで」


「何ですか?」


「どこで気付いた?」


「あ~……えっと……」


「……そういうことか」


「うっ……なんで分かるんですか」


「いや、今までそんな予兆も無かったのに、急に気付かれたから」


「そんな事、分からないじゃないですか。私が能ある鷹だったかもしれないでしょう?」


「いや、それなら最初から俺に近付こうとは思わなかったんじゃないか?そうでなくても、もっと早い段階で」


「……相手が悪かった、って私が言うのはおかしいですけど、そんな感じですか」


「まあな」


 別にそこまで思ってはいないが。


 というか、あの人は一体何物なんだろうか。どうやら、水野さんの過去に関係がありそうではあるのだが、今のところ詳しい事は何も分かっていない。


 昨日、俺も水野さんの事を信じてほしいなんて事を言われたが、一体何がどこまで見えているのだろう。


「はぁ……上手く隠し通せると思ったんですけど……」


「今日しかタイミングが無かったのは分かるけど急過ぎたな」


「なんだかんだ言ってますけど、先輩の切れ者具合はかなりのものですよね」


「どっかのマスター程じゃないから」


「比較対象がおかしいです」


「かもな」


 水野さんが小さく笑う。俺もつられて笑う。お互い、苦笑いのようなニュアンスが混ざっていたが。


 ふと時計を見ると、ゆったり話していたからか、随分時間が経っている。


「水野さん、そろそろご飯の準備したいんだけど」


「あ、そうですよね。ごめんなさい。気持ち良くて……つい」


「いや、ダメって事じゃなくてな。とりあえず起きてもらえると助かるんだけど」


「はい。でも、先輩と話せなくなるのは退屈ですね……。今日は本も持ってきてませんし」


 言いながらも、大人しく、しかし気怠げに体を起こして座り直す。


「それなら、ちょっと」


 俺は水野さんを手招く。


「何ですか?」


「俺の部屋に本があるから」


「なるほど。行きましょう」


 本、と聞くなり勢いよく立ち上がり、いっそ水野さんの方が俺を急かす様な形でリビングを出る。


 服越しに、水野さんの手の感触が背中から両脇腹の辺りを撫でる。


「わ、分かった。分かったから押さないでくれ。階段だから。危ないから」


「あ、ご、ごめんなさい……」


 言いながら、水野さんの手が離れる。ちょっと、惜しい。


「いや、謝らなくてもいいけど……水野さん、本当に読書好きなんだな」


「えっと……そうですね。それだけじゃないですけど」


「というと?」


「先輩がどんな本を読むのか、興味あります」


「なるほどな。で……ここが俺の部屋」


 言いながら、俺は自室の扉を開けて、水野さんを中へ促す。


 それに従って部屋に入るなり、余り普段聞かない声音で水野さんが言う。


「うわ……凄いですね。私の部屋より本だらけ……」


「まだ本棚には余裕あるから、パッと見はそんなに無いけどな」


「確かに、隙間は多い気がしますけど……それでもかなりの数ですよ。それに、綺麗に整理されてるじゃないですか」


「そのせいで隙間が出来てるんだけどな」


「でも、整理してあると分かりやすくて良いですね。私はシリーズだけちゃんと並んでればいいや、って適当に詰めちゃうタイプなので……」


「まあ、気持ちは分かる。本棚整理するようになったのは図書委員やり始めてから……だから、去年の今頃からだな」


「そうなんですか。私も整理しようかな……」


 言いながら、水野さんは本棚を一通り確認していく。


 視線は本棚に向けたまま、こういうのも読むんですか、とか、私もこのシリーズは好きですね、なんて言いながら。


 と、そこで不意に水野さんの動きが止まる。


「あ、これ前にお勧めしてもらったやつですね。そういえばまだ読んでませんでした……」


「急がなくてもいいんじゃないか?」


