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被虐の少女の手記  作者: シリアス大好きマン
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7

 気持ちの悪い昼だ。

 水無月がいない。それだけでも充分なのだが、マナがずっと昨日のことを引きずっていて、まともに俺と目を合わせてくれない。

 マナの家に帰った俺たちはそのまま死んだように眠りに落ちた。時間を忘れた俺たちが気づくと、すでに翌日の昼を過ぎていた。

 やったことは最低だが、もう起こったこと。それを巻き返すために今一度立ち上がらなければならない。

 なのに。

「あ……」

 これだ。マナは完全に俺に恐れを抱いている。俺だってなんて声をかけてやればいいかわからない。つまり俺も心の中では恐れているのだ。マナとの関係がどうなるのか怖いのだ。

 かれこれ数秒経って先に口を開いたのはマナだった。

「……村雨が確認したよ。水無月は神殿で槍の合成をしてる。あのスピードだと……あと四時間といったところ。合成が完了したら本当にこっちの負け」

「そうか」

「うん……」

「今すぐにでも行きたいけど、少し……心の準備をさせてくれ」

「……うん」

 こんな心境では水無月を救いに行けない。マナと和解しなければ、絶対的に水無月に負ける。

 俺の魔法は、きっと水無月と同じ心象魔法だ。あの時ロンギヌスを複製できたのはそのせいなのだろう。意識は澄み、ただ戦うためだけに魔法を行使した記憶がある。

 乱れた布団を苛立ちをぶつけるように振り払うと、そこから一冊の本がぱさりと落ちた。

「ん?」

 知らない本だ。いやこれは……手記? 見た目はボロボロで、年単位で使い込まないとこれほどにはならないだろうほど。

 俺は無意識に表紙を捲り、柔らかい文字で綴られたそれを目についた部分だけ読み始めた。



 〇月×日。

 皆が私に期待している。

 その期待に応えるのが私の役割。でもつらい。私は確かにその期待に応えているけど、その度に次もと期待される。つらい。

 本当は私は弱い子。世界を救う目的のために戦いに身を投じる女の子。弱い私なんて不要。強く、優しい『皆の』私を貫かないといけない。

 お姉ちゃんも、皆もとてもいい人ばかりで、頑張らないと、と思う。

 〇月×日。

 やけに身体が鈍い。診てもらっても特に問題はないって言われた。

 時々身体が言うことを聞かない。それに右半身に動作までのラグを感じる。これは致命的。これでは戦えない。皆のために戦えない。

 どうすればいいのか……最近私に憑いた子に訊いてみよう。お姉ちゃんに相談したらきっと心配される。でもこの子なら私の力になってくれそう。

 〇月×日。

 見てはいけないものをよく見かける。

 死体をたくさん見る。お姉ちゃんの発展途上の胸に欲情しているおじさん。私の首を執拗に撫でる女の人。私の食事を物欲しそうに指をくわえて眺める子供。

 たくさんだ。どうやら私以外には見えていないらしく、できるだけ無視をすることにする。

 〇月×日。

 寝ている時、急に呼吸ができなくなって跳ね起きた。

 私に上に跨って、いつも首を撫でる女の人が「死になさい!」と血の涙を流しながら首を絞めていた。しだいに意識が薄れていって、お姉ちゃんの部屋に逃げることもできなくなったが、いつの間にか女の人はいなくなっていた。

 その直後、胃からこみ上げたものをもどしてしまう。

 あーあ。これ、なんてお姉ちゃんに言い訳したらいいんだろ。

 〇月×日。

 両足を切断された。

 敵の罠に引っかかった私が悪いけど、誰もいない地下ではどうしようもない。恐ろしい速さで血が流れるのを見ていたら、いつの間にか気を失っていた。

 そして気づくと私は助けられていた。

 両足は何事もなかったようにキレイに傷跡もなく、元に戻っていた。

 その日の晩、寝る私を見守る死体が倍以上に増えていた。

 〇月×日。

 ふと振り返れば、きっとあの時私は死んでいたのだと思う。

 あれは悪い夢って一蹴したいけど、できない。そしてその対価を払ったというのならば私は大人しく受け入れよう。

 味を感じなくなった。ただの固形物を噛んでいる感覚がとてつもなく気持ち悪くて、トイレで全部吐いた。

 子供の死体が美味しそうに何かを咀嚼している。

 〇月×日。

 苦しい。

 誰の目につかなくなった瞬間、死体――いや、意思があるから死者か――が私を殺そうとしてくる。現実的な痛みはない。もし傷つけたとしてもすぐにキレイ、すっかり元通りだ。

 殺される度に私の人間性が少しずつ剥奪されているのがわかる。今はもう、私に何が残っているのかすらわからない。

 私は弱い。強くなんかない。これから悪性を倒しに行くのに、本当にこれで大丈夫なのか心配だ。でも皆はできるとこれまで以上に士気が高まっている。

 私がそれを下げるわけにはいかない。

 怖い。私が人間なのかどうかも怪しくなってきた。

 この子たちはきっと、私の罪の象徴なのだ。救えなかった人たちの呪い。

 頑張った。でも救えなかった。私の力では全員を救うことはできなかった。

 ごめんなさい。謝って許されるのなら、私は何百年を費やしてでも謝り続けよう。でも許されないから、私はこの子たちの呪いを黙って受け入れよう。満足するまで、ずっと。

 あと少し。あと少しで全部が終わる。そうしたら皆と笑って、この子たちに償い続けながらも、お姉ちゃんと幸せに生きていきたい。そう考えると、まだ頑張れる気がした。

 それで気づいたんだけど……私はいつからここにいたんだったっけ? 私はなんで、お姉ちゃんをお姉ちゃんと呼んでいたっけ?

 私の家族のことを、なにひとつ思い出せない。

 〇月×日。

 悪性と対峙して理解した。

 あれは、未来の私だ。

 ずっと皆で世界を救うために戦ってきたこと、最近のことは何とか覚えているけど、それより前の記憶は灼けてしまった。

 とても大事な出会いがあったのをなんとか覚えている。とても悲しい別れがあったのを少しだけ覚えている。

 でも、誰?

 お姉ちゃんに不審がられながらも今までの全部を聞いて手記に記録する。名前を指でなぞって声に出してみても、やっぱりわからない。

 死者たちは増える一方。軍隊だってつくれそうだ。

 私は誰? 水無月咲。

 本当に私は水無月咲?

