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第九話

 朝。駅から雪崩出て行く人混みの中から、ちょっとした広場になっているところで佇む水野さんの姿を見つけた。


 急ぎ足気味に近付くと、本流から飛び出したイレギュラーの俺を水野さんも視界に収めたのだろう、こちらに向かって小さく手を振る。


「早いな」


「いつもは先輩の方が早いじゃないですか。たまには待ってみても良いかなって」


「なるほど。それもまた一興、みたいな感じか」


「そんな感じです。とりあえず行きましょうか」


 言って、水野さんが歩き出す。俺も、それに少し遅れて着いていくように。


「そういえば、決めましたよ」


「ん?あぁ、遊びに来る日程の事か?」


「はい。今度の土曜日……まあ、明日ですね。あ、勿論先輩にご迷惑で無ければ、ですけど」


「明日ね。問題ないぞ」


「良かったです。もし体調が万全じゃないから、っていう事ならやめておこうかと思ったんですけど。まだ喉の調子ちょっと変ですし」


「そうか?もう大分良くなった気がしてたんだけどな」


 実際、主観的には違和感も残っていない。


 痛みは勿論の事、ガラガラ声になったりもしていない。


「ちょっとだけですから。えっと……箪笥とクローゼットくらいの違いです」


「……微妙だな」


 移動の可不可、収納スペースとしての特徴など、細かな差を問われれば確かに違うのだが、使う側からすればそう大した違いは無い。


「ちょっとでしょう?」


「確かに」


 それを喉の調子の違いに置き換えたらどんなものか、正直なところ俺自身には分からないが、そこまで酷い違和感は客観的にも無いという事で良いだろう。


「そういえば、先輩って実質一人暮らしって事ですけど、不便だったりしませんか?」


「ん、まあ不便っちゃ不便だな。昨日みたいに体壊した時は誰も頼れる人が居なくてキツいし。普段は自由が利くから多少不便があってもそんなに気にならないけど」


「やっぱり寂しかったりするんですか?」


「体が弱ってるとな」


「そういうものですか。先輩はやっぱり一人で居る方が落ち着くんですね」


 確かに、一人で居るのは落ち着くし、何なら一人で居る事に慣れていると言えるだろう。


 少なくとも、平均よりは遥かに慣れている自信がある。


 不特定多数の人とある程度以上の関わりを持つと疎ましい事の方が多いし、俺はそういう厄介事の中心にできる限り居たくはない。


 いや、恐らくだが、多くの人はそうだろう。面倒な事は避けて生きていたい筈。ただそれを現実に実行している者が少ないというだけであって。


 俺はその少数派で、深い関係を持つのを避けて過ごしている。それは誰が見てもそういう評価になるだろう。


 だが。


 俺はその問いのような水野さんの言葉に即答で頷く事は出来なかった。


 心のどこかに、何か棘のようなものが引っかかって、喉まで出かかった肯定の言葉を反射的に飲み込んだ。


「……どうしました?」


「あ、いや、そう……だな。静かな方が好きなのは確かだ」


「ですよね」


 直接的な肯定ではなく、ニュアンスを変えて何とか返す。


 俺は、何が気になって、そうだ、と言えなかったのだろうか。


 以前の俺なら言えた。あぁそうだ、と。すぐに頷く事ができた。その筈だ。


 最低限の関わりより他に持たず生きていたから。


 変わった事と言えば、一つだけ。


 水野さんと共に過ごす時間が増えた事。今までの自分からは考えられない程、俺は水野さんに深入りしている。


 確かにそれは紛れもない事実だ。


 ただ、だからと言ってそう簡単に自分の価値観が変わるものだろうか。


 俺と水野さんは偶然図書館で知り合った、先輩と後輩。人と人の関係。友達になってほしい、なんて水野さんのお願いから始まったが、そんな事が無くともきっと今と何ら変わる事の無い関係だったと思う。