「そうなんですけどね。先輩的にはどうだったんですか?」


「……早く続きが読みたい。凄く気になる終わり方してるのに三巻がなかなか出なくて」


「あるあるですね。……これ読んでもいいですか?」


「勿論。一緒に三巻出ろ出ろ病に罹ろう」


「その謎の病最新刊が出る度に数字が大きくなるやつですね」


「そうそう」


 本の虫がかかるシュールな病気の話をしながら、本棚に仕舞ってあった二冊を抜き、部屋を出る。


「そういえば先輩って、いつ頃からラノベ読んでるんですか?」


「ん、そうだな……仔細まで覚えてないけど、最初に読んだのは十年くらい前……かな?最初は単純にアニメの原作としか思ってなかったけど」


「まだ小学校低学年とかじゃないですか」


「そうだな。あの頃は辞書が無いと全然読めなかったし意味も分からなかったな……」


「逆に言えば辞書引けば意味が……というか、ニュアンスが分かったんですか」


「なんとなく。そんなに不思議な事でも無いんじゃないか?日本語だし」


「確かに日本語ですけど……小学校低学年にはかなり難しい気がします」


「難しかったな」


「難しかった、で済む辺りが凄いですね」


「そうでもない。一冊読むのに一週間かかってたんだよ当時」


「それでも充分凄いですけどね」


 水野さんが普段と変わらない調子で言う。


 自分自身で何とも思っていない事を、そんな風に褒められるのはちょっとむず痒い。


「……まあ、周りに活字メインの本を読んでる奴は居なかったな」


「そうでしょうね。中学高校になっても読まない人は読みませんし」


「活字アレルギーってやつか。どんな感覚で生きてるんだろうな」


「知りませんよ」


「そりゃそうだろうな」


 呟きながら、俺は台所に向かう。


「じゃあ今から準備するから、ちょっと待っててくれ」


「はい」



――――――――――。



 ゆったりと時間が流れる食後。


 片付けを終えて戻ると、すぐに水野さんが口を開いた。


「先輩の料理の腕に、ちょっと嫉妬しそうです」


「ほら、一人暮らしだから。上手くなるのは必然って事で」


「なんであんなに美味しくできるんですか。どれをとってもそうですけど……一人暮らしだからって」


「ん?科学の力ってスゲーって事だよ」


「……なるほど」


 納得した様子の水野さん。俺がやっている事が如何に簡単な事か、今の一言で大体分かったのだろう。


 今のご時世、生活レベルの知識ならどんな分野のものでも大体はネットから手に入るのだ。


 科学知識なんて言うと仰々しいが、やっているのは人間の味覚が美味いと感じるパターンをどう料理に落とし込むか、というだけの事。


 そのベースに、何百年と培われて体系化してきた知識の一端を使っているのだ。失敗する方が器用でさえある。


「そういうことだから、まあ嫉妬するような話じゃないな」


「確かに、そうですね。でも……」


「調べる事は多い」


「ですよね。まあ、気が向いた時にボチボチ調べますかね」


「それが良い」


 急いては事を仕損じる、という諺もある。


 駆け足になるのはどうも良くないのだ。逼迫した状況そのものが良くないのかもしれないが。


 そこで、パタリと会話が途切れた。水野さんはいつの間にか、食事の前に読んでいた続きを開いていて、ページを送る軽い音が時折耳に入ってくる。


 早い。相変わらず早い。ライトノベルの一頁は大体六百文字程度、見開きだとその倍だから千二百文字程度。最大で原稿用紙三枚分くらいの情報量がある。それを水野さんは二十秒に一回程のペースで送り続ける。


 単純計算で、一秒間に六十文字。考えてみれば恐ろしいペースだ。


 当然、改行なんかの関係で実際はもっと少ないだろうし、全ての字に目を通している訳ではないだろう。俺の知る限り速読家というのは、重要な情報だけを直感的に抜き出して読み進める。