 本当の本当に? うん、間違いないはずだ、きっと。

 水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲水無月咲。

 〇月×日。

 もうダメだ。

 これ以上耐えられない。私は間違いなく悪性に目覚める。

 それまでに死なないと。誰にも迷惑をかけられない。

 やり残した使命を果たして、そしてひとりこっそりと死のう。

 さようなら、皆。

 さようなら、お姉ちゃん。

 〇月×日。

 能代くん。あの人は、うん、たぶん好き。好き。

 嬉しかった。ずいぶん久しぶりに感じた感情。

 ずっと苦しみしか感じなかったから、なんだか新鮮な気持ちだ。

 死にたい。でも、ひとりで死ぬのは本当は嫌。怖い。誰かにわかってほしい。死にたく……死にたい。

 能代くんなら私を殺してくれるかな。未知への恐れじゃなくて、愛情をもって殺してくれるのかな。

 それだけが、心配。



「これ、は――――――」

 言うまでもなく、これは水無月が書いていた手記。

 覗いてはいけないものを除いた気がした。読み上げたのなんて本当にごく一部だ。隙間なくびっしり書き埋められた文字列に俺はつい吐き気を催してしまう。

 無慈悲で冷酷な体験の数々。

 これにおよそ人に書けるものではない。この手記のものがひとつの呪いのようだ。

 俺は知らず知らずのうちに涙が流れていた。

 壮絶な経験をしてきたのだろうなと漠然としか考えていなかったが、そんな生易しいレベルではないと今更になって気づかされた。

 想いは通じた。しかし水無月はさらにその先、俺に殺されることを望んでいる。

 悪性に目覚めた水無月は三本の槍を持っている。ロンゴミニアドを入手した時に槍は揃っていたのだ。つまり水無月が言っていた、世界を滅ぼす力を持っている。……勝つビジョンが全く思い浮かばない。

 死者の束を相手にして、その奥に鎮座する水無月にとてもたどり着ける気がしない。

 死を望む水無月。俺はそれをもちろん望まない。

 どちらにせよ、水無月との戦いは避けられない。人を滅ぼすと公言したから、放っておくわけにはいかない。

 俺を魔法使いにした死者はどこにもいない。単なる気まぐれか、それとも何か目的があったのか。

 この際どうでもいい。とにかくこれで水無月と戦うことができるのだから。

 それにまだ完全に悪性に覚醒していない。俺を殺したがっていたのに、必死に抵抗していたからだ。自分の腕を切断してまで俺に手を出すまいとしていたのだ。

 いくら再生するとはいえ、痛みは感じるはず。あの行動のどこに、悪があるのだろう。いや、ない。あれこそ善だ。

 マナの言ったタイムリミット。それは槍のであり、水無月のではない。一刻も早く行かなければ。

 決意は固まる。

 手記を閉じ、部屋を出る。

 マナを訪ねると、自分の椅子に腰掛けたまま俯いている。

「マナ」

「公嗣……」

「これ、知ってたか?」

 マナに手記を手渡す。反応を見る限りどうやら初めて見たらしく、しなやかな指が表紙をめくった。

 数ページで異変に気付いたマナは、途中で手が止まる。だが意を決して読み進める。

 時計の秒針が時を刻む音と、ページを捲る音。あるのはそれだけ。そしていつの間にかマナの嗚咽が混じり、読み終えた頃には俺の前など関係なしに大きな声で咽び泣いていた。

「ボクは、なん、てことを……! こんなの、知らなかった! 水無月がこんなことになってたなんて、知らなかった……!!」

 涙が止めどめなく流れる。俺はそんなマナを見ていると、自分も頬に熱いものが流れるのを感じた。もらい泣きか。さっき泣いたばかりなのに。男なのに俺はなんて泣き虫なのだろう。

 マナが俺を見て、より一層感情を爆発させると、俺の胸に飛びついてきた。

 そして叫ぶ。

 ありったけの声量で、マナは叫び続けた。

「どう償えばいいのか、わからない。ボクがあんなことをしなかったら水無月は……。う、うぅうぅぅ!!」

「……」

「ごめんなさい。本当に……ごめんなさい!!」

 これでもかとマナが腕に力を込める。

「ねえ、ボクはどうしたらいいと思う……?」

「マナがやったことは許されることじゃない。人の命が関わるのならなおさら。……でも、本当に俺と水無月に悪いと思っているのなら……俺に協力してくれ。そして水無月を、取り戻そう」

 タイムリミットは……あと三時間強。

 時間はまだ十分間に合う。

 悲しいままで終わらせてやるものか。自分を被虐と言った、あの時の水無月のどうしようもない悲壮な表情を浮かべていたことを俺は知っている。



 ◆



 大鳳究は重い瞼を上げた。

 鍛え抜かれた筋肉は魔法という異能に負けないため。

 その聡明な頭脳は相手より優れた判断をするため。

 ここは大鳳たちの根城。地下にあるためまず見つからない。何重にも張り巡らされた罠。認識齟齬を引き起こす術式も常に展開している。よほどの実力者でもない限りまず認知すらされない。

 スティーブたちとの連絡は途絶した。抜け駆けしようとしたからああなったのだ。おかげで水無月咲は悪性に目覚め、ゼレステアの扉を開こうとしている。あそこまで力を増大されては、いかに大鳳が有能だろうともはや捕獲することは不可能だ。

「笠波は水無月咲の捕獲のチャンスが来たと思います

 機器を尻目に笠波がそう言った。

 異層全体を覆う悪性の波状を示すグラフは今もなお激しさを増している。魔法に手を出していない者には見えないが、扉以外に異常なレベルの意識が発生し、濃すぎるがゆえに実体化している。それらは人の形をしていて、足を踏み鳴らしながらとある言葉を絶え間なく復唱している。

 ――ゼレステアの王、と。

「そうだな」

「でもそれじゃあ国からの任務をこなせねぇ。どうすんだよ」

 城戸崎がラジコンの操作レバーを素早い動きで傾ける。モニターに映るのは一大隊の死者。さながらゾンビ映画のようで怪訝な顔をする。

 ドローンがその間を潜って神殿へ。中で修復された玉座に座っているのは水無月だ。その目の前には一本の槍が地面に突き刺さっている。まだロンギヌス、ロンゴミニアド、ゼレステアの合成途中で、見るからに脆そうな様子だ。

 と、ここでドローンが撃ち落とされる。

「……」

「あの群れを突破する力はありますが、その後水無月咲を相手にするのは無謀です。しかし、能代公嗣と皐月マナは必ず助けようと動くでしょう。その混乱に乗じてなら、十分可能です」

 アメリカと協力関係を結んでいたといっても、水面下ギリギリでは熱い攻防が繰り広げられている。拠点を監視するのはもちろんのこと、その動向も。向こうもきっと同じことをしていただろう。

 深度五に至った能代は要注意だ。

 大鳳たちは深度四だから、能代が心象魔法を完全に使いこなせるようになったら勝つのは非常に難しくなる。

「――行くぞ。私たちはこれより『槍の確保』に向かう」

「――は?」

 城戸崎が豆鉄砲を食らった顔をした後、大鳳を睨み付ける。

 国から受けた任務は水無月咲を捕獲すること。なのに大鳳はそれをしない。笠波の言うとおり、これは大きなチャンスだ。アメリカは脱落し、あとはフランスだけ。深淵は厄介だが、なんとか対処できるレベルだ。