 波長が合うのを感じていた。水野さんはそこまで感覚で生きていない気もするが、どちらにしても同じことだ。あの言葉を聞かなくても、俺は水野さんに興味を持っていた。


 好奇の意味ではなく、人として。


 だがそれは、今俺が抱えている疑問の回答にはならない気がした。



――――――――――。



 結局、放課後になるまで朝から同じ事ばかりを考えていて、授業中に複数回注意を受けた。しかも、何をやったか殆ど覚えていない。ノートだけは無意識に取ってあったが。


 何度となく繰り返した思考のループをまたなぞりながら、いつものように図書室へ足を運ぶと、水野さんが本棚と格闘している、既視感のある光景が目に入った。


 その後ろ姿に、俺の疑問はどこかへ吹き飛んでいった。


「水野さん。どれを取ったら良い?」


「なんというデジャヴ……植物図鑑をお願いします」


「課題で使うのか?これで良いか?」


「ありがとうございます。課題じゃなくて、読んでた本の中に知らない植物の名前があったので」


「なるほどな。流石読書家」


「先輩もそういう事しますか?」


「あんまり。ネットで調べればイメージは湧くからな」


「なるほど。けど、学校だとパソコンが使えないじゃないですか」


「スマートフォンでも良いんじゃないか?」


「調べものには使いにくいんですよ、スマートフォン」


「あぁ……確かに」


 小さな画面に無理がちに押し込まれたユーザインターフェースも、同じように詰め詰めの情報も、余り勝手が良いと言える類のものではない。


 慣れてしまえば何でもないのだろうが、俺もスマートフォンでブラウザを使った調べものをするのは苦手だ。逆に、ジャンルが絞られた特化型のアプリはパソコンよりも便利だろうか。


