閑話6 薬師寺麗華の場合
『いいよ、卒業まで我慢する』
高瀬君がそういったのはついこの間。だから私も教師として足を踏み外さないよう頑張らないと。
彼を甘やかせらないし、私も甘えられないと思ってました。
その週末は、大学のサークルの飲み会でした。
私は寮監ご夫婦にだけ声をかけて寮を出ました。もう春休みの今は久賀院さんも実家に戻っているので、住んでいるのは私だけなんです。
「今日は戻ってくるの?薬師寺さん」
寮母さんが穏やかに微笑んで私に聞いてきました。会ってまだ二週間しかたっていないのですが、本当の母のようです。
「いいえ、帰ってくるのは大変なので、ホテルを取りました。明日戻ってきます」
寮に入るにあたり、今まで住んでいたアパートは引き払ってしまったのです。特に華やかな趣味や友達がいるわけでもなく、別に街中にいなくてもこの山奥でも十分なので不自由はありませんが、こんな時は少し不便ですね。
私は寮を出たあと、ふと男子寮を見上げました。
……別に何も言わなくてもいいわよね。
昨日説明はしたし……。
「えー、薬師寺さんどうしたの!」
飲み会の会場は大学近くの居酒屋でした。学生の頃に使っていたものよりは少し上品になっていて。けれど、見知った顔はそのままです。
華奢なストラップを外し、靴を脱いで私は座敷にあがりました。十人ほどのささやかな飲み会です。
「どうしたって」
「美人になっちゃって!」
社会人になると、社交辞令もぱっとでるようになるのね、みんな……。私、まだまだそこまで立派な社会人になれない……、あ、そうだわ、きっと学校なんて場所で先生なんて大層に呼ばれているからだわ。「先生」と呼ばれる職業にロクな人間はいないって格言があるくらいですもの。謙虚さを失わないように気をつけなきゃ。
「そんなことないです」
昔はそんなことさえ上手くいえなかったけど、なんとかうまく返せたかしら?私は末席に座りました。少し遅れてしまったせいで、宴会はもう始まっていましたが、むしろほっとしました。あまりお酒も強くないし、かといって会話も下手だし……。盛り上がっている皆を見ているほうが気が楽です。いつもわりとそっとしていてもらえたし。
今日のこの場所の料理は大変おいしいので、これを味わうことが今日の目標です。
それでも迎えてくれた脇の方とは乾杯くらいしなければ、と私はありがたくお酌を頂く事にしました。けれど、その方を見て、少し顔がこわばりました。そこにいたのは私が大学時代大変憧れていた先輩だったのです。
数年お会いしていませんでしたが、先輩は相変わらずのかっこよさ。
「ひさしぶり、薬師寺さん」
さらりと言うその言葉さえ鮮やかです。
なんていうか、先輩は強引な方ではありませんでしたが、やはり自分の器量のよさは把握しているようでした。女慣れしていて社交的で誰を相手にしても気後れすることのない方で、まるで私と相容れるところがありません。あえて言葉を選ばなければ、このタラシが!女の敵!くたばれ!というところでしょうか。
けれど、だからこそ。
私も他の多くの女性と同じように、先輩にとても憧れていました。
「えー、マジ綺麗になってどうしたの」
当時は気後れしてしまって、話かけることさえできませんでしたが、なんだか今日は落ち着いて顔をみることができます。
「いいえ、そんなことないですよ」
「いや、あるって。そうか、俺、薬師寺さんの席の横になったことって今までなかったんだな」
にっこり笑って先輩は話を続けます。
先輩が忘れているだけで、本当はなんどもクジで隣の席になっているんです。言えないけど。いつもすぐに他の女性が集まってきたり、あっというまに先輩が席を移ってしまったから覚えていないのでしょう。
私は今でも少なからず先輩の消息は聞いています。デザイン関係で起業されて成功しているということも。
先輩は会社帰りのようでした。普通の白いシャツに無難なネクタイですがそれだけで大変男前です。私は始めて薬師寺麗香と認識された上で微笑みかけてもらえました。
「こんな美人だったなんて知らなかったなあ」
どこかで私は先輩を妬んでいたのかもしれません。先輩がたとえお世辞だとしてもそう言ってくれたこの瞬間、意趣返しできたような気がしました。自分のちいささになんだか泣けてきますけど。