 なのに大鳳は槍を優先させると言う。

 抗議しようとした城戸崎だが、大鳳が既に両手に構えていた銃の引き金は引かれ、ふたりの眉間を撃ち抜いた。

 崩れ落ちるの死体を見下ろし、部屋を出て、ロックを開けて地上に出る。

「――オ・ルヴォワール。城戸崎、笠波。短い間だったが、私の目的のため尽くしてくれたこと、感謝する」

 本当は水無月咲の捕獲など『どうでもいい』。

 大鳳はひとり異層へと足を踏み入れる。



 ◆



 異層が変質している。そう気づいたのは足を踏み入れた瞬間だった。

 底なし沼に落ち、自分を喪失していまう。水無月が以前、これを悪性の前兆と言っていたがその比ではない。

 不可視の手が心にずるりと潜り込み、鷲摑みにされるのを防ぎながらあえて俺はにっ、と笑ってやる。

「行けるか、マナ」

「うん、そっちこそ遅れないでくれよ」

 作戦に従って動く。

 ちまちまと時間をかける余裕はない。それに俺は咄嗟に妙案を思いつくことのできる秀才ではないし、残念なことに、マナもこれといっていい案はなかった。

 ならばやることはひとつだけ。

「堂々と正面突破……うん、馬鹿丸出しで笑っちゃうけど、これこそ王道ってね。――行くよ、白露、時雨、村雨!!」

 マナの中から現れた三頭の狼。マナは白露に、俺は時雨に跨って異層を駆け抜ける。目指すは浮遊島、その神殿の水無月。

 白露、村雨、時雨の順に三列に並び、元は森だった、今は土肌を晒す荒野を疾走する。

 目の前に広がるは、黒。死者が一体すべてを覆いつくしているのだ。

 ゼレステアの王!

 ゼレステアの王!

 ゼレステアの王!

 武器を持っていれば持っていない者もいる。

 だが俺とマナの前に立ちはだかる。

 全ては水無月を殺すため、生かすため。苦しめるため。

 永遠の罪。その罰を与えるために存在する者たち。

 確かに水無月はこの人たちを助けられなかった。しかし水無月も全力で頑張っていたのだ。

 大人しく成仏しろなんてことは言わない。せめて、これからの未来を生きようとする人の脚を引っ張るのだけは、今日限りで終わりにさせてもらうぞ!

「公嗣」

「邪魔だ……どけえええぇぇぇぇ!!!」

 俺を先頭として、マナがその後ろに着く。

 右手にロンギヌス。

 だがこれでは手数が足りない。俺の全面だけ守れたとしても、全方位から群がる死者たちからマナを守ることはできない。

 俺は深度五の心象魔法の使い手。本当はやり方など全く分からないが、そんな言い訳などこの場では不要だ。

 思い浮かべるのは水無月の攻撃パターン。必要なのは、敵を倒すための攻撃ではなく、敵を寄せ付けないための攻撃だ。

 理解しろ。自分のものにしろ。水無月の動きをトレースして、真似をしろ。

 無に浸る心象。己の内側。そのすべてを曝け出して、空想を、現実に上塗りする……!

 ――俺たちを囲むように姿を見せるは、無数のロンギヌス。だが所詮は付け焼刃。一度振られれば即座に現実に耐えられなくなって崩壊する、出来損ないの脆い槍だ。

 だから無限に生成する。途絶えることがないように。周囲に纏う槍の、時間遅れの攻撃は俺たちの盾となる。

 一瞬でも崩壊と生成のバランスを崩してみろ、すぐさま死者の波に呑まれるぞ。

 これ以上の粗悪品を生成してみろ、この盾は破られるぞ。

 繊細な行動が求められる、失敗の許されない状態。引くことはできない。俺たちが通り過ぎた後は一瞬で死者に埋め尽くされ、退路は断たれる。

 止むことのない激しい衝突。死者の腕が村雨の毛に触れる寸前、ロンギヌスによって吹き飛ばされる。

 厄介なのは戦い慣れしている死者だ。いくら引き剥がそうとしても追いかけてくる執念は異常だ。しかし俺だってここで負けるわけにはいかない。前に進まなければならない。こんなところで足踏みをしている余裕などないのだ。

 槍の攻撃網からすり抜けた死者が剣を振り上げて俺に襲いかかる。

「せあっ!」

 見知った斧を出現させ、迎え撃った。

 ガギン! と黄色の火花を激しく散らし、剣と斧が接触する。踏みとどまるための足が地面につかない。バランスが崩れるとそこで正面突破は終わりだ。

 すべては時雨にかかっている。俺は全力で股で時雨を挟み、上半身を限界まで捻る。

「耐えてくれ、時雨!」

 時雨が吠える。

 斧の爆炎部に力を送り、爆発させ、加速力を得る。純粋な力比べはこちらに軍配が上がり、そのまま勢いづいた斧は首を落とした。

「前、開けて!」

 鋭い命令が飛ぶ。

 時雨を後ろに引かせ、代わりに村雨と白露が前に出る。

 もし俺が死者たちの山を崩せなかった時に使用するつもりだった、マナの切り札。それを、今ここで切る。

「いいのか!」

「いい! ここで時間を無駄にできない! それに水無月を救うためなら、このボクの身体、いくらでも戦える! 白露、村雨、いくよ! ――貫けッッ!!」

 この瞬間だけ、二頭の狼は速さを超え、上のレベルへと跳躍する。一歩だけ助走をとり、そして俺の前から消え失せる。

 俺の耳を爆音が叩き、前方はなにもないまっさらな荒野となる。

 マナの持つすべての力を純粋なスピードに捧げる、切り札。すでに白露と村雨はジャンプして浮遊島に着いている。

 ――すべてのロンギヌスを消す。

 マナが全力で前方の障害を排除したところで、ほんの数秒でなかったことにされる。だからそのほんの数秒で一気に駆け抜ける。

 具体的には六秒ほどだろうか?

 でも。

「十分だ」

 信じるぞ、時雨。すべてはお前の脚にかかっている。

 駆ける。

 死者を置き去りにする。

 駆ける。

 景色を置き去りにする。

 駆ける!

 全てを置き去りにする。

 駆ける……!

