Log.4 "リアル"は、いつだってそういうものなんだ。
ピー!
体育館内に、甲高いホイッスル音が響き渡る。
と同時に、ばす、とネットの中をボールが通過する音が聞こえた。
おー、と一斉に歓声が上がる。
「よーし、練習試合、ここまでだっ!
野村、さっきの切り返しとシュート、見事だった! 他の選手は、あれを参考にするように!」
顧問の声に続いて、コート上にいる選手や、傍で見学していた生徒、そして体育館外で見学していた部外者の輪からも、拍手喝采が湧きあがる。
当本人の野村先輩は、「こんなのなんでもねぇよ」と言いたそうに、両手をポケットに入れながら、肩をすくめているのが見えた。
「すっげーよな、三年の野村先輩。
あんな終了間際でボール奪い返して、ロングシュート決めちまうなんて」
「あったり前だろ。先輩、中学の頃全国試合にまで出場した実力者なんだから。
引退した今でも、ああやってプレイして指導してくれるんだし。
あぁー……、やっぱ、尊敬するなぁ」
俺の傍で見学していた一年の選手が、拍手を送りながらそう語りあうのが聞こえてくる。
二年でただ一人、体育館の壁に背を預けながら見学している俺も、周りに合わせて拍手をする。
いつの間にか多くの選手に囲まれて、尊敬のまなざしを受けながらもそそくさと退場しようとする野村先輩の姿が、遠くにあった。
その、とても清々しくて大きな背中が、なんだか眩しくも見えた。
顧問の先生が、またもや声を張り上げる。
「よし、ちょうど良い時間になったから、今日はここまで!
選手は俺のとこに来い。他は片付け始めていいぞー」
はい、と生徒たちの返事が、一斉に体育館内に響き渡った。俺も、腹から返事をした。
体育館内の生徒は、二つの方向へと動いていく。先生の元へ集まる者。そして、更衣室に向かって歩いていく者。
俺は一つため息をついた後に、体育館の壁から離れ、床に転がっているボールに手を伸ばした時だった。
「よう、龍介。俺の勇士、見ててくれたぁ?」
垂らす汗を、首にまいた濡れタオルで拭きながら、クラスメイトの洋平が声をかけてきた。
その眩しいほど輝かしい友人を横目に見ながら、俺は淡々と答えた。
「ごめん。なんも見てなかった」
「なんだよそれー! 見ててくれよ! なぁ、俺成長しただろう?」
しつこくまとわりついてくる洋平を避け、「はいはい」と適当に相槌を打ちながら、いつものようにボールを拾っていく。
しばらくしてから、洋平が諦めたように、はぁ、とため息を漏らすのが聞こえた。
そして、声のトーンを少し低くさせながら、洋平は言った。
「なぁ……龍介。
お前、いつまでそうやって雑用係、してるつもりなんだ?」
ぴたり、とボールを拾う腕が止まった。
咄嗟に、洋平に背を向けた。
ぐっ、と唇を噛みしめる。
「そりゃ……俺が最初、『心細いから』ってお前を無理に誘っちまったのは、悪いとは思ってるけどさぁ……。
でも、お前も一回だけでいいから、バスケ、やってみろよ。ここまで続けてるんだし。
案外、面白いもんだぜ?」
洋平の言葉が、重石となって俺の心に乗っかってくる。
俺はこっそりと深呼吸をして冷静を取り戻すと、体育館の壁に向かって喋った。
「知ってるだろ? 俺、運動かなり苦手なこと。五十メートルすらまともに最後まで走れないんだ。
そんな俺が、バスケ出来ると思うか?」
「でも、バスケじゃ五十メートルも走らないんだぜ?」
「それでも相当走りまわるじゃないか。一緒だよ」
近くに転がっていたボールに手を伸ばし、掴んだ。
そして、数メートル先に置いてあるボール篭に向かい、俺は投げた。
渾身の力を込めて投げたそれは、宙で半円を描くも、篭の三十センチ手前に着地し、虚しくバウンドした。
そのままあらぬ方向へ跳ね返り、ついには外にまで転がってしまったボール。
俺は、その方向を指差しながら、苦笑した。
「……ほらな。まともにボールも投げられない腕力だし」