先輩には何も悪いところはないのになあ、と私は少し自己嫌悪を感じていました。
それでもなんとか話はつなぎ、宴会は一次会を無事に終了しました。けれどこの二時間で私の疲労はピークでした。
すぐに席を移動されるかと思った先輩は、どういうわけかずっと私の横にいたんです。おかげで料理を味わうどころじゃないわ、何を話したものか考えすぎて頭が痛いわ、たくさんお酒を勧められて酔ってしまうわで、わりとくたくたです。
みんなは二次会に行くらしいという話でしたが、私は幹事にお礼と別れを告げて帰ることにしました。人通りはないですが、学生時代に馴染んだ道を駅まで歩きます。
実は今日は先日ちょっとした懸賞で当たったホテルの宿泊券のおかげで、いいホテルなのです。うふふ。
本当は久賀院さんを誘って二人でとっていたのですが久賀院さんのお母様の退院の関係で、急にキャンセルになってしまったのです。(教師と生徒がこんなに仲良しなのはよくないと思うので秘密です)。でも日にちの変更が効かなかったのと、久賀院さんがせっかくだからと言ってくれたので、今日はそこに泊まることにしました。
最近久賀院さんから聞いたばかりなのですが、彼女はお父様の事業が成功して今はとてもお嬢様らしいのです。けれどよく話を聞いたらその直前までは、お母様が入院し、しかもその日の食にも事欠くような極貧生活だったそうです。私ったらなんの力にもなれなかったのね……。
そんなこと一言も言わずに頑張っていた久賀院さんが報われて本当によかった。
あんなに素敵なお嬢さんなのに、どうして理事長なんて好きなのかしら。
いやだわ、理事長って、変な電波でも発しているのかしら。梓先生だったら久賀院さんに相応しいと思うのに……。梓先生だったらなんとか久賀院さんの目を覚まして上げられないかしら……。そうだわ、電磁波避けのひざ掛けとかハンズに売っているわよね、明日せめてあれを買って帰ることにしましょう。変な電波避けになるかも。
いいことを思いついたとき、私はふと背後に気配を感じました。一定の速度で私の背後に先ほどから足音があります。
偶然。とは思いましたが、私が足取りを緩めれば遅くなります。そうえいばこのあたりには私が学生の頃から変質者の噂はありました。
私は角を曲がった瞬間に、とっさに走り始めました。そのまま慣れないヒールで全力疾走です。駅まではちょっとまだ距離が……。
その時肩をつかまれて、私は悲鳴を上げそうになりました。
「薬師寺さん!」
その声で、私は振り返りました。
「やっと追いついた……」
そこで息を切らしているのは先輩でした。
「先輩……?」
「もー、気がついたらいないんだもん」
「どうされたんですか、二次会は」
「いや、俺も帰るって言ってきたよ。だって薬師寺さんも帰るんだろ?」
「私は別に」
「せめて携帯のアドレス聞くまでは帰れない」
相変わらずの素敵な笑顔で言われて嬉しく思った私は浅はかだとわかっています。
もう少しいいじゃんという先輩に連れられて少し引き返した場所にあるバーに来てしまいました。
ど、どうなのかしら。
お手洗いで私は少し酔いを醒ましながら考えます。
これって浮気なのかしら。
一応、私にも先月チョコを渡した相手がいるのです。高瀬君、と言ってあの……教え子なんですけど。
ああ、なんかさくっと死にたくなってきました。
教え子と付き合う教師。
万死に値するような気がします。もちろんまだ手をつないだことしかありませんが、それでも半殺しくらいな罪であるように思うのです。
なんだか高校生とお付き合いするくらいなら、浮気の方が人間としてよほどまともな気がします。
さっぱり酔いも覚めないまま私は先輩のところにもどりました。
「麗香ちゃん、このカクテルおいしいよ」
にこやかに先輩は新しいグラスを薦めてきます。なんだか呼ばれ方が変わっているのは気のせいかしら。
それでも数時間話をしているうちに、なんだか和んできました。
「麗香ちゃんは今、彼氏とかいるの?」
ぎょっとするようなその質問をされるまでは。
ああ、そこには触れないで下さい。どうか私が犯罪者だということを思い出させないで下さい!