 目指すは浮遊島、ただそれのみ。

 派手に着地して、神殿の柱に強く背中を打ったところで俺の意識は戻ってきた。

 三頭とも満身創痍だ。

 小刻みに呼吸を繰り返しながら、マナの中に還る。

「ありがとう、白露、時雨、村雨。あとはボクたちに任せて」

 悪性の影響が強くなっている。

 俺が誰か果たしてわからなくなるほどだ。

 思考にノイズが走る。ぶつぶつと脳と身体との接続を切られるような不快感に、頭を抑える。

 マナは力を使い果たしてボロボロだ。

 たたらを踏みつつも、なんとか歩いているのを見れば、誰もが戦えないと判断する。

「公、嗣……もしボクに……ここで休んでいろなんて、言ってみろ……一生恨むから、ね」

「ああ」

 マナの肩を持ち、進む。

 神殿は完全にその姿を変えていた。

 つい数日前は太古の遺産じみていたのに、聳え立つ壁は真新しい。神々しい光を放ち、白銀の色を放っていた。

 深淵との戦いで柱なんて一本も残らずに破壊されていたはずなのに、規則的に並べられている。

 完全に息を吹き返した神殿。その奥に、人がいた。

「――わざわざ殺されに来たんだね?」

「いいや、違う。お前を救いに来た」

「ふーん、殺しに来たんだ」

 微笑む。

 死者はこの神殿にはいない。

 ここにいるのは、水無月と、俺と、マナだけだ。

 水無月の隣には一本の槍が佇んでいる。白い雷を弾けさせながら、槍の形状を整えている途中だ。

 水無月の銀髪が靡く。玉座から立ち上がり、俺たちを見下ろすその目は人のものではなかった。

 俺は変わり果てた水無月の姿に奥歯を強く噛み締めながら一歩前に出る。

「いいよ、相手をしてあげる。槍はあともう少しで完成よ。悪性は拡大する。この異層の外にも影響を与えられるまでなら遊んであげる」

「――あれを読ませてもらった」

 反応する。少しだけ陰の気を見せたが、水無月はそれを振り払うように「クヒャ」と笑った。

「……そう。どうだった? 私はあれに書いていた通り、弱い子だったの。でも今は違う。私はもう泣かない」

「水無月はひとりじゃない」

「そんな言葉、聞き飽きた。皆がいる。協力。絆。仲間。そんな妄言、聞き飽きたの。私は独りでいい。独りで死にたいの。ゼレステアの扉を開いて、満足して死ぬの。……いや……でも……罪は償わなきゃ……だからまだ死ぬわけには……えっと……」

 揺らいでいる。

 左を向き、右を向き、そして空を仰ぐ。

 あれがWoth――ゼレステアの扉は実体の持たない根を伸ばし、神殿に深く接続している。

 扉が動く。渦のようだった見た目は形を変え、捻じれに捻じれ、巨大な門となる。空中に浮遊するそれは厳重に鎖で拘束されていて、内側から何者かが扉を破ろうと一定のタイミングで轟音が神殿を叩きつける。

 鎖には鍵穴があって、微弱ながらそれに槍が反応を示している。

 水無月は悪性に、死者に憑りつかれている。

 ならばそれを引き剥がせばいい。俺とマナが結論付けたことだが、確証などないし、そもそも水無月がそう易々と接近を許すはずがない。深度一ながら異常ならざる力を持つ絶対者。正面から向かえばまず死ぬ。

「……自分が誰だったか覚えているかい?」

「世界を救って、壊す者。被虐の悪性。それだけでいい」

「水無月、君の本当の名前は誰も知らない。なぜなら君はひとりだったから。吹雪の吹き荒れる冬、小屋に監禁されていた君をボクが見つけ出して、保護したんだ。君を妹のように可愛がっていたら、いつの間にかお姉ちゃんって言われるようになって……その時のボクの嬉しさ、わかる?」

「わからない」

「突然ボクたちの前から何も言わずに消えた時のボクの気持ち、わかる?」

「わからない」

「今、ボクがどんな気持ちかわかる?」

「わからないし、うるさいよ。これ以上口を開くなら、たとえ『お姉ちゃん』だろうと殺す」

「……そうかい。じゃあ殺しなよ」

 俺の肩を借りていたマナが一歩前に出る。

 水無月は汚物を見る目でマナを見下ろし、剣を構えた。

 しかしマナは臆することなく歩き始めた。その堂々たる様は誰にも止められない。

「当てるよ」

「当ててみなよ」

「この……」

 水無月が剣を投げる。それはマナの頬を少し裂いただけで、後ろで極大の爆発を引き起こすのみ。

「どうしたの? 当てなよ」

 水無月の怒りの代わりに、神殿を埋め尽くすほど闇色の花が大量に咲き乱れる。舞い上がる花弁は悪性を助長させ、濁り始めていた意識が今度は溶け始める。

 数百の剣を投擲するが、どれもマナに掠るだけで致命的な一撃を与えられないでいた。だが掠り傷とはいってもそれが積もれば山となる。

 ガクン、と膝を折り、地に伏す。

「マナ!」

「来ない、で!」

 手を伸ばし、俺の介入を拒否する。

 よろよろと力なく立ち上がったマナは両手を広げ、煽るように訊ねてみせる。

「ほら、ボクは……お姉ちゃんはここにいる! 殺してみなよ!」

「――ッ!!」

 マナは進む。

 水無月の猛攻に耐え、一歩、また一歩と確かに近づいている。

 俺はまだ出るべきではない。そういう打ち合わせだ。マナがいったいどうやって水無月の動きを止めるかまでは教えてくれなかったが、まさかその方法が『これ』だとは思いもしなかった。マナは絶対に手を出すなの一点張り。

 罪を感じているのだ。ボクがあんなことをしなかったら、と。間違いなく危険な役。マナが躊躇いなく引き受けたのは罪悪感からだろう。最悪の場合だって考えないといけない。もしマナが水無月に足止めに失敗したらその時は……。

「姉として! 妹を叱らないといけない時がある! ――それが今なんだ!」

 ボロボロの癖に、無理をしてマナは駆けた。

 残り数メートルを一気に詰める。突然の行動に驚いた水無月が咄嗟に数十本の剣を投擲する。その内の一本がマナの脇腹を深く抉り、水無月の足元に倒れる。

 小さく痙攣を蹴り返し、ついに我慢できなくなって飛び出しそうになったが、それより先にマナが立ち上がった。

「どうして、立ち上がれるの……お姉ちゃん」

「水無月に比べたら、こんなのへっちゃらさ。それに水無月にはそんな顔、似合わない」

 水無月の衣を掴み、血に濡れた手で頬をそっと撫でる。

 それだけで水無月の殺気は嘘のように消え失せ、マナに抱きつかれるがままになった。

「ーーぁ」

「知ってるかい? 綺麗に咲く花のようになって欲しい。だから『咲』って名前をつけたんだよ。こんな暗い色の花なんて……似合わないじゃないか」

 花が瞬時に枯れる。

 いつの間にか涙を流していた水無月は、それに気づくと発狂した。

 マナを振り払い、「違う、わた、私、は――――!!」とその場にうずくまって誤魔化すように両手で頭を抱え、叫んでいる。

 そしてその原因を排除しようと先程とは比べ物にならない量の剣が襲い掛かる……!

 ……充分だ。

 水無月の動きは完全に止められていないが、悪性との境界線に立っている状態ではとても効いたはずだ。揺らいでいる。不安定になった水無月はどっちに傾いてもおかしくない。だからそれを俺が手助けする。

「オオオオォォォッ!!」

 手に写し出したのは、斧。

 マナの前に躍り出て、そのすべてを撃ち落とす!

