瓦版『長州走りの水戸こけし』
吉田寅次郎は吉田松陰の通称です
江戸城の奥深く――かつて家定が臥せっていた一室に陽光が差し込む。庭に面した面にはガラス窓が嵌め込まれ、最先端の磁気式暖炉が心地よい温もりを醸す。
そこは今、家定が信頼するごく一部の者が内々に集う特別な広間に大改造されていた。
部屋の中央、大きな卓を囲んでいるのは三人。
第十三代将軍・徳川家定。
その傍らに島津斉彬。
向かいに、書類の束を持ち込んだ老中首座・阿部正弘。
卓の中央では、滋養に富んだ牛鍋が香ばしい湯気を立てている。身分も礼節も横に置き、同じ鍋を食す。ここが表の政からは完全に切り離された、特別な空間であることを如実に物語っていた。
「――はあ、まったく。江戸を預かる身としては、頭の痛い一週間でございました」
阿部正弘が報告書を背後に放り投げ、ふうっと大きな息をついた。斉彬はお疲れの阿部に具沢山の器をそっと差し出してやる。
「それで?結局、水戸の斉昭殿の容態はどうなのだ? 卒倒したと聞いたきり音沙汰がないのだが」
家定が薬味の効いた牛肉を頬張り、目を細め阿部に問う。かつての病弱な面影は微塵もなく、その眼光には生気が満ちている。
「ええ。一命こそ取り留められましたが、強い麻痺が残り、言葉も発せられぬ状態にございます。病床で何やら必死に蠢いておられるそうですが……もはや復活は不可能かと」
阿部は熱々の牛肉を口へ運ぶ。
「身から出た錆とはいえ、市中じゃ『長州走りの水戸こけし』なんて呼ばれて、格好の見世物扱いですよ」
「長州走り、か。上手いことを言うものだな」
家定がくすりと笑い、盃を傾けた。
「日比谷の長州藩邸から小石川の水戸屋敷まで、大挙して駆け抜けたのだろう? 道中面白がった野次馬が後ろをついて行き、水戸に着く頃には何百人もの大行列になっていたとか」
「ええ。市中じゃその瓦版が刷り切れになるほどの大受けで」
阿部は苦笑しながら手元の器に自ら肉を注ぎ足す。家定もおかわりを所望しながら面白そうに口を開いた。
「それほどの大勢を巻き込んで、渦を起こした首謀者がいるわけだな」
「ええ。長州の吉田寅次郎という者にございます」
阿部は疲れたように天を仰ぎ、呆れと感心の間のような溜息をついた。
「元々、水戸を主とした長州、土佐あたりはこちらが推す政策を頑なに拒むわ、金や鉄鋼の動きに明らかな偏りがあるわで……何かしらの密謀を進めていることは明白でした」
阿部は苦笑混じりに首を振る。
「ただ、なにぶん確たる証拠はない。いかに不審とはいえ、天下の御三家たる水戸の屋敷へおいそれと踏み込むわけにもいかず、手をこまねいておったのです……」
家定が、面白そうに目を細める。
「そこへ、その吉田が飛び込んだか」
「はあ……左様にございます。どうも市中で公儀の施策を直に見て、日比谷の長州藩邸で聞き調べるうちに、己の藩の有様を知ったようでして」
阿部は苦笑を漏らし、手元の器に牛鍋の肉を注ぎ足した。
「まあ、長州の他の連中とて阿呆じゃありませんからな。水戸に乗せられ、まんまと貧乏くじを引いてしまったと分かってはいた。ただ……武士の面目と立場に縛られ、誰もそれを口に出せなかった」
「ふむ。見ぬ振りを決め込むことで、なんとか藩の顔面を保っていたわけか」
家定が茶を飲み、静かに相槌を打つ。
「はい。そんな中、吉田の奴が長州藩邸のど真ん中で喚いたそうで。『過ちを犯したことよりも、それを隠して生きることこそが最大の過ちだ!公儀が民を救い国を造らんとしている時に、我らは何をしているのだ!』とね。みなの胸で燻っていたものを全部まとめて叫び散らしたそうで」
阿部は呆れたように首を振るが、その瞳にはどこか楽しげな色が宿っていた。
「『我らは間違っていた!今こそ水戸へ乗り込みこの過ちを正そうではないか!』と叫ぶ声に感化されたのか百数十が、吉田と共に水戸へ走った……というわけです」
「くく……ははは!」
家定が珍しく腹を抱えて笑い、盃を卓に置いた。
「なるほど。己を晒して突き進む者に、人とは引っ張られるものなのだな」
「はあ。こちらとしても、まさか身内の恥を白日の下叫びながら動くとは思ってもみませんで。おかげで後手後手の有様ですよ」
阿部は深く息を吐き出すと、熱い牛鍋の肉を口へ運び目を閉じた。
「まったく……あんな風穴の開け方をする奴がいるとは」
「ふっ、小気味よい話ではないか」
家定が盃を弄びながら、愉快そうに目を細めた。
「笑い事ではございませんよ! 水戸の屋敷前でも吉田が説くと肝心の門番や若手までが斉昭殿に反旗を翻す始末。取り囲まれた斉昭殿は卒倒し、それからまた一騒動で」
家定は声を上げて笑い、鍋の牛肉を阿部と斉彬の器へ取り分けてやった。
「実に壮快な自滅劇ではないか。正弘は苦労しただろうが。……して正弘、水戸の始末はどうするのだ?」
「はい。企み自体は未遂に終わっておりますので、過度な改易などは行いません。ただ、財政破綻寸前な水戸の惨状を全国への見せしめといたします。これ以上ない戒めとなりましょう」
「うむ、実に無駄のないことだ。ところで正弘、その大騒動を巻き起こした吉田寅次郎はどうしたのだ? 何百人も引き連れて他藩に殴り込んだのだぞ」
家定が盃を弄びながら問う。
「ええ……本来なら迷わず打首にございます。ですが――」
阿部がちらりと横の斉彬に視線を送る。斉彬は静かに頷き、盃を置いて口を開いた。
「私が身柄を引き取りました。言葉一つで他藩の武士や千の群衆を動かした男。今までは情報が偏っていたがゆえに暴走いたしましたが……殺すには少々惜しい」
「……ほう?」
家定は眉を少し跳ね上げ、興味深そうに身を乗り出した。
「ゆえに、公儀の各機関に放り込み、新時代の技術や知見を叩き込んでおります。養生所や伝習所、さらには磁気軌道車の工場に至るまでね」
斉彬の言葉を引き継ぐように、阿部が肩をすくめて溜息をついた。
「本人も根が極端な勉強好きゆえか、最新の仕組みを前に目を輝かせ……。今じゃ行く先々で技師や医官を捉えては質問攻めにする質問魔と化し、現場から本気で嫌がられておりますよ」
斉彬も苦笑いを漏らしながら言葉を継いだ。
「講師陣たちからも『あの男をなんとかしてくれ』と悲鳴が上がっておりましてな。本人は至って真剣に『新時代の技術を修めて国に尽くすのだ』と息巻いているのですが……」
「ふっ……くくく」
家定が心底面白そうに喉を鳴らし、阿部が困ったように眉を下げる横で、斉彬はふっと視線を外した。
ガラス窓の向こう、陽光が庭園の木々に振り注ぐ。青く広がる江戸の空。
「……あの情熱は間違いなく、この国の大きな力になりましょう」
斉彬は微かに口元を綻ばせ、そう呟いた。