「あ、あの……」
「あれ、いないの?」
「というわけでもないんですけど」
私の返事はどうしても後ろめたさがさきにあるものですから、うつむきかげんのはっきりしないものになってしまいます。
突然、先輩の顔がこわばりました。
「……あのさ」
「はい」
「不倫、は良くないと思うよ」
ええ、そこですか、先輩!
まあ、なんだか随分飛躍した発想で……。久賀院さんみたいだわ、この人……。
「ふ、不倫ですか?」
「違うの?」
「違います、そんな!」
ああでも生徒に手を出すくらいなら不倫のほうがまだまし……。
「じゃあ何、DV野郎とか?」
「な、なんでそんな……」
「だって麗香ちゃん、恋愛中にしてはそういうオーラが出ていないんだよね」
え?
「幸せオーラっていうの?一歩間違えばバカップルなんだけど、見ているほうが申し訳ありませんでした。って言いたくなるようなそういうオーラがない。なんだか悩んでいるみたいだし」
先輩はなんだかダメ押しをするように言いました。
「そいつと付き合っていて楽しい?」
楽しいもなにも、どちらかというと未だに状況が飲み込めていないというか……。あの子本当に私を好きなのかしら……。
「楽しいというか……実は少し年下なんです」
先輩は間をおかず、へえという顔をしました。
「なんだかちょっと意外」
「ですよね」
「麗香ちゃんって甘えさせてあげるタイプでもなさそうだから」
その先輩の言葉に、私は酔いも覚めるような気がしました。
「あ、別に麗香ちゃんが頼りないっていっているわけじゃないよ。わりとしっかりしているのかなって思うことはあったよ、ちゃらちゃらしてなくて。面倒見もよさそうだし。だからさ、なおさら彼氏は頼りがいのある年上の男にして、そいつに甘えている気がしたんだ」
「……やはり年下の子は甘えたいものでしょうか」
「そうじゃないの?」
先輩のグラスの氷がからんと音を立てました。
そうだわ、今先輩に言われるまでまったくそんなこと思いもしなかったけど、年下の彼といったら可愛い子が所定よね、年上の女はけっこう甘えさせてあげているじゃない。
私、高瀬君はしっかりものだなあ、なんていつも思うばかりで、彼が甘えたいなんて考えていること、思いもしなかった!
先輩からの目からうろこの発言に私はすっかり血の気が引いてしまいました。どうしましょう、明日から改めればいいのかしら、ううん、そんなことより高瀬君はもうすっかりあてがはずれてがっかりしているかもしれません。
でもどうしたら甘えさせてあげるということになるのかしら。よしよしって頭をなでたらいいのかしら。わからない、甘えさせてあげるの定義がわからない!
「なに、頑張るの?」
「はあ……一応」
「そんなことしなくても、もうむしろ相手を変えちゃったほうが早いんじゃないかなあ」
先輩は卒業しても親切です。神妙な顔で先輩は言いました。
「俺とつきあってみない?学生のころから気になっていたんだ。俺だったら麗香ちゃんを甘えさせて上げられるよ?」
正直言って。
まるで夢のような春の言葉でした。
いつかこういう風に先輩が言ってくれたらいいのにと願っていたのかもしれません。でも今、それを言ってくれたときには、私はもうそれを上手く信じることも出来ない。
信じたつもりになることはできるのだけど、それが裏切られたときの衝撃を私はもう知っている歳なんです。学生のころだったら、先輩を無条件で信じたかもしれないし、裏切られる怖さも見えなかった。
でも高瀬君も先輩も本質的には変わりない。それは彼らが胴と言う問題じゃなくて、私の中にある弱さのせい。結局信じることでしか誰かの横にいることはできないけれど、それは思ったよりも大変。
なにより信じるということには果てがない。
「先輩」
グラスの足を撫でる私の手に、先輩は本当に自然に触れていました。
「私も先輩が好きでした、ずっと昔から」
「あ、本当?嬉しいなあそれは」
「でも、それ以上に、女関係ではこれほど信用できない人も珍しい、って知ってましたよ」
私は抑えきれない笑い声をこぼしました。先輩が鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔で見ていたのでなんだか満足です。
「先輩、ここは奢られます。ごちそうさま。また何年後かのゼミ同窓会で会いましょう」
私はちょっと待ってよ、と言っている先輩を置いて店を出ました。
先輩が追ってこないことは予想していました。そこまで気になるならもっと前に私は欲しい言葉を得たでしょう。
金属製の階段を固い音を立てて降り、私は駅にまっすぐに向かおうとしました。
が。
「……え」
ビルの脇にある自動販売機、そこにぼんやり立っているのは高瀬君でした。
「……あれ?」
高瀬君も驚いたように私を見ます。
「なんで一人」
「なんでも何も……高瀬君こそどうしてここに!」
「だって一次会の場所からついてきたから。麗香先生足早くって」
あ、そうかあ、ついてきたなら知っていてあたりまえよね……。
「ついてきたんじゃありません!そういうのはつけてきたって言うんです!」
私は高瀬君に言いました。やっぱり先輩に追いつかれる直前までの人の気配は高瀬君……!