 ロンギヌスを無限使用できるほどの力は残っていない。それに、この異層に巣食う悪性は時間とともに濃密になる。同時に扉の叩く音がしだいに大きくなり、集中をかき乱す。槍も色づいてきている……タイムリミットまで、時間がない。

「行って、公嗣!」

 永遠にも思える長い防衛をし、マナを守り抜いた俺は重い脚を動かす。

 ――何も考えられない。俺の心と身体を蝕む悪性が視界をさらに濁らせる。さっきからマナがいるのかわからない。俺の意識は完全に水無月にシフトし、それ以外の情報はすべてシャットダウンする。

 俺は負けないと一段大きく吠えて肉迫する。

「来ないで!」

「黙って、ろ……!」

 水無月も斧で俺を迎え撃つ。

 上段からの振り下ろし。単純な攻撃だが、その速さは常人の目には捉えられない。だが俺にはわかる。

 火花が散らし、今度は俺が攻撃する。水無月自身を攻撃するわけにはいかない。あくまで戦闘不能にするだけ。だから水無月の斧を破壊する。俺の斧は水無月のレプリカだ。だからといって引け目を感じる必要はない。

 本当に短い間だったが、水無月には鍛えてもらった。その記憶を総動員する!

「放っといて! 死ぬから! 私、扉、閉じて……開け! 違うッ!! 閉じて、死ぬから!! もう私なんか忘れて!!」

「死なせるものか! やっと通じ合うことができたと思ったのに、そんな結末を誰が認めると勘違いした⁉」

 人を捨て、どれくらい長い間かわからないが苦しめられた水無月がこんな終わりを迎えても俺はちっとも嬉しくない。

 きっと己の無力さを永遠に呪うことになるだろう。それは水無月の過去と同じだ。

 だからここで、断ち切る!

 激しい攻防。

 幾千も超えるほぼ同一の斧の接触音はますますヒートアップし、頂点を知らない。

「私を殺して、能代くん! もう苦しいのは嫌! あの子たちもそれなら満足してくれるから!」

 俺によって殺されることがこの物語の最高のバッドエンド。それは許さない。俺が魔法使いになる助けをしてくれた死者も言っていた。ハッピーエンドはつまらないと。

 俺は吠え、より一層速さが増す。

 水無月が段々と弱気になってきている。殺そうとしてくれないことに落胆しているのか、覇気は薄れ、代わりに悪性が爆発する。

 ……槍が完成する。

 糸を伸ばし、鍵を開けようとする。俺たちにとっての最優先事項は水無月。しかし扉を開けさせないことも重要だ。

 やばい、そろそろ上半身の感覚がなくなってきた。俺の腕がなぜ動いているのかもわからないなり始める。今は対等に水無月とやりあえているが……時間の問題だ。

 水無月の意識を俺から少しでも逸らすことができれば。そう考え、俺は一合だけ水無月を上回り、大きく仰け反らせた。

 斧を捨て、駆ける。

 これが正真正銘、最後の魔法だ。終わったあと、俺は立つこともできないかもしれない。

 ロンギヌスの召喚。質は一番酷いが、それは数で補う。

「――……ぅおおおおおおおおおお!!」

 槍を破壊するつもりの全力攻撃。

 きっと無理だろうな、と思いつつも、真の目的を達成するためには必要な手順。

 俺の行動に、水無月も斧を捨てる。水無月にとっては槍の死守は何よりも大切だからだ。

 それこそ、俺たちを殺してでも。

「あ……ああ……」

 水無月が俺の顔を見て、そして手元を見て、俺の腹を貫いた剣を見て、止まることのない血を見て、後悔の色が強く滲んだ声を漏らす。

 ロンギヌスは消える。

 俺に痛みの感覚はない。なぜならもう、俺は何も感じられないからだ。

 ずるずると力が抜け、水無月にもたれかかる。それを優しく受け止めてくれた。

「これ、で……俺も、君も……逃げられ、ない」

「どうして、そこまで……!」

「わからないか……?」

 俺の命は風前の灯火。

 何も感じられなくても、できることはある。マナが水無月を悪性との剥離を促してくれた。今度は俺の番だ。

 俺が、悪性から水無月を引き剥がす。

 最後の力だ。

 足に力を入れて、自分の力で立ち上がる。そして水無月の腰にそっと手を回し、強く抱き寄せる。

「――好きだからだ。悪いか?」

 交わした接吻は、血の味がした。



 首の雨が降っている。

 山を越え、傾斜の激しい岩肌から滑らないように注意していた俺はその様子をぼんやりと眺めていた。

 首は地面に触れた瞬間花になり、そして散る。その色は暗い。だが時々明るい色もあった。しかしすぐに暗色に呑まれてしまう。

 ――宴が開かれていた。首のない死者たちは口の代わりに斧で地面を叩いて音を発する。血の盃を高々と掲げ、浴びるように飲む。そして全員が出鱈目な踊りで今宵の生贄を讃える。

 死者たちの中心、そこに小さな断頭台があった。高い高い階段の上、水無月が拘束されている。ギラリと血に濡れて光る刃が今か今かと見下ろしている。

 血を浴び終えた死者たちは巡礼を始める。礼儀正しく、人間のように。一歩一歩階段を上り、長蛇の列を作る。初めに水無月の前に立った死者はその額に優しく接吻し、満足にそこから飛び降りて死ぬ。

 花が咲く。

 落下。死。花。

 落下。死。花。

 落下。死。花。

 その無限ループ。きっと刃が下りた時、それがタイムリミットだ。

 山を下り、今はもぬけの殻の人里を走り抜け、俺は集会所に駆け込む。断頭台の足元は死体の山だ。しかし蘇生し、再び疑似的な生を得た死者はまた階段を上り始める。

 走っているのか、歩いているのか、這っているのかわからない。俺が今いったいどんな状態かわからない。

 花弁を蹴り上げながら俺は一直線に向かう。悪性から水無月を救い出す。

「これが水無月の心象世界、か……」

 ロンギヌスを握った時よりもはるかに異質な世界。

 首の雨は止み、今度は花弁が降り始める。

 もう俺はグチャグチャだ。溶けきった蝋をさらに念入りに燃やして動力を得ているよう。限界を超え、身体を酷使している。深度五がいかに規格外なのかを身に染みて感じる。

「――――私は死にたく、ない」

「ああ」

「楽しいこと、たくさんしたい……! 皐月ちゃんと一緒に、生きたい! 能代くんと幸せに生きたい! 結婚して、子供ができて、一緒に年をとって、それで最後に孫と能代くんに看取られたい!!」

 大粒の涙をボロボロと流しながら水無月が俺に訴える。

 一度も、弱音を吐いたところを見たことがなかった。……水無月のすべて。初めはほんの一部しか教えてくれなかった。しかし、すべてを曝け出してくれたことを嬉しく思う。

「よくわかった。なら、俺にどうして欲しいんだ?」

「――私を、助けて!」

 ……ああ、その言葉が聞きたかった。

 あの夜に助けられた瞬間からずっと抱いていたこと。今の俺は何でもできる気がした。

 俺はできない男。そう信じ込んでいた。しかし、水無月と出会って、マナと出会って、変わった。俺にだってできたことがあったのだ。誰かのために、何かをすることができたのだ。それは自身へと繋がり、力となる。

