デイビットの異変
「……嫌な朝だ。……くそ、なんで俺があんな目に」
昨日の夜会は最悪だった。珍しく俺が取り乱してしまった。夜会の空気、というよりもマリサの熱に浮かされて、自分が間違ったことをしでかしたのではないか? と思ってしまった。
「フィオナは可愛い。結婚する令嬢なら俺にとってそれで十分だ」
あんな貧乏子爵家が侯爵家に嫁ぐことができる。子爵家にとって十分な恩恵であり、正直、俺には政治的なことはどうでもいい。というよりも父があの子爵家にこだわっている理由が俺にはわからん。
「…………俺は間違ってない。状況証拠がそうだった。正義の名の下に行動した結果だ」
テーブルの上にあるマリサとの婚約の証だった青色のブローチ。その下には『誓いの制約』の魔道具が敷かれてあった。
胸のあたりが落ち着かない。そもそも、俺はマリサのことなんて愛していない。そりゃ、ずっと一緒にいた。それこそ子どもの時からずっと俺のそばにいた。
顔なんて見飽きている。あいつも俺のことなんて別に好きでもないはずだ。家のための結婚だ。
……それでも、ブローチをプレゼントした時、あいつは……笑っていたな。その笑顔が可愛くて……いや、俺は何を考えている。あいつはただの氷の令嬢だ。
「ふんっ、ブローチはフィオナにくれてやればいい。使いまわして十分だ」
昨日は創立祭の夜会があった。最後までどうにか体裁を保ち、表向きは何事もなく終えたはずだった。
ノックの音がして扉が開く。執事が入ってきて、朝の登校の準備を始める。
俺は身体を起こし、執事に向けて手を伸ばす。
「……デイビット様? ど、どうなされましたか?」
「はっ? 何を言っている。今日の手紙をくれ」
何やら話が噛み合わない。毎朝、俺はマリサの手紙を――
「あっ、そ、そうか。あれはマリサが……」
本当に何も気にせず、俺は昨日まで受け取っていた。本来なら、婚約破棄を申し出した時に、もう毎朝の手紙はなかったはずだ。それなのに、マリサは律儀に昨日まで手紙をくれたんだ。
あの手紙は、俺の生徒会の仕事のアドバイスや、学園での貴族間の動向、次のイベントの企画立案、などが様々なことが書かれていた。だから創立祭は乗り切れたといってもいいだろう。
手紙には必ず、短い詩が書かれていた。俺はそれが毎日楽しみだった。
「……くっ」
思わず舌打ちしそうになって、寸前で飲み込んだ。
そんなもの、なくてもいいはずだ。俺は生徒会長だ。天下の侯爵家のデイビット様だ。イケメンで何でも出来ると学園では有名人だ。俺以上に優れた生徒会長はいない。
……だから、婚約者がいなくなったくらいで困るわけがない。
そう思っているのに、胸の奥のざわつきが止まらない。
着替えて、応接間に向かうと子爵令嬢フィオナがいるはずの場所にいない。
「……どういうことだ? フィオナは俺の婚約者になったんじゃないか?」
「そ、それは……」
誰に言うでもなく、俺はつぶやく。執事の焦る声。と、その時、バタバタと駆け寄るフィオナの声が聞こえた。
「お、遅れてすみません! デイビット様、きょ、今日からよろしくお願いします!」
朝から声が大きい。
だが、俺は紳士だ。一度目の遅刻は許そう。マリサは今まで遅刻することなんて一度もなかった。むしろ、俺を起こす程度には早く屋敷に付いていた。
ああ、そうか、だからこの数日間は違和感があったのか。マリサが起こしてくれなかったからか……。
「デイビット様……怒っています?」
「そんなことない。君が可愛いから見惚れていたのさ」
ついこの間まで、マリサがいた場所だ。
侯爵家の婚約者は、朝からずっと俺のそばにいる。それが普通だと思っていた。
なんだろう、少し頭がどんよりと痛い。……気の所為だ。
フィオナを連れ添って食堂へ向かう。
出てきた紅茶の味がいつもと違った。執事に入れさせたとしても、なぜかマリサが注ぐものと味が違っていた。