「おい龍介――」
少し怒りに近い口調で何かを言いかけた洋平に背を向けたまま、飛んでいったボールを追うために、歩き出した。
その方向を睨みつけながらも、なるべく平然を装うように。
「また、暇があったら『ワールド』でパーティ組もうぜ。
あと、選手は早く顧問のとこ行けよ」
声のトーンはなるべく明るく聞こえるように気を付けた。
両こぶしだけは、きつく結びながら。
※
「――あ」
外に出ると、バスケットボールを両手に抱えながら、こちらをじっと見据えて立っている女子生徒がいた。思わず、足が止まる。
その、カールがかかった髪が風でふわりと浮いて、似合わないほど大きな眼鏡の向こうの目が、冷たくこちらを見ていた。
「……か、亀田」
俺が呼びかけると、亀田は無表情で、すたすたとこちらに近寄ってきた。
そして、「これ」と短く言いながら、抱えていたボールをこちらに差し出してきた。俺は小さくお礼を言って、それを受け取る。
その際も、亀田は黙ってこちらを見ているだけだ。なんだか居心地が悪い。辺りに黒くて冷たい靄がかかったような気がした。
試しに、「お前、今から帰りか?」と、亀田の後ろの地面に置かれた鞄を見ながら言ったが、返事はなかった。結局、俺はバスケットボールを手にしながら、あはは、と苦笑いするしかなかった。
最初に会った時から―― 一年の時からそうだった。
何故だか、"リアル"の亀田から発っせられる雰囲気は固くて、対峙すると気が重くなる。
まるでこちらから何かを言われるのを、近づいてこられるのを、拒絶しているみたいに。
それは、『ワールド』の世界の「アサ」と同一人物だとは、信じがたいくらい逆だった。
アサならば、馬鹿みたいに明るくおおっぴろげて、一緒にいても楽しくなるようなヤツなのに。俺はいつも、不思議に思っていた。
やがて、亀田が少し俯きがちに、口を開いた。
「……なんで、バスケ部、続けているわけ?」
突然の質問に、俺は言葉が詰まった。
受け取ったボールを見て、ぐっと力を込めることしか、出来なかった。
追い打ちのように、亀田は言う。
「去年、同じクラスだった時……、言ってたよね?
『一年の時だけやって、二年になったら辞める』って。
でも、二年になっても続けてる。ずっと、補欠なのに。
ずっと、準備運動だけやって。挙句に、準備や片付けまで押しつけられて。
肝心なバスケなんか、一回もやってないのに」
「それは――」
そこまで言いかけて、口を噤んだ。言い返せる言葉など、何もない。咄嗟に亀田から視線を逸らし、さわさわと揺れる緑の葉っぱたちを見上げた。
上空では、相変わらずお天気を主張している太陽がぎらぎらと輝いていた。西の方角を見れば、灰色の空がどんよりと広がっていて、太陽を侵食しようとするかのように、徐々にその距離を縮めている。
ああ、夕立でも降ってしまいそうだ、と思った。
そんな迫りくる灰色の空に向かって、俺は苦笑しながら言った。
「……ほら、一応、バスケ部って運動部だし。
そんな部に三年間入ってれば、もしかしたら、大学行く時の推薦で、良いポイント稼ぎになるかもしれないだろ?」
「嘘つき」
冷たく言い放つ亀田。
そっと視線を戻せば、まるでこちらの心の奥底を覗くかのような、鋭い目が飛び込んできた。心臓を鷲掴みにされた気分だった。
その時、強烈な風が俺たち二人の間を駆け抜けた。それは地面の雑草を揺らし、亀田の制服のスカートをはためかせ、俺の体操服の半そでをぱたぱたと叩いていく。
風が完全に立ち去り、再びしんと静寂が落ちてきた時、亀田は口を開いた。
「野村先輩に、言えばいいじゃん」
その人物の名前が出てきたことに、俺はびくりと身が縮こまるのを感じた。
完全に息が詰まった。――野村先輩。
「……なんで」
なんで、知ってるんだ。そう言いかけて、俺は慌てて口を閉じた。
先輩から指令を受け続けていることは、誰にも話していない筈だった。洋平にだって。