 俺の意志に反応し、死者たちが怒りの矛先を俺に向ける。敵は大量、味方はこの身ひとつ。……上等じゃないか。

 男が好きな女のために戦う。王道臭くて笑ってしまいそうになるが、案外こういうのも悪くない。そしてこう言うのだ。

「任せろ」

 意識が鮮明になる。

 ロンギヌス、ロンゴミニアドを持ち、俺は死者たちへ立ち向かう。

 左で振れば炎。右で振れば残撃。

 敵は全員手練ではない。退けるのは非常に容易い。だが数の暴力で迫られたら終わりだ。

 囲まれて、嬲られて、死ぬ。そうならないように俺は足を止めることをしなかった。

「おおおおおおお――……!!」

 大きく跳躍し、ロンゴミニアドを振って着地の衝撃を和らげる。ようやく階段の足元だ。ここからまっすぐ水無月へと五十メートルほど伸びる段を丁寧に一段一段上る気など毛頭ない。一気に駆け上がらせてもらう!

 巡礼中の死者たちがやめてくれと首がないくせに泣きながら俺に縋ってくる。

 よくわかっている。彼ら彼女も死んだ身。助けてもらえなかったことを今もなお恨み、水無月を苦しめていることを。しかし、その足掻きに終止符を打つ時が来た。

「今を生きるあいつの、足を引っ張るなッ!!」

 残撃が死者たちを階段から落とす。

 それと同時に橙色の花が咲く。

 舞い散る花びらも暗色から、しだいに明るい色を取り戻し始める。藍。緑。朱。色とりどりの花が地面を埋め尽くし始める。

 脚が動かない? ならば手を使ってでも上れ!

 手に力が入らなくて槍を持てない? ならば捨ててでも前に進め!

 それくらいの覚悟を持て!

 ――あそこで、水無月が、待っているのだから!!

 がむしゃらに、みっともなく上る。

 耐え切れなくなり、ロンギヌスを捨てる。頼りになるのはこの聖槍一本のみ。

 薙ぎ払い、振り上げ、貫く。

 鉛のような脚はまだ動く。

 目の前の死者たちも残りわずかだ。

 最後の力を振り絞る。段をゆっくりと上り、障害を破る。

 花が咲く。

 あと数段。死者は全員下に落とし、花となった。

 花が咲く。

 俺が上ってきたはずの階段が、後ろを振り向くと花で見えなくなっていた。

 そして、ついに頂上に到達する。水無月の首と手の拘束具を解いた瞬間、俺は温かい感触に包まれた。もう身体が動かないというのに、容赦なく抱きしめる水無月を見下ろし、優しく微笑み返した。

 大きく息を吐き出した水無月は、俺の胸に顔をうずめた。

「ありがとう」

「俺こそありがとう。ずっと守ってくれて」

「なんだかすっごく爽快な気分。生まれ変わった気分ってこんな感じなのかな」

「その通りだよ、水無月。これからはやりたいように生きよう。あいつらに奪われた時間を取り戻そう」

「うん……うん……!」

 これでいい。これで水無月の呪縛は解かれた。

 水無月のタイムリミットには間に合った。しかし、俺にはまだやるべきことがある。

 動かない指。動きの鈍い腕。俺は今、果たして呼吸できているのか? いや、生きているのならできているはずだ。だから、戻ってすべてを終わらせて、帰ろう。

 断頭台から身を投げる。

 花のクッションが俺たちを確かに受け止めてくれた。



「公嗣!」

 マナが俺の顔を覗き込んでいた。

 うまく反応することができず、掠れた声で「大丈夫」告げると、目尻に涙を貯めながらマナに感謝の言葉を言われた。

 ゆっくりと立ち上がり、隣でぐっすりと眠っている水無月の前髪を撫で上げ、無事を確認する。呼吸は正常。身体は温かく、決死の作戦は成功したようだ。

 頭があまり働かない。

「マナ、水無月を……頼む。俺は扉を……閉じる」

「ダメだよ、公嗣。ボクがやったほうがいい。だって……」

「?」

 マナが俺を見て何か言いたげに口を開く。が、言葉が出てくることはなかった。

 そんなに心配することはないだろう。俺もマナも満身創痍だが、まだ動ける。

「いや……なんでもない。できるんだね?」

「もちろんだ」

 マナが水無月を担ぎ上げて神殿を去る。俺はそれを一瞥したあと、踵を返して槍へと向かう。

「はぁ……はっ、ぁ、ッ」

 呼吸が安定しない。

 悪性は消えた。以前のような苦しさは感じない。しかしその副作用かどうかわからないが、ゆっくりと着実に残滓に蝕まれている。一刻も早く何かしらの治療を受けないといけないが、それよりも優先することがある。

 その槍は、特徴がなかった。一般的な槍。それにしか見えない。

 近づけば近づくほど存在を根底から灼かれそうな威圧感。

「ぐ、ォ……!」

 立ち止まるわけにはいかない。不感の焔に晒されながら俺は前に進み、槍の前に立つ。

 手を伸ばし、掴もうとしたその時。

「――その槍、渡してもらイましョう」

 男の声。

 振り向けばふたりの男が立っていた。

「――大鳳、ジェフロワ」

 扉の根は神殿を覆い尽くし、あと数分で崩壊しそうだ。

 節々から吹き出す獄炎が、浮遊島一帯を火の海にする。ゆらりゆらりと揺れる炎に照らされ、その背後から深淵が姿を表す。

 俺も、あいつらも傷だらけだ。死者たちの抵抗を受けながらも強引に突破してきたのだろう、大鳳は腰の大部分を喪失していて、ジェフロワも左腕を失っている。

 槍を使って、扉を閉じる。具体的な方法なんて知ったことか。わからないから、扉そのものを破壊する。鍵としての役割があり、また武器である。同質のものを全力でぶつけたら、修復不可能なダメージを負うだろう。

 ならば。

 目の前にいる大鳳たちを放置し、先に槍を投げてしまえばいい。そうすれば俺の勝ちだ。

「――能代公嗣。お前はゼレステアについて何も知らない。魔法は悪だ。しかし正しい者が使うならば話は別。どうすれば正しい者に魔法を集約させることができるのか。……簡単なことだ。魔法は悪だと世に知らしめればいい。そうすれば大義名分のもと、世界に蔓延る魔法使いを一掃できる」