 その辺りは個人の感覚に合う合わないの問題でもあるし、明言はできないが。


「なので、本です。家ならパソコン使いますけどね」


「俺も家ならパソコンだな」


「でしょうね」


 言いながら、水野さんは図鑑に視線を落とす。件の知らない植物を調べるのだろう。


 図鑑というのは文庫本に比べてかなり大きい。何が言いたいかと言うと、そんな大判で分厚い本を水野さんが開いているとアンバランスでちょっと面白い。


 そして、何とも言えない感情が沸々としてくる。


「何ですか?……失礼なこと考えてます?」


「いや、そんなことは」


「ありますよね?」


「……はい」


「……自分でも、分かってるんですよ。私が小さいってことくらい」


「いや、別に気にしなくても、水野さんくらいの人は珍しくないだろ」


「私服を選ばないと小学生に間違われるんですよ」


「若く見えるって事だろ?」


「そのレベルだと、若くじゃなくて、幼く見られてるんです!」


 バタン。


 小声のまま語気を荒げるという器用な事をしつつ、水野さんが勢いよく図鑑を閉じる。


「……幼くは見えないけどな」


「それは、ある程度でも人となりを知っているからでしょう?」


「まあ、確かに」


「先輩は……どうでしょう。掴みどころが無いんですよね」


「なんだそれ」


「分かりませんけど、凄く頭は切れそうです」


「俺が?」


「はい。世が世なら名軍師だったかもってくらい」


「もしそうだとしたら、生まれてくる時代を間違えすぎたな」


「ですね。でも、先輩に会えて良かったって思ってますよ、私は」


「なら、今の時代に生まれて良かったな」


「似合いませんよ、そういうの」


「分かってるよそんな事は」


 自分でも思った。


 そして、言ってから、慣れない事はするもんじゃない、とも思った。


 ただ、本心だ。


 誰かの命を奪う手伝いをするよりは、誰かに会えて良かったと思ってもらえる方がずっと良い。


 多くの人から評価を得たいなんて欲求は、凡人の俺には身の程知らずの物だ。そういうのは、もっと優れた、秀でた能力を持つ人間の役割だ。


 なら、平凡な人間はどうすればいいか。簡単だ。身近な人の力になれば良い。


 天才と評される者の多くはこう言う。出来る事が出来るだけ。出来る事を出来るようにしただけ。出来ない事が出来るようになった訳じゃない。


 その点で、天才と凡才の違いはたった一つだ。


 多くの人に恩恵を与えられるか否か。


 天才はそれができる。凡才はできない。ただそれだけの事だ。


 多くの凡人は、しかしそれでは満足できないようでもあるが。


 今の俺は……。


 と、そんな事を考えていると。


「そういえば、先輩?」


「ん?」


「明日、先輩の家に行くって話したじゃないですか」


「あぁ、言ってたな」


「それなんですけど、泊まりで行っても良いですか?」


「え?泊まり……って何だ?え?家に泊まるのか?」


「そうです。ダメですか?ダメなら今回は諦めますけど」


「えぇ……どうしようか」


 先に立ったのは、心の距離感が近付いた喜びよりも、猜疑心。


 今回ばかりは自分の性格を恨んだ。


 水野さんの言葉に、裏の意図は感じられない。見えていないだけかもしれないが、直感を信じる限り、今回は信じていい。


 だというのに、もしそうなった時に考えられる最悪の結果ばかりが頭の奥でざわめき立てる。


 謀略。そんな言葉が脳裏を過る。


 裏切られる。そんな懸念と不安で心が押しつぶされそうになる。


 考えながら、俺は殆ど無意識に水野さんの動きを観察していた。


 一挙手一投足から表情に至るまで。


「……やっぱり、いきなり過ぎましたか?」


「……いや。まあ、水野さんの親御さんが了承してくれるなら、いいよ。どうせ家には誰も居ないし」


「え?良いんですか?自分で言っておいてなんですけど、凄く意外でした」


 水野さんの表情に見えるのは、嬉しさと驚き。


 それでも、やはりと言うべきか、不安が無いわけではない。それどころか、俺の不信感は相当に厄介者で、事の是非を決めた後でさえリスクリターンの計算をしている。


 逆に言えば、そのプラスに傾く可能性に賭けるだけの価値があったのだ。


 最高のタイミング。本気で騙す気ならきっと、ここを逃す手は無い。ここら辺りが潮時。丁度一番バランスが取れた、絶好のチャンスの筈。


 逆に言えば、ここで何も無ければ、懸念材料が大きく削れる。俺はそのリターンが欲しい。


 だからこそ俺はそのギャンブルに踏み切った。


「意外か?家に一人なのも言ってるし、水野さんさえ嫌じゃないなら問題無いだろ?」


「その割には、結構考えてたみたいですけど」


「そりゃ、泊まりってなったら多少はな。色々と気にする事もあるし」


「それもそうですね。まあ、心配するようなことは、それこそ親が心配してくれますよ。でも、自己責任で、って言ってくれる筈です」


「まあ、それならいいんだけどな。……にしても、いきなり泊まりか」


「私、初めてですよ」


「何の事だ?」


「友達のお家に泊まりに行くって」


「俺も親戚とか以外が泊まりに来るのは初めてだな。親戚だって最近は来てないし」