亀田は、そんなたじろぐ俺を見て、その口元を少しだけ浮かせたように見えた。
「見てれば、分かるよ。だって、すごい目立つし」
俺は慌てて問いかけた。「そんな、目立ってた、か?」
「うん。そりゃ、体育館前でそういうやり取りを頻繁に見かけりゃ、目立つだろうね。
多分、バスケ部員全員知ってるんじゃない? あたしが知ってるくらいなんだから」
持っていたバスケットボールを取り落としそうになり、俺は、ぐ、と力を込めた。
そりゃ、薄々は周りにきずかれているかもしれない、とは思っていたけれど。
……そうか。そんな、目立ってたなんて。
もしかしたら、洋平だってもう気付いているんじゃないか。
そう思ったら、自然と苦笑が漏れた。
「はは……。
やっぱ……そうだよな」
下唇を噛んだ。口の中にじんわり鉄の味が広がった気がした。
「――ねぇ」
その小さく問いかける声に、俺はゆっくりと亀田を見た。
瞬間、俺はハッと息を呑んだ。
そこには、眉を寄せながら眼鏡の奥の目を伏せがちにして、そして少しだけ苦しそうな亀田の表情があったからだ。
「……言えば、いいじゃん」
亀田は、言った。
「『もう、ヤメテください』って」
強い風がまた、俺たちの間を吹きぬけた。
「『雑用するためにバスケ部にいるんじゃありません』ってさ――」
バスケットボールを握り締める手に力が入りすぎて、じわりと汗が滲んだ掌が、じんと痛くなった。
そして気付いたら。
俺は、叫んでいた。
「それは、ないっ」
虚しいほどでかい声は、体育館の外壁を幾重か反射した後に、消えていった。
――無理だ。
分かっていた。
そんなことが言えているのであれば、今頃、こんな所に居たりしない。
いつだってそうなんだ。
俺は、いつだって、損をしてばっかりだ。
何か頼まれれば、何も言えない性格。
何も言い返すことも出来ない性格。
そんな自分に、いつも自己嫌悪を抱いてきて。
「現実」は――"リアル"は、いつだってそういうものなんだ。
――リアル。
ふと、ある疑問が脳裏をよぎって、俺はハッとした。
リアルの俺は、確かにこうだけど。
別の世界――『ワールド』では、俺はこんな思いを抱いてことなんて、あっただろうか?
リリィの言葉が――何度も何度も頭の中を巡った台詞が、また蘇ってきた。
"なんでリュウ君は、この『世界』をプレイしているの?"
さわり、と草を踏む音に気付いて顔を上げると、亀田がくるりと俺に背を向けていた。
そして一歩踏み出そうとした亀田に、俺は慌てて呼び止めようとした時。
「…………ごめん」
そう小さくそう呟いたのを、俺は確かに聞き逃さなかった。
そして亀田がそのまま、校舎に向かって歩いていこうとした時に、今度こそ俺は「亀田!」と呼びとめた。
瞬間にぴたりと足の動きを止めた亀田は、そのまま振り向かない。
俺はその背中に、『ワールド』のプレイヤーキャラ、アサの姿を重ねてみた。
そこに漂う雰囲気が、やっぱり「アサ」というプレイヤーに似ていて、ああ、あれは間違いなく亀田なんだなと思った。
そして、先ほど思い浮かんだ台詞を、俺は口にしていた。
「なんで、亀田は『ワールド』をプレイしているんだ?」
「……へ?」
呆気にとられような表情で、亀田はこちらを見る。
俺は慌てて頭を掻きながら、「あ、いや」と口ごもりながら視線を彷徨わせた。
「わ、悪い。つい。
いや、別に深い意味とかないんだけど。ただなんとなくっていうか」あはは、と苦笑しながら早口で言った。
しばらく亀田がこちらに不思議そうな視線をよこした後に、そのままくるりと校舎の方角へ向き直って歩いていった。ほんの一瞬だけ、辛そうな表情を見せて。
その姿が見えなくなって、ついに一人取り残された俺は、はぁ、と盛大にため息をついていた。
俺、何言ってるんだろうな、なんて思いながら、もう一度、空を見上げた。
灰色の雲は、太陽を侵食することもなく、そのまま明後日の方角へと消えていこうとしていた。