「……なんでそこまでするんだよ」

「すでに国民の不安は爆発寸前だ。前任の悪性が討たれた影響は大きかった。『ここ』がその何よりの証だ」

「――」

 見下ろす。

 この神殿、この異層は確かに人々に大きな影響を与えた。それも悪い影響を。世間一般では魔法のせいという認識だ。深淵が触手を伸ばし、ふたりに落ちてきた瓦礫を防ぐ。

「いつから組んでたんだよ」

「初メから。同志なのだ、我々ハ。ならばともに行動するのは当然」

「そんな素振り、一切見せなかったぞ」

「コレは国からの命令デはなく、我々の意志。ゼレステアの扉を開き、災厄を招キ入れる。蹂躙された世界からヨり魔法ハ嫌われ、より狭められ、管理さレることにナル。――わかるか、能代公嗣」

 扉の足掻きが、ついに鎖に亀裂を入れた。中に蠢くモノが何か、俺は知らない。だが、ジェフロワの口ぶりから決して人間に善をもたらすものではないと確信した。

「ゼレステアは救済だ。この異層もその一部が表出化したものだ。扉が開かれれば中身が外向きに放出され、この世界はゼレステアに呑まれる」

「なら余計に槍は渡せないな。それに水無月に手を出した罪もある。そのツケを払ってもらうぞ」

「あのような小娘、もはやどうでもいい。槍と扉を用意するための道具に過ぎないからな。しかし、もしお前がそれらをどうにかするのならば……また悪性に目覚めてもらうまで」

「――――今、なんて言った」

「ああ、何度でも言ってやろう。水無月咲にもう一度悪性に目覚めてもらう。それこそ扉が開かれるまで、何十回も、何百回もな」

「ふざ、けるな……!」

 拳を握りしめる。

 こいつらは倒さなければならない。

 知らないくせに。水無月の苦痛を知らないくせに。長い長い間苦しめられ続けたことを知らないくせに。

 それがやっと解放されたのだ。今の水無月は自由だ。それなのにまた手を出すというのなら……俺が何度でも立ちはだかり、防いでやる。

「あんたたちが勝手に行動していいのかよ。国からの命令だったんだろ? 水無月を捕獲しろって。こんな結末になって、ただでは済まないはずだ」

「我々が死ぬコとなどどうでモイイ。扉を開クことがすべて。失敗したラ、また出直せばいい」

 鎖の亀裂は大きくなる。このままだと槍を使わずとも勝手に扉が開かれそうだ。

 ――短期決戦。これにすべてを賭ける。

 ギアを三つほど上げ、戦闘態勢を取る。

 魔法を使う力はない。ない。ない、が、そんなことを言い訳にできない。

 何が何でも倒さなければならない。そうしなければ意味がないから。やっとの思いで水無月を助けられたのに、水の泡になってしまうから。

「……それだけは、ダメだ」

 掠れる視界。網膜に色彩は映らず、モノクロの敵がいるのみ。

 深淵が動く。大きく口を開け、突進してくるかと思いきや、大鳳とジェフロワを喰らった。

「―――」

 ぐじゅぐじゅと触手を振り回しながら、深淵はその姿を変えてゆく。

 手、足、胴、そして頭。

 やがて人型となった深淵はひときわ大きく咆哮した。それだけで限界ギリギリだった神殿は大部分が崩落し、空に扉が晒される。

 白く燃える身体が、周囲を灼き尽くす炎をものともせず俺に向かって歩いてくる。

「待たせたな、能代公嗣。――死ぬ気でかかってこい」

「おおおおおおお!!」

 斧を手に、地を高く蹴り上げて俺は深淵へと肉迫した。

 首を切り落とし、一撃で終わらせる……!

 高く跳躍した俺は背後を取り、斧を振るう。

「甘い」

 ノーモーションシフトからの叩きつけ。それに気づいたのは、柱に激しく身体を打ち付け、数秒意識が飛んだあとだった。

 口から鉄の味を吐き、柱に背中を預けながら立ち上がる。斧はまだ手元にある。まだ大丈夫だ。

 音が……聞こえにくくなってきた。まだ戦闘に致命的な支障はない。ならば大丈夫だ。

 今度は深淵から攻撃に出る。

 右腕を鋭利な刃に変形して迫る。

 左からの斬り上げ。咄嗟に守ろうと斧の角度を変えるが、深淵の左腕が同じように刹那の瞬間に刃に変換されるのを見た。

 つまりこれはフェイント!

 俺は死に体だ。みっともなく身体を投げ出し、受け身も取れないまま倒れた。俺の立っていたところを、逆時計向きに光速を超えて神速で軌跡が通り過ぎた。

 すぐに立ち上がり、態勢を整えようとしたと俺の脇腹を深淵は容赦なく蹴り上げた。

「ふ、ぐ……っ!」

「諦めろ。このままではお前は死ぬ。間違いなく死ぬ。そこまでして世界を、魔法を守るのか? 言っておくが、誰もお前のことなど認知しない。世界が救われたなんて知らない。お前が水無月のしたことを知らなかったように、人々はお前のしたことを知らない」

 まったくもってその通りだ。

 なんとか大学に受かって、家族に祝ってもらっていたあの時、水無月はいったいどんな目にあっていただろう。俺が一人暮らしの準備をしていた時、水無月はいったい何を思っていただろう。

 知らなかったから、仕方がない。そう言ってしまえば終わりだ。今だって俺が深淵と戦っている間、どこかの誰かは暢気にテレビを見ている。

 そんなものだ。そんなものでしかないのだ、結局は。

 だからといって、それが諦めていい理由にはならない。

 この瞬間だからこそ、少しでも水無月の気持ちを理解できるような気がする。正直、俺は世界のためだとか、魔法のためだとか、そんな大それたことを背負えるほど男としてできていない。ここ数日でちょっぴり成長しただけの、情けない男だ。

 ではなぜか。なぜ俺の身体は細胞のひとつひとつまで戦えと命令しているのか。そんなもの簡単すぎて鼻水が垂れそうだ。

 ずっと前から考えていたこと。力になれず唇をかんだ日。鍛えてくれと頼んだのは。魔法使いになったのは。これらはすべてひとつに帰結する。

 ……水無月を守りたい。そんな、本当に単純な願い。

 立ち上がる。

 何度でも立ち上がろう。水無月のためならば。

 深淵に向き直る。

 身体はボロボロ。内臓もほとんどやられている。命のものさしを削ってまで魔法を行使しているのだ、できるだけ消費は戦闘にのみ注ぎたい。回復しようものなら俺の頭はとうに砕け散っている。

「――オ・ルヴォワール」

 振り下ろされる死のお告げ。

 俺はここで死ぬわけにはいかない。帰らなければならないのだ。

 だから。一瞬でいい。こいつを超えるスピードを!!

 ――命のものさしは消え去る。

 ……俺の姿は深淵の目の前には在らず、また背後にいるわけではない。

 見上げればその瞬間、斧のひと振りがその化物めいた顔を大きく切り裂く。

「ぬぐ……ッ!」

「まだだああああああぁぁぁぁ!!」

 着地と同時に深淵の振り下ろしが迫る。

 斧の爆炎部を爆発させ、急な方向転換。深淵の足元をくぐり、再度爆発させて跳躍。空で無数の乱撃を躱し、左腕を斬り落とす!