「ごめんなさい、間違えました」
「言葉の誤用を謝られたいわけじゃないんです!」
彼の着ている服は三月にしては少し厚着で。
なんというかストーキング意欲満々でおうち出てきたのだなあと手に取るようにわかりました。
「……なんで……」
息が切れて壁によりかかると高瀬君はあいかわらずへらへらしながらやってきました。
「気がつかれないようにしたつもりなんだけどなあ。今まではずっと成功してたし。でも大学のゼミの同窓会なんて危険がいっぱいだよ、麗香先生」
……これが久賀院さんが言っていた『どこからツッコミいれたらいいのかわかりませんよ先輩!』という状況なのね……。
「俺はストーカーだけど束縛君じゃないからね。気がつかれないように麗香先生をどこまでも見守ってます。麗香先生は俺のことは気になさらず自由にふるまってくれていいから。今度から見つからないようにするし」
「え、えっと」
「おはようからおやすみまで麗香先生を見つめているだけです」
それは歯磨き粉だから許されると思うの、先生は。
「あの……そんなに心配しなくても」
「だめだめだめ!大体あいつなに!顔はまあまあだし、麗香先生より若干年上だしなんか羽振りよさそうだし、最悪だ!大体ショートのカクテルばっかり勧めやがって、下心ミエミエだっつーの!」
「ただの昔の先輩よ」
ああ、もしかしたら。
高瀬君はいつも冗談ぽくしかいわないけれど、私なんとなく気がついてしまいました。
高瀬君もいろいろ不安なんだなあって。
「……でもね、高瀬君」
私は始めて手を伸ばし、自分から高瀬君に触れました。私より少し高い目線。染めているふりしているけど本当はどこまでも自前の淡い色の髪。綺麗な子。
触れた髪の毛は気持ちのいい夜気を帯びていました。
「無理しなくていいのよ」
私が彼を甘やかせるのはこれしかないわ。私からやっぱり断ち切ってあげないと。
「ひっこみつかないって思っているかもしれないけど、私と付き合うのが無理ならいつでもやめられるのよ、大丈夫」
「はあ?俺、別に無理なんてなにもしてないよ」
「気がついていないだけよ」
だからもう頑張らなくていいの、そう私が途中まで言った時でした。
一瞬の静寂とその後の紅蓮じみた高瀬君の激昂。
高瀬君は何も言わず、物にも当たらず、けれど、怒っていました。自分に触れていた私の手をつかみ、急に歩き始めます。
無理やりひっぱられて、私は少しよろけながら彼についていくしかありません。
駅への道で、人もだんだん増えてきているのになんだか怖い。
「あ、あのね高瀬君」
暖かい風さえ感じそうな春の夜だというのに、月は冴え冴えと冷たい影を足元におとしていました。そんな中、高瀬君は私の手を無理に引いて歩いている。
「あのさー麗香先生」
ようやく振り返った彼の目に、私は苛立ちを見つけました。
「俺、あんまり自分が可哀そうな子って思ったことないんだよね。生まれはあんなだけど」
高瀬君のお宅の複雑な家庭の事情は確かに私も聞いたことがあります。
「でも俺、ちょっと真剣に今自分のことを可哀そうって思ったよ?」
高瀬君は駅近くの公園に入って足を止めました。
「俺はいままでずっと麗香先生を好きだって言っているよね。いくら言っても通じなければそれをいう俺はちょっと可哀そうだよ」
「……違うのよ高瀬君。私は高瀬君を信じていないわけじゃないの。ただ自分が信じられないだけで」
「なにそれ」
「私、上手く高瀬君を甘えさせて上げられるかしら。確かに歳は上だけど、それだけよ。高瀬君の期待に応えられるか自信がないわ」
「俺がいつ麗香ちゃんに甘えたいって言ったよ!」
高瀬君が声を荒げるのを聞いたのは初めてでした。私の肩は少しふるえます。けれどそう言ってしまった高瀬君も、はっとして気まずそうでした。
「……大声出してすみません」