 俺も一秒間で一行と少し、四十文字ちょっとは読めるが、それより早い。アドベンチャーゲームのスキップモードで内容が読み取れるのではないだろうか。


 なんて他愛のない事を考えながら眺めていると、水野さんからジトっとした視線が返ってきた。


「……よし。コーヒーでも淹れようか。水野さんも」


 と、話を逸らすと水野さんは冷視線を収めて無言で頷く。


 自分の家だからこそできる回避方法だ。


 俺は再びキッチンへ足を運び、コーヒーを淹れ始める。


 その音に気付いた水野さんが、ふと頁を送る手を止めた。


「インスタントじゃない……あ、このミルって」


「ん?」


「アカウントのアイコンになってるやつですよね」


「あぁ、そういえばそうだな」


「お気に入りなんですか?」


「いや、別に。これしかないから。お気に入りって言う程使ってもないし」


「その割には、妙に手馴れてますね」


「週に一回くらいかな。そんな頻度だから、あんまり期待しないでくれ」


「楽しみにしてますね」


「プレッシャーかけるのやめてくれ」


 言いながら、鍋の水の温度が八十度を超えたのを見て火を消す。


「本格的ですね」


「インスタントじゃないからな」


「そういう事じゃなくて……」


「先駆者の知恵様様だよ。八十二度の事だろ?」


「です」


 八十二度、というのはコーヒーを淹れるのにおよそ最適とされる湯の温度の事。


 普段はそこまで正確には見ていないが、それでも沸騰させないようには気を付けている。今自分だけじゃないというのもあって、ちょっといつもより気にしてみただけだ。


 水野さんも、どうやらその温度の事は知っていたらしい。


「まあ、知識はあってもプロのようにはいかないけどな」


「いったらプロの意味が無くなるでしょう?」


「だな」


 俺はあくまでも素人だ。


 味に淀みが出るとか、角が立つとか、嫌な渋みが残るとか、そういう事も全く珍しくない。


 数を重ねれば上達するのだろうが。


「まあ、仕方ない。今日はこれで我慢してくれ」


「我慢だなんてとんでもないです。私なんか家だったらインスタントですよ」


「気持ちは分かる。俺も休みの日じゃなかったらそっちだ。面倒だし」


「というより、家にその手の道具は無いんですよ。豆もありません」


「そうなのか?意外だな」


「家でコーヒー飲むのは私だけなんですよ」


「あぁ……そりゃ難儀だ。さて」


 淹れたてのコーヒーをカップに注ぐ。


 水野さんが目を細めた。


「……良い香り」


「比較したらダメだろインスタントは」


「ですね」


 コーヒーを注いだ二つのカップを持って、リビングに戻る。


 俺は、テーブルの上に両手のカップを置いて、片方を差し出す。


「どうぞ」


「じゃあ、いただきますね」


 一口、水野さんがカップを傾ける。


「どうかな?」


「ちょっと、角が立ってますね」


「あぁ、やっぱりな……」


 俺も一口。


 水野さんの言うように、確かに角が立っている。


 喫茶店で出てくるものには程遠い。


「ん~……悪くもないけど特別良くもないな。というか、レミニスのコーヒーを知ったらどうにも」


「私は家でこの味が飲めるなら充分ですけど」


「まあ俺もそんなに不満は無いけどな」


「……先輩。また、コーヒー淹れてくれますか?」


 優しい瞳。声色。


 色々な意味に解釈できるが、その言葉の真意はどこだろうか。


「……また、来るのか?」


「先輩が嫌じゃないなら」


「嫌な訳無いだろ」


「良かったです」


 予想は、間違いではなかったらしい。


「気に入った?」


「静かで、好きです」


「家は、騒がしいのか?」


「いつもはそんなことないですけど、時々鬱陶しいです」


「あぁ、そういう事もあるんだろうな」


「……ごめんなさい。先輩は一人暮らしなのに」


「いや、気にしてない。実感無かったから今見たいな言い方になったけど、嫌味じゃないから」


「なら良いんですけど……」


 申し訳なさそうな表情。


 苦手だ。


 何が嫌かって、自分の発言が不用意だったばっかりに、そんな表情にさせてしまったことが。


 今のを、俺がそのつもりで言ったなら、こんな気持ちにはならないのかもしれないが。


 とは言え、俺はそこまで図太くもない。


「もし」


「はい?」


「もし俺が寂しいって言ったら、水野さんはその寂しさを埋めてくれるのか?」


「……どういう意味です?」


「どういう意味でもいいけど」


「……そんな、もし、があるなら。私にその役が務まるなら。先輩の為なら、私は」


「あー……ごめん、今のやっぱり無しで」


「え?それってどう……あっ」


 水野さんがハッとして目を見開く。


 そう。俺は別にそんな答えが欲しかったのではない。


 確かに誤解させるような言葉を選んだが、それでちょっと反発してくれれば良かったのだ。


 まあ、結果オーライ、と言えなくもない。


 水野さんの表情に申し訳なさそうな何を感じる事が無いから。


「は、謀りましたね……?」