 確かな感触。

 深淵の血の色はわからない。ずっとモノクロの世界で戦っているから。だが深淵は苦悶の表情を浮かべながら左肩を抑えていた。

「小癪な……殺してやる、能代、公嗣――!!」

 血をばらまき、俺は全身に浴びる。

 視界が一瞬だけ黒に染まり、肩で乱暴に拭うと、目前に深淵の刃があった。反応し、斧を激突させる。

 硬質な金属音が鈍く轟き、硬直した俺を深淵の踵落としが襲う。

 地面に小規模のクレーターが形成され、俺はその真ん中で倒れる。

「――――、――」

「槍なんか放って帰ればよかったのだ。そうすればあの小娘と短い間だが一緒にいることができたというのに。まったく、愚かな男だな、お前は」

 ……もう、本当に指の先一つ動かない。呼吸すらできない。動けと命じても悲鳴を上げて身体は崩壊する。

 俺は生きている。死んではいない。ならば立ち上がれ。水無月がやろうとしていたこと、俺が、代わりにしなければならない。

 ……でも、それでも動かない。

 諦めようか。ふと、そんなことを考えてしまった。その瞬間、それが一瞬で脳内を埋め尽くし、再起動しようとしていた身体は完全に停止する。

 ――立ちなさい!

 誰かの力強い声が聞こえた。

 ――立ちなさい!

 幻聴だ、これは。だって何も見えないから。ボヤけて、何も見えない。数秒後には俺は死ぬだろう。

 ――立ちなさい! ここで倒れるなんて、許さないよ⁉

 俺だって立ちたい。でも立てないんだ。だからどうしようもない。

 ――諦めるの? 私は一度も諦めなかったよ。どんなに絶望しても、死んでも、ただひたすら前に進んだ。

 諦めてたまるものか。身体に力が入る。

 ――能代くん……私のヒーロー。さあ、立って。約束したよね? これから一緒に生きようって。

「…………………………ああ」

 そうだった。俺は確かにそう言った。水無月の心象世界、解放した水無月に俺が囁いた言葉だ。

 俺だってそのつもりだ。なんのためにここまでしたのだ。自分から言っておいて、できなかった、なんてことになってしまったら俺はとんでもない詐欺師になってしまう。

「ぅ、ぐ、ぉおおおおおお!!」

 立ち上がれ!!

 身体は再起動し、引きちぎれる組織をさらに酷使して立ち上がる。

「まだ立つか……!」

「立ち上がるとも……。死んでも立ち上がってやるぜ。……これで最後にさせてもらおうか」

 斧を拾い上げ、構える。

 光速を超え、神速へと至る深淵の動き。ならば、俺がそれをさらに超えればいいだけのこと。

 ゆえにコンマの世界すら遅すぎる領域へと超越しなければならない。

 命はとうに燃え尽きている。その灰をかき集めてありったけ燃やせば……いける。

 この一合。これで勝敗が決まる。

 細い細い隙間を縫いくぐり、俺の身体は瞬間移動を果たす。ひとつ分だけ反応の遅れた深淵は膝を高く蹴り上げるが、その上に手を載せ、回転しながら胸の部分に深く斧を食い込ませた。

 核を穿った。そう確信するほどの感触を得た。深淵が膝をつき、大きな手で俺の頭を握りつぶそうと乗せる。

 だがその前に。

「――終わりだ」

 爆炎部を内部で爆発させる。深淵の巨体に大きな穴が空き、ずしん、とゆっくり横に倒れる。

「ぶ、ふ」

 身体が耐えられなかった。

 深淵の死を確認するより先に俺は口を手で押さえ、零れる黒い液体を見ながら倒れてしまう。が、また立ち上がる。

 深淵は瀕死になってもその威厳は少しも揺るがない眼差しで俺を見つめる。

「……魔法は、悪だ」

「……そうか」

「……人々の認識を根底から覆さない限り、お前たちへの差別は終わら、ない」

「そんなの知ったことじゃない。……でも、それが水無月を害するのならば話は別だ。俺は戦うぞ」

「ふは、は。せいぜい足掻くがいい」

 野太い笑い声が薄れ、ついに深淵は音を発することはなくなり、その巨体は黒色の残滓となって消えた。

 歩く。歩く。目指すは槍。

 鎖は今にも破壊されそうだ。扉は絶え間なくこの世に身を降ろそうともがいている。槍に触れ、持ち上げる。

 ……だがそこから動けない。

 この槍はそこまで重くない。だが、『重すぎる』。

 小さな器で地球を支えているよう。身動きが取れない。さらに下ろすこともできない。

 身体の節々がこれ以上はやめてくれと泣きついてくる。とうに命は尽きている。その欠片が俺を衝動で動かしているだけなのだ。

 扉を見上げる。

 投げれば終わり。簡単な話。しかしできない。これで本当に最後だというのに、身体はいうことを聞かない。

 まずい。深淵とやりあえたあの力はもうどう頑張っても出せない。朽ち果てるのをただ待ち続ける。扉が開く瞬間を誰よりも早くみられる特等席に俺はいる。

 黙って観覧する気などない。だから、動け!!

 俺の身体に、何か柔らかいものが触れた。一体何か。金属のような首を曲げてその正体を探る。

「お前……」

 時雨だ。

 どうやってここに来た。そんなことを聞く必要はなかった。人懐っこく俺の腰に頭をぐりぐりと押しつけ、そよ風で倒れてしまいそうな俺の身体を支える。

 やれってことだろ。わかってる。やはりこいつはマナの影響を大きく受けている。大丈夫だと言い聞かせ、頭を撫でてやる。すると時雨は納得したように引き下がり、今度は一度だけ咆哮した。

 それは扉から響く轟音をもかき消すほどだった。あれほど騒いでいた扉はピタリと音が止んだ。

 ――ほら、整えてやったぞ。あとはわかるな?

 そんな意味を含んだつぶらな瞳が俺を捉える。

「本当に、お前は、マナに……そっくりだ、な」

 ここまでしてもらったのだ。無駄にしようものなら、男として失格だ。俺は一生情けない男という自己認識に溺れる。

「ォォォオオオオオオオオ……!!」

 今一度、槍を構える。

 扉は俺を果たして認識しているのか、開かれたいと静音がじんわりと滲み始めている。

 させるか。

 全身全霊。俺の何もかも、すべてを引きずり出してこの槍を投げる。

 槍はまっすぐに伸びた。白の軌跡が黒を切り裂き、遥か巨大な扉へと命中する。

 圧倒的な物量の衝突。

 億を超える爆発が凝縮され、解放されるが如き衝撃が耳を灼く。

 白と黒の世界で、跡形もなく崩壊し始めるゼレステアの扉を見届け、俺は――ようやく安心して――休むことが――――でき――――――――――――………………。

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