第二十六話
「本当にただの思いつきです。バルタザール様は書斎から出て来て、階段の降り口まで、ものすごい勢いで走って行きました。何かに追われるようだったとお伝えしてきましたが、……あれは、童話と同じ呪いをかけられていたのではないかと」
「まさに『止まらない王様』か」
「シスター・ベアトリクスがバルタザールの他の元妻にも接触していた可能性はある。つまり、そんな呪いがかけられていた可能性もまた、充分に考えられる」
レナード様は本を読み進め、ジュリアン様は髪をかき上げるようにして考え込む。
皆が口を噤み、それぞれの思考を巡らせ始めたところで、ジュリアン様が窓の方に目をやった。
「まだ昼前だというのに、妙に暗くないか?」
「そういえば、そうだな。雲が出てきたのかもしれない」
「山の天気は変わりやすい。一雨、来るかもな」
ジュリアン様がそう言った途端、パタパタと雨が窓を打つ音が聞こえてきた。
「風も強い。窓は全部閉めてありますか?」
「はい」
「まあ、通り雨だろう。帰る頃には止むさ。昼食も持って来てあるから、止むのをゆっくり待とう」
「またお前は勝手に決めて……ここはフィーネさんの住処だ、少しは弁えろ」
「いいんです。こんな所で良ければ雨宿りして行ってください」
ここには余分な傘すら無い。雨の中、転送ゲートまで雨に濡れながら歩いて行けというほど鬼ではない。
しかも、雨脚は強まる一方だ。あっという間に空を覆い翳らせた黒い雲から、雨が筋のように降り続ける。
「おや。雨漏りかな」
窓枠の上から僅かに水が染み込んで来るのを、ジュリアン様が目敏く見つける。古い別荘だから仕方がないけれど、お客様に見つかるのはちょっと恥ずかしい。
「すみません、管理が行き届いていなくて……」
「外壁が傷んでいるのでしょう。こんなにすぐに雨漏りをするようだと、嵐でも来たら困るな。何か板材でもあれば打ち付けておきますが」
「そんな、結構です。修理の道具もありませんし、後日、自分で何とかします」
「……じゃあとりあえず、応急処置として古布と桶で何とかしましょうか。それならありますか?」
「はい、持って来ます」
要らない布切れを窓枠に押し付け、落ちた水滴は桶に落ちるように配置する。
「ごめんなさい、話の途中だったのに」
雨漏りの応急処置の間、黙ってノートを読み込んでいたジュリアン様に謝罪をする。この家のボロさのせいで、話し合いの邪魔をしてしまった。
「フィーネさんが謝ることはありません。悪いとしたら雨が悪い。それよりも、バルタザール氏に『止まらない王様』と同じ呪いがかけられていたとしたら、それは今まで判明したものと少しばかり毛色が違うと思いませんか?」
「そう、でしょうか……?」
どこまでも走って行ってしまうというのは、カツラが飛んで行くとか、羞恥心三千倍とか、ちょっと笑ってしまうようなものと、そう大きく違わないような。
そんな考えで首を傾げる。ジュリアン様はノートを何ページか遡った。
「ええと、バルタザールの正確な検死の結果は……階段からの落下による打撲痕は死後についたもので、落下の直前、何らかの原因で心停止をしたと思われる、と」
それは私の聞いた結果と同じだった。もし私が突き落としたのであれば、転落時はまだ生きていただろう。バルタザール氏の体に残った痕跡のおかげで、私は無実だと証明されたのだ。
「七十歳という年齢と、あの肥満体型で、何かに怯えながら全力疾走となれば、心臓が保たないことは想像に難くない。……もし本当に、強制的に走らせるという呪いがかけられていたなら、それは死を願ったも同然だと言える」
——死を、願った。
その言葉で、ジュリアン様の言った「毛色の違い」がようやく理解できた。カツラが吹っ飛んでも死ぬことはないだろう、羞恥心で死ぬことも——死にたくなることはあるかもしれないが。
「しかしまあ、そんな呪いがあったと決まった訳ではない。それを確かめるためにも、次の話をしよう。手紙にあった、エレーヌ・ギヨの住所はどこだった?」
レナード様が、今の空模様のように重苦しい雰囲気を吹き飛ばすように話題を変える。
「それが幸運なことに、ここから近いんだ」
「へえ。……ああ、わかった。ワイン関係だ」
「さすが、知っていたか」
ジュリアン様が微かに笑う。
「フィーネさんも知っているかな。ここは別荘地として有名になるよりもっと昔から、葡萄とワインの産地として知られていました」
「聞いたことはあります」
「エレーヌ・ギヨの生家はワイン蔵だ。その関係だろう。早速午後に行ってみようかとも思ったが、この雨では危険だな」
「そうだね、道があまり良くないから。雨が上がったとしても、ぬかるみは危ない」
探している人が近くにいたなんて、不思議な気分だ。もしかしたら、ここからも見えるだろうか。雨の降り続ける窓外に目をやる。
「では次は、日を改めてエレーヌ・ギヨを訪問するか、イザベル・ロランのいる修道院に行くか、どちらかだ」
「イザベル・ロランの居場所もわかったのか?」
「言ってなかったか?」
「聞いてない」
ジュリアン様がレナード様から私へと視線を移す。残念ながら私も初耳だ。小さく首を振る。
「そうか、すまない。バルタザールの八人目の妻、イザベル・ロランは、今もロラン家の領地内にある修道院にいるそうだ。公にはしていないそうだが、バルタザールがいなくなって、少しずつ体調が快方に向かっているらしい」
「……そうか、良かった」
レナード様は複雑な心境を覗かせる。誰かが亡くなることで、他の誰かの体調が良くなるというのは、手放しで「良かった」とは言いにくい。それでも、イザベル・ロラン様が精神を病んだのがバルタザール氏との結婚が原因だったことを考えれば、彼女の回復は良かったと言っても許される気がする。
「六人目の、ララという女性については、あちらの国とのやり取りに時間がかかっているんだ。もう少し待ってほしい」
レナード様はまた留学先の名前を避けて進捗を伝えた。あの長い、間違いの許されない国名は、もう二度と聞けないのかもしれない。
「それは仕方がない。エレーヌ・ギヨとイザベル・ロランの調査を先に……そうだな。フィーネさん、今日はここに泊めてもらえませんか?」
「え……」
さすがに驚いて目を丸くしてしまった。ジュリアン様はいつも私の想像の上を行く。