ぼそっと謝ってから彼は付け足しました。
「でも、年上の彼女を選ぶ男が全員甘えたがりだなんて思うな」
声のトーンを落とし、けれど握る手の力は緩めずに高瀬君は言います。この子の自己抑制力というのは本当に凄い。
「俺は、麗香ちゃんを甘えさせてあげたいなって思って好きなんだ」
さきほどの先輩の言葉を私は上手く信じることが出来ませんでした。
けれど、今の高瀬君の言葉は。
あの言葉よりはるかに拙く幼く荒唐無稽なのに、ね。
一瞬の間のあと私はつい微笑んでしまいました。あまりにも高瀬君の言葉がすとんと胸にはまって。
ああ、そうなんだあ。なんてうっかり信じてしまったんです。
「……甘えさせてくれるの」
「そうだよ」
ううちょっと寒いね、なんて言って、高瀬君はまた歩き始めました。気がついたのか私の歩調に合わせてゆっくりです。駅の目を射るような光が飛び込んできます。
「年下のくせに?」
「関係ないし」
高瀬君は少し耳を赤くしていました。
「いいよう?わがまま言ってくださいな。少し時間がかかるものあるかもしれないけど」
「そうね。じゃあメールは毎日くれないとダメよ」
「今、毎日、十通は送っているけどもっとってことだね、オッケー」
「うっ、現状維持の方向で……。あとね、ちゃんと受験に合格して早く高校生じゃなくなってね。進学するんでしょう確か。彼氏が大学生ならなんとか自分に言い訳できるから」
「夫が大学生でもよくない?」
「無収入の夫はちょっと……そうねえ、それならプロポーズは砂を吐くほどロマンチックにしてもらおうかしら」
「はいよろこんでー!」
「……早まったかしら……」
そんな話をしながら私は高瀬君と夜の道を歩きました。
よくわからないんです。なんで急にあんなに高瀬君の言葉が納得できたのかは。
でも、私が無茶なお願いをしても、リアルすぎてひきそうなお願いをしても、高瀬君はへらへらして「了解」なんて言ってます。先輩の言葉のほうが重みがあって真実であるように見えたのに、私は今の高瀬君のその態度の方がよほど信じられる。
きっと今なら私からもバカップルオーラがでていると思うのです。
「ねえ麗香ちゃん。俺もひとつだけささやかにお願いしていい?」
たくさんの私のお願いを聞いてくれた後、駅近くて高瀬君は遠慮がちに言いました。
なんだかとても幸せな気分だから、どうしましょう。キスぐらいだったら私も応えてしまうかも。言いにくそうに視線が泳いでいる高瀬君からはそれくらい予想できます。
「あのさ、今日麗香ちゃん、一人だよね」
「は?」
「いやホテルのツイン。ウメちゃんキャンセルになったんでしょう?でも予約変更できなくてそのままだよね!?いっこベッド空いてるよね、もったいないよね!俺うち帰るの面倒くさいから、一緒にいよう?」
……この子が子どもでよかったとつくづく思いました。
駆け引きとかそういったところから、まだまだ遠いところにいるからこその余裕の無さ。
「高瀬君、言ったでしょう。卒業するまでいろいろ保留って。だめよ、おうちに帰りなさい」
そして大きいつづらと小さいつづら、小さいのを選んでおけばよかったのにね、よくばらずに。
「ええええええ麗香ちゃん……ここまで盛り上がっておいてそれはひどい!」
「麗香ちゃんじゃありません!薬師寺先生です!」
というわけで、自分に誓った教師としての制限ラインを超さずにすんだ私は、うしろめたくなく春休みを終えられました。大変すがすがしい気分です。この調子で頑張るべく、春休み開けに高瀬君には美術準備室出入り禁止令を出しました。それを聞いた高瀬君はなんかかまってもらえなかった犬みたいな顔をしていたのですが、それがとても可愛かったです。
で。
高瀬君はひとつひとつ私のわがままを全部覚えていて、数年がかりで全部かなえてくれるのだけど。でもそれはもうちょっと未来の話。
おわり