第8話「空を裂く虚空と、分断された世界」
王都が歓喜に沸いた防衛戦から、わずか数日後のことだった。
魔族の幹部を打ち倒した代償は、目に見えない形で世界を蝕んでいた。魔王軍残党による強引な封印解除と、凄まじい魔力の衝突が、空間の脆い部分に致命的な綻びを生ませていたのだ。
復興の槌音が響く街の空に、突如として不気味な亀裂が走る。
見上げれば、まるで巨大なガラスが砕けたかのように空の青さが無残に引き裂かれている。
ひび割れた断面の奥底から、魔族の魔力とは全く異なる、毒々しい紫色の未知の瘴気がじわりとにじみ出していた。
ルークは郵便商会の外に出て、その亀裂を見上げる。
アリアも隣で息をのみ、両手を胸の前で強く組んでいる。
「ルーク様……あれは、何でしょうか。魔界の扉とも違います。もっと、根本的に世界そのものが壊れているような……」
アリアの言う通り、魔族が発する瘴気とは全く質の異なる、冷たく無機質な波動が亀裂から漏れ出していた。
亀裂の端から、ぽたぽたと何かがこぼれ落ちる。
それは黒いゼリー状の不定形なスライムのようなものや、多面体の硬質な物質だった。
それらは地面に落下すると、意思を持っているかのようにうごめき、周囲の物質を取り込み始める。
石畳が溶け、木箱が同化していく。
レオンが短剣を抜き、その一つに斬りかかった。
炎をまとった刃が多面体の魔物を両断するが、手応えが全くない。
切断された断面はすぐに融合し、元の形へと戻ってしまった。
「くそっ、物理攻撃も魔法も通りにくい。なんなんだ、こいつらは」
レオンが後退し、舌打ちをする。
空の亀裂は王都だけでなく、遠く離れた山脈や、近隣の街の上空にも同時多発的に発生している。
そして、最悪の事態が発覚した。
亀裂からこぼれ落ちた虚空の魔物たちは、主要な街道や橋に陣取り、見えない壁を形成して物理的な移動を完全に遮断してしまったのだ。
馬車はおろか、空を飛ぶ鳥すらも、その壁に触れると空間ごと消滅させられてしまう。
さらに、遠くの街と連絡を取るための通信魔法も、次元の乱れによって機能しなくなっていた。
「世界が、切り離されていく……」
ルークは唇を噛み締める。
隣町の診療所や、フェルデン砦、魔族の村。
彼らの安否を気遣っていると、外から慌ただしい足音が近づいてきた。
「ルーク殿! 各地の領主からの連絡が途絶えました。街道は謎の壁に塞がれ、軍隊の進行も不可能です。このままでは、食料の自給ができない街から順に飢死してしまいます!」
使者の言葉に、ルークの表情が険しくなる。
通常の移動手段がすべて絶たれた今、各都市を繋ぐことができるのは、距離を無視して移動できるルークの絶対座標転移だけだ。
「俺が各街の状況を確認してきます。アリア、レオン、少し留守にする」
ルークはすぐさま精神を集中させ、隣町の座標を思い描く。
空間がうねり、視界が反転する。
しかし、次の瞬間。
ルークの体は、強烈な吐き気と共に元の郵便商会の床へと投げ出された。
「ぐっ……!」
床に転がり、肺から空気を吐き出す。
アリアが悲鳴を上げて駆け寄り、ルークの背中をさすった。
「ルーク様! 大丈夫ですか、顔色が真っ青です!」
「転移が……弾かれた」
ルークは荒い息をつきながら、震える手で床を叩く。
「隣町の座標付近にも、あの亀裂の干渉が及んでいる。空間が歪みすぎていて、正確な座標に降り立つことができない。無理に転移すれば、俺自身が虚空の狭間に消滅してしまう」
レオンが壁を強く殴りつける。
「じゃあ、お手上げってことかよ。あんたの転移が使えなきゃ、本当に世界はバラバラになっちまうぞ」
ルークはゆっくりと身を起こし、椅子に座り直す。
額の汗を拭い、冷静に現状を分析する。
「……いや、完全に塞がれたわけじゃない。転移の直前、空間の歪みが薄い道のようなものを一瞬だけ感じた。そこを通れば、ギリギリで移動できるかもしれない」
「ですが、それは綱渡りのような危険な賭けです。一歩間違えれば、ルーク様が」
アリアの瞳が涙で潤んでいる。
ルークは彼女の手を優しく握り、安心させるように微笑んだ。
「俺の商会は、絶対に荷物を届ける。それがどんなに危険な道でもな。だが、このまま行き当たりばったりで転移を繰り返すのは確かに無謀だ」
ルークは机の上の地図を広げる。
空に現れた亀裂の位置を思い出し、地図に印をつけていく。
「亀裂の発生には、何らかの法則があるはずだ。アリア、君の魔法具の知識で、この次元の乱れを解析することはできないか。安全な転移のルートを割り出したい」
アリアは涙を拭い、真剣な表情で地図を見つめた。
「次元の波長を測定する魔法具なら、設計図が頭の中にあります。ですが、そのためにはあの亀裂から落ちてきた物質のサンプルが必要です」
「俺が取ってくる」
レオンが即座に名乗り出た。
「俺の炎なら、あいつらの再生を遅らせることができる。その隙に、破片をかすめ取ってやるよ」
「頼む、レオン。アリアはすぐに魔法具の製作に取り掛かってくれ」
三人の目論見が一致し、それぞれが行動を開始する。
郵便商会は、ただ手紙や荷物を運ぶだけの場所ではない。
人々の想いを繋ぎ、分断された世界を再び結び合わせるための、最後の希望の砦となっていた。
ルークは自身の空間収納の奥深くにある、未だ使ったことのない規格外の物質群の存在を確かめる。
もし亀裂の発生源を特定できたなら、それを直接叩き潰すしかない。
未知の虚空との戦いが、静かに幕を開けようとしている。