「何の事やら」


「……一つだけ、訊いても?」


「ダメ」


「なんで私の事を、そんなに?」


「ダメって言ったんだけどな……」


「嫌とは言われなかったので」


「うん。まあ、いいけど。そうだな……そんなに明確な理由じゃないんだけど、水野さんが自分の事嫌いそうだから、かな」


「なんで、そんな事で……自分の事嫌いな人間なんて、幾らでも居るでしょう?」


「それが、実は中々居ないんだな。本心からじゃない……って言うのはちょっと違うかもしれないけど、弱みを強みにしてる人は多い」


「付け入る隙を与えて、一気に取り込む、みたいな事ですか?」


「そうそう」


「なんで私は、そうじゃない、と……?」


 そう重ねて訊ねてきた水野さんの表情が一瞬揺れる。


 怯え、だろうか。本当に瞬きする間に平静を装われてしまって、正確には読めなかったが。


 俺は水野さんの問いに対する答えを持っていない。なんとなくそう思っただけ、というのが本音だが、俺はここで一つカマをかける。


「……言って、いいのか?」


 出来るだけ、深刻そうな調子を隠しきれない感じでそう問いかけた。思わせぶりに、含みを作って。


 もし、予想が外れているならそれで構わない。平然と、いいですよ、と返ってくるならそれで良い。そうなったら、嘘ぴょーん、とネタばらしをすれば済む。


 その筈だった。


「……イヤ、です」


 小さく、誰にも届くか定かでないような声で、水野さんはそう言った。


 俺はその瞬間、水野さんにとって知られたくない事を知られている人間になってしまった。本当は秘密など何一つ握っていないのに。


 いや、それだけなら、まだ取り返しがついたかもしれない。


 だが俺は、同じ失敗を、過ちを繰り返した。


「そうだろ?」


 ドクン。心臓が、異常な鼓動を刻み始める。


 いつかと同じ、最悪な嘘吐きの鼓動。


 焦りと不安で心拍数が上がる。だというのに、信じられない程、頭だけは静かに冷たく冴え渡っていく。


 最初も、こうだった。最初は、もっと下手だった。最初と違って、今は隠せている。それが分かる。落ち着き払っていて、いつも通りの自分を装えているのが分かる。


 最初の時には無かった、どこかに押し込んでいた筈の大荷物が大挙して押し寄せてくるのを感じを覚えても。それさえ俺にとっては集中力を増す薬になった。


 水野さんの表情が豹変した。いつもの落ち着いた無表情は見る影もなく、怖れに取りつかれたのか焦点が定まらないままこちらを見ている。


「言わないで……。見捨てないで……」


 今にも涙が溢れてきそうな、潤んだ瞳。小さく、震えを孕んだ怯え一色の声。俺はシャツの裾をギュッと握られて、そんな二つの懇願を聞いた。


 口調でさえ、普段通りに繕えていない。


 あぁ。その気持ちは、痛いほど分かる。誰かと繋がって、それが途切れるのは怖い。人間というのは、賢く、弱い生き物だから、孤独の意味を知ると孤独が怖くなる。


「大丈夫。誰にも言うつもりは無いし、見捨てたりもしない」


 その言葉が、気休めにさえならない事も、当然知っている。


 だが俺は、それ以上の言葉を他に知らなかった。


 それが、人を遠ざけて生きてきた人間の限界だった。


 水野さんから向けられたのは、疑いの視線。


 嫌悪でないだけマシではあるが、一度生まれた猜疑心はそうそう消える事が無い。


 無言の重圧。今まで感じた事も無いような、巨大なプレッシャーだ。胃と喉が締め付けられるように痛む。体ごと重く感じさえする。


 この前の風邪の時よりも体感的には辛い。


 その痛みが分からないから。


 水野さんの考えている事くらいならともかく、それが水野さんの心にどれくらい重くのしかかっているかまでは、俺には分からない。


 だからこそ、その際限のない痛みの可能性を突き付けられただけで、俺はこんなにも追い詰められている。


 体感にして数時間。それが果たして実時間にしてどれ程だったのか。実はほんの数十秒であったかもしれない。


 多かれ少なかれ時間が過ぎて、若干落ち着いたのか、しかし相変わらず震えた小さな声で水野さんが言う。


「……ごめんなさい。先輩が悪い訳じゃないのに」


 それが、或いは諦めであるようにも思えた。


 後腐れのしないように。割り切ってしまえるように。


 そんな、終わりの気配を、俺はその言葉の中に感じた。


「水野さんだって、悪くないだろ」


 言葉は汎用性に富む。逆に言えば、尖った性質は持たないという事。少なくとも、同じ言語を扱う人間同士においてはそうだ。


 だから、こんな時、言葉は極端に無力である。


 誰にでも気持ち良く聴こえる言葉に、一人を救い出すような力は無い。自分の力で歩ける人に着いて来てもらうのと、立つのもままならない人を助けるのに必要なものは全く違うのと同じように。


 今の水野さんを救える言葉は、何だろう。


 居心地の悪い静寂の中、時計の針が十二で重なるまで考えても、その答えは出なかった。

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