「まあ、正直そんなイベントを普通にこなしてるなら、ボッチなんてことありませんよね」


「違いない」


 そもそも、誰かを家に呼びたいとさえ思わなかったのだ。泊まるなんて尚の事する筈がない。


 実際、泊める方も、泊まる方も、した事が無い。


 ふと見ると水野さんは、胸の前で右手をキュッと握り込んでいる。


 その反応は当然とも言えた。男の方の俺だって緊張しているのだから。


 ただ、なんとなくその真偽が気になって、俺は訊ねる。


「……緊張してる?」


「アダルトビデオごっこですか?」


「……全くそんな事考えてなかった」


「でも、なんかそんな訊き方じゃないですか。それ」


「言われるとそんな気がしてくるな。女子高生が知ってるべきじゃない事だけど」


「それで言うなら高校生全部です。というか、実際知ってるわけじゃありませんよ。雰囲気です」


「あぁ……」


「逆に先輩は知ってるんですか?」


「知らん。雰囲気っていうのはなんとなく分かるけど」


「そういうことですよ」


「なるほど」


 納得はしたが、本当に予想もしていなかった返しだった。


 とんでもない発想だ。というより、それを言葉にしてしまう辺りが突飛だ。


 余り度が過ぎても良くないが、そういうのは多少なりカマトトぶっても良いのでは、と思わないでもない。


「今、もうちょっと恥じらいを、とか思いました?」


「なんだ、ただのエスパーか」


「目は口程に物を言う。そういうことです」


「あぁ……まあ、ハッキリ物を言うのが悪いとは言わないけどな」


「先輩、良い子ぶりっ子嫌いでしょう?」


「程度による」


「じゃあ言い方を変えましょうか。ハッキリ言う方が好きですよね?」


 その言い方だと俺の好みに合わせている、みたいなニュアンスもあるが。


 流石に拡大解釈が過ぎるか。


 素を隠さなくてもいいかの確認、という辺りが妥当な理解か。


「それはまあそうだな」


「でしょう?」


「まあ、そんなの確認するまでもなかったと思うけど」


「でしょうね。そうじゃなかったら、私みたいのとこんなに話していられないでしょう」


「水野さんと話すのは面白いよ」


「私も、先輩と話すとあっという間に日が暮れますね」


 悪くない、と思われている。そういう事で良いだろうか。


 そんな微妙な感想が浮かんでくるのには勿論理由があって、正直なところ、俺は好意や善意を向けられている事に自信が持てない。


 より正しくは、そもそも自分に自信が無い。だから当然の帰結として、自分が良く思われているなんて可能性は、普段なら真っ先に弾く。


 今だって、本音を言えば半信半疑くらいだ。水野さんの事は多少理解できてきたつもりで、こういう事を冗談で言うようなタイプではないだろうと思ってもいる。


 ただ。


 考えれば考える程、疑念は深まる。確実に明白な事実でなければ、信じきれない。勿論、そんなものは無いなんてことも分かっていて、真実の可能性の小さい方から削って、残った物をひとまず信じておくのが常となってはいるが。


 内心どうなのか。気になって、俺はつい水野さんに視線を向ける。


 その瞬間、ほんの一瞬だけ目が合った。ほんの一瞬だけだったのは、お互い反射的に視線を逸らしたから。


 人と話すのに慣れていない事を裏付けるような条件反射だ。


「な、なんでこっち、見たんですか……」


「み、水野さんこそ」


 言葉にし難い感情が、一気にこみ上げてくる。


 人と目を合わせるなんて事を平気で出来る生き方はしてこなかったのだから当然だ。


 これが例えば水野さん相手でなかったとしても、或いは異性でさえなかったとしても同じだ。慣れない事への恐怖みたいなものやら気恥ずかしさなんかが、感情の内容量のキャパシティを遥かに超えてくる。


「私は……先輩が何か考え込んでいたので、気になって……」


「なんで、そんな事が気になるんだ?」


「え?……あっ、いえ、別に何も気になってないですけどそれよりっ!先輩はなんで私の方見たんですか?」


 どうやら誤魔化されてはくれなかったらしい。


 俺と同じかそれ以上に冷静さを欠いてこそいるが。


「いや……その、なんだ。泊まりに来るって話だっただろ。何か準備しておいた方が良いものってあるかな、と」


「あぁ、そんな事ですか。それなら余計な事まで気を遣わなくて大丈夫ですよ。必要なら自分で持っていきます」


「そうか?なら、気が楽でいいけど」


「良いんです。というか変なとこまで気を回されると気味悪いです」


 それは確かにそうだ。男の俺には具体的な事まで分かり得ない事があるのだろう。そんなことまで気遣われるとかえって困るなんて事も想像に難くなかった。


 つまり余計な事は考えず、水野さんの言う通りにしておけば良いだろう。


「なるほど、分かった。そういう事なら」


「はい。そんなに気にしないでください。それより先輩」


「ん?」


「まだ時間大丈夫ですか?」


「一人暮らしだぞ。大丈夫だ」


「じゃあ、レミニス、行きませんか?」


「あぁ、良いよ。行こうか」


 そうと決まればそこからの行動は早く、俺達は二人で喫茶レミニスへ向かった。

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