第10話 お帰りください
「帰還命令は撤回しない」
王太子の声は、震えていた。
昨日とは違う。再鑑定結果の衝撃を一晩かけて飲み込んで、それでもなお——この人は、退かないことを選んだのだ。
大広間。昨日と同じ場所。同じステンドグラス。同じ白い大理石の床。
五ヶ月前に断罪された場所と、同じ。
「ベアトリクスの闇属性が否定されたことは認める。断罪の手続きに瑕疵があったことも認めよう。貴族籍は遡及的に回復する」
殿下は玉座から立ち上がった。こちらに向き直る。
「だが、灰死病は今も蔓延している。お前の治癒能力が必要だ。王都に留まり、治療に協力してもらいたい」
貴族籍の回復。断罪の瑕疵の承認。その上で、能力を使えと言う。
合理的といえば合理的だ。王太子としては正しい判断なのかもしれない。
でも——それは、私の人生ではない。
「殿下」
一歩前に出た。手に持った革表紙の冊子を差し出す。
「灰死病の治療法をまとめた文書でございます。浄水と隔離による予防策、薬草の煎じ薬の調合手順、感染経路の特定方法。これがあれば、王都の医療従事者の方々で対応可能です」
殿下が冊子を受け取った。ぱらぱらとめくり、目を見開いた。
「これほどの内容を……」
「三日間かけてまとめました。辺境での実績に基づいております」
殿下の目が私を見た。
「これでは不十分だ。文書だけではなく、お前自身の治癒の力が——」
「文書をお渡ししました。私自身が残る理由はございません」
静かに言った。丁寧に。とても丁寧に。
怒っているからだ。
五ヶ月前に追い出しておいて、都合が悪くなったら呼び戻す。能力が必要だから留まれ。それは協力要請ではない。道具として使うということだ。
(——もう、あなたの道具ではないのです。殿下)
声には出さなかった。
大広間の扉が開いた。
◇
足音が三つ。
辺境伯。ゼルギウス様。そしてもう一人——学術院の書記官が、公文書を手にしている。
辺境伯が大広間の中央まで歩み出た。堂々と。辺境の領主が王宮に殴り込む。文字通りの。
「グレーフェンベルク辺境伯。何の用だ」
殿下の声に苛立ちが混じった。
「殿下。辺境法第七条をご存知ですかな」
辺境伯は微笑んだ。穏やかな笑みだが、目が笑っていない。
「辺境伯領の臣民に対する王都の命令は、辺境伯の承認を要する——ベアトリクス殿は二ヶ月前よりわが領の臣民として正式に登録されております。帰還命令は、わしが承認しておりません。よって無効です」
大広間が静まった。
「辺境法で王太子の勅令を拒否するというのか」
「辺境法は王国法の一部ですぞ、殿下。わしは法に則って申し上げている」
殿下の顔が歪んだ。辺境伯を睨む。辺境伯は動じない。
そしてゼルギウス様が——前に出た。
辺境伯の一歩前。殿下の正面。
膝をつかなかった。
王族の前では膝をつくのが騎士の礼儀だ。ゼルギウス様はそれを知っている。知った上で、立ったままだ。
「ヴァルデン卿。それは越権ではないか」
殿下の声が低くなった。
「閣下の名代として発言しております」
辺境伯が即座に追認した。
「わしが命じた。越権ではない」
ゼルギウス様が口を開いた。
「この女は俺の部下だ」
低い声が、大広間に落ちた。
「返してもらう」
——部下。
妻でも恋人でもなく、部下。
この人らしいと思った。不器用で、合理的で、感情を言葉にできないこの人らしい。
でも——「返してもらう」。
その言葉に、この人の全部が詰まっている気がした。
殿下が動かなくなった。ゼルギウス様を見ている。辺境伯を見ている。そして——私を見た。
「ベアトリクス」
殿下が一歩踏み出した。
「すまなかった」
初めてだった。この人が私に謝ったのは。
「私は判断を誤った。お前を——失うべきではなかった」
声が震えている。本物の後悔が滲んでいる。
「もう一度——」
五ヶ月前なら、その言葉に揺れたかもしれない。
三年間追いかけた人だ。この人に認められたくて、必死だった日々がある。
でも今の私は——五ヶ月前の私ではない。
辺境で命を救い、先生と呼ばれ、水筒の水を運ばれ、肉を移され、手を握られ、名前で呼ばれ、鐙を合わせてもらい、お守りをもらった。
もう、この人の隣に戻る理由がない。
「お帰りください」
穏やかに言った。
殿下の目が見開かれた。
「——いえ」
少しだけ笑った。
「帰るのは、私の方ですね」
手を伸ばした。
ゼルギウス様の手を取った。
大きくて、硬くて、剣胼胝だらけの手。四話の夜に握ってくれた手。八話の朝に鐙を直してくれた手。
ゼルギウス様の指が、一瞬だけ強く握り返した。
背を向けた。
大広間を出た。殿下の視線を背中に受けながら。
一度も振り返らなかった。
五ヶ月前のあの日と同じだ。でも、あのときとは全然違う。
あのときは、一人で歩いた。
今は——隣に手がある。
◇
帰路の馬車の中は、静かだった。
辺境伯は別の馬車だ。「若い者は二人にしてやれ」と言って、からからと笑って乗り込んでいった。
ゼルギウス様と二人きりの馬車。
窓の外を、王都の街並みが流れていく。灰色の街。でも——もう、あの灰色は私のものではない。
「……ゼルギウス様」
「ああ」
「ありがとうございました」
「……ああ」
二度目の返事は、少しだけ柔らかかった。
揺れる馬車の中で、疲れが押し寄せてきた。
王都に来てから三日。ほとんど眠れなかった。
瞼が重くなる。意識が溶けていく。
気づいたら、何かに寄りかかっていた。硬くて温かい。肩だ。ゼルギウス様の肩。
離れなきゃ、と思った。思ったけれど、体が動かなかった。
——いいか。少しだけ。
少しだけ、このまま。
意識が落ちる直前、聞こえた気がした。
とても小さな声で——「……寝てろ」と。
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