「……違う、俺の好みをマリサに聞かなかったのか?」
パンに塗るジャムの種類も違う。
「違う、違う、いつもお前らは何を見ていたんだ? マリサが付けてくれたのはバターとマンダリンジャムだろ?」
フィオナの食べる速度も早すぎだ。
「フィオナ、もう少しゆっくり食べろ。優雅な朝を楽しむんだ。ほら、ここから見える庭の景色を楽しめ」
「は、はい。お腹空いていて、すみません! ……庭、ですか? えっと、見てて楽しいんですか?」
まただ、頭がピキリッと鋭く痛いんだ。マリサは違った。侯爵家に嫁ぐ令嬢としてふさわしく、気品があり、上品でゆったりとした時間を楽しめる令嬢であった。
前ならどうでもよかったはずなのに、今日はひどく気に障る。
いや、違う。気に障るんじゃない。
――落ち着かないんだ。
「デイビット様、学園へ向かうお時間です」
「ああ、フィオナ行くぞ」
短く答えて、席を立った。
マリサはもう婚約者ではない。先日、それを自分の口で終わらせた。
だったら、この違和感もすぐに慣れる。
慣れなければおかしいのだと、自分に言い聞かせるように馬車へ乗り込んだ。
***
放課後になり、生徒会室に入った瞬間、嫌な予感は現実になった。
「デイビット様! こちらの確認をお願いします!」
「昨日の招待客への礼状なんですが、どの家から先に出せば……!」
「返礼品の数が合いません! どうしましょう!」
「来月の学園昼会の会場申請、今日中が締切なんですけど、どの家をお招きするか、まだ最終決定が――」
「待て! 一度に喋るな!」
思わず怒鳴った。
部屋の空気がぴたりと止まる。
創立祭は終わった。なのに、どうしてここまで混乱している? 確かに来月は定例の学園行事である『昼会』がある。しかし、毎年こんなに忙しくなるはずもない。
俺は机の上に積まれた書類を引き寄せた。
来月の学園昼会の参加候補一覧。
毎月行われる、学園に出資する貴族家や有力者を招き、学園の子息令嬢と過ごす昼の会食だ。表向きは懇親会だが、実際は学園の評判と各家の機嫌を同時に取る場でもある。
夜会の立食とは違い、席に座って料理が運ばれるこの昼会は、席順を間違えると、夜会以上に面倒が起こる。
「……誰だ、この候補の並びを決めたのは」
「そ、その……仮で、私たちが……」
「仮で済む話ではないだろう! この二家を隣に置いたら去年の件を蒸し返される!」
声を荒げた瞬間、自分でも驚くほど苛立っていることに気づいた。
なぜこんな初歩的なことも分からない?
いや、違う。分からないのではなく、俺が今まで見ていなかっただけだ。
「礼状の文面も確認お願いします! 文例がなくて……」
「ないだと?」
「ぜ、前回は……その、マリサ様が全部整えてくださっていたので……、その、書類の保管を私たちがしていなくて……、もしかしたら処分してしまって……」
その名が出た途端、喉の奥がひりついた。声が出ないとはこのことだ。
別の役員も恐る恐る口を開く。
「学園昼会の招待状も、毎回、マリサ様が各家ごとの注意点を書いてくださっていて……、その、メモは紛失してしまいまして……」
「食事内容もです。香辛料が苦手な貴族、アレルギーがある貴族、同席を避けた方がよい親族関係まで……」
「創立祭の後片付けも、いつもは必要な順に一覧ができていて……」
「困ったことがあったらマリサ様に聞けば大丈夫だと思って」
静まり返った生徒会室で、誰もが俺の顔色を窺っていた。
俺は書類を握り潰しそうになる手を止めて、低く言う。頭がズキンと痛む。
「……つまり、お前たちは今まで何も考えていなかったということか」
「ち、違います! ただ、てっきりデイビット様がすべて把握されているものだと……。マリサ様はデイビット様の指示を聞いていたと思っていました」
その言葉が、胸に深く刺さった。
そう見えていたのか?
皆、俺が全部分かっていて、そのうえで指示しているのだと思っている。
けれど実際には違う。
俺は何もしていない。
俺はただ、マリサがしてくれたことを当然のように受け取っていただけだ。
苛立ちと、認めたくない感情が混ざり合って、頭の奥が熱くなる。頭が痛い、髪をかきむしる。驚くほど、簡単に髪がプチッと切れてしまった。
ふと、親父のはげ頭を想像した。……くそ、現実逃避するな。俺は正義感が強く、やれば出来る男だ。生徒会長としての責任がある。
「……いいから、俺がやる。創立祭は終わった行事だ。それよりも、来月の昼会の方が大事だ。――学園昼会の候補は一旦白紙に戻す」
言いながら、自分の言葉がひどく薄っぺらく感じた。
判断材料が足りない。本当にこれでいいのかわからん。だが、今はコイツラを安心させる必要がある。
誰をどこまで呼ぶべきか、どの家とどの家を離すべきか、誰に先に声をかければ角が立たないか――そういう『絶対に外さない』『絶対に適正に合わせられる』『絶対に正確に出来る』というマリサが持っていた天性のものは、俺には――
その時だった。
「デイビット様! こちらだったんですね! お茶の準備が出来ましたわ!」
弾むような声がして、振り向くとフィオナが立っていた。
両手でティーカップを持ち、笑顔でこちらを見ている。俺はどんな反応をしていいかわからなかった。
「お疲れでしょう? 少し甘いお茶を……」
お茶……、お茶じゃない、今必要なのは子爵家令嬢の助言だ。親父は『絶対にキリサキ家の令嬢と結婚しろ』と俺に言った。
『マリサ嬢は特別だ。絶対に別れるな』とも言われた。……フィオナはキリサキ家の令嬢だから、きっと大丈夫。
だから、俺は独断で――くそっ、頭が回らない。
「……フィオナ、来月の学園昼会で招待すべき家のリストを作ってくれ」
「え……? あ、あの、わたくし、そういった難しいことは……、あ、そうだ、お父様にお聞きしましょうか? 昼会? でしたっけ?」
フィオナは邪気のない笑顔で俺に言った。
「いや、わからないなら必要ない。そこの席でお茶でも飲んでいてくれ」
「は、はい……すいません……」
フィオナは上目遣いで俺を見つめた。俺は以前のようにドキリとはしない。まあ確かに可愛い。だが、今はそんな場合じゃない。
(――マリサだったら)
俺はまたマリサのことを考えてしまった。
違う。比べてはいけないのに、比べてしまう。
マリサなら、俺が聞く前に全部用意していた。俺が動く前に、準備していた。
それが、阿吽の呼吸みたいで……とても気持ちよかったんだ――
「デイビット様……?」
「……少し席を外す」
それだけ言って、生徒会室を出た。
生徒会室から階段を上り、屋上へと出る。
そこには、庭園が広がっていた。
生徒会の仕事に疲れた時、マリサと一緒に来て、二人で庭園のベンチに座って……何も話さない、何もしない時間を……俺は……心の底から楽しんで、いたんだ。
俺はベンチに一人で腰をかけて、空を見上げた――マリサの横顔を思い出すと――胸がドクンと高鳴った。
俺はこの時、胸の中で何かの感情が芽生えたのが分かった。
それは、まだ小さな蕾かもしれない。
その小さな痛みが取り返しのつかない痛みになるなんて思ってもいなかった